第5話
文字数 6,525文字
※
二日が過ぎ、三日目の朝を迎えた。
一日二回だった食事は一回に減らされ、食事を持ってくる者はタリクではなく、黒ずくめの体格のいい男二人に変わった。決まって一人がマルクを銃で牽制し、もう一人がイーシンに食事を渡す。明らかに警戒されていた。
「あのクソガキがチクったんだ」
マルクは逆ギレしていた。
「あれだけ騒げば知れ渡るわよ。あんたがゴリラ並みの力を持つ、うすら馬鹿ってね」
「てめぇっ、喧嘩売ってんのかっ」
立ち上がったマルクは派手に頭をぶつけた。頭を押さえうずくまる。檻の高さが低いのだ。
マルクがオーバーに頭をさすり、「見ろ。血が出てないか」とイーシンに頭のてっぺんを見せる。
イーシンはつんとそっぽを向いた。
「こらっ、ちったあ心配しろ。俺は怪我人だぞ。……ったく……」
怒りきれないのは窮地を招いた自覚があるからだろう。
イーシンは久しぶりに怒っていた。
逃げる算段を立てようにも敵に警戒されていたのではどんなに素晴らしい計画も成功するとは思えない。
思い返せば、全てが後手に回っている。
「イーシンさん、あそこは早めに辞めた方がいい」
宴会の席で受けた忠告に素直に従っておけばよかった。
少なくともムスリム革命団の存在を施設側に報告していれば無抵抗のままやられはしなかった、はず。
サル程度の知能しかなくても、人格的に破綻していても、生理的に受けつけなくても、上司であるマルクに報告はしておくべきだったのだ。
マルクを担いで逃げたことも悔やまれる。見つかって当然、捕まって当然だ。見捨ててさっさと逃げればよかった。
マルクが騒ぎ立てたことで敵が下りてくる回数はめっきり減り、始終、通気孔の外で人の気配がする。監視されている。
こうなるとマルクがゴリラではなく疫病神に思えてくる。
排泄物が溜まったバケツの周りに無数のハエがたかる。
地下は蒸し風呂状態で、臭いもすさまじい。
上半身は下着一枚になり、ズボンの裾をたくし上げる。残り少ないペットボトルの水をちびりと飲んだ。
汗と一緒に気力まで無くなっていくようだ。暑さと空腹で頭がぼーっとする。
支払い期日を待たずに死ぬかもしれない。
外の空気を吸いたい。太陽の光を浴びたい。風に当たり、水を浴びたい。埃だらけの服を脱いで、お風呂につかりたい。美味しいものをお腹いっぱい食べて、きれいなベッドで眠りたい。
無駄と分かっていても空想は膨らむ。
イーシンは壁にもたれ、浮遊する砂埃を眺めた。
腕を枕に横になっていたイーシンは物音に目を覚ました。
マルクが壁に向かい背中を丸め、楽しそうに舌を鳴らしている。
「……なに、やっているの」
イーシンは上体を起こした。
マルクは背中を向けたまま、ひっひっひっ……といやらしい笑い声を立てる。
いよいよおかしくなった、とイーシンはショックを受けた。
マルクは小さく舌を鳴らしながら振り返り、大きな両手を丸く重ねイーシンに近寄る。
マルクはいやらしい笑みを浮かべ、自慢げに話す。
「いいことを思いついたんだ。お前、これ食え」
マルクは重ね合わせた両手をわずかに開く。イーシンはマルクの分厚い両手の中を覗き込んだ。……隙間から二つの眼が光る。手の隙間からそれが鼻をつき出した。
キィ、キキッ。
つぶらな瞳に長いヒゲ、黄土色の鼻、灰色と黄色が混じった毛、――ネズミだった。
「ギャッ」
叫ぶ間もなく髪をつかまれ口に突っ込まれた。
柔らかい塊が口腔内で暴れ、硬い毛が喉を刺す。獣臭さと土臭さが鼻をつき、目を刺激する。
「噛め、噛みちぎれっ」
イーシンは涙を浮かべ必死に首を振った。マルクはイーシンの頭を押さえ、顎をつかみ、上下に力を加えた。
ぶちぶちと肉が裂ける感触とドロッとした物が口の中で弾け、生臭い鉄の味が溢れた。
ゴアアアアアアー……。
声にならない悲鳴と、ごぼごぼと液体が溢れる音と、ブフッブフッと吐き出す音が静寂を破る。滝のように口から血が迸る。イーシンはマルクを突き飛ばし、ゲエエェッー、と口の中の物を吐き出した。
「何事だっ(アラビア語)」
黒ずくめの男が二人、飛び込んできた。
イーシンが大量の血を吐いているからだろう、男たちはギョッとしたように後じさり、すぐに一人が銃口をマルクに向け、「後ろに下がれ(アラビア語)」と叫ぶ。
マルクはのっそりとイーシンから離れる。
もう一人の男が鍵をガチャガチャと鳴らし檻を開けイーシンに近づく。瞬間、イーシンは男の銃をつかみ、拳で男のこめかみを殴った。
男はひっくり返り、イーシンは奪った銃で男の両脚を撃ち抜いた。
男は叫び、のたうち回る。
「貴様っ」
檻の外にいる男がイーシンを撃とうとする。マルクは熊のように檻の外へ突進し男へ体当たりする。倒れた男の首をギリギリと締めあげる。マルクの太い腕が膨らみ、首の筋肉が隆起する。
締められた男の顔がうっ血し膨張する。股間が濡れ、尿の臭いが漂う。男は口から泡を吹き、動かなくなった。
イーシンはボトルの水で口をすすぎ、頭にふりかける。撃たれた両脚を押さえ悶絶する男の覆面を剥ぎ取り、ネズミの死骸を口にねじ込んだ。
「ぐむっ、むーっ……」
イーシンは覆面を被り、階段を駆け上がった。
扉は開いていた。扉に白い光が反射する。車のエンジン音が聞こえ、人の気配もする。
イーシンは覆面を被った頭だけを出し車のライトを横殴りに撃ち、外へ飛び出した。
バンッ、バンッ、と火花が散り暗闇に包まれる。
ダダダダダダッ……、ヒステリックな銃声が闇夜を裂く。扉がある辺りを一斉射撃しているようだ、火花が散り、硬い音がし、砂が飛び、石が跳ねる。
イーシンは激しい銃声を避け、残像を頼りに全速力で走る。
ライトは消え、エンジン音は止み、車が動く気配はない。ならば車は同じ場所、同じ向きに停まっているはず。
イーシンはジグザグに走り、大きくUターンし、記憶を頼りに暗闇の一点を撃つ、車のガソリンタンクを。
男たちが過剰な反応に出る。銃を乱射し、怒鳴り、喚き散らす。
暗闇の中、見えない敵に冷静さを失っているようだった。
イーシンは片膝をつき、三十秒待ってから二発目を撃った。
車が爆発した。車体が浮き、窓ガラスが飛び散り、火を噴く。眩いほどに明るくなり、車の近くにいた一人に燃え移る。火を背負いもがく一人を男たちが布ではたき、火を消しにかかる。
イーシンには踊り騒いでいるように見えた。
イーシンは走り出す。ここに連れて来られた時の映像を頭の中で再現する。大きな岩の向こうに天幕があるはず。
イーシンは指先で岩肌を確かめながら敵の拠点である天幕へと走る。
灯りがチカッチカッと目に入り、岩陰から天幕を観察する。
ライトが煌々と照らされ男たちがランクル(四輪駆動車)に乗り込もうとしていた。敵はざっと十二人、ランクルは二台。
イーシンは狙いすましライトを撃ち抜き、続けてガソリン部分を撃ち抜いた。
一台が吹き飛び、隣のランクルを巻き込み炎上する。千切れたボンネットが天幕に刺さり炎をあげ、ゆっくり沈み、天幕の内側へと消える。
天幕が燃えあがり、巨大な松明と化す。巨体をうねらせ火の礫を吐き、金粉を撒き散らし闇夜をあかあかと照らす。車を呑み込み、闇より黒い煙を噴き出す。
金粉を纏った火の塊が高く空へ舞い上がる。
男たちは半狂乱になって怒鳴り、銃を乱射し、独楽のように走り回る。銃弾が岩に当たり、イーシンの足元にある砂が弾ける。男たちの足音が近づいてくる。
イーシンは銃を構えた。
暗闇から一台の車がライトを点けず急接近する。イーシンは運転席に狙いを変えた。ライトがチカチカと明滅し鋭い音を立てて停止する。
助手席のドアが開き、マルクが叫んだ。
「乗れっ。逃げるぞっ」
イーシンは飛び乗り、車は急加速した。
「やるじゃねえか。でくのぼーと思っていたのによ。あんまり抵抗するから失敗したと思ったぜ」
イーシンはサイドミラーで遥か後方に立ち昇る炎を確認し、無言で覆面を脱ぎ捨てる。サイドブレーキを引いた。
「うぉっおおおおっ」
後輪が半回転し、マルクがハンドルを切る。車は急停止した。
「アッぶねーだろ。なにしやがっ。……えっ、おっ、おいっ」
ハンドルに覆い被さるマルクの腰に手を伸ばしベルトを外す。
「やっぱりお前、そっちの気が……。ま、待てっ、俺は女しか……」
運転席のドアを開けマルクを車外へ突き落とす。
「いってぇー。てめっ、くそっ。なにしやが……んあっ」
イーシンはマルクに銃口を向けた。
「じょ、冗談きついぞ。……めっ、め、目がいっちまっているぞ。正気に戻れ、ほれっ、ほれほれ」
両手をパンパンと叩くマルクを無言で見下ろし、狙いをぴたりと眉間につける。
「断りもなくしたのは悪かったよ。ネズミが走るのを見て思いついたんだ。残りもんの飯でネズミを捕まえてその血で病人のふりをしたら奴らをおびき寄せられるんじゃないかって。ぶちのめして銃を奪えば脱出できるって。俺が病人のふりをしても誰も信じないだろ。お前しかいなかったんだ。うまくいったじゃねぇか、よしとしようぜ」
イーシンは答えなかった。
意識は冴え渡り、湖面に映る月のように静かだ。銃は何の違和感もなく手になじみ、引き金にかけた指に力みはない。
だらしなく笑う顔が不快だった。
イーシンは上瞼をわずかに下ろし、狙いをすます。
顔のパーツが白くぼやけていく。眉間が引き伸ばされ仄かに光る。
イーシンは引き金を引いた。
※
「シエナ、家にいる時はニカブを脱ぎなさい」
居室の長椅子でノートパソコンを触る夫に言われ、シエナは顔を覆うスカーフを外した。夫に見えないよう顔を横に向ける。
額から目の下まである火傷の痕を気にしていた。
額は黒く隆起し、眉はなく、睫毛も欠けている。手術で瞼が閉じるようになったとはいえ、いつも瞼が引っ張られているような違和感があった。
醜い容貌はスカーフで隠しても人々の視線を集めた。同情や憐れみならまだまし、忌諱(きい)や蔑みを向けられることはしょっちゅうだった。
名前が「シエナ(美しい)」とはなんという皮肉だろう。
「床は冷たい。こちらに座りなさい」
夫がノートパソコンを脇に置き、シエナを呼ぶ。シエナは大人しく夫の隣に座った。夫が頬に触れ、火傷の痕が目立つ顔を上向かせる。
きれいに揃った明るい睫毛をわずかに伏せ、黄みを帯びた茶色の目でシエナを見つめる。
「お前は美しいな」
遥かに美しい夫に甘く囁かれ、シエナは喜びよりも不安を覚える。
夫は同情や憐れみで心にもないことを言う人ではない。それを知っているから蕩けるようなまなざしで「美しい」と囁く夫が空恐ろしかった。シエナは夫の手をそっと外し、顔を伏せた。
「お前はいつもうつむく。夫婦になって三年になる。そろそろ私に微笑み返してくれてもいいだろうに」
気分を害した様子はなく夫は長椅子にゆったりと体を預け、サイドテーブルに置いた茶を口にする。
こうやって妻である自分を口説くのは機嫌がいい証拠だ。
夫は訓練施設を襲い、人質を二人捕らえた。
敵は一人残らず殺していた夫がなぜ、と不思議だった。
身代金を要求する映像を流し、かといって引き渡し時間も場所も知らせず、交渉に訪れる者も現れない。
どうするのかと思えば、毎日部下に人質の様子を報告させる。その後、決まって上機嫌で妻をかまう。
どうやら人質二人のうちどちらか、もしくは二人とも、夫の興味をひく人物だったようだ。
夫は新しい楽しみを見つけたようで毎日機嫌よく過ごしている。
明日、夫は人質に会いに行く。
「シエナも行こう」と誘われたが気乗りせず、首を横に振った。
夫は心待ちな様子で壁にかけたカレンダーを眺める。
シエナは機嫌がいい夫を見ているだけで安心した。
夫の携帯が鳴る。
「私だ。……なに……」
夫から笑みが消えた。
相槌を打つでも話をするでもなく、じっと携帯を耳に当てている夫の表情はどきりとするほど冷たかった。
シエナはいたたまれず、長椅子から離れる。
夫はようやく口を開く。
「謝らなくていい。逃げたものは仕方がない。車が燃えたなら戻って来られないだろう。怪我人も運べない。明日の朝、人手を寄こす。それまでその場で待機しろ」
夫は携帯を切り、少しの間黙っていた。すぐにどこかへかけ直す。
「サイードだ。今、『監禁していた人質二人が逃げた』と報告があった。七人が重傷を負い、天幕と車三台が全焼したらしい。『明日の朝、人手を寄こすからその場で待機しろ』と言ってある。人数を集め出向いてくれ」
幹部の一人と話をしているらしい。
「人質二人は車一台を奪い逃げたそうだ。人質から外部に情報が漏れる恐れがある。地下を爆破し、残ったモノは全て破壊しろ。そうだ、その場にいる者も全員、殺せ」
シエナはびくっと肩を震わせた。
夫は顔色一つ変えず淡々と指示を出す。ムスリム革命団の指導者の顔になっていた。
「負傷者も子どもも関係なく、一人残らずだ。失敗した責任を取らせろ」
落ち着き払った声にシエナはぞっとした。
夫は携帯を切り、長椅子に体を預ける。
興がさめたようで、それからは一切話しかけてこなかった。
※
「オ〇マはキレると怖いっていうけど、ほんとだな。お前、本気で殺すつもりだったろ。見ろ、ここ。皮が一枚剥けているぞ。おいっ、見ろって、おいっ」
マルクは地べたにあぐらをかき、しつこく絡んでくる。
イーシンは背中を向け、無言で銃の手入れをする。
イーシンはマルクを殺さなかった。理性が働いたのか、ほんのわずか視界が揺らいだ。被せた布がずれたように白く光っていた標的が人の顔に変わったのだ。
マルクの短い髪がばっと弾け、後方の石を砕いた。マルクは青くなっていた。
以後、マルクは腫れ物に触るようにイーシンに接する。
「無視すんなよ。さっきから謝っているだろ。いい加減許せ。心の狭い奴だな」
東の空が赤く染まり、地平線が黄金色に輝く。太陽が昇ろうとしている。
イーシンはまだマルクと口をきいていない。そろそろ許してやろうという気にならない。一生目の前から消えてほしい。なぜあの時狙いを外したのか。こうやって銃を触っているとマルクの顔がちらついてしょうがない。
「おい、めでたく脱出できたんだ。いつまでもここにいないでさっさと移動しようぜ」
イーシンは背中を向け銃の手入れを続ける。今マルクを見たら銃をぶっぱなしそうだった。
「おい、聞いているのか。そろそろ移動しないかって話しているんだ。腹が減って死にそうだ。喉も乾いた。町に行って水と食料を手に入れようぜ」
「……お金がないわ」
イーシンは背を向けたまま言った。
「おっ。やっとしゃべったな。口がないのかと思ったぜ」
イーシンは首をぐるりと回し、キッと睨みつけた。無駄な会話をするほど怒りは治まっていない。
「そんなに睨むなよ。いいもん見せてやる」
マルクは立ち上がり、運転席のドアを開けがさごそと漁る。両腕一杯に何かを抱えて戻ってくる。それをイーシンの前にばらばらと広げた。
「どうしたの、これっ」
色とりどりの財布と携帯電話、腕時計がずらりと並ぶ。イーシンの財布と携帯、パスポートもあった。
マルクがあれこれ手にし見せびらかす。
「てめえがぶちギレて銃をぶっ放している間に俺が倒れた奴らから取り返してやったんだ。感謝しろ。お前の財布とパスポート、ほれ、腕時計もあるぞ」
イーシンはマルクから腕時計をひったくり、自分の物をポケットにしまう。
「……町に着いたらそこで解散。別行動よ」
「かぁー、まだ根に持ってんのか。ねちねちねちねち、しつこいぞっ。ネズミの一匹や二匹、なんだ。よっし。町に行ったら俺がネズミの踊り食いを披露してやらぁ。それでいいだろ」
「止めてっ、気持ち悪いっ。ネズミは病原菌がいっぱいいるの。不潔なのよ。食べて死なないのはあんたぐらいよ」
「んだとっ、このっ」
マルクは拳を振り上げる、イーシンは銃口をマルクの顎にぴたりとつけた。マルクは青くなってぱっと拳を広げる。
イーシンは立ち上がり、無言で車の助手席に乗った。
二日が過ぎ、三日目の朝を迎えた。
一日二回だった食事は一回に減らされ、食事を持ってくる者はタリクではなく、黒ずくめの体格のいい男二人に変わった。決まって一人がマルクを銃で牽制し、もう一人がイーシンに食事を渡す。明らかに警戒されていた。
「あのクソガキがチクったんだ」
マルクは逆ギレしていた。
「あれだけ騒げば知れ渡るわよ。あんたがゴリラ並みの力を持つ、うすら馬鹿ってね」
「てめぇっ、喧嘩売ってんのかっ」
立ち上がったマルクは派手に頭をぶつけた。頭を押さえうずくまる。檻の高さが低いのだ。
マルクがオーバーに頭をさすり、「見ろ。血が出てないか」とイーシンに頭のてっぺんを見せる。
イーシンはつんとそっぽを向いた。
「こらっ、ちったあ心配しろ。俺は怪我人だぞ。……ったく……」
怒りきれないのは窮地を招いた自覚があるからだろう。
イーシンは久しぶりに怒っていた。
逃げる算段を立てようにも敵に警戒されていたのではどんなに素晴らしい計画も成功するとは思えない。
思い返せば、全てが後手に回っている。
「イーシンさん、あそこは早めに辞めた方がいい」
宴会の席で受けた忠告に素直に従っておけばよかった。
少なくともムスリム革命団の存在を施設側に報告していれば無抵抗のままやられはしなかった、はず。
サル程度の知能しかなくても、人格的に破綻していても、生理的に受けつけなくても、上司であるマルクに報告はしておくべきだったのだ。
マルクを担いで逃げたことも悔やまれる。見つかって当然、捕まって当然だ。見捨ててさっさと逃げればよかった。
マルクが騒ぎ立てたことで敵が下りてくる回数はめっきり減り、始終、通気孔の外で人の気配がする。監視されている。
こうなるとマルクがゴリラではなく疫病神に思えてくる。
排泄物が溜まったバケツの周りに無数のハエがたかる。
地下は蒸し風呂状態で、臭いもすさまじい。
上半身は下着一枚になり、ズボンの裾をたくし上げる。残り少ないペットボトルの水をちびりと飲んだ。
汗と一緒に気力まで無くなっていくようだ。暑さと空腹で頭がぼーっとする。
支払い期日を待たずに死ぬかもしれない。
外の空気を吸いたい。太陽の光を浴びたい。風に当たり、水を浴びたい。埃だらけの服を脱いで、お風呂につかりたい。美味しいものをお腹いっぱい食べて、きれいなベッドで眠りたい。
無駄と分かっていても空想は膨らむ。
イーシンは壁にもたれ、浮遊する砂埃を眺めた。
腕を枕に横になっていたイーシンは物音に目を覚ました。
マルクが壁に向かい背中を丸め、楽しそうに舌を鳴らしている。
「……なに、やっているの」
イーシンは上体を起こした。
マルクは背中を向けたまま、ひっひっひっ……といやらしい笑い声を立てる。
いよいよおかしくなった、とイーシンはショックを受けた。
マルクは小さく舌を鳴らしながら振り返り、大きな両手を丸く重ねイーシンに近寄る。
マルクはいやらしい笑みを浮かべ、自慢げに話す。
「いいことを思いついたんだ。お前、これ食え」
マルクは重ね合わせた両手をわずかに開く。イーシンはマルクの分厚い両手の中を覗き込んだ。……隙間から二つの眼が光る。手の隙間からそれが鼻をつき出した。
キィ、キキッ。
つぶらな瞳に長いヒゲ、黄土色の鼻、灰色と黄色が混じった毛、――ネズミだった。
「ギャッ」
叫ぶ間もなく髪をつかまれ口に突っ込まれた。
柔らかい塊が口腔内で暴れ、硬い毛が喉を刺す。獣臭さと土臭さが鼻をつき、目を刺激する。
「噛め、噛みちぎれっ」
イーシンは涙を浮かべ必死に首を振った。マルクはイーシンの頭を押さえ、顎をつかみ、上下に力を加えた。
ぶちぶちと肉が裂ける感触とドロッとした物が口の中で弾け、生臭い鉄の味が溢れた。
ゴアアアアアアー……。
声にならない悲鳴と、ごぼごぼと液体が溢れる音と、ブフッブフッと吐き出す音が静寂を破る。滝のように口から血が迸る。イーシンはマルクを突き飛ばし、ゲエエェッー、と口の中の物を吐き出した。
「何事だっ(アラビア語)」
黒ずくめの男が二人、飛び込んできた。
イーシンが大量の血を吐いているからだろう、男たちはギョッとしたように後じさり、すぐに一人が銃口をマルクに向け、「後ろに下がれ(アラビア語)」と叫ぶ。
マルクはのっそりとイーシンから離れる。
もう一人の男が鍵をガチャガチャと鳴らし檻を開けイーシンに近づく。瞬間、イーシンは男の銃をつかみ、拳で男のこめかみを殴った。
男はひっくり返り、イーシンは奪った銃で男の両脚を撃ち抜いた。
男は叫び、のたうち回る。
「貴様っ」
檻の外にいる男がイーシンを撃とうとする。マルクは熊のように檻の外へ突進し男へ体当たりする。倒れた男の首をギリギリと締めあげる。マルクの太い腕が膨らみ、首の筋肉が隆起する。
締められた男の顔がうっ血し膨張する。股間が濡れ、尿の臭いが漂う。男は口から泡を吹き、動かなくなった。
イーシンはボトルの水で口をすすぎ、頭にふりかける。撃たれた両脚を押さえ悶絶する男の覆面を剥ぎ取り、ネズミの死骸を口にねじ込んだ。
「ぐむっ、むーっ……」
イーシンは覆面を被り、階段を駆け上がった。
扉は開いていた。扉に白い光が反射する。車のエンジン音が聞こえ、人の気配もする。
イーシンは覆面を被った頭だけを出し車のライトを横殴りに撃ち、外へ飛び出した。
バンッ、バンッ、と火花が散り暗闇に包まれる。
ダダダダダダッ……、ヒステリックな銃声が闇夜を裂く。扉がある辺りを一斉射撃しているようだ、火花が散り、硬い音がし、砂が飛び、石が跳ねる。
イーシンは激しい銃声を避け、残像を頼りに全速力で走る。
ライトは消え、エンジン音は止み、車が動く気配はない。ならば車は同じ場所、同じ向きに停まっているはず。
イーシンはジグザグに走り、大きくUターンし、記憶を頼りに暗闇の一点を撃つ、車のガソリンタンクを。
男たちが過剰な反応に出る。銃を乱射し、怒鳴り、喚き散らす。
暗闇の中、見えない敵に冷静さを失っているようだった。
イーシンは片膝をつき、三十秒待ってから二発目を撃った。
車が爆発した。車体が浮き、窓ガラスが飛び散り、火を噴く。眩いほどに明るくなり、車の近くにいた一人に燃え移る。火を背負いもがく一人を男たちが布ではたき、火を消しにかかる。
イーシンには踊り騒いでいるように見えた。
イーシンは走り出す。ここに連れて来られた時の映像を頭の中で再現する。大きな岩の向こうに天幕があるはず。
イーシンは指先で岩肌を確かめながら敵の拠点である天幕へと走る。
灯りがチカッチカッと目に入り、岩陰から天幕を観察する。
ライトが煌々と照らされ男たちがランクル(四輪駆動車)に乗り込もうとしていた。敵はざっと十二人、ランクルは二台。
イーシンは狙いすましライトを撃ち抜き、続けてガソリン部分を撃ち抜いた。
一台が吹き飛び、隣のランクルを巻き込み炎上する。千切れたボンネットが天幕に刺さり炎をあげ、ゆっくり沈み、天幕の内側へと消える。
天幕が燃えあがり、巨大な松明と化す。巨体をうねらせ火の礫を吐き、金粉を撒き散らし闇夜をあかあかと照らす。車を呑み込み、闇より黒い煙を噴き出す。
金粉を纏った火の塊が高く空へ舞い上がる。
男たちは半狂乱になって怒鳴り、銃を乱射し、独楽のように走り回る。銃弾が岩に当たり、イーシンの足元にある砂が弾ける。男たちの足音が近づいてくる。
イーシンは銃を構えた。
暗闇から一台の車がライトを点けず急接近する。イーシンは運転席に狙いを変えた。ライトがチカチカと明滅し鋭い音を立てて停止する。
助手席のドアが開き、マルクが叫んだ。
「乗れっ。逃げるぞっ」
イーシンは飛び乗り、車は急加速した。
「やるじゃねえか。でくのぼーと思っていたのによ。あんまり抵抗するから失敗したと思ったぜ」
イーシンはサイドミラーで遥か後方に立ち昇る炎を確認し、無言で覆面を脱ぎ捨てる。サイドブレーキを引いた。
「うぉっおおおおっ」
後輪が半回転し、マルクがハンドルを切る。車は急停止した。
「アッぶねーだろ。なにしやがっ。……えっ、おっ、おいっ」
ハンドルに覆い被さるマルクの腰に手を伸ばしベルトを外す。
「やっぱりお前、そっちの気が……。ま、待てっ、俺は女しか……」
運転席のドアを開けマルクを車外へ突き落とす。
「いってぇー。てめっ、くそっ。なにしやが……んあっ」
イーシンはマルクに銃口を向けた。
「じょ、冗談きついぞ。……めっ、め、目がいっちまっているぞ。正気に戻れ、ほれっ、ほれほれ」
両手をパンパンと叩くマルクを無言で見下ろし、狙いをぴたりと眉間につける。
「断りもなくしたのは悪かったよ。ネズミが走るのを見て思いついたんだ。残りもんの飯でネズミを捕まえてその血で病人のふりをしたら奴らをおびき寄せられるんじゃないかって。ぶちのめして銃を奪えば脱出できるって。俺が病人のふりをしても誰も信じないだろ。お前しかいなかったんだ。うまくいったじゃねぇか、よしとしようぜ」
イーシンは答えなかった。
意識は冴え渡り、湖面に映る月のように静かだ。銃は何の違和感もなく手になじみ、引き金にかけた指に力みはない。
だらしなく笑う顔が不快だった。
イーシンは上瞼をわずかに下ろし、狙いをすます。
顔のパーツが白くぼやけていく。眉間が引き伸ばされ仄かに光る。
イーシンは引き金を引いた。
※
「シエナ、家にいる時はニカブを脱ぎなさい」
居室の長椅子でノートパソコンを触る夫に言われ、シエナは顔を覆うスカーフを外した。夫に見えないよう顔を横に向ける。
額から目の下まである火傷の痕を気にしていた。
額は黒く隆起し、眉はなく、睫毛も欠けている。手術で瞼が閉じるようになったとはいえ、いつも瞼が引っ張られているような違和感があった。
醜い容貌はスカーフで隠しても人々の視線を集めた。同情や憐れみならまだまし、忌諱(きい)や蔑みを向けられることはしょっちゅうだった。
名前が「シエナ(美しい)」とはなんという皮肉だろう。
「床は冷たい。こちらに座りなさい」
夫がノートパソコンを脇に置き、シエナを呼ぶ。シエナは大人しく夫の隣に座った。夫が頬に触れ、火傷の痕が目立つ顔を上向かせる。
きれいに揃った明るい睫毛をわずかに伏せ、黄みを帯びた茶色の目でシエナを見つめる。
「お前は美しいな」
遥かに美しい夫に甘く囁かれ、シエナは喜びよりも不安を覚える。
夫は同情や憐れみで心にもないことを言う人ではない。それを知っているから蕩けるようなまなざしで「美しい」と囁く夫が空恐ろしかった。シエナは夫の手をそっと外し、顔を伏せた。
「お前はいつもうつむく。夫婦になって三年になる。そろそろ私に微笑み返してくれてもいいだろうに」
気分を害した様子はなく夫は長椅子にゆったりと体を預け、サイドテーブルに置いた茶を口にする。
こうやって妻である自分を口説くのは機嫌がいい証拠だ。
夫は訓練施設を襲い、人質を二人捕らえた。
敵は一人残らず殺していた夫がなぜ、と不思議だった。
身代金を要求する映像を流し、かといって引き渡し時間も場所も知らせず、交渉に訪れる者も現れない。
どうするのかと思えば、毎日部下に人質の様子を報告させる。その後、決まって上機嫌で妻をかまう。
どうやら人質二人のうちどちらか、もしくは二人とも、夫の興味をひく人物だったようだ。
夫は新しい楽しみを見つけたようで毎日機嫌よく過ごしている。
明日、夫は人質に会いに行く。
「シエナも行こう」と誘われたが気乗りせず、首を横に振った。
夫は心待ちな様子で壁にかけたカレンダーを眺める。
シエナは機嫌がいい夫を見ているだけで安心した。
夫の携帯が鳴る。
「私だ。……なに……」
夫から笑みが消えた。
相槌を打つでも話をするでもなく、じっと携帯を耳に当てている夫の表情はどきりとするほど冷たかった。
シエナはいたたまれず、長椅子から離れる。
夫はようやく口を開く。
「謝らなくていい。逃げたものは仕方がない。車が燃えたなら戻って来られないだろう。怪我人も運べない。明日の朝、人手を寄こす。それまでその場で待機しろ」
夫は携帯を切り、少しの間黙っていた。すぐにどこかへかけ直す。
「サイードだ。今、『監禁していた人質二人が逃げた』と報告があった。七人が重傷を負い、天幕と車三台が全焼したらしい。『明日の朝、人手を寄こすからその場で待機しろ』と言ってある。人数を集め出向いてくれ」
幹部の一人と話をしているらしい。
「人質二人は車一台を奪い逃げたそうだ。人質から外部に情報が漏れる恐れがある。地下を爆破し、残ったモノは全て破壊しろ。そうだ、その場にいる者も全員、殺せ」
シエナはびくっと肩を震わせた。
夫は顔色一つ変えず淡々と指示を出す。ムスリム革命団の指導者の顔になっていた。
「負傷者も子どもも関係なく、一人残らずだ。失敗した責任を取らせろ」
落ち着き払った声にシエナはぞっとした。
夫は携帯を切り、長椅子に体を預ける。
興がさめたようで、それからは一切話しかけてこなかった。
※
「オ〇マはキレると怖いっていうけど、ほんとだな。お前、本気で殺すつもりだったろ。見ろ、ここ。皮が一枚剥けているぞ。おいっ、見ろって、おいっ」
マルクは地べたにあぐらをかき、しつこく絡んでくる。
イーシンは背中を向け、無言で銃の手入れをする。
イーシンはマルクを殺さなかった。理性が働いたのか、ほんのわずか視界が揺らいだ。被せた布がずれたように白く光っていた標的が人の顔に変わったのだ。
マルクの短い髪がばっと弾け、後方の石を砕いた。マルクは青くなっていた。
以後、マルクは腫れ物に触るようにイーシンに接する。
「無視すんなよ。さっきから謝っているだろ。いい加減許せ。心の狭い奴だな」
東の空が赤く染まり、地平線が黄金色に輝く。太陽が昇ろうとしている。
イーシンはまだマルクと口をきいていない。そろそろ許してやろうという気にならない。一生目の前から消えてほしい。なぜあの時狙いを外したのか。こうやって銃を触っているとマルクの顔がちらついてしょうがない。
「おい、めでたく脱出できたんだ。いつまでもここにいないでさっさと移動しようぜ」
イーシンは背中を向け銃の手入れを続ける。今マルクを見たら銃をぶっぱなしそうだった。
「おい、聞いているのか。そろそろ移動しないかって話しているんだ。腹が減って死にそうだ。喉も乾いた。町に行って水と食料を手に入れようぜ」
「……お金がないわ」
イーシンは背を向けたまま言った。
「おっ。やっとしゃべったな。口がないのかと思ったぜ」
イーシンは首をぐるりと回し、キッと睨みつけた。無駄な会話をするほど怒りは治まっていない。
「そんなに睨むなよ。いいもん見せてやる」
マルクは立ち上がり、運転席のドアを開けがさごそと漁る。両腕一杯に何かを抱えて戻ってくる。それをイーシンの前にばらばらと広げた。
「どうしたの、これっ」
色とりどりの財布と携帯電話、腕時計がずらりと並ぶ。イーシンの財布と携帯、パスポートもあった。
マルクがあれこれ手にし見せびらかす。
「てめえがぶちギレて銃をぶっ放している間に俺が倒れた奴らから取り返してやったんだ。感謝しろ。お前の財布とパスポート、ほれ、腕時計もあるぞ」
イーシンはマルクから腕時計をひったくり、自分の物をポケットにしまう。
「……町に着いたらそこで解散。別行動よ」
「かぁー、まだ根に持ってんのか。ねちねちねちねち、しつこいぞっ。ネズミの一匹や二匹、なんだ。よっし。町に行ったら俺がネズミの踊り食いを披露してやらぁ。それでいいだろ」
「止めてっ、気持ち悪いっ。ネズミは病原菌がいっぱいいるの。不潔なのよ。食べて死なないのはあんたぐらいよ」
「んだとっ、このっ」
マルクは拳を振り上げる、イーシンは銃口をマルクの顎にぴたりとつけた。マルクは青くなってぱっと拳を広げる。
イーシンは立ち上がり、無言で車の助手席に乗った。