第6話

文字数 10,983文字


 ※

 ウェインはイラク中部にあるバグダッド国際空港に降り立つ。
 イラクに入るのは今回で三度目だ。州兵だった頃に一度、アメリカ陸軍にいた頃に一度、どちらも戦闘の激しかった北部だった。
 ターミナルビルには武装した兵士が配備されているが、銃声の類は利かず、アラビア語のアナウンスが静かに流れる。
 髭を生やしたアラブ人、ヒジャブで髪を隠す女性、アラビア語で書かれた看板を目にすると、兵士だった頃の記憶がまざまざと蘇る。
 身代金要求のニュースが流れてから今日で三日目。支払い期限は十日間、後七日しかない。感傷に浸っている時間はない。
 ウェインは雑念を払い、雑踏の中を歩いた。

 ウェインは訓練場があった場所からほど近い村に入る。区域を主張するような標識はなく、ただ村の入り口を示すように細長い石が立っていた。家屋が散見し、遠くにサマワの町も見える。
 村の一画で調査会社の社員に会った。
 白いシャツと黒のパンツをはいた背の低い男で、年齢は四十代後半くらいか。くぼんだ頬と大きな目のせいか痩せた印象を与える。細いながら腕や肩にはしっかりと筋肉がついていた。
「アッサラーム・アライクム(こんにちは)、カリム・ダフィッドだ。事情はアース社から聞いている」
「アッサラーム・アライクム(こんにちは)。ウェイン・ボルダーです」
 ウェインは握手を求めたがダフィッドは応じなかった。厳格なイスラム教徒(ムスリム)は身内以外の女性と握手はしないと聞く。
 ダフィッドは上向き、ウェインの方がダフィッドより頭半分ほど背が高い、ウェインを審査するように目を左右に動かす。
「失礼ながら、あなたのその髪は目立つ。隠した方がいい。訓練場が襲撃されてから外国人は国外へ避難した。金髪の女性がうろついていては武装集団の標的になる」
 ダフィッドは英語で話した。
「分かりました」
 ダフィッドは続けた。
「イスラムの慣習では女性が一人で出歩くことを良しとしない。あなたはムスリムではないがイスラム過激派がどこに潜んでいるか分からない。ここにいる間はムスリムの女性として私とともに行動してもらう。でなければ協力はできないしあなたの護衛もできない」
 ウェインは躊躇いがちに口を開く。
「ミスター・ダフィッド」
「ダフィッドでいい」
「……ダフィッド、貴方が持っている情報を提供してくれさえすれば充分です。それ以上の協力も護衛も不要です」
 ウェインは言葉を選んだつもりだったが、ダフィッドの頬に赤みが差す。
「あなた一人で何ができる。失礼ながら、あなたは女性だ。ムスリムの世界では、少なくともここでは、女性は一人で出歩くことも男性と会うこともできない。女性蔑視ではない。女性は大切に扱われなければならないからだ」
「……不快にさせたなら謝ります。正直に言えばダフィッド、あなたの助力はほしい。しかしこれは私が一個人として勝手にやっていることです。あなたを巻き込みたくありません」
 ダフィッドは怒りの表情にわずかな戸惑いを見せる。
「私はアース本社から依頼を受けた。これは私の仕事でもある。私は中東地域を中心に活動をしている。それなりに知識はあるつもりだ。緊急事態への対処も心得ている。余計な気遣いは無用だ」
 ウェインはこれ以上話しても聞き入れてもらえないだろうと、いったん話を置いた。
「……分かりました。お願いします」
「訓練場があった場所に案内する前に身なりを整えよう。仲間も紹介したい」
 ダフィッドの運転で彼の住居に向かう。何の装飾もされていないコンクリートの白い家だ。カリムは鍵を開け、家の中へ呼びかける。
「ミーア、いるか」
 家の奥から小柄な女性が出てきた。水色のシャツにベージュのパンツという軽装で、クリーム色のスカーフで髪を隠している。
 優しい顔立ちで穏やかに微笑む。
「ミーアだ。彼女は調査会社に勤め、私の助手をしている。ミーアは偽名で、表向きは私の妻として共にここで暮らしている。あくまで表向きだ。私と彼女は潔白だ」
「はい」
 やけにこだわるな、とウェインは思った。
「ミーアです。夫と子どもを内戦で亡くし、今はカリムの助手として働いています。よろしくお願いします」
 ミーアはたどたどしい英語で話し、手を差し出す。
「ウェイン・ボルダーです。よろしくお願いします」
 危険な仕事には向かない、柔らかい手だった。
「目以外はこれで隠してくれ」
 ウェインはダフィッドから青いスカーフを渡された。
「ミーア、ウェインにニカブの着け方を教えてやってくれ」
 ミーアはウェインに目配せをし別室に入る。ウェインも続いた。

 ニカブで顔を隠したウェインはダフィッドの前に立つ。
 ダフィッドは困惑の表情を浮かべる。
「……どこか、おかしいですか」
 ダフィッドは考え込むように顎髭を触り、ミーアとウェインを交互に見る。顎髭を撫で、重大な秘密でも打ち明けるような表情で口を開く。
「……ウェイン、頼んでおいて申し訳ないが、余計に目立っている。君の容姿が悪いわけじゃない。ただ、この辺りで君のように長身でがっしりした体格の女性はいない」
 ダフィッドは口ごもる。
「……その、まるで男が女装しているみたいだ。すまないが顔は隠さなくていい、(髪を隠す)ヒジャブにしてくれないか」
 ウェインはムッとした。今は時間が惜しい。平静を装い、顔には出たかもしれない、ミーアと別室に戻った。

 ダフィッドはウェインとミーアを前に、神妙な顔で語る。
「さっきも言ったように、イスラムでは結婚をしていない男女が同じ家に暮らすことは許されない。女性が一人で居を構えるのもよくない。……それでだ、いろいろ考えて、ウェインは不本意だろうが、私も好色だと思われたくないんだが、私の二番目の妻としてここに居るのはどうかと……」
「構いません。よろしくお願いします」
 ダフィッドが赤い顔で頷き、しどろもどろに続ける。
「夫婦が名字で呼び合うのはおかしい。私のことはカリムと呼んでくれ。私もウェインと呼ばせてほしい」
「もちろんです。よろしくお願いします、カリム」
「仕事上、やむなくだ。部屋は鍵がかかる。神に誓って手は出さない。私はそういう男ではない。信じてくれ」
 カリムはむきになって主張する。
 正直どうでもよく、早く本題に入りたかった。
 ミーアは口元を押さえ、笑いを堪えていた。

「近くに武装組織に関わる人物がいるかもしれない。うかつに近づかないでくれ」
 カリムの指示に従い、襲撃された訓練場にほど近い位置に車を停めウェインはカリムの説明を聞いた。
 ここから見える訓練場は損壊が激しく、壁は崩壊し、一階部分は押し潰され、屋根は抜け落ちていた。
「訓練場が襲撃された日は、訓練が終わり施設内には一部の人間しかいなかった。訓練場付近を通りがかった者は『黒ずくめの集団が訓練場敷地内へ砲弾を撃ちこみトラックで突っ込んで行った』と言っている。『黒ずくめの集団の中に一人だけ白い衣装をまとった男がいた』そうだ。今までも白い衣装の男は噂になっていた。私はその男が指導者と思っている。これは不確定な情報だが『白い衣装の男は外国人』らしい。
 襲撃された後の施設を調査したが、小銃がいくつか転がっているだけで武器庫内はもぬけの殻だった。銃器はもちろん、重火器の類はごっそり武装集団に持って行かれたとみて間違いない」
 アース本社社長ロバート・ロッシュから聞かされた説明とつなぎ合わせる。
「『武器庫の鍵が全て紛失し、兵士たちは手持ちの小銃だけで闘った』とアース社長から聞いています。『逃げようとした政府役人と軍人も脱出ルートが漏れていたかのように全員捕まった』と。『内部に密通者がいたとしか考えられない』と本社に報告したのはカリム、あなたですか」
 カリムは驚きの表情を隠さなかった。
「アース社長はそこまで君に……。君は一体……」
 カリムは余計な詮索はするまいというふうに首を振った。
「そうだ、私が報告した。脱出ルート、武器庫の鍵のありか、警備が一番手薄になる時間帯、施設の見取り図……、訓練生では知りえない内部の情報が漏れたということは教官か役人クラスの人間が絡んでいる。しかもそれは一人ではなく複数いたと考えていい」
 ウェインは重く受けた。
 内部の人間にスパイがいたのなら雪崩式にやられたのだろう。
「『訓練生は地元の者ばかり』とロッシュ社長から聞いています。襲撃された時間が訓練終了後だとしたら、ムスリム革命団が地元住民を巻き込まないよう配慮したとも考えられます。ムスリム革命団と住民、そして部族長には信頼関係がある」
 カリムは大きく頷いた。
「その通りだ。私もそう睨んでいる。ミーアが言うには、ムスリム革命団が来る前は、サマワの町と村、その周辺、訓練場があった辺りの土地も十人以上の部族長が所有していたそうだ。なかでも村と周辺の砂漠を所有する部族長は真っ先にムスリム革命団に忠誠を誓い、彼らを村へ迎え入れたと聞く。
 その部族長はムスリム革命団の指導者への面会を許されるただ一人の人物で、地元住民から集めた金を一括して納めているという話だ。私も何度か部族長に面会したが有力な情報は得られていない」
 ウェインはカリムに向き直り頼んだ。
「その部族長と会わせていただけませんか。いや、是非会わせて下さい。話がしたい」
 カリムは弱々しく首を横に振った。
「君では無理だ。部族長は会ってもくれないだろう。イスラムの世界では女性は交渉などしない。交渉は男がするものと決まっている。女性と子どもは守られるべき存在だからだ。これは……」
「分かっています。女性蔑視ではない、と言うのでしょう。身代金支払い期日まで後七日しかない。一刻も早く部族長に会いたいのです。男装しても構わない。とにかく部族長と会って話がしたいのです」
「会ってどうする。交渉しようにもこちらには材料がない。金がないんだ。出資のめども。どうにもならない」
 カリムは力なく首を横に振る。ウェインは焦れた。
 部族長がムスリム革命団と繋がっているなら訓練場襲撃事件に加担している可能性は極めて高い。その部族長に外国人であり、女性である自分を引き合わせてくれと言っているのだ。
 火の中に飛び込むようなものだ、カリムは到底受け入れられないだろう。しかし、時間がない。他に手段もなかった。
 いつでも動けるように荷物は後ろに積んである。
「貴重な情報をありがとうございます。これ以上は、迷惑はかけられません。ここからは私一人で動きます」
「どうやって、君は部族長の居場所を知らないだろ」
 カリムが引き留める。
「問題ありません。税を納めている村民から部族長の住居を聞き出します。男装でもして直接部族長に押しかけます」
「それは無謀だ。部族長は外国人を嫌う。不興を買えば付き人に殺されるぞ」
「私も大人しくやられはしません。何としてでも話を聞いてもらいます」
 ウェインは後ろの荷物を引っ張り出し、
「カリム、今までありがとうございました。ミーアにもよろしくお伝えください」
 と別れを口にする。
 ドアを開けたウェインは「待てっ」と腕をつかまれた。
 カリムはぱっと手を離す。
「すまない」
 イスラムの教えのようだ、体に触れたことを謝罪する。
 カリムはハンドルを抱え、前方をじっと見つめる。数分は経っただろうか。
「しかたない、協力しよう」とカリムは応じた。

 カリムはその場で部族長との面会を申し込んでくれた。
 承諾の返事を受けた翌日、カリムとウェインは部族長の家宅に車で向かった。
「ウェイン、君は私の妻として同伴してもらう。私が部族長と話をし、『いい』と言うまで口を開かないでくれ。……義理の妹にしても良かったんだが、兄より身長が高い妹は、ちょっとな……」
 ははっ、と笑う。
 細かいことにこだわる割にずれている。
 妻なら背が高くてもいいんだろうか、という疑問をウェインは呑んだ。
 カリムは緊張した面持ちで両頬をはたき、こすった。
「部族長に面会する時は銃器を取り上げられる。要するに丸腰だ。相手の機嫌を損ねたら終わりだ。言動は重々気をつけてくれ」
「分かりました。私のわがままを聞いて下さり、ありがとうございます」
 全くだ、というようにカリムは目をすがめ、しかしすぐに窺うような顔になる。
「こんな危険を冒すんだ。ウェイン、君にとってリー・イーシンはとても大切な存在なんだな。……ひょっとして、恋人か」
「もう一度言ってみろっ」
 ウェインは怒鳴った。
 カリムは飛びあがりガンッと運転席の天井に頭をぶつけた。

 カリムとウェインは部族長の屋敷の前に立つ。
 白い塀に囲まれた門をくぐり、石が敷き詰められた通路を歩く。庭に植えられた常緑樹が日陰をつくり、岩から湧き出る水がとぎれることなく池に注がれる。白亜の邸宅は金の装飾が施され、ここが砂漠地帯であることを忘れてしまいそうだ。
「砂漠に湧き水とは贅沢な造りだ。ムスリム革命団へ税を納めていないのをいいことに住民から集めた金を使い込んでいるんだな。強欲な人間に金は毒だ。いつかアッラーの怒りを買うだろう」
 カリムは腹立たしげに呟く。
 村民の大半は日々の暮らしに事欠く生活を送っているという。ことに水は貴重だ。部族長の家とはいえ豪勢すぎはしないかと、ウェインも思った。
「部族長の名はアサド・ヤール・ダリだ。女性が身内でもない男性を名前で呼ぶことは禁じられている。部族長と呼ぶんだ。部族長は部族の者にとって警察や役人より偉い」
「分かりました」
「それと、部族長には四人の妻がいる。ウェインがムスリムでないと知ると口説いてくるかもしれない」
 ――……口説く、私を。
 冗談かと思えば、カリムは真剣そのものだ。
「ムスリムの女性に気安く声をかければ男性親族が飛んで来る。非ムスリムの女性はその心配がない。宗教上の制限もない。ウェイン、君の容姿は人目を引く。男は美しいものに弱い。部族長に限らず外に出る時は私から離れないように」
「……はい……」
 ウェインは半分理解できて、半分できなかった。

 カリムが門を叩くと口髭を生やした屈強そうな男が出てきた。
 カリムが名乗ると男は中に入れてくれた。
 男に銃器や携行品を預け、カリムとウェインは居間で立って待つ。
 外観と同じくらい中も豪奢だ。大理石の床に色彩豊かな調度品が置かれ、ガラスのテーブルに革張りのソファ、驚いたことにエアコンがついていた。この辺りは毎日四時間以上停電するとか。自家発電機を備えているのだろう。
 屋敷の主人である部族長が現れる。口髭と顎髭を胸まで蓄えた老人だ。節くれだった手に杖をつき、褐色の肌、皺だらけの顔に笑みを湛えていたがウェインに注がれた目は笑っていなかった。
 部族長はカリムと握手を交わす。
「彼女はウェイン・ボルダーです。是非、あなたに会っていただきたく連れて参りました」
 カリムはウェインを紹介した。
 部族長は笑みを浮かべたまま、視線をウェインから離さない。
「ほお、外国の方に見えるがの。じじいに会わせてどうするのか。わしはお前さんたちに情報を提供できぬし、するつもりもない。奴らの報復が恐ろしいでの」
「実はウェインは私の妻でも親族でもありません。あなたにどうしても会ってほしくて嘘をつきました。お許しください。今日は私ではなく、ウェイン・ボルダー、彼女の話を聞いてやってください」
 部族長は皺だらけの顔を更に皺くちゃにし笑った。顎髭が揺れ、黄ばんだ歯が見える。
「わしは老いてはおるが偏屈ではない。誰であろうと『話がしたい』というなら聞くぐらいはしよう。時間は有り余っておるでな」
 部族長はにたりと笑い、ソファに腰かけるようカリムに勧めた。カリムに促され、ウェインも腰かける。
「ウェイン、話せ」
「ウェイン・ボルダーです。ムスリム革命団に誘拐され、身代金を要求されているリー・イーシンの友人です。ミスター・カリムに無理を承知で部族長との面会をお願いしました。ムスリム革命団の指導者と話がしたい、その仲介を部族長にお願いしたいのです」
 部族長の笑いを含んだ表情がぴたりと止まる。
「命乞いでもするつもりかの。あの男は甘くないぞ。女子どもであろうと逆らう者は容赦せぬ。金があれば別じゃがの」
「無償で人質を解放してもらえるとは思っていません。身代金を工面するにもしばし時間をいただきたいのです。直接会って交渉したいのです」
 部族長は瞼が垂れ下がった細い目でウェインをじっと見る。
「もしや、暗殺でも企てておるのかの」
「違います」
 ウェインはきっぱりと否定した。
 部族長は底光りする目でウェインを見据える。
「わしはの、お前さんたち欧米人を信用しておらん。特にアメリカはの。あ奴らがこの国にどれだけの損失を与えたか、どれほどの混乱をもたらしたか、身をもって知っておる。わしの娘もひ孫も死んだ。殺したのはスンニ派の武装組織じゃが、しかし、あの戦争がなければ起こらなかったとわしは思うておる」
 イラク戦争のことだ。ウェインは目を伏せた。
「あ奴らは『自由だ』、『民主主義だ』と放言し、当然のように爆弾を落としていきおった。女子どもを殺し、わしらの国を瓦礫の山にし、不和の種を撒いた。いまだ、謝罪も賠償もしておらん。アメリカは正義の面を被った破壊者よ。あ奴らの傲慢さがISを生んだのよ」
 ウェインは頷くことも否定することもできなかった。
「ムスリム革命団の指導者に会いたいと言うたな。あの男は少なくとも住民をむやみに殺したりはしなかった。むしろ、この村を立て直そうとしてくれた。敵を惨殺する部分はむごいと思う。じゃがの、欧米人よりもあの男の方が信頼できるよ」
 部族長はそこまで言うと、しゃべり疲れたとでもいうように肩で大きく息をした。
「わしはの、あの男を恐れているが尊敬もしておる。誰もが望む平和と安定をこの村にもたらしてくれたのじゃから。我々が欲して止まなかったものをあの男が与えてくれたのじゃ。これもアッラーのお導きじゃと思うとる。そなたにあの男を会わせるわけにはいかん。帰られよ」
 そこまで言って部族長は杖で床を突き、腰を上げる。
 お茶を持ってきた少年を「いらん。客人はもう帰る」と叱咤する。
 少年はガチャンと音をさせ、慌てた様子で茶器が載ったトレイを抱え引き返していった。
 部族長はカリムとウェインを冷ややかに見下ろす。
「何を企んでおるのかは知らんが、わしのおらんところでやってくれ。裏切り者と思われたらわしだけでなく一族が危ないでの。あんたの友人には気の毒じゃがこうなったのも運命、神のご意思じゃ。諦めなされ」
「部族長っ」
 ウェインは顔を上げた。
「ムスリム革命団の指導者は、年は三十六、身長百八十センチを超える長身、茶色の髪と明るい茶色の目、アメリカ訛りの英語を話す外国人ではありませんか」
 部族長が雷に打たれたように立ち尽くす。垂れ下がった瞼を大きく引き上げウェインを食い入るように見る。髭に埋もれた口をぎこちなく開け、しゃがれた声を出した。
「……わしの部下が、口走りおったかの……」
 ウェインは声を張り上げる。
「私の知っている人かもしれないのです。どうしても会って話がしたいのです。『ウェイン・ボルダーが会いたがっている』と伝えて下さい。もし同一人物なら連絡が来るはずです」
 部族長はソファに尻もちをつき、呆けたようにウェインを見る。
「……よかろう。あの男に連絡を取ってみよう。ウェイン・ボルダーといったの。お主の写真を撮らせてもらうぞ」
 ウェインは部族長を見つめ、大きく頷いた。
「お願いします」

 屋敷から出て車を動かすなり、カリムはウェインを問い詰めた。
「ムスリム革命団の指導者を知っているとなぜ黙っていた」
「確証はありません。今も同じ人物であるかどうか自信がない」
「その人物は何者だ。なぜその人物がこの事件の主犯と思った」
 ウェインは記憶の糸を辿る。
「声です。声が、聞こえたんです。一瞬でしたが、テレビから流れた声があの人の声にそっくりだった」
 カリムは当惑した表情を浮かべる。
 無理はない、声だけで人物を特定したなどと誰が信じる。
「……その人物の名は」
「ダリウス・カーター。私のかつての親友、ジュディス・カーターの兄です。きっと今は偽名を使っているはずです」
 カリムはハンドルを握ったまま更に問い詰める。
「会ってどうする。向こうが君を見て改心するとは思えない」
 ウェインは躊躇いがちに言った。
「……まだ、同一人物である確信はありません。なぜなら……」
「なんだ」
「なぜなら、彼は『神は存在しない』と言っていた。イスラム原理主義者になるとは信じられない」
 カリムはハンドルを切り路上に車を停め、まくしたてた。
「ムスリムにイスラム原理主義者などという者は存在しない。それはアメリカが勝手に造った言葉だ。ムスリムに対する侮辱を意味する。テロリストはイスラム教徒ではない。奴らはムスリムを騙る悪魔だ。我々ムスリムは家族を大切にし、平和を愛する」
 ウェインは謝らなかった。俯き、膝に置いた手を固く握る。
「……平和を愛するなら、なぜ、戦いをやめないのですか」
 聞いてはいけないと、頭では理解していた。しかし、戦場はいつもムスリムが多数を占める中東地域だった。ムスリム革命団がイスラム教徒でないとしても、他の者は、他の国はどうして闘い続けるのか。なぜ戦争をやめようとしないのか。……今まで、アメリカがどれほどの犠牲を払ってきたか。
 イラクを独裁者から救うために、イラクに自由をもたらすためにと信じ、戦った。仲間も、ジュディもそのために死んだ。それなのに、部族長は「アメリカは正義の面を被った破壊者」と決めつけ、「あの男を尊敬している、会わせるわけにはいかない」と武装組織の指導者をかばった。
 ならば、仲間の死は、ジュディの死はなんだったのか。自分はなんのために戦い続けたのか。部族長の言葉が胸にくすぶっていた。
 カリムは語気荒く言った。
「イラク戦争はアメリカが始めた。『大量破壊兵器を持っている』と言いがかりをつけ無数の爆弾を落としたんだ。湾岸戦争後十数年続いた経済制裁で百五十万人以上の餓死者を出していた国にだ。あのイラク戦争で子どもが、女性が、罪のないイラク国民が何人死んだと思っている。十九万人だ。経済制裁も含めればフセイン一人を倒すために百六十九万もの人間を殺したんだ、アメリカは。今でも不発弾で子どもたちが犠牲になっている。劣化ウラン弾で癌が増えた、奇形も生まれている。お前たちにとっては過去でもイラク国民にとってはいまだ続く現実だ」
 刃物で鳩尾を抉られた気がした。心臓が強く収縮する。
 イラクに戦争をしかけ戦ったのは紛れもなく自分たち、アメリカ軍だった。イラクのためにと信じ……。
 カリムはハンドルを握り、フロントガラスの向こうを睨みつけていた。
 カリムの前には凄惨な光景が広がっているのかもしれない。
「私は、ムスリムは、家族を、祖国を、力弱き者を守るために戦う。殺すためではない、守るために戦うのだ。戦いとはそういうものだ」
 同じセリフをかつての自分は口にしていた、何度も、何度も。
 ウェインは俯き、膝の上で組んだ指をこすり合わせる。指先がやけに冷たい。
「部族長の意見は正しい。アメリカがイラクを破壊した。アメリカが戦争を起こすまでスンニ派もシーア派も共に暮らしていた。内戦や紛争もなかった。アメリカ統治下で行った選挙も憲法改正も宗派対立を鮮明にさせるものだった。アメリカがイラク国民を憎み合わせ、土地を荒らし、国の主権を侵した。政治は腐敗し、軍は武装勢力の寄せ集め、経済は外国企業に食い潰された。政治家、軍人、医師、教師、看護師……、イラクを再興できる優秀な人材はアメリカとマリキ政権が追放した。
 ISが生まれたのはアメリカのせいだ。アメリカだけじゃない。西洋の奴らは我々アラブ人の土地を侵略し細切れにした。イラク、クエート、シリア、トルコ、サウジアラビア、パレスチナ、ヨルダン、レバノン……、全て一つの帝国だった。それを西洋の奴らは勝手に分けあい、支配しやすいように同じ民族同士で対立させた。挙句の果て、パレスチナをイスラエルに分け与えたのだ。あそこには聖地エルサレムがある。アラブ人として、ムスリムとして、到底容認できない。ISがイラク第二の都市モスルを占拠し、『西洋文明の破壊とカリフ制国家の創設』を宣言した時、歓声を上げたのは私だけではない」
 車内が重苦しい緊張感に包まれる。
 カリムは大きく咳ばらいをした。
「声を荒げてすまなかった。ISに惹かれる原因は欧米にある、と言いたかった。もちろんISのやり方は憎んでしかるべきだ。真のムスリムなら忌み嫌う。ウェイン、ムスリムを誤解しないでほしい。我々は戦争を望んでいない。平和と安定を欲しているのだ」
 ウェインはぽつりと打ち明けた。
「……私は、あなた方イラク国民が嫌うアメリカ軍に従軍していました。……イラクに派遣もされていた……」
 素性を隠したまま協力してもらうことはできなかった。カリムを騙すことになる。
 カリムは静かに言った。
「アッラーが私とウェインを引き合わせられたのは決して憎み合わせるためではない。アッラーは慈悲深いお方だ。私はウェインを信じる」
 なじられて当然と思っていたから、カリムの言葉は嬉しかった。刺さった棘が溶け、痛みが和らいでいく。
「……私も、カリムを信じます」
 カリムは安心したように吐息を漏らし、シートに深く腰かける。
「話を戻そう。ミーアから聞いた話だが、『ムスリム革命団が来る前はフセイン政権の復活をもくろむスンニ派の残党と隣国イランの息がかかったシーア派民兵組織が戦っていた』そうだ。シーア派民兵組織は弱体化したイラク政府軍に代わりシーア派住民が多い南部の治安を守っていた。イラク政権の中枢にも深く関わっている。そのシーア派民兵組織が、自分たちの仲間を殺し、片田舎とはいえ、自分たちが守る南部地域を支配したムスリム革命団になぜ報復しないのか。
 今回の訓練場襲撃事件にしてもそうだ。ムスリム革命団の仕業だと分かっているのに容疑者の一人である部族長を野放しにしている。なぜだと思う」
 ウェインはカリムの横顔を見る。
「……イラク政府と軍はムスリム革命団に手を出せない理由がある、ということですか」
「そうだ」
 カリムは強く頷いた。
「しかし、やはり疑問が残る。通常は国外で兵士を養成し紛争地へ派遣するものだ。なぜ訓練場を内戦状態のイラク国内に、それもムスリム革命団の支配地域に造ったか。手が出せないならなぜ挑発したのか……」
 カリムは顎髭をさする。
「『ムスリム革命団が地域一帯を支配している間は大きな戦闘も、破壊行動もなかった』と聞く。住民を処刑することも、女を売り買いすることもなかったそうだ。理想の国を創るISともテロを呼びかけるアルカイダとも異なる。戦闘力の高さからしてどこかの残党とも考えにくい。スンニ派やシーア派とも違う。ムスリム革命団は全く別の目的で動いているのかもしれない。もしそうだとしたら行動が読めないぶん、手強い相手になる」
 不吉な予言のようだった。
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