第2話

文字数 8,811文字

 イラクはかつて古代メソポタミア文明が栄えたティグリス・ユーフラテス両河の流域に位置する。
 イラク北部から中央部は水量に恵まれ農耕に適しているが、南部と南西部は乾燥が激しい砂漠地帯が広がる。首都はバグダッド、人口は約三八〇〇万人。
 アラブ人が人口の約八〇%を占め、また国民の九五%以上がイスラム教徒である。イラクではスンニ(慣行)派が多数派のシーア(血統)派を抑え、長年政権を握ってきた。
 二〇〇三年三月、アメリカは『大量破壊兵器を所有している』ことを理由にイラクを空爆し、イラク戦争を開始した。
 当時イラクを支配していたイスラム教スンニ派のフセイン政権を弱体化させるため、アメリカが主導する多国籍軍はスンニ派とシーア派の宗派間対立を煽った。
 開戦理由だった大量破壊兵器は見つからず、アメリカは「イラク国民を独裁政権から解放し、イラクに民主主義をもたらすことは『テロとの戦い』の一環である」と主張を変えている。
 同年一二月フセイン政権が倒れた後、アメリカは暫定統治機構(CPA)を創設し、イラクを占領統治した。
 CPAはフセイン政権時代の政治家、医師、看護師、教師等を含む国家公務員を解雇し、軍を解体し、二〇〇以上ある国営企業を廃止した。
 結果、七万人から十万人といわれる大量の失業者を出し、スンニ派が多数を占める北部及び西部は経済的に落ちぶれた。
 また、CPAが行ったイラク軍の解体により大量の武器が流出、失職した軍人は反政府組織に加わるなどして治安が悪化した。
 アメリカ軍統治下で発足したシーア派マリキ政権は汚職にまみれ、スンニ派を徹底的に弾圧し、シーア派の一部をも抑圧した。
 イラクはテロが頻発し、内戦状態へ陥る。
 国内外の武装勢力が入り乱れ平和への道筋が見通せないなか、二〇一一年、アメリカ軍はイラクから完全撤退する(イラク戦争終結)。
 スンニ派過激派組織『シリアとイラクのイスラム国(ISIS。後にIS(イスラム国)と改称)』は、民主化を求めるデモ『アラブの春』から内戦に発展した隣国シリアを拠点にイラクへも支配地域を広げる。
 アメリカの占領政策の失敗とマリキ政権の腐敗ぶりに失望したイラクのスンニ派住民は、二〇一四年、『西欧諸国の植民地政策でつくられた秩序の破壊とカリフ国家の創設』を掲げるISとともにイラク政府軍と戦い、イラク北部にある第二の首都モスルを占拠する。
 二〇一四年、アメリカはイラクとシリアでISに対する空爆を開始する。アメリカ軍主導の有志連合軍によるIS掃討作戦はシリアに主戦場を移しながら二〇一七年四月現在においても続いている。

 (『アメリカはイスラム国に勝てない』他 要約)


 ※

 二〇一七年 四月 
 イーシンはイラク南部の町サマワの外れにある軍事訓練施設にいた。
 四つの棟と広大なグラウンドがある敷地を一.八メートルのコンクリ壁の上に鉄条網を張り巡らし、外部と隔てている。
 巨大な太陽が照りつけ土と岩の大地を白く焦がす。大気は揺らぎ、熱風とともに砂を巻き上げる。軍事訓練施設は砂漠にあった。
 現在気温は四十二度。乾燥しているため日陰に入ればなんとかしのげるが暑いものは暑い。これから夏に向け更に暑くなると思うとげんなりする。
 イーシンはつばの広い帽子にサングラスをかけ、長袖長ズボンの格好で建物の陰に避難していた。
「おいっ、くそったれ。しっかり走れ。銃でケツ、ひっぱたくぞ」
 グラウンドを走る訓練生たちに品のない言葉を浴びせるマルク・サンチェスにイーシンは暑さのせいばかりではなく立ちくらみを起こす。
 マルク・サンチェスは指導教官の一人でイーシンより立場は上だ。上司、とは認めたくない。
 ポリタンクを数個積み上げ二リットル入りペットボトルを四隅にくっつけ、ヘルメットを被せたような体つきをしている。遠くからだとゴリラが服を着て歩いているようにしか見えない。
 短く刈った髪はサボテンのようにつんつんと立ち、日に当たるとゴ〇ブリのように黒光りする。筋肉が張った腕と脚は剛毛がとぐろを巻き、眉毛は太く、顔も濃い。
 見た目同様、とにかく下品な男で、建物の陰に避難しているのも暑いからという理由とは別に訓練生たちに同類と思われたくないからだ。
「おい、オ〇マ、さぼるな。お前だよ、お前、イーチン」
「イーシンよっ」
 イーシンは怒鳴った。
 マルクは銃身で肩を叩き、歩いてくる。
「なんだあ、その口の利き方は。それが上司に対する態度か。言っとくが、ここでは俺が一番偉いんだぞ」
 全くのでたらめである。
 訓練施設は歩兵科、砲兵科に分かれており、砲兵科は扱う武器が多種多様で破壊力もあるため難易度が高い。また同じ科でも訓練生の習熟度によりAクラスからCクラスに分かれている。
 イーシンとマルクは歩兵科のCクラスを担当している。つまり、マルクは一番難易度が低く、習熟度が低いクラスの長にすぎない。
 ――あんたがここのトップだったら回れ右で帰っているわよ。
 マルクは銃を肩に担ぎ、イーシンの前に立ちはだかる。
「口だけは達者だなー。それくらいきびきび動いたらどうなんだ。なあ、イーチンさんよぉ」
「イーシンって言っているでしょ。次間違ったら筋肉がいっぱいつまったその頭に風穴あけるわよ」
 マルクはヒューッと口笛を吹いた。
「分かった、分かった。以後、気をつけます、イーチンさん。あっと違った、イーシンさんだった」
 ガハハッと大笑いするマルクにこめかみの血管が切れそうだった。
 この男、初対面から最悪だった。
 開口一番、「おい、なんだそのしゃべり方は。ちゃんと〇ン〇ンついてんのか」と人をけなし、無礼な態度に絶句していると「なんとか言えよ、イーチンさんよぉ」とわざと名前を間違える。
 訓練生に対しても下品極まりない言葉を連発し、それをスタッフが馬鹿正直に通訳するものだから、とっさにイーシンは通訳の肩をつかみ、釘を刺した。
「あなた、必要最低限のことしか訳しちゃ駄目。死ぬわよ」
 国民のほとんどがイスラム教徒(ムスリム)であるイラクで性的な言葉で相手を罵倒するなどもっての他、相手が厳格なイスラム教徒なら刃傷沙汰になってもおかしくはない。西洋でも性的な話題を嫌う人間はごまんといる。
 マルクに「あなた、言葉を選びなさい。酷すぎるわよ」と忠告しても、マルクは心外だと言わんばかりに、「ぶっ叩くのどこが悪い。ケツを舐めるぞとでも言えばいいのかよ」としらふで返す。
 前任者は上司と喧嘩をして辞めた、とロバートは言っていた。上司とはこのマルクのことだ、とイーシンは確信した。
「できるだけ温和な人を」と条件がついていたのはこの失礼極まりない男が聞き捨てならないセクハラ発言を連発するからだ。
 関わりたくなくてもマルクはしょっちゅうちょっかいをかけてくる。無視するとまたあの聞き捨てならない下劣な言葉を投げつけてくるのだ。構ってほしくて悪態をつく子どもだ。
 何もかもが聞かされていたのと違う。
 治安は戦闘状態が続く北部よりましといった程度で南部でも銃撃事件は日常茶飯事だ。地雷原に踏み込み足が吹っ飛んだ、不発弾が爆発した、路上にとめてある車が爆発した……、数えあげればきりがない。
 新しいと聞かされていた訓練施設も快適とはほど遠く、元は学校か病院だった建物を修繕して運用しているにすぎない。
 壁には無数の弾痕が残り、ひび割れた窓ガラスはテープで補修している。階段はボロボロ、廊下もデコボコだ。
 エアコンをつけてもすぐに停電し、この間はトイレに誰かが紙を流してしまったらしく、溜まっていた排せつ物が溢れ出し、汚泥地獄と化した。臭いはすさまじく、一週間経っても消えていない。
 訓練生が着ている戦闘服もつぎはぎだらけで体格に全然合っておらず、袖が短い、裾が擦り切れている、膝が破れているなんてざらだ。訓練に使う銃器は生産国も規格も性能もバラバラで、鎮圧した武装集団から押収した物と思われた。
 初めて施設を訪れ言葉を失うイーシンにマルクは笑いを堪えるような顔で言った。
「びっくりするほどぼろいだろう。うちはCクラスだからな、予算が回ってこないんだ。AクラスとBクラスは設備から装備まで立派なもんだぜ」
「Cクラス。なにそれ」
「知りたいか」
 マルクは自慢げにこの施設のシステムを教えてくれた。
「Aクラスは元兵士か元傭兵が集まる優秀なクラス。Bクラスはそこそこ使える奴が集まる普通のクラス。そしてここCクラスは役に立てばめっけもん、どうにもならん奴が集まるど素人クラスよ」
 マルクはのけ反り馬鹿笑いする。
 イーシンはくらくらする頭に手を添えた。
「なんで、なんで私ここにいるの」
 マルクがイーシンの肩を叩き、愉快極まりないといった感じで言ってのける。
「そりゃあ、お前が役立たずだからだろ」
 追い討ちをかけられイーシンはよろめいた。キッとマルクを睨んで詰め寄る。
「あんたはどうなのよ」
「ああ、俺か。……その、あれだ。ど素人を鍛えてプロに育てあげる仕事にやりがいを感じてだなぁ」
「うそっ。そんな殊勝なタイプじゃないでしょ」
 マルクは頭をバリバリと掻いた。
「俺は機械に関しちゃあプロ中のプロでな。その腕を買われ砲兵科のAクラスを任されていたんだ」
 自慢げに低い鼻を上に向け腕を組んで話すが、嘘くさい。
「でもよ、砲兵科のAクラスは俺以外はお高く止まった奴らばっかりでな。『傭兵あがりはガラが悪い』とか馬鹿にしやがるから、ちょちょいと絞めてやったらとばされた」
 頭に手をやりダハハッと笑う。
「……やっぱり……」
 マルクは笑いながら言った。
「いいじゃねえか。ここには口うるさい軍人どもはいない。伸び伸びできるってもんだ。俺とイーシンであいつらを鍛えてやろうぜ」
 マルクが太い親指でグラウンドをくいっと指さす。
 訓練生が銃剣を構え標的に見立てた柱を突き刺していた。至近距離で的を外す者、柱に跳ね返される者、刺さった銃剣を懸命に引き抜こうとしている者……、様々だ。
「笑えるだろ、あいつら」
 マルクは大笑いし、「まっ、よろしくな」とイーシンの背中をバンッと叩いた。
 あれから十日が経つ。
 過酷な環境にもマルクの粗野なふるまいにもいまだに慣れない。この状態が二年続くと思うと気が遠くなる。
 日本が懐かしい。訓練施設があった山間部は空気がきれいで、景色も抜群だった。指導責任者であるウェインが堅物だったこともあり指導教官は皆品行方正で、規律と秩序があった。
 施設はきれいだったしシェフが作る料理はどれも逸品だった。訓練生も下手なりに素直でいい子たちだった。宮前等とかいう一人馬鹿っぽい子がいたけれどあれはあれで可愛かった。
 日本での暮らしを指折り数え、平和だったわねぇ、という結論に至った。

「マアッサラーマ(アラビア語でさようならの意)」
 訓練が終わり、帰り支度を始めたイーシンは少年に声をかけられた。タリク・クマシ、あどけなさが残る少年だ、Cクラスで一番若い。
「マアッサラーマ」
 イーシンは挨拶を返した。
 少年ははにかみ、グラウンドで片づけをする仲間のところへ戻って行った。
 最近、イーシンに話しかけてくる訓練生が増えた。
 銃を扱うコツの他に、日本人と思われているようで日本のことを聞かれる。イーシンは忙しくてもできる限り丁寧に答えた。
 マルクには一定の距離を保つ訓練生たちがイーシンにはまとわりつくように訓練以外の質問もしてくる。
 マルクはそれが気に入らないらしく、「聞きたいことがあるなら俺に聞け」と威張り散らし、訓練生たちを更に委縮させる。
「気に入らん、イーシンにばっかり懐きやがって。誰に教えてもらっていると思っているんだ」
 訓練生の心情は十分理解できる。
 マルクは訓練中であろうとタバコをふかし、吸い殻をそこら辺に捨てる。どこからくすねてきたのか酒をあおり(本人は水だと言い張る)、訓練生たちに罵声を浴びせる。幸い、要領を得た通訳は必要最低限のことしか訳さない。
 ムスリムは酒もタバコも禁止だ。非ムスリムに押しつけることはないが目の前でタバコをぷかぷかされ、赤ら顔で命令されたのではたまらない。炎天下を延々と走らされ、セクハラまがいの言葉を投げつけられる。訓練生は英語が理解できなくても罵られているのは分かるようでマルクには寄りつかず、イーシンには安心したように集まってくる。
 イーシン自身、大きな瞳に尊敬と親しみを込めて見つめられると悪い気はしない。
 ――私って物腰は柔らかいし、教え方もうまいから。
 人望は間違いなく自分にある、と思うだけでなんともいえない優越感に浸れる。
 イーシンは歌を口ずさみ、軽い足取りで家路についた。

「よう、ヤバニ(日本人)。今日の晩飯にヤギはどうだ。安くするぞ」
「いえ、結構です」
「おい、鶏はどうだ。俺の店のは格別うまいぞ」
「ヤバニは昨日鳥肉食っただろう。今日はヤギだ」
「いえ、もう今晩の食材はありますから」
「野菜を買え。キュウリ、トマト、レタス、ニンジン、なんでもあるぞ」
「いえ、もう本当に……」
 町の市場を通るとあちらこちらの店(屋台)から声がかかる。その度にイーシンは笑みをはりつけ断った。
 日本にいた時の癖で家主が出した契約書に『李一星』と漢字で書いてしまった。
 家主は顔を上気させ、「これは漢字だろ。お前はヤバニか。ホンダ、トヨタ、ヒロシマ、よく知っているだろ」と胸を張った。
「俺の名前はアフマド・ハサンだ。漢字でどう書くんだ。書いてくれ」とさっき記入した契約書を突き出す。
 違います、と訂正するタイミングを失い、仕方なく「阿布窓・八三」と書いたら、「おおっ。お礼に家賃は半額にする」と随分喜ばれた。
 それ以来、家主が広めたのか噂を聞きつけたのか、「ナガサキ、ヒロシマ」、「ヤバニ、ヤバニ」としきりに声をかけられるようになった。
 いちいち訂正するのも煩わしく、日本人で通すことにした。
 日本人の血も四分の一入っているから嘘ではないし、「私は中国系アメリカ人です」と言ってわざわざ反感を買うこともない。それに、中国人と日本人の違いなどイラク人には分からないだろう。
 イラクに戦争をふっかけ内戦の原因を作ったアメリカと違い、先の大戦でアメリカに挑み、こてんぱんにやられながらも輝かしい発展を遂げた日本は尊敬されていた。一時期、サマワの町で自衛隊が復興支援活動をしていたことも功を奏している。
 日本人のふりをしていると「これ持っていけ」とただでくれたり、「安くしといてやる」とまけてくれたり、家に招待してくれることもある。
 今日、イーシンは家主のアフマド・ハサンの本宅で夕食をご馳走になる予定だ。
 家主はイーシンが借りているアパートの近くに一軒家を構え、家長として親族と暮らしている。
 コンクリ壁に鉄格子入りの窓が一つ、玄関は鉄製の扉といった殺風景な外観だが、中は意外に快適だった。
 刺繍入りの絨毯が敷かれ、大きなソファが壁際に置かれている。天井に取り付けた三台のファンが部屋中に涼しい風を送っていた。
 家主の男性親族と握手を交わし、床に敷かれた手織りの絨毯に座る。
 豆のスープや豆を炒った料理、ヤギのケバブ、チキンの香味焼き、ホブス(薄く焼いた丸いパン)、トマトとキュウリのサラダなどが所狭しと並べられる。
 家主と男性親族に交ざり料理を囲む。女性は一切姿を見せず、年若い男性親族が給仕をする。
 正直、豆料理とヤギ肉は飽きた。
 ――そろそろ、自炊をしないと激やせしそう。
 手で豆をすくい、チキンにかぶりつく。ホブスをかじり、コーラで流し込んだ。
 イーシンはアメリカ軍に在籍していた頃イラクに派兵された経験があり短いアラビア会話なら理解できる。英語を話せる親族もおり、英語とアラビア語を交え話は盛り上がった。
 知らなかった事実が家主や親族の口から次々と出てくる。
「政府の役人が訓練施設の改築費用を値切って大工たちがカンカンに怒っていた」と家主の二番目の弟アザドが言えば、
 家主が「土地をただで寄こせと言ってきた」と怒り出し、
 三番目の弟ナダルが「施設を補修した水管工は難癖つけられて報酬を減らされた。仕返しに排管を外して帰ったってよ」と話を広げた。
 イーシンは流れないトイレのいわれを知り、
 ――ちょっと、トイレに細工は止めてちょうだい。どれだけ困っているか知っているの。仕事中はトイレに行けなくて便秘になったのよ。
 文句を言ってやりたかったが細工した当人はここにいない、場の雰囲気が悪くなるだけとぐっと我慢した。
「イーシンさん、訓練場に勤めているそうだな。あそこは早めに辞めた方がいい」とアザドが言い出す。
「役人が金を懐に入れているって話だ。多分、奴らにも金を払っていない」
「……奴らって……」
「いくらあいつらでも政府の役人に手は出さないだろう」
 ナダルが口を挟む。
「あいつらって誰のこと」
 イーシンは家主に聞いた。家主は聞こえないふりをしているのかケバブを口に運ぶ。
 家主の代わりにアザドが説明する。
「『ムスリム革命団』だよ。ここに訓練場ができるまではそいつらがここら一帯を牛耳っていた。俺たちはそいつらに税金と称し金を払っていたんだ」
「おれはムスリム革命団には感謝している」とはナダル。
「あいつらが来るまでシーア派民兵組織とスンニ派武装組織の戦闘に巻き込まれて町や村は惨憺たる有り様だった。政府軍は腰抜けの役立たずだ。敵に背を向けさっさと逃げて行きやがった。ムスリム革命団がならず者を追い出してくれたから平和が戻ってきたんだ。学校や病院ができたのもあいつらのおかげだ」
 ナダルの意見に他の親族たちも頷く。ナダルが付け加える。
「政府軍は首都やでかい油田がある北部をISから取り戻すのに必死でこんな南部の田舎がどうなろうと知ったこっちゃねえのさ。今のさばっている役人も金をふんだくるだけで道路一つ造れねえ」
 口々に役人の悪口を言い始めた男たちにイーシンは小さく手を挙げた。
「ムスリム革命団はISの一派なの」
 アザドが答える。
「ISではない、……と思っている。携帯を持っているからと首を斬ることも、女が一人で歩いているからとムチ打ちにすることもなかった。アルカイダのようにテロを呼びかけもしなかった。金を集めてここら一帯を治めたくらいだ」
 イーシンは首を傾げた。
 侵略も占領もせず、なんの主張もしない武装集団がいるだろうか。
「学校で子どもに洗脳教育を施していたってことは」
 アザドが真剣な顔で言った。
「俺も最初はそれを心配して子どもを学校に行かせなかった。学校に通う子どもの父親に聞いたが『子どもは学校ではイスラム法を教わらず歴史を学んでいる。銃の撃ち方や地雷の埋め方は教わっていない』と教えてくれた。本当かどうか学校を覗きに行ったが、武装した男はおらず教師しかいなかった。それにISなら女児を学校から追い出すだろう。その父親の子どもは女の子だ」
 イーシンは相槌を打った。
「……そうね……」
 家主が口を開く。
「部族長の付き人が『指導者らしき人物を見た』そうだ。『覆面をした黒ずくめの男たちの中で一人だけ白い衣装を身にまとっていた』、『白い衣装の男はイラク人ではなく外国人だった』と話してくれた。『男のそばにニカブを被った女がいた。妻にしてはニカブで顔を隠していても分かるほど醜い傷痕があった』とも言っていた。……こんなふうに」
 家主は左の目尻を指で押さえ横にすーっと引き眉間を横ぎり右の目尻で止めた。
「ムスリム革命団の奴らは部族長に『我々がここにいることを認め我々に税金を納めるなら、町民と村民の生命と財産を保証する』と言ったそうだ。部族長は奴らを歓迎した。武装組織同士の戦闘でこの辺一帯は目も当てられない状態だった。安全を保障してくれるならそれで充分だった。それ以来、月に一度、部族長は町民や村民から集めた金を奴らに納めていた」
 家主はスープを一口飲む。
「実際、奴らは金さえ払えば大人しかった。他の武装集団は近寄らなくなったし病院や学校を建ててくれた。警察の役割まで担い、治安を守ってくれた。部族長ばかりでなく町民も村民も奴らを歓迎していた。我々が一番欲しかった平穏な暮らしを与えてくれたのだから」
「……随分と、人のいい集団ね」
 もちろん本心からではない。無私無欲の武装集団なんて嘘くさい。
「それで、その連中は今どこにいるの」
 アザドが答える。
「訓練場が出来てから一度も見ていない」
「……敵わないとみて逃げたのかしら」
「いや、奴らは近くに潜んでいるはずだ。多分、役人どもは奴らの存在を知らない」
 ナダルが応じる。
「当然だ。奴らがどこで見ているか分からない。武装集団がいたと役人に密告すればどんな目に遭うか。奴らがどれほど残酷か、皆知っている」
 すかさずアザドが続ける。
「奴らは短期間で二つの武装集団を全滅させた。命乞いも捕虜も認めず、子どもを含む全員を殺し、遺体を一か所に積み上げて燃やしていた。訓練場が目と鼻の先にでき、軍人や役人どもがたむろしているこの状況をいつまでも許すはずがない」
 ナダルが力なく呟く。
「……役人や軍人を受け入れたと思われていたら俺たちも革命団の奴らに報復されるだろうな。だが、武装集団に金を納めていたと知られれば今度は政府軍から俺たちが睨まれる。下手をしたらどちらからも敵視される」
 食卓が重い空気に包まれる。
「さあ、みんな食べてくれ」
 家主がとりなすように食事を勧める。男たちが浮かない様子で食事を手に取る。
 家主は家長としての威厳を示すように声高に宣言する。
「イラクはこれから発展する。日本のようにとはいかないかもしれんが、我々イラク人は宗派を超えて神の下で一つになり復興を遂げる。私はそう信じている」
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