第12話

文字数 10,654文字

 翌日の夕方、バスラに到着した。
 アーロンに連絡をするも再三場所を変更され、途中シルバーの車に乗り換えるよう指示された。最終目的地に着いた頃にはイーシンはへとへとで、マルクは怒っていた。
 イーシンが二階建て民家のドアを叩くと中へ引っ張り込まれた。
「あちこち場所を変えて悪かったな。俺も狙われているんだ」
 アーロンは閉めきったカーテンの隙間から外を窺う。室内には髭をたくわえた男が二人いた。
「久しぶりだな、イーシン」
 アーロンは握手を求め、簡単に自己紹介をすます。二人はイラク人で、アーロンが雇った護衛だという。
 アーロンに直接会うのは何年ぶりだろう。金髪碧眼、中肉中背のアメリカ人で、日焼けし、しわや白髪が増えているものの精力的に動いているらしく精悍な顔つきだ。
「俺の部屋で話をしよう」
 アーロンは通訳と護衛を残し二階へ上がる。
 壁三分の一を占める本棚が部屋を圧迫し、床にも段ボール箱が所狭しと積まれている。小さなテーブルにパソコンが三台、ソファの背もたれには毛布が一枚かけられている。寝起きは二の次、仕事重視といった感じだ。
「適当に座ってくれ」
 アーロンは本棚から大きなファイルを数冊引っ張り出し、テーブルに積み上げる。
「あの、私、仕事を頼みたくてきたんだけど……」
「サイードのことだろ。俺も調べていた」
 アーロンはファイルをばらばらと開く。
 ファイルにはサイードに関する情報が詳細に綴られていた。
「え、どうしたの、これ。なんであなたがサイードを調べているの」
「厳密にいえば最初はサイードではなく、サイードが所属していた武装組織を調べていた」
「ムスリム革命団を」
「それはサイードが率いる組織だ。サイードはムスリム革命団の指導者になる前にISへ忠誠を誓う過激派組織 聖戦士団 に所属していた。サイードは情報部門の長として中東にある武装組織の動向の他、欧米諸国の軍事と政治を調べていたんだ。聖戦士団のトップが空爆で死亡し組織が分裂しかけた時、サイードは一部の残党を率いてムスリム革命団を立ちあげた」
 イーシンは呆気にとられた。ウェインは真剣な表情で聞き、マルクは腕を組みふんぞり返る。
 アーロンはとうとうと話し続ける。
「聖戦士団のトップは居宅ごと無人機で爆撃された。直前までサイードは同じ部屋にいた。サイードは爆撃されるのを知っていてトップをそこに引き留めたと、俺は睨んでいる」
「アメリカ軍と通じて自分のトップを始末したってこと」
 アメリカはイラク戦争で四五〇〇人の自国兵士を犠牲にした反省から、陸軍部隊の派遣を停止し、無人機(ドローン)による『標的殺害』へ方針転換している。
 無人機による『対テロ戦争』はISが支配するイラクとシリアの他、パキスタン北部、アフガニスタン、イエメン、ソマリア……と広範囲に渡る。無人機による空爆はテロリストの殺害より市民の犠牲がはるかに大きく、すこぶる評判が悪い。
「俺も最初はそう思っていた。が、サイードのことを調べるうちそれは間違いだと気づいた。爆撃はサイード単独の犯行だ。サイードは組織に無断でサウジアラビアの富裕層から多額の出資を受け、無人機を購入している。爆撃に使われたのはその一部とみている」
 アーロンは上気した顔でファイルを広げる。
 ファイルには出資者とサイードがやり取りしたと思われるメールの文面や音声記録、無人機を購入した記録が記載されていた。
「これだけの情報、あなたいつからサイードのことを調べていたの」
 アーロンはあっけらかんと答えた。
「イーシンが俺に仕事を依頼してきたことがあったろう。俺は忙しいと断ったのに『日本とアメリカに関わる重要な仕事だ』なんだと言って。俺はサイードを調べている最中だったんだ」
 イーシンはぎっくううとした。アーロンにウェインの個人調査を頼んだ時だ。
 言わないで、とイーシンは目をひん剥いてアーロンをけん制したが、アーロンはファイルに視線を落とし気づいていない。ウェインもファイルを覗き込んでいた。
 マルクは、ははーん、分かったぞ、とでもいうように、にやりと笑った。
 イーシンは気を取り直し、話を戻した。
「トップを殺したいなら空爆するより時限爆弾をしかけた方が簡単じゃない。なぜそうしなかったのかしら」
 アーロンはファイルをめくりながら真剣な表情で断言する。
「俺は、サイードの目的は別にあって、トップの爆撃はその目的を遂行するための実験だと思っている。実験が上手くいったから無人機を追加で大量購入したんだ」
「別の目的って」
「それを知る手がかりが欲しくてイーシンと、ウェイン、特に君と話がしたかった。ウェイン、君はサイードを知っている。話もしただろう」
 アーロンは初めてウェインを直視する。ウェインははっとした様子でアーロンを見つめ返す。
「やっぱり。あんた、私が誘拐されたこと知っていたでしょう」
 イーシンは前のめりで抗議した。アーロンはイーシンを見もせずウェインを促す。
「テレビに映っていたからな。助かってよかったな。それよりウェインの話が聞きたい」
「ちょっと、それだけっ」
 ウェインは意を決したように静かに頷く。
「サイードは、『世界が割れる瞬間を見たい』、『信仰の先にあるものを知りたい』と言っていました。『神という言い訳をなくした時、人はどうなるのかを知りたい』と」
「……他に、何か言っていたかな」
「私がサイードに銃を向けた時、『私を殺しても何も変わらない。全ては私の手を離れ動き出している』と……」
 室内が静寂に包まれる。
 イーシンはソファに座り直す。
 ――……話が大きくなってきたわね……。
 もう三人でどうにかできる問題ではなさそうだ。誰かに丸投げして早々に退散した方がいい。それにしてもずいぶんと詳しく調べたものだ。
「メールとか音声記録とかどうやって手に入れたの」
「向こうもハッキングのプロだ。サイード本人のパソコンに侵入したらばれると思ってな。出資者の家族や武器商人のパソコンから収集した。今はテレビも電話も家電もインターネットで繋がっているからな。やりやすくなったよ」
「ハッキングの腕は超一流ね」
 イーシンは感嘆の声を漏らした。
 アーロンは首に手をやり、照れたように笑った。
「実は、パソコンにウィルスを送り込まれて全データが消去したことがあって。さすがに真っ青になったよ。パソコンを全て壊し着の身着のままで逃げた。それからは場所を転々と変え、必ず護衛を二人雇っている」
 イーシンは、はっとした。自分が出した結論をまさかと否定し、しかし間違いないと確信する。ガタッと立ち上がり、アーロンに指を突きつける。
「アーロン、『ネズミ』ってあなたじゃないの。カリムはあなたと勘違いされてサイードに殺されたんじゃないの」
 アーロンはきょとんとしている。ウェインは驚愕の表情でアーロンを見つめ、マルクは口を半開きにしていた。

 アーロンはカリムとミーアが殺された経緯を聞き、「うーん、どうかな」と笑ってごまかす。それでおしまいだった。
 アーロンは平然と話を戻す。
「サイードはその他大勢のテロリストとは違う、必ずでかいことをやらかす。サイードは俺のライフワークだ。イーシンから受けた仕事の依頼がサイードに繋がった瞬間は鳥肌が立った」
 イーシンの鋭い視線を感じてか、アーロンは咳払いをした。
「……ともかく、サイードがたどった足跡を一つ一つ検証していけば奴が何を企んでいるか分かる。イーシンとウェイン、……あとマルク、君たちがいればサイードを追いつめることができる」
 熱く語るアーロンにイーシンはようやく思い出した。
 アーロンの情報収集力と分析力は超一流だ、それは認める。しかし、己の関心事以外は驚くほど冷淡になれる男だった。
 例えば、目の前で殺人が起きても警察を呼ばずシャッターを切り続け、撮った写真の出来映えに頭がいっぱいで見殺しにしたことさえ忘れその場を立ち去る。それがアーロン・スタイナーだった。
 今も、サイードが自分たちを誘拐しカリムとミーアを殺したことはどうでもよく、ウェインの話しか興味がないのだろう。以前ウェインの個人調査を頼んだことも、アーロンにとっては意欲をかきたてるものだったにちがいない。
 アーロンはサイードの陰謀を暴くことに全精力を傾けている。
 サイードが動けば動くほど高揚し、サイードの計画がとんでもないものなら小躍りするだろう。地球が滅亡してもそれがサイードの仕業なら狂喜乱舞すること間違いなしだ。
 熱弁とファイルの厚さがサイードに対する異常なまでの執着を感じさせた。
 アーロンは嬉々として話す。
「特定の人物を暗殺するのに無人機は効率が悪い。視認する者と爆撃のスイッチを押す者が必要だし、誤爆の可能性も高い。サイードは無人機で建築物のような動かないものを爆撃するつもりじゃないかな。問題は場所だ。ウェインが教えてくれた『信仰』と『神』、それがキーワードだ」
 一呼吸置き、アーロンは続けた。
「信仰と神に繋がる場所。もしかしたらサイードは『聖地』を爆撃するつもりじゃないか。それも一か所ではなく複数、もしくは広範囲に渡って。でなければ大量の無人機を購入する必要がない」
 どうだ、といわんばかりにアーロンは熱っぽくイーシン、ウェイン、マルク、一人一人を見回す。
「聖地はいっぱいあるわ。アーロンお得意の分析力で突きとめたら」
 イーシンは皮肉のつもりだったがアーロンには通じなかった。
「もちろん俺も調べる。イーシン達にも考えてもらいたいんだ。どこか候補はないか」
 アーロンは熱っぽく詰め寄る。
 マルクが口を開く。
「イラク中南部にあるナジャフなんてどうだ。あそこはシーア派の聖地だろ」
 アーロンは腕を組む。
「ナジャフか。預言者ムハンマドの後継者、四代目アリーの聖廟だな。広大ではあるが、シーア派の墓地を爆撃するために無人機を購入するかな」
 アーロンは懐疑的だ。
「サウジアラビアにあるイスラム教の聖地メッカはどうかしら」
 イーシンは気乗りしないが言ってみる。アーロンは首を振った。
「難しいな。出資者はサウジアラビア人だ。自国を攻撃する者を支援するとは思えない。それにサウジアラビアは聖地への観光客を受け入れていない。聖地上空も飛行禁止だ。アメリカ軍駐留基地もある。無人機を飛ばせばすぐに撃墜されるだろう。……もっと近づきやすく、宗教、宗派に関係なくできるだけ多くの信者に打撃を与えられるような場所はないかな」
 アーロンはファイルをイーシンに押しつける。
 イーシンは、勝手ね、と思いながらもファイルをめくる。
「エルサレムはどう。あそこはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地があるし、観光客も受け入れているわ」
 水を打ったように静まり返る。
「え、なに、変なこと言った」
 アーロンが叫ぶ。
「それだっ。エルサレムだっ。間違いないっ」
 アーロンがテーブル越しにイーシンに抱きつく。
「でかしたっ。イーシン、君はグレートだっ」
 イーシンはアーロンを押しのけた。
「推測よ。決まったわけじゃないわ」
「いや、そこしかない。そこだ、間違いない」
 アーロンは上気した顔で断言した。
「冷静になって考えて。サイードの部下たちはムスリムでしょう。聖地を攻撃する計画に加わるとは思えない」
「うっ」
 アーロンは短く呻き、空気が抜けたゴムボールのようにへなへなと座り込んだ。
「……確かに。テロリストが異教徒の聖地や銅像を破壊することはあっても自分たちの聖地を爆破することはなかった。一九七九年にイスラム教の聖地メッカにあるカーバ神殿が占拠された事件も、テロリストたちは人質を取って神殿に立てこもりプロパガンダを叫びはしたが神殿は破壊しなかった。最終的にテロリストたちは全員射殺か拘束されている」
 アーロンはエルサレム襲撃説を捨てきれないようだ。
「サイードは一人で計画を実行するつもりじゃないかな。だから無人機を大量に購入したんだ。爆撃の日時と標的の位置情報をあらかじめプログラムしておけば無人機は自動的に爆撃を開始する。『最新技術』を使えば可能だ」
「推測の域を出ないわね。単独で行動するつもりなら初めから一人で動くでしょう。三年以上かけて武装集団を率いる理由がないわ」
 アーロンは項垂れた。
「サイードは、『神も、誰も信じない』と言っていた。おそらく一人でも行動すると思う」
 ウェインが静かに話す。
「そらみろ、俺の読み通りだ」
 アーロンの目がきらりと光る。
「どちらにしても私たちの手には負えないわ。イラク政府なりアメリカ軍なりに報告して任せた方がいい。信じてもらえるとは思えないけれど」
「伝えはする。が、イーシンにも手伝ってほしい。イーシンだってサイードの計画を止めたいだろ」
 血気に逸るアーロンをイーシンは冷ややかに観察する。ずばり、聞いた。
「アーロン、あなた何か隠しているでしょう」
「なっ、なんだ、唐突に。隠し事なんてあるか。こうやってファイルを見せているだろう。俺が三年の歳月をかけて調べた膨大な資料を」
 アーロンの慌てぶりに疑いは確信に変わる。イーシンはファイルを一冊、一冊、テーブルに重ねる。
「そうね。サイードの目をかいくぐりながらこれだけの資料を集めるのは並大抵の苦労じゃなかったでしょうね。護衛二人を雇い、一軒家を借り、敵の目をくらますため車を用意する。場所を変える度にそうしてきたんじゃない。そのお金はどうやって捻出しているの。三年間一度もこの貴重な資料を記事にしていないんでしょう。訓練場が襲撃され、私とマルクが誘拐された時でもサイードの情報を公表しなかったくらいだものね。……スポンサーがいるんでしょう。記事を書かないフリージャーナリストに出資してくれる特異な金持ちが。そしてその人物もサイードの情報を欲しがっている。……違う」
 イーシンはアーロンをちらりと見る。アーロンが青ざめる。
「スポンサーなんていない。俺の貯金を切り崩してだな。さてはイーシン、誘拐された時に助けてくれなかったと怒っているな。それは悪かった。謝るよ」
 イーシンは手の平を向け、反論を封じる。
「それだけじゃない。さっきまでサイードへの想いを熱く語っていたあなたがサイードの情報をイラク政府やアメリカ軍に伝えようとする」
「それはイーシンが言いだし――」
「アメリカ軍にサイードの存在が知られればサイードは殺される。普通ならね。アーロン、あなたはアメリカに情報が伝わってもサイードに危害は及ばないと確信しているのよね。それはなぜかしら」
 アーロンの反論がぱたりと止む。イーシンは一番上のファイルを一枚、一枚めくる。
「従来の無人機は標的を視認する者と発火ボタンを押す者がいる。サイードが単独でも無人機攻撃をすると言いきる根拠は、なに。無人機が自動で標的を攻撃する『最新技術』をサイードが持っている確証はあるの」
 アーロンはしどろもどろで弁解する。
「俺はいろんな情報を入手している。なかには単独攻撃をにおわす情報も交じっているんだ」
「あるのね。どうしてファイルにはないの。わざと外したの」
「イーシン、信じてくれ。隠すつもりはない。騙すつもりもない。ただ協力者の承諾がないと詳しいことは明かせない。いずれ話す、必ず話す。信じてくれ」
 唾を飛ばし弁解するアーロンに協力者が誰なのか分かった気がした。
「教えてくれなくて結構よ。私は関わるつもりないもの。その協力者と一緒にサイードの陰謀を突き止めればいいわ」
「イーシンにも手伝ってほしいんだ」
 アーロンはしつこく食い下がる。イーシンはにっこり笑った。
「大丈夫よ。あなたの熱意とこの分厚いファイルがあればアメリカ大統領でも動かせるわ」
 アーロンはぐっと喉を鳴らし、口をつぐんだ。
「さあ、もう疲れたわ。今日は泊めていただけるんでしょう」
 アーロンは恨みがましくごねる。
「エルサレムはイスラエルとパレスチナが長年領有権を巡り争っている。ユダヤ教徒とイスラム教徒の宗教対立の根幹でもあるんだ。エルサレムが破壊されたら世界規模の戦争が起こりかねない。サイードの思惑通り、世界が割れてしまう。イーシンはそれでいいのか」
 イーシンはすました顔で答えた。
「私は無宗教なの。エルサレムがどうなろうと、世界が割れようと痛くも痒くもないわ」
 アーロンは上目遣いでイーシンをじとーっと見、やがてがっくりと肩を落とした。

「シャワーとトイレは共同、部屋は全部で四室ある。俺はもう少し情報を整理したいからここは使わせてもらう。隣の部屋は護衛二人で使い、後の二部屋を三人で融通しあってくれ。普通に考えて一室はウェイン、イーシンとマルクが同室だな」
 イーシンは控えめに手をあげた。
「私が一室ではだめかしら」
 マルクがぐわっと太い眉を引き上げ目を剥く。
「ああっ、寝ぼけんな。一人で広々使うつもりか。……んっ、待てよ、イーシンが一室ってことは、俺とウェインが同じ部屋か……」
 でれっと眉尻と目尻が下がり、だらしなく口が開く。口の端が涎で光る。
「あなた、思っていること全部顔と口に出ているわよ」
 マルクは慌てて口元を拭った。
「イーシン、私と一緒に使おう」
 全員がウェインに注目する。
「えっ、わたし」
 イーシンは自分を指さし、マルクとアーロンを順に見る。聞き間違いではなさそうだ、アーロンは目をぱちくりし、マルクはぽかんとしている。
 ウェインは一礼をし、部屋を出て行く。
 マルクの顔がみるみる赤くなっていく。
 イーシンはそそくさと立ち上がり、逃げるように部屋を出る。イーシンがドアを閉めた直後、
「ふざけんな。ぶっ殺す」
 壁が揺れるほどの雄叫びがした。

 イーシンは濡れた髪をタオルで包み、ほくほく顔で部屋に戻った。
「あーん、気持ちよかったわあ。水しか出ないって聞かされた時はどうしようかと思った。お湯を沸かしてくれてありがとう、ウェイン」
 気温四十五度を超える日中ならば水のシャワーで充分だが、十五度以下まで下がる夜に水を浴びるなど苦行以外の何物でもない。
 濡らしたタオルで身体を拭くだけにしようと諦めていたら、ウェインがガスでお湯を沸かしてくれた。
「これで入ってこい」
 バケツ一杯のお湯を持たせてくれた時は嬉しさより驚きの方が勝った。
 イーシンはソファで髪を拭きながら、思いつくまま感謝の言葉を口にする。
「ウェインのこと誤解してたみたい。私って人を見る目がないのね。私が男なら絶対あなたをパートナーに選ぶわ」
 ウェインは無言でティーカップを置く。湯気が立ち昇り、芳しいお茶の香りが鼻をくすぐる。
 琥珀色のお茶を見つめているとお腹の辺りが温かくなり、胸がじーんとした。
 ――……なに、この感情……。
 嬉しいのに泣きたいような、心が洗われるようで後ろめたいような……。
「飲まないのか」
 ウェインはつっけんどんに聞く。
「……待って。今、私、あなたに新たな感情が芽生えている気がする。……なんなの、これ。恋、ではないわね。なんていうか、そう。家出していた不良息子が品行方正な孝行息子になって帰ってきた母親の気分……」
「いらないなら下げる」
 ウェインは乱暴にカップをつかむ。
「あ、いるいる。飲むわ」
 お茶はぬるめで飲みやすかった。本当は冷たい水がほしいけれど砂漠地帯では飲み水はガソリン代より高く、衛生面を考えミネラルウォーターと決まっている。夜が更けた今、ほとんどの店は閉まっているし外出するのは危険だ。
 イーシンはお茶を堪能した。
「うーん、おいしい。ほっとするぅ」
 ウェインはベッドに腰かけ黙り込む。
 イーシンはお茶を楽しみながら聞いた。
「私に話があるんじゃないの」
 返事はない。
 日本でいた頃、ことあるごとに反発しあった。それでも訓練の進捗状況や懸案事項について二人で話し合っていた。再会して以来、二人になる機会はなかった。話がしたくて同室を申し出たのではないかと思っていた。
 ウェインは重い口を開いた。
「私は明朝ここを発つ。サイードがいつ動くか分からない。サイードの近くにいて、サイードの動向を探る」
「アーロンがイラク政府かアメリカ軍に伝えるって言ってたじゃない。任せておけばいいのよ」
「できない」
 ウェインはきっぱりと言った。
「イーシンとマルクは可能な限り早くイラクを出国してくれ。何も起こらないと判断すれば私もアメリカへ帰る」
 イーシンは飲み終わったカップを置いた。
「ロバートから私と一緒に帰ってくるように言われているんでしょう。だったら」
 ウェインは最後まで言わせず謝罪した。
「イーシン、すまない。私のせいで危険なことに巻き込んでしまった」
 ウェインが頭を下げる。イーシンは返答に詰まった。
「逆でしょう。ウェインは私を助けに来てくれたんだから……」
 いまだに信じきれず、語尾が小さくなる。
 ウェインは組んだ両手を握りしめ、頭を深く下げる。懺悔しているように見えた。
「私はアースを辞める時、『誰かの命令で動くのではなく、自分の意思で行動する』と決めた。イーシンを助けに行ったのも、サイードに会ったのも私の意志だ。だが、そのせいでカリムとミーアを死なせてしまった。……私は、……罪を背負う覚悟まで、できていなかった……」
「二人が死んだのはあなたのせいじゃないでしょう。何もかもを一人で背負い込むのは止めなさい。私はカリムとミーアさんのことはアーロンにも責任があると思っている」
 ウェインは自分のせいだと思い込んでいるのか、微動だにしない。イーシンは確信していた。
 パソコンをハッキングして情報を収集するアーロンと違い、カリムは周辺住民から聞き取りを行っていたのだろう。
 サイードもパソコンに侵入したネズミ(アーロン)とカリムは別人と思っていたからカリムが部族長と接触しても手を出さなかった。けれど、カリムはウェインを連れて部族長を訪れた。
 サイードはカリムが己の過去を調べ出し、ウェインを呼び寄せたと思ったのかもしれない。
 サイードの中でネズミ(アーロン)とカリムが一致した。もしくはネズミ(アーロン)とカリムが結託し、ウェインを使って自分をおびきだそうとしていると考えた。だからカリムは殺された。
 アーロンはカリムの存在を知っていた。ライフワークとまで言い切ったサイードにつきまとうカリムをアーロンが知らなかったはずがない。あわよくばサイードの目をごまかせるかもしれないと、わざとカリムを泳がせていたのかもしれない。
 確証はない。推測が正しいとしてもウェインも間接的にカリムの死を招いたことになる。
 だからイーシンは「アーロンにも責任がある」としか言えなかった。
「……サイードの妹、ジュディス・カーターが自殺したのは私のせいだ。私がPTSDを患っていたジュディを追いつめた。ジュディの死が原因でサイードがテロリストになったのなら私がサイードを止めなければならない、そう思っていた。……サイードの声が聞こえたのも、ジュディがそう望んだからだと。……けれど……」
 ウェインは組んだ両手を強く握る。
「……昔の彼はどこにもいない。サイードは変わってしまった」
 ジュディス・カーターの自殺はウェインの個人調査書に書いてあった。自殺理由や兄であるサイードの存在は記されていなかった。
 アーロンが自分の仕事に支障をきたさないよう、敢えてサイードに関する記述を削ったのだろう。
「サイードとは話をしたんでしょう。あなたの気持ちも伝えたんでしょう。それで充分よ。あなたの友人は残される者の苦しみより自分が楽になる道を選んだ。サイードは妹の死を目の当たりにしながら殺される者の苦しみを考えず暴力に走った。どれもあなたではどうしようもないのよ。人間は自分の思うようにしか生きられないの。あなたがどう頑張っても変わらないこともあるのよ」
 ウェインの頬が濡れている。
 イーシンは、傷つけるのを承知で言った、――ウェインの甘い夢想を断ち切るために。
「あなたはサイードを殺せるチャンスがあったのに撃てなかった。あなたにサイードは撃てない、止める力はないと証明されたのよ。戦闘に二度目、三度目はないのよ。それは戦場を知るあなたが一番よく知っているでしょう」
 ウェインは深く項垂れる。組んだ両手が震えていた。
「アメリカに帰ったらここでのことは全部忘れなさい。美味しいものを食べて、お洒落をして、好きな人を見つけて……。あなたは自分の幸せを求めなさい」
 ウェインが一般女性の幸福からほど遠い人生を送ってきたことをイーシンは知っている。
 ウェインの組んだ両手に爪がくいこみ、赤く滲んでいた。

 窓の外が白み始める。
 イーシンは荷物を肩にかけ部屋を出ようとするウェインに声をかける。
「車がなくていいの」
 ウェインは振り返らず、小さな声で話す。
「町まで歩いて車を借りる。……すまない……」
「……どうしても行くの」
 ウェインは頷いた。
 イーシンは深いため息をついた。一度言いだしたらきかない性格だ。
 イーシンは起き上がり、「私も行くわ。十分待って」と身支度に取りかかる。
 ウェインが口を出すより早く、「嫌なら行かせない。大声で騒ぎ立てるわよ」と脅した。
 自分を助けに来て死なれたのでは寝覚めが悪い。撃てる保証がないウェイン一人行かせるより、確実に撃てる自分が同行した方が成功率は高くなる。狙撃には自信がある。
 ――……まあ、五年以上の付き合いだしね。
 身支度をすませ、ウェインの先に立ちドアの把手に手をかける。何かがドアを塞いでいる。力で押し開いた。
「いでっ」
 情けない声で大きな障害物が動く。むっくと立ち上がり、でへへと頬を指先で掻く、――マルクだった。
「俺も行く」
 ウェインは驚いたようだがイーシンは驚かなかった。
 昨夜、シャワーを終え部屋のドアを閉めた時、ドアの向こうでがさごそとゴキブリが這うような音がした。邪推したマルクが探りに来ているに違いないと、ほっといた。すぐに音がしなくなったのでいなくなったと思っていたら会話をずっと聞いていたらしい。
 冷ややかに見上げたが、マルクは大きな荷物を背負っている。つっぱねてもついてきそうだ。
 ウェインも察したのか困惑の表情を浮かべている。静かについてきて、とイーシンは顎をついと動かした。
 イーシンとウェイン、マルクは出発した。
 東の空は真っ赤に燃え、朝日が昇ろうとしていた。
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