第17話

文字数 8,922文字

 ※

 早朝、イーシンは病院へ一人向かうウェインを見送った。ホテルに戻る。
 マルクは明け方近くまで飲んだくれ、リビングのソファをベッド代わりに大いびきをかいている。
 マルクのいびきが寝室まで響き、昨夜は全然眠れなかった。
 廊下に放り出してやろうかと思ったが、ホテルに迷惑をかけてしまうと思いとどまった。おかげで完全な寝不足だ。
 ――ウェインが戻ってきても寝ていたら置いていってやる。
 携帯が鳴り、手に取る。予想通り、アーロンからだった。
「イーシン、話がついたようだ。今から出てこられるか」
「ええすぐ行くわ。ウェインは出かけているの。マルクは……」
 シャツをめくり、もじゃもじゃの毛が生えた汚い腹をぼりぼり掻くマルクに起こす気が失せる。
「マルクは寝ているから置いていく」
「イーシンがいれば充分だ。昨日と同じ部屋に来てくれ」
 イーシンは携帯を切り、大の字でいびきをかくマルクの脇腹を足先で蹴った。

 イーシンは昨日と同じ部屋を訪ねる。アーロンと髭面のニゲルはいるが、カーニヒがいない。
 出迎えたアーロンがイーシンに耳打ちする。
「ニゲルもカーニヒも大佐だ。失礼がないようにな」
 念を押すように片目をつぶるアーロンに、あんたはどっちの味方よ、と言ってやりたい。
 イーシンはソファに座るなりニゲルに言った。
「結論から話して」
 アーロンはニゲルの隣で、さっき言っただろ、というように顔をしかめ、口をぱくぱく動かす。
 ニゲルはいかつい顔を赤くし鬼の形相だ。
 アーロンがあたふたと間に入る。
「イーシンとウェイン、それとマルクはカーニヒ大佐とエルサレムへ行ってほしいんだ」
「なぜ」
 数瞬、アーロンは黙った。
「……なぜ、とは……」
「私たちは情報を提供した。後はそちらで対処すればいい話でしょう。私たちはいつあの部屋を出ていいかを知りたいの」
 ウェインがせっかく帰る気になっているのだ、気が変わらないうちにイラクを去りたい。
 アーロンが慌てた様子で話す。
「サイードを捕まえた時、本物かどうか判定してほしいんだ。サイードを間近で見たことがあるのはイーシンとマルク、そしてウェインの三人だ。サイードに金を納めていた部族長は村が壊滅状態で行方不明だし、サイードの妻も意識が戻っていない。サイードが潜伏していた家は全焼し有力な手がかりもない。サイードの顔と声を知っているイーシンたちの力が必要なんだ」
 イーシンはアーロンを冷ややかに見た。
「マルクは気絶していてサイードの顔を見ていない。捕まえた人物がサイードかどうか確認したいなら顔写真を撮ってパソコンに送ってくれれば判定できる。それにアーロン、あなたほどの情報収集力があればサイードの顔写真くらい簡単に手に入れられるんじゃないの。……他に、私たちを解放したくない理由があるんでしょう」
 アーロンはまばたきをする。動揺を隠そうとしているのが見え見えだ。イーシンは嘲笑した。
「あなた方の考えていることはこうでしょう。ウェインはサイードの妹と幼なじみで、サイードとも交流があった。カリムとミーアは殺されたにも関わらず、ウェインはサイードとともに姿を消し、無傷で帰ってきた。村が襲撃された時はいち早く駆けつけ、サイードの妻を助けてもいる。
 私とマルクは訓練場のスタッフが皆殺しにされたというのにサイードに捕らえられ、無事に生還した。その後、ウェインと行動を共にし、サイードの妻を助ける協力もしている。
 『この三人は怪しい。解放してはならない。証人としてではなく容疑者としてエルサレムまで連れて来い』というところかしら。……あなたは初めから私たちを疑っていましたものね、ミスター・ニゲル」
 ニゲルは顔を真っ赤にし、口髭をぴくぴく震わせる。
 イーシンは薄く笑った。
「信じる信じないは別にして、テロ計画の情報提供者にはそれなりの敬意を払うものではなくて」
「黙って聞いておれば好き勝手言いおって」
 つかみかからんばかりに詰め寄るニゲルをアーロンが身を挺して止める。
「なぜカーニヒがいないのかしら。その怒り狂った男より話が通じると思うのだけれど」
「イーシン、あおるなよ。カーニヒ大佐は今所用で出かけている。どこに行ったかは俺も知らない」
 ――……ウェインも出かけている。まさか、一緒にいるんじゃないでしょうね。
「カーニヒ大佐は上層部に俺たちが伝えた情報も含め、全てを伝えていた。俺はすぐそばで聞いていたんだ。上層部が出した『三人をエルサレムまで連れて来る』という命令に逆らえないんだ。軍に所属していたイーシンなら分かるだろ」
「……ずっと気になっているんだけど、アーロンはどっちの味方なの」
 アーロンは青くなった。
「お、大人げないこと言うなよ。おかしいぞ、イーシン」
「私たちが疑われているのは百歩譲って理解できるとして、アーロンはずいぶん信用されているようね。それはなぜかしら。私たちの協力が欲しいなら隠しごとはなしにして。私はあなたに知り得る情報全てを伝えたつもりよ」
 アーロンは情けない顔で目をきょろきょろ動かす。
「お前らなんか信用できるか」
「あなたは黙ってて。アーロン、どちらにつくかはっきりして。ニゲルとカーニヒか、それとも私たちか」
 アーロンはぐっと口をつぐむ。
 イーシンはたたみかける。
「無人機で聖地を襲撃する計画があると確信できる理由はなに。『最新技術を使えば可能だ』と言っていたわね。そしてこうも言っていた、『協力者の了解がなければ詳しいことは話せない』。……協力者はアメリカ軍でしょう。無人機の『最新技術』を持つ相手なんてアメリカぐらいしか思いつかないもの」
 アーロンは目を白黒させ、あ、う、と口ごもる。
「サイードはあなたに劣らない優秀なハッカーだそうね。あなたはサイードを調べるうちサイードがアメリカ軍の極秘情報を入手していると知った。あなたはそれをアメリカ軍に知らせ手を組んだ。と私は推測しているんだけど、違う」
 アーロンはテーブルに両手をつき訴える。
「イーシン、信じてくれ。騙すつもりはない。隠すつもりもない。今は言えないんだ。必ず言う。絶対イーシンたちに迷惑はかけない」
 当たらずといえども遠からず、隠すつもりもないらしい。本気で隠し通すつもりならカーニヒに会わせないだろう。
 イーシンは大きな溜息をついた。
「ホテルに待機ではいけないのかしら。巻き添えは食いたくないわ」
 ニゲルが強硬に言い放つ。
「これは命令だ。拘束してでも連れて行く」
 肩を怒らせ恫喝するニゲルに、命令を絶対に遂行する、という強固な意志を感じた。
 軍人はどうしてこうも堅苦しいのか。話しているだけで疲れる。イーシンは肩を回し、首をほぐした。
「イーシン、心配するな。ついて行くだけだ。俺がいる」
 アーロンが調子よく話をまとめようとする。
 アーロンの魂胆はお見通しだ。
 サイードの計画が実行されるかどうか、間近で確かめたいのだ。車で行ったのでは間に合わない。金もかかる。軍用機で行けばひとっとびだ。自分が目にかけた人物がどんなことをやらかしてくれるのか、自分の分析が正しいのかどうかを確かめたくてうずうずしているのだ。周りの人間は二の次なのだろう。
 人として壊れている。
 腹立たしさと同時、可笑しくなってきた。
 イーシンは侮蔑を含み、笑った。
「……いいわ、行くわ。私も『世界が割れる瞬間』を見たくなった」

 ※

 砂煙をあげ、見渡す限りの砂漠をひた走る。
 イーシンとマルクは護送車に乗せられ、軍用機の離陸地点に向かっていた。運転席と後部座席はアクリル板で仕切られ、窓は鉄格子入りだ。護送車の前後を軍用車両が走り、後ろの車両にはニゲルが乗っている。
 ちらりと後ろを窺うとニゲルが助手席で上機嫌にふんぞり返っていた。
 ――……完全に犯罪者扱いね。
「なんでエルサレムに行かなきゃなんねえんだ。断れよ」
「仕方ないでしょう。『拘束してでも連れて行く』って言うんだから」
「しゃべるなっ」助手席の男が怒鳴る。
「るっせぇっ」
 マルクはバンッとアクリル板を蹴った。
 車内が静かになる。
 マルクは寝ているところを起こされ機嫌が悪い。持って行こうとしたウィスキーのボトルを兵士に取り上げられたことも怒りに拍車をかけたようだ。
「ウェインはどこだ」
 マルクは首を伸ばし前後左右を確認する。
「病院へ出かけたきりよ。アーロンいわく、『カーニヒ大佐も所用で出かけている』らしいわ。私の勘だけどウェインとカーニヒは病院にいるんじゃないかしら」
「ああっ。なんであのヤローがウェインにくっついていくんだ」
「あちらさんは頭からウェインを疑っている。ウェインを監視下に置いてサイードの妻から情報を聞き出すつもりなんでしょう」
「なんで止めねえんだっ」
「後で気づいたのよっ」
 マルクは舌打ちした。
「役に立たんな。俺がウェインに付き添ってやればよかった」
「よく言うわ。あんたはぐうすか寝てたじゃない。むしゃくしゃして部屋に戻ってきたらあんたはあほ面かまして涎垂らして、いびきかいてたのよ。恥ずかしいったら。イラク兵が部屋の中を物色している間も汚い腹をぼりぼり掻いて。おならまでしていたのよ。ビール瓶で殴ってやろうとしたら兵士に止められたわ。後でお礼を言っておきなさいね」
「ビール瓶って。俺を何だと思っている。ちっとは俺を敬えっ」
 イーシンは人差し指をマルクの鼻に突きつける。
「あと二分起きるのが遅かったらホテルに置いて行くつもりだった。ニゲルは喜んでいたわよ。あなたを監獄に入れる算段をつけていたんじゃないかしら」
 マルクが頬を引きつらせる。
「置いて行くって、あんまりだろ」
「あなた、誘拐された時も全然目を覚まさなかったわよね。いびきをかいて。病気じゃないの。ソファごとひっくり返されても腹を蹴られても目を覚まさないなんて異常よ。これが終わったら病院で診てもらいなさい」
「お、俺が寝ている間になんてことを……」
 マルクは両拳を握り、むぎぎぎぎと歯ぎしりする。
「アーロンはどこに行った」
 怒りの矛先をアーロンに向けたらしい。鼻息荒く、肩を怒らせるさまはゴリラそっくりだ。
「アーロンはあちらさんの作戦に協力して、一足先に出発したわ。私たちとは別行動よ」
「かあー、マジで最低な野郎だな。俺たちを売りやがったうえ敵に協力だあ。イーシン、付き合う奴は選べよ。俺だったらミサイルぶっぱなして五体バラッバラッにしてやるぜ」
 マルクに言われるまでもなくアーロンを頼った己の浅はかさに嫌気がさしている。
「……その時は、ぜひ、私も手伝わせて……」
 と力なく呟いた。
「いつまで話しているっ。さっさと下りろ」
 兵士がドアをガチャリと開ける。
「ああっ」マルクはこめかみに青すじを立てる。
 イーシンはマルクを押し出し、外へ出た。
 アメリカの国旗がついた輸送ヘリが砂漠に着陸している。
「俺が米軍機に乗るなんてよお。人生、何が起こるか分からんな」
 マルクは忌々しそうに唾を吐く。
「米軍機で嫌な思い出でもあるの」
 マルクがにやあっと笑い、横幅のある顔を近づける。
「アメリカ野郎の空軍機を俺はスカッドミサイルを担いで落としまくったもんよ。すげえだろ」
 周りはそのアメリカ空軍兵士ばかりだ。自慢げに分厚い胸を指さすマルクに、イーシンは「ここでは言わない方がいいわよ」と忠告した。
「どうもよく分からん。サイードの奴、エルサレムでテロを起こすならなんではじめっからエルサレムにいなかったんだ」
 イーシンは横目でマルクを盗み見た。
 ――……あなたがまともな質問したの初めてじゃない。
 などと口にしようものなら瞬間湯沸かし器のように真っ赤になって怒るに違いない。
 イーシンもずっと引っかかっていた。考えた末にたどり着いた結論。
「エルサレムを実質支配しているイスラエルは四回の中東戦争を勝ち抜くほど空軍の力が優れている。アラブ連合国五か国中、最大の軍事力を持つと言われたエジプトを六日間で負かすほどよ。サイバーセキュリティや人工知能の技術も進んでいるから計画が発覚するのを恐れ避けたんでしょうね。
 イスラエルはアメリカと同盟国以上に緊密な関係を築き、アメリカから大量の無人機や武器も購入しているわ。やり方はどうであれ、イラクはアメリカが復興に力を入れていた地域。イスラエルは攻撃しにくいと考えたんでしょう。
 イスラエルの空爆が及びにくく出資者がいるサウジアラビアからも近い国がイラクだった。
 イラクは政府の力が弱く、軍も国内外の武装勢力を頼らなければISを掃討できない状態。要するに……」
 アメリカ空軍の軍人と話をしているニゲルが目に入る。ニゲルの役目は離陸地点まで自分たちを運ぶことのようだ。つまり、ここでお別れだ。
「ちょっと待って。挨拶してくる」
「やめとけ。口が腐るぞ」
 マルクをその場に残し、イーシンはニゲルの元へ走った。
 戻ってきたイーシンにマルクが不思議そうに尋ねる。
「あの髭モジャになんて言ったんだ。怒り狂ってるぞ」
 ニゲルが通訳の襟首を締めあげている。
 イーシンは笑いを噛み殺し、言った。
「『サイードがイラクに潜伏していた理由が分かりました。ミスター、ニゲル。あなたでも大佐が務まるほどイラク軍は弱小だったんですね』って言ってやったのよ。通訳が真っ青になってたわ」
「でかしたっ」
 マルクはイーシンの背中をバンッと叩き、大笑いした。

 ウェインが医師に案内された部屋は病室ではなく事務室だった。
 白いワイシャツに紺のスラックス姿のカーニヒと戦闘服を着た男が二人いる。
「ミズ、ウェイン・ボルダー。テロリストの妻に会う前にお願いしたいことがありましてね。病院のスタッフにあなたが来たらここへ通してもらえるよう頼んでありました。改めて、私はアメリカ空軍大佐アイゼン・カーニヒです」
 カーニヒは口角をあげ目を細める。
 本人は笑っているつもりなのだろうが薄水色の目が氷のように冷ややかで、そちらにばかり気を取られる。
「これを付けてテロリストの妻と会っていただきたいのです」
 カーニヒは小さな黒い虫のようなものを机に置いた。
「盗聴器です。あなたとテロリストの妻の会話を盗聴させていただきます。別室から監視します。外そうとしたり、おかしな言動をすれば私の後ろにいる二人が即座に突入し、あなただけでなくテロリストの妻も拘束します。……失礼」
 カーニヒはウェインの襟元に盗聴器を取り付ける。ウェインはされるがままにした。
「病院の敷地内にいた子どもはこちらで保護しました。浮浪児をいつまでも病院敷地内に留めるのは問題ですから。ミズ、ボルダー、あなたが助けた子どもですよ」
「……保護していただき感謝します。が、彼は村の襲撃事件の被害者です。浮浪児ではありません」
「今は、ね。このまま放置すれば行き着く先は良くて物乞い、最悪テロリストでしょう」
 初対面では感情を見せなかったカーニヒが露骨に敵意を示す。別人のような変わりようにウェインは強い違和感を覚えた。
「本題に入りましょう。サイードの計画を阻止できればサイードの妻は一般人として社会復帰できる機会が与えられます。計画が実行されればテロリストの妻として裁判にかけられる。おそらくその場合、終身刑か死刑。テロリストの妻を助けたければ、必ず情報を聞き出すことです」
「彼女の名前はシエナ。テロリストの妻ではなくシエナです」
「……テロリストの女に名前など贅沢すぎる。番号で充分だ」
 カーニヒは冷笑した。
「ミズ・ウェイン・ボルダー。あなたの経歴を読ませていただきました。州兵時代、戦場で幾人もの仲間の命を救った功績が認められアメリカ陸軍曹長に推薦される。陸軍に入隊後、曹長から上級曹長に昇任。ナンバー2として千人規模の大隊を束ねてもいる。
 アメリカ政府から勲章を贈られ、異例の若さで中佐に推薦された。昇進を辞退し、軍を退き、民間軍事請負会社アースに就職した。
 ……あなたは兵士を率いる軍人だった。一兵卒だったリー・イーシンとは違う。何百という兵士を統率し守る立場だ。それが今はテロリストの指導者と関わり、指導者の妻を救う。唾棄すべき行為だ」
 水色の目が拒絶の光を放つ。
 氷のようだなとウェインは思った。

 ウェインはシエナの病室を訪れる。
 シエナは窓がない病室に寝かされていた。医師も看護師もおらず、ひっそりとしている。監獄のようだった。
 シエナは眠っていた。ウェインは傍らに椅子を置き、腰かける。
 頬はそげ、目はくぼみ、肌は粉を吹く。血管が浮く細い首にけばだった髪がまとわりつく。酸素マスクの下で喘ぎ、上下する胸が痛々しい。
 シエナを初めて見た時、弱々しく、今にも消え入りそうだった。ジュディと同じ、深い絶望を纏っていた。
 サイードがシエナを傍に置くのは、シエナがジュディと重なり見捨てておけなかったのではないかと、心のどこかで思っていた。
 二つの武装組織の戦闘に巻き込まれ壊滅状態だった村を立て直し、学校を創り、病院を建てたのは、学校に行きたくて軍に入ったジュディを、迅速な治療を受けられずうつ病を悪化させ自殺したジュディを弔うためだったのではないかと、思っていた。
 ――しかし――。
 シエナはサイードの部下を殺した。あの激しい一面にサイードは惹かれたのかもしれない。
 自殺したジュディを『ひ弱な精神しか持たぬ者』と断じていた。養親にも距離を置き、なじまなかった。同情や義務感で動く人ではなかった。
 親子ほど年の差があるシエナを妻にしたのは、シエナの中に、ジュディには持ち得なかった激しさを見出したから。シエナ自身に強烈に惹かれたからではないか。
 ならば、なぜ連れて行かなかった。計画を実行する段になって、拠点を離れる時になって、なぜシエナを連れて行かなかった。
 サイードの動きいかんでシエナはテロリストの妻として処刑されるか、一般人となり自由になれるかが決まる。
 サイードは目的を成し遂げる。どんな手段を使っても。誰を犠牲にしても。
 シエナの処遇を思うと後悔にも似た苦い感情がこみあげる。あの時撃っておけばよかったと。
 不意に瞼が開く。黒い二つの目は暗く澱んでいた。
 声をかけられず、目を逸らすこともできなかった。
「……西北西の、方角……。サイードはそこにいる」
 乾ききった声からは何の感情も読み取れない。
 虚ろな瞳がゆらゆらと揺れ、瞼が閉じる。
 それで終わりだった。
 欠けた瞼の下で黒い穴が二つ、ぽっかりと空いていた。ひび割れた唇の隙間から風が漏れ言葉を形作るが、内部は空洞のようだった。シエナの形をした木偶が横たわっていた。濃淡も深浅も広がりもない「虚無」がシエナを形づくっていた。
 ――……シエナがサイードの居場所を口にするとは思わなかった。
 盗聴器を通しカーニヒに伝わっただろう。
「テロリストの妻に名前は贅沢すぎる、番号で充分だ」と笑った男を信用してもいいのか。
 ウェインは重い足取りでカーニヒが待つ部屋へ戻った。

 カーニヒはウェインの襟から盗聴器を外す。
「『西北西の、方角。サードはそこにいる』。重要な証言が手に入りました。早速分析し、しかる対応を取ります」
「……シエナはどうなるのですか……」
「容体が安定したら、彼女はアメリカ軍基地内にある病院に移送されます。治療を施しながら尋問することになるでしょう。ミズ、ボルダー。あなたは私と一緒にエルサレムへ行ってもらいます」
 ウェインは内ポケットに回収した盗聴器を忍ばせるカーニヒをじっと見る。
「不本意ですがサイードが姿を消した今、手段を選んでいる暇はありません。サイードの計画を阻止するためにミズ、ボルダー、あなたにも協力してもらいます」
 ウェインは力なく言った。
「……私は、無力です……」
 それしか言えなかった。
 カーニヒは嘲りの笑みを口元に刻み、悪意がこもった言葉を吐く。
「サイードをおびき寄せる餌くらいにはなるだろう」
 ウェインはようやく理解した。
 カーニヒは自分を憎んでいる。理由は、分かる気がした。
 軍の命令は絶対だった。戦場では仲間は生死を共有する唯一の存在だった。
 命令を遂行するため、軍を守るため、仲間を守るため、命を賭して戦った。軍と仲間は己よりも大切な存在だった。
 カーニヒは嫌悪しているのだ。
 兵士であり軍人であった自分がテロリストに与し軍を窮地に陥れたと敵意を抱いている。
 カーニヒにとって自分は裏切り者なのだろう。
 かつての自分も、きっとそう思う。テロリストは害虫であり、裏切り者はそれ以下、――生かす価値もないと。
 今は、サイードに会い、シエナに会い、子どもに会った。
「皆、それぞれに理由があるのです。テロリストにも、テロに駆り立てられる理由が……」
 カーニヒの表情が険しくなる。
「裏切り者が」
 口汚く罵るカーニヒに腹は立たなかった。
 カーニヒは汚らわしいものでも見るような目で一瞥し、背を向けた。目にするのも不快だといわんばかりに。
「サイードの計画が阻止できれば、サイードの妻は社会復帰の機会が与えられる。保護した子どもにも精神的治療を施し、養親を見つけ、教育を受けられるようにもしよう」
「……イーシンとマルクを解放して下さい。あの二人は関係ない」
「ミズ、ボルダー、それは君の働き次第だ。サイードの計画が阻止できれば、君と彼ら二人の身分は保証される。できなければ、どうなるか責任は持てない。当然、サイードの妻は処刑されるだろう」
 提案ではなく脅しのようだった。
「サイードの計画を阻止するために彼の情報全てをアメリカ軍に提供します。阻止できた時は約束を守ってください。マルクとイーシンを解放し、シエナに社会復帰の機会を与え、子どもの生活と教育を保証してください。よろしくお願いします」
 ウェインは深々と頭を下げた。どうすれば信用してもらえるのか。頭を下げて頼むしか思いつかなかった。
 カーニヒは振り返る。仮面を被ったように無表情だ。
「ミズ、ボルダー、今の言葉、胸に刻んでおくように。私は裏切りを決して許さない」
 ガラスの目が冷厳に光った。
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