第11話
文字数 9,397文字
東の空が真っ赤に染まり、巨大な太陽が顔を出す。大地が赤く染まり、風が砂を巻きあげる。
なぜ歩いているのか。どこに行くのか。どうして誰もいないのか。気付けば砂漠を一人歩いていた。
風にあおられ、砂に足を取られる。
動きたくないのに、足は前へ前へと進む。立ち止まったら死ぬ、と本能が告げていた。
白の四輪駆動車が砂を撒き散らし猛スピードで近づいてくる。ぐんぐんと接近し、大きなカーブを描き五十メートル手前で停止した。
服の下に銃があるが手は動かない、重くて。佇み、ぼんやりと見ていた。
運転席から男が降りてくる。
アラブの民族衣装は着ておらず、黒い覆面もしていない。短髪で大柄、首や腕、脚も太く、筋肉の塊のような体つきをしている。どこかで見たことがある、と思った。
助手席のドアが開く。車の後部を回り、影が目の前に立つ。
心臓が大きく跳ね、胸を強く打ち始める。
逆光で顔は見えないが、シルエットに見覚えがあった。
豊かな髪に、長い手足、細身の身体。
ウェインは信じられない思いで影を見つめた。
影は言った。
「お久しぶりね、ウェイン。アースを辞めて以来かしら」
聞き覚えのある声に胸が熱くなる。
目が慣れるにつれ顔の輪郭がはっきりする。腕を組み斜に構える影は紛れもなく、――リー・イーシンだった。
怪我をしている様子はなく元気そのものだ。生きていた、と安堵するより早く、カッと頭に血がのぼった。
ウェインはつかつかと歩み寄り、きょとんとするイーシンの顔面に拳を見舞った。
「うおっ」そばにいる大男は飛びのき、イーシンは真後ろにぶっ倒れた。
「なんひぇなぐうのひょっ」(訳・なんで殴るのよっ)
ウェインは怒鳴りつけた。
「逃げたなら連絡しろっ。最低限のルールだっ。車を乗り回す時間があるなら本社に電話一本できたはずだっ」
イーシンは血が垂れる鼻をつまみながらしゃべる。
「こ、こへにはふひゃいひひょうがあるのひょ。だいひゃいあなひゃ、なんでここにいるのひょ。ほれもヘロリフフォのリーアーといっひょに、へんひゃない」
(訳・こ、これには深い事情があるのよ。大体あなた、なんでここにいるのよ。それもテロリストのリーダーと一緒に、変じゃない)
「はっきり話せっ」
ウェインは拳を振り上げる。これ以上意味不明なことを言ったら殴るつもりだった。
イーシンはあたふたと鼻をこすり、片手をあげる。
「ちょ、ちょっと落ち着いて。なにか二人とも誤解があるみたい。場所を変えてお話ししましょう。ね、ね」
ウェインはギリッと歯ぎしりする。拳を下ろし、腹立ちまぎれに砂を蹴った。
※
ウェインに頼まれ、訓練場があった場所にほど近い村へ車は向かっている。確かめたいことがあるらしい。
イーシンは後部座席にウェインと並んで座り、誘拐されてから監禁場所を脱出するまでの経緯を事細かに説明した。
「だからー、帰国してもまたロバートに無理難題突きつけられてこき使われるくらいならこのまま逃亡しちゃおうと思ったのよ。五百万ドルなんて大金返せないでしょう。……ちょっと、私の説明、聞いているの」
「聞いている」
窓の外を向いたまま返事をするウェインにカチンとくる。
「だったら相槌打つとか、『大変だったな』とか言ってよ。大体、どうして私が殴られなきゃならないのよ」
「手加減はした」
「うそっ。痛かったわよ、すごく痛かったわよ。鼻が折れたかと思った」
ウェインはゆっくり振り返り、じろりと睨む。
イーシンはぎくりとした。目が据わっている。
アース日本支社で一緒に働いていた頃、ウェインはセクハラまがいの挑発をした教官数人を叩きのめし、加勢にきた二人の腕をへし折った。
アースを辞め上下関係が解消されたとはいえかつての上司である自分を殴るなんて相当頭にきている証拠だ。さっきから放電するように空気がびりびりするのはそのせいだろう。言葉は慎重に選ばなければ……。
「おい、イーシン、そろそろ俺を紹介してくれよ」
運転しているマルクが焦れたように声を上げる。
――ああ、忘れていたわ。
「ウェイン、こちらはマルク・サンチェスよ。訓練場で一緒に働いていて武装集団に捕まったの」
ウェインは神妙な顔つきになり気遣うような口調で挨拶をする。
「はじめまして、ウェイン・ボルダーです。今回は大変でしたね。無事でなによりです」
運転中にマルクは体をくるりとひねり、ウェインに握手を求める。
「マルク・サンチェスだ」
「あんた、ちょっと運転中よっ」
「砂漠で事故るかよ」
ウェインは苦笑混じりに握手に応じた。
マルクは前に向き直り、
「いやあ、頑丈な俺でもイーシンを連れて逃げるのはきつかったなあ」と、ガハハと笑う。
――馬鹿言わないで。気を失っているあんたを私が助けたんでしょっ。
バックミラー越しに見えるマルクは目尻を垂らし、鼻の下を伸ばしている。
ウェインはマルクの発言を真に受けたようで重ねて礼を言う。
「ありがとうございます。イーシンが今いるのはあなたのおかげです。感謝してもしきれません。本当に、どう、この気持ちを表せばいいか……」
「いやあ、そんなに感謝されると困るなー。じゃあ、今度めしでも行きませんか。ご馳走しますよ」
だはははは……、馬鹿笑いするマルクの後頭部をおもいっきり蹴飛ばしてやりたい。
――ウェインもウェインよ。私に対する態度と全然違うじゃない。
カッカしすぎたようだ、鼻血がたらりと垂れる。
イーシンは慌ててハンカチを鼻に当て、改めて聞いた。
「それで、ウェインはなんでここにいるの」
車内がシンとなる。張りつめた冷気にイーシンはきょとんとする。
「えっ、なに、なに、どうしたの」
裏拳がイーシンの顔面に炸裂した。
イーシンは腫れた頬をペットボトルで冷やしながらウェインの説明を聞いた。
話が終わるまで、いいや、また殴られてはかなわない、今日は一切口を利かないつもりだ。
ウェインの説明はこうだ。
国際ニュースでイーシンとマルクが捕まったことを知り、本社社長ロバートに連絡を取った。
ウェインはイラクに単独乗り込み、現地の調査員カリムとミーアと共に手がかりを探っていた。
親友だったジュディス・カーターの兄がムスリム革命団の指導者サイードと知り、交渉するためサイードの居宅を訪れた。
カリムとミーアに連絡が取れず、サイードを問い詰めてもしらをきられ、そのうえ、『イーシンは監禁場所から逃げた』と聞かされた。
交渉を断念し、サイードの元から逃げてきた、ということらしい。
「イーシンが無事なら、もしかしたらカリムとミーアも生きているかもしれない。……もし、死んでいるなら遺体だけでも埋葬したい」
ウェインは進行方向を見つめ、言った。
イーシンは頭を右に左に傾け、腕を組む。
――……要するに、武装集団に囚われた私をウェイン一人で助けに来たってこと。内戦状態にあるイラクに、アースを辞めたウェインが。
考えれば考えるほど頭がこんがらがる。
誘拐の首謀者が親友の兄だと気づいたからだとしても、普通は警察か国防総省に連絡して終わりだ。一般人に戻ったウェインが単身で紛争地に乗り込んでくるなんて考えられない。
――……じゃあ、やっぱり私を助けに来たってこと。……でも……。
ウェインの横顔をちらりと見る。
――……私たち、そんなに仲良かったっけ。
なんて言おうものなら裏拳どころか全身ボコボコにされかねない。
ウェインは背筋を伸ばし、カリムとミーアが心配なのだろう、膝の上に置いた両拳を握り、進行方向をじっと見つめていた。
村外れに車を停める。
「武装集団が支配している村に入るのは危険だわ。敵に捕まるかもしれないし村民が密告するかもしれない」
「ここまで来て引き返すってのか」
マルクは不満げだ。
「以前お世話になった家主に聞いてみる。何か知っているかもしれない」
マルクは面白くねえと言わんばかりに運転席でふんぞり返り、ウェインは「……頼む」と頷いた。
イーシンは助手席に移動し、家主に連絡を取る。
「昨日、男女が行方不明になった事件はないかしら」
後部座席のウェインに聞こえないよう小声で尋ねる。
家主は興奮気味に教えてくれた。
訓練場襲撃事件が起きた以外は町も村も平穏だったため、男女二人が路上で射殺された事件は珍しく、家主はわざわざ現場を見に行ったそうだ。
「現場近くの店主が見ていたそうだ。『二人とも銃で撃たれ死んだ。男は女を逃がそうとして力尽き、女も男を支え、二人庇い合うように死んだ』らしい。『ニカブで顔を隠した女が三人がかりで撃っていた。女の一人は子連れだった』そうだ。俺が見に行った時は血の海でな。男たちで葬ってやったよ」
「二人の名前は分かる」
「残念だが。ニュースにもならなかった。おそらくムスリム革命団の仕業だ。奴らの悪事はニュースに流れない」
「そのようね」
「村の広場から三百メートルほど離れた共同墓地に二人を埋葬した」と家主は言った。
「木を突き立てただけの小さな墓だがないよりはましだ。彼らの魂はアッラーがお救い下さる」
「……ありがとう。……他に何か変わったことは」
「他には……」
短い間が入り、家主が叫んだ。
「あったっ。そのすぐ後に黒ずくめの男たちが民家を荒らし、放火していった。近くの家にも燃え移って消し止めるのに大変だった。二本木が生えた通り沿いの一軒家だ。村じゃ、殺された男女の家だったんじゃないかと噂している。やったのはムスリム革命団の奴らだ」
「……ありがとう。もう切るわ。敵に気づかれたらあなたにまで迷惑がかかってしまう。元気でね」
「イーシンに神のご加護を」
携帯を切り、イーシンは深いため息をついた。
イーシンが説明を終えると、車内には重い空気が流れた。
事件が起きた日時と場所、男女の特徴、放火された家の場所……、様々な情報を勘案すると、カリムとミーアが殺されたことは間違いないようだった。
ウェインは押し黙り、マルクも口をへの字にし黙り込む。
イーシンは疑問を口にした。
「殺されたうえ家に放火される理由ってなにかしら。ウェイン、あなたは武装集団の指導者に、サイードだっけ、会いたがっていたんでしょう。だったら、部下を迎えに来させればすむ話じゃない。カリムとミーアさんを殺して鍵を奪い家に火を放つって、おかしいでしょう。二人はよっぽど武装集団に恨まれていたか、邪魔な存在だったのかしら」
思いがけない質問だったようだ、ウェインは戸惑いの表情を隠さない。
「……それは、ない……。カリムは部族長と何度か会ったが、サイードには会ったことがないはずだ」
答えに繋がる記憶を必死に手繰り寄せるように灰色の目が落ち着きなく揺れる。
「サイードは『ちょろちょろとかぎ回っているネズミを静かにさせろ』と部下に命じたと言っていた。『カリムとミーアには会ったことがない』とも」
「あなたがカリムから聞いた『指導者は外国人である』話は私は家主から聞いたわ。他の住民も知っていると思う。指導者の過去を知っているあなたの方がよっぽど重要な秘密を握っている。あなたからカリムとミーアに情報が漏れたと思ったのかしら。そうだとしても変よね。あなたは歓待され、逃げた後も追手をかける気配がない」
ウェインは弱々しく首を振った。
「分からない」
イーシンは続けた。
「推測だけれどカリムはもっと重要な情報を入手していた。それを察知したサイードが二人を殺害し、家もろとも情報を抹消したとは考えられないかしら」
ウェインはきっぱりと否定した。
「それはない。カリムは仕事に忠実だった。情報を入手したなら真っ先にアース本社に報告するか、私に教えてくれただろう。私は何も聞いていない」
「……そう……」
結論は出ず、重苦しい沈黙に包まれた。
「カリムとミーアが亡くなったと本社に連絡する。イーシンの無事も話す」
有無を言わせぬ口調だ。
「借金の返済は免除してもらえるよう頼んでみる。だからイーシンは帰る準備をしろ」
「ん。んんんん」
言葉に引っかかりを感じイーシンは聞いた。
「イーシンはって、ウェイン、あなたも帰るんでしょう」
「私は残る。サイードの企みが何かを突き止め、阻止する」
――はあっ、なに言ってんの、あんた。
いけない、マルクの口癖がうつっちゃった。……と、それはどうでもいい。
「ウェイン、冷静になりなさいよ。あなた一人でどうやって阻止するのよ。突き止めるったってどうやって」
ウェインは物憂げに言う。
「アメリカに帰ったらもっと分からなくなる。私はここにいてサイードの動向を探り、計画を食い止める」
――マルク、あんたぼさっとしてないで何か言いなさいよ。
マルクは運転席を倒し、組んだ両手を枕に寝そべっている。
マルクは振り返り、にっかり笑った。
「面白れぇ。俺も手伝う」
「ちょっと、本気なの」
マルクは威勢のいい声で「おう、俺はウェインに付き合う。イーシン、てめえは帰れ」と犬でも追い払うように「シッシッ」と手を振った。
ウェインが本社に連絡を取っている間、イーシンはマルクを後部座席に引っ張り込んだ。
「あんた、付き合うって。危険を承知で言っているの」
「おう、あたぼうよ」
自信ありげに胸を張るマルクにイーシンは疑いの眼差しを向ける。
「ウェインにいいところ見せて気を引こうとしても無駄よ。あの子、きっとサイードのことが好きなんだわ。カリムが殺されたのもきっと嫉妬よ。カリムとウェインの仲を疑ったサイードが嫉妬で殺したんだわ。ミーアって人は巻き添えを食ったのよ」
「あああっ、ふざけたこと抜かすな。ぶん殴るぞ」
「ふざけていない」
イーシンはマルクの鼻先に人差し指を突きつける。
「だって変じゃない。声で親友の兄かもしれないって思ったって。それでわざわざこんな危険な場所にくる。十二年前でしょう、初恋にしたって時効よ。相当の思い入れがなければ来ないわよ。……いたっ」
マルクが太い指でイーシンにデコピンをした。
「痛いじゃないっ」
「てめえはぼんくらか」
「なによっ」きいーっと歯を剥く。
「ウェインはおめえを助けに来たんだろが」
「それはないわ」
イーシンは断言した。
「あの子、私を嫌っているもの。面と向かって『嫌い』って言われたのよ。そんな相手を助けに来ると思う」
「かああーー、これだからオ〇マはよお」
「差別用語よ。私はオ〇マじゃない、性的マイノリティよ。それにこれとは関係ないでしょ」
マルクはこれ見よがしに鼻をほじる。
「嫌いな奴を助けにくるかよ。てめえのことが好きなんだよ」
――……すき、スキ、スキー……。
「マルク、あなた何語話しているの」と真剣に聞いた。
マルクは小指についたでっかい鼻くそをピンと飛ばした。鼻くそがイーシンの額につき、「ギャッ」と叫んだ。
「俺の娘もあんなもんだった」
「あなた子どもがいるのっ」
鼻くそをつけられたショックよりマルクに子どもがいた事実にびっくりだ。
イーシンはハンカチでしきりに額を擦りながら聞き耳を立てる。
「ああ。かみさんと離婚してめったに会えないが、今二十六だ。娘が四、五歳くらいの時はハグしようとしただけで『パパ、嫌い』、『パパ、不潔』、『パパ触らないで』と大騒ぎだった」
「……あなた、それ本気で嫌がられているわよ」
「本気で嫌っちゃあいねえ。俺の誕生日に花の首飾りをくれるんだ。『パパ、お誕生日おめでとう』ってよ。可愛いもんだ」
まんざらでもない笑みを浮かべるマルクにイーシンは尋ねた。
「あんたの娘とどう繋がるわけ」
「だからよ、反抗期真っ盛りの娘が父親に甘えているようなもんだ。嫌い嫌いと言いながら本当は好きなんだよ」
面白くもなさそうに鼻くそをイーシンに飛ばす。イーシンは必死でよけた。
「あの子、私を拳で殴ったのよ。一度ならず二度も。それも愛情の裏返しなわけ」
「そりゃあ、助けに来て、『あなた、なんでここにいるの』なんて言われたらどつきたくもなるぜ」
イーシンの真似だろう、マルクは両手を組み体をくねらせ、女のような声を作る。
「……助けにきてなんて頼んでないし……」
マルクが角ばった顔をぬっと近づける。
「本人には言うなよ。俺だったらそいつの体バキバキにへし折って丸めて人間肉団子にしているぜ」
肉団子になった自分が目の前を転がっていく。
イーシンは手を上げ、誓った。
「……絶対、言わない」
マルクはにやりと笑った。
「まあ、心配すんな。可愛い娘もいつかはひとり立ちして他の男にかっさわれるもんよ。そしてその男は、俺だ」
自信たっぷりに太い親指で分厚い胸を指す。
イーシンはぶったまげた。
「あなた、ウェインが女に見えるの」
「おおう、見える見える。とびっきりの美人だ。気も強い。女はああでなくっちゃ」
イーシンはあんぐりと口を開けた。
ねじが一本、ううん十本くらいとんでいる。ウェインが女性に見えるなんて……。
イーシンは恐る恐る、マルクに忠告した。
「下手に近づくと首をへし折られるわよ」
マルクは大笑いした。
「体と体のぶつかり合いか。望むところだ」
胸をそらし笑うマルクにイーシンは眩暈を覚えた。
――……なぜかしら。ウェインが可哀そうに思えてきた。マルクといい、サイードといい、ロバートといい、あの子の周りってろくな男がいないのね。
じわあっと目の縁に涙が盛り上がる。うっ、とイーシンは口元を押さえた。
戻ってきたウェインは思いつめた様子で話す。
「本社社長に報告した。アース社が調査会社と遺族にカリムとミーアが死んだ経緯と墓所を説明し、最大限の配慮をしてくれるそうだ。ミーアは家族がいない。共同墓地に半永久的に埋葬できるよう手配してくれる。『できればカリムと同じ場所で眠らせてほしい』と頼んだ。イーシンは……」
言いかけて、なかなか続きを話さない。
「イーシンは、私と一緒に帰って来いと……。『ウェインがイーシンを連れて帰ってくると約束した。二人で帰ってこなくては。ウェインが留まるならイーシンも一緒に行動させなさい。足手まといになるなら問題だが監禁場所から自ら脱出したんだ、それなりに戦力になるということだ。構わないから手伝ってもらいなさい。帰ってきた暁には負債は全額免除するし、昇進も保証する』と……」
ウェインは一気に言った後、やはり困惑した表情で押し黙る。
「なんで私がウェインに付き合わなくちゃならないのよ」
イーシンは素で返した。
ウェインは大きく頷き、「もう一度、社長と話をする」と踵を返す。
イーシンはやけ気味に言った。
「いいわよ、付き合うわよ。付き合えばいいんでしょう。その代わり状況が悪化したら真っ先に逃げるわよ。その時はアメリカに帰らない。夜逃げさせてもらうわ」
ロバートは一度言いだしたら聞かない。
十年以上付き合いがある友人(もしくは知人)が命からがら脱出した無事を喜びもせず危険地帯に留まらせる男だ。腐った性根は死んでも治らない。
ウェインは思いつめた様子で黙り込む。
イーシンを帰らせたいが自分は残りたい。『連れて帰ると約束した』とロバートに痛いところを突かれ葛藤しているのだろう。根がくそ真面目なのだ。
イーシンは開き直った。
「いいわよ。ウェインは私を助けに来てくれたんでしょう。あなたを置いて一人帰るのも気が引けるし、私を拉致監禁しカリムとミーアさんを殺した奴らに仕返ししたいしね。……断っておくけど、私は戦力にならないからあてにしないでちょうだい」
まだ葛藤しているようだ、ウェインは唇を強く引き結ぶ。
「おいっ、俺も付き合うぜ。一人より二人、二人より三人ってな」
マルクが張りきっている。
――あんたは来なくていい。
イーシンは遠慮したかったが、戦力は多い方がいい、かも……、と考え直し、反対しなかった。
「だめです。あなたまで巻き込むわけにはいきません」
ウェインは頑なに拒んだが、マルクは「任せとけ。俺は傭兵だ。こういうのは得意中の得意よ」と胸を叩く。
「できませんっ。これ以上無関係な人を危険な目にあわせられない」
言い張るウェインを「ああー、うるさい、うるさい」とマルクは遮り、「俺はなにがなんでもついて行く」とごり押しした。
「情報がないことには動きようがないわ。一人、情報収集のプロを知っているの。連絡を取ってみる」
イーシンは携帯をかけた。
「イーシンか」
すぐに繋がり、イーシンは泡を食った。
「ア、アーロン・スタイナー。お久しぶり。実はあなたに相談したいことがあって……」
「今どこにいる。会って話そう」
「え、ええっ。でも、私今、イラクにいるの」
「ああ、俺もだ。待ち合わせをしよう。明日の夜、バスラの街でどうだ。来れるか」
バスラはイラクとクウェートの国境近くの、チグリス川付近にある。
「ええ、幹線道路を使えば行けるわ」
「よしっ。近くまで来たら連絡をくれ」
「ええ、でも、あの、報酬が払えるか」
「その話も明日だ、じゃあな」
ぶつりと切れた。
「……なんなの……」
携帯を持ったまま、イーシンは呆然と呟いた。
車を運転しながらマルクが口を開く。
「アーロンってどんな野郎だ」
マルクの問いにイーシンはしどろもどろになる。
「以前、ちょっと調べてもらいたいことがあって頼んだことがあるの。腕は確かよ。元CIA、アメリカ中央情報局に勤めていた情報収集のプロよ。今はフリージャーナリストをしているわ」
「そんなお偉い奴とどこで知り合ったんだ」
「私は昔アメリカ軍に所属していたの。その後は民間軍事請負会社アースに勤めていて。アーロンはフリージャーナリストになってからは紛争地で活動する機会が多くて、お互いにいろいろ助け合ってきたというか……」
「イーシン、なんか隠してるだろ」
マルクがバックミラーに顔を近づけ、意地悪い笑みを浮かべる。
「なにを、よ。変な言いがかりをつけないでちょうだい」
イーシンは平静を装い否定した。ちらりと隣にいるウェインを見る。
日本で働いていた頃、アーロンに『ウェインの個人調査』を頼んだことがある。当時、ウェインがあまりにも頑なに自分の計画に反対するものだからどこかのスパイではないかと疑ったのだ。結局、ただの想い過ごしと分かり、調査書は極秘裏に処分した。
ウェインは知らないし、これからも知られてはならない。
――……アーロンに口止めしておかなくちゃ。
マルクはまだ意地悪い笑みを浮かべ、鼻歌まで歌っている。
イーシンは眠るふりをして目を閉じた。
――それにしても、私が誘拐されたことをアーロンほど情報収集に長けた者が知らないなんて。
テレビでも報道された。とぼけているのか、本当に知らないのか。それにアーロンもイラクにいるなんて……、偶然にしてはできすぎだ。
昨年(二〇一六年)十月にイラク政権はISに奪われたイラク第二の都市モスルの解放作戦を開始している。今年一月にモスル東部を完全に制圧、二月にモスル西部の空港を、三月に市庁舎などの政府関係の建物を奪回している。
モスル解放が目前の今、フリージャーナリストのアーロンがいても不思議ではないけれど……。
ウェインの出現、カリムとミーアの殺害、サイードの陰謀、アーロンのイラク入り……、いろんな情報が一気に入ってきて頭が痛くなってきた。
イーシンはそのまま眠りについた。
なぜ歩いているのか。どこに行くのか。どうして誰もいないのか。気付けば砂漠を一人歩いていた。
風にあおられ、砂に足を取られる。
動きたくないのに、足は前へ前へと進む。立ち止まったら死ぬ、と本能が告げていた。
白の四輪駆動車が砂を撒き散らし猛スピードで近づいてくる。ぐんぐんと接近し、大きなカーブを描き五十メートル手前で停止した。
服の下に銃があるが手は動かない、重くて。佇み、ぼんやりと見ていた。
運転席から男が降りてくる。
アラブの民族衣装は着ておらず、黒い覆面もしていない。短髪で大柄、首や腕、脚も太く、筋肉の塊のような体つきをしている。どこかで見たことがある、と思った。
助手席のドアが開く。車の後部を回り、影が目の前に立つ。
心臓が大きく跳ね、胸を強く打ち始める。
逆光で顔は見えないが、シルエットに見覚えがあった。
豊かな髪に、長い手足、細身の身体。
ウェインは信じられない思いで影を見つめた。
影は言った。
「お久しぶりね、ウェイン。アースを辞めて以来かしら」
聞き覚えのある声に胸が熱くなる。
目が慣れるにつれ顔の輪郭がはっきりする。腕を組み斜に構える影は紛れもなく、――リー・イーシンだった。
怪我をしている様子はなく元気そのものだ。生きていた、と安堵するより早く、カッと頭に血がのぼった。
ウェインはつかつかと歩み寄り、きょとんとするイーシンの顔面に拳を見舞った。
「うおっ」そばにいる大男は飛びのき、イーシンは真後ろにぶっ倒れた。
「なんひぇなぐうのひょっ」(訳・なんで殴るのよっ)
ウェインは怒鳴りつけた。
「逃げたなら連絡しろっ。最低限のルールだっ。車を乗り回す時間があるなら本社に電話一本できたはずだっ」
イーシンは血が垂れる鼻をつまみながらしゃべる。
「こ、こへにはふひゃいひひょうがあるのひょ。だいひゃいあなひゃ、なんでここにいるのひょ。ほれもヘロリフフォのリーアーといっひょに、へんひゃない」
(訳・こ、これには深い事情があるのよ。大体あなた、なんでここにいるのよ。それもテロリストのリーダーと一緒に、変じゃない)
「はっきり話せっ」
ウェインは拳を振り上げる。これ以上意味不明なことを言ったら殴るつもりだった。
イーシンはあたふたと鼻をこすり、片手をあげる。
「ちょ、ちょっと落ち着いて。なにか二人とも誤解があるみたい。場所を変えてお話ししましょう。ね、ね」
ウェインはギリッと歯ぎしりする。拳を下ろし、腹立ちまぎれに砂を蹴った。
※
ウェインに頼まれ、訓練場があった場所にほど近い村へ車は向かっている。確かめたいことがあるらしい。
イーシンは後部座席にウェインと並んで座り、誘拐されてから監禁場所を脱出するまでの経緯を事細かに説明した。
「だからー、帰国してもまたロバートに無理難題突きつけられてこき使われるくらいならこのまま逃亡しちゃおうと思ったのよ。五百万ドルなんて大金返せないでしょう。……ちょっと、私の説明、聞いているの」
「聞いている」
窓の外を向いたまま返事をするウェインにカチンとくる。
「だったら相槌打つとか、『大変だったな』とか言ってよ。大体、どうして私が殴られなきゃならないのよ」
「手加減はした」
「うそっ。痛かったわよ、すごく痛かったわよ。鼻が折れたかと思った」
ウェインはゆっくり振り返り、じろりと睨む。
イーシンはぎくりとした。目が据わっている。
アース日本支社で一緒に働いていた頃、ウェインはセクハラまがいの挑発をした教官数人を叩きのめし、加勢にきた二人の腕をへし折った。
アースを辞め上下関係が解消されたとはいえかつての上司である自分を殴るなんて相当頭にきている証拠だ。さっきから放電するように空気がびりびりするのはそのせいだろう。言葉は慎重に選ばなければ……。
「おい、イーシン、そろそろ俺を紹介してくれよ」
運転しているマルクが焦れたように声を上げる。
――ああ、忘れていたわ。
「ウェイン、こちらはマルク・サンチェスよ。訓練場で一緒に働いていて武装集団に捕まったの」
ウェインは神妙な顔つきになり気遣うような口調で挨拶をする。
「はじめまして、ウェイン・ボルダーです。今回は大変でしたね。無事でなによりです」
運転中にマルクは体をくるりとひねり、ウェインに握手を求める。
「マルク・サンチェスだ」
「あんた、ちょっと運転中よっ」
「砂漠で事故るかよ」
ウェインは苦笑混じりに握手に応じた。
マルクは前に向き直り、
「いやあ、頑丈な俺でもイーシンを連れて逃げるのはきつかったなあ」と、ガハハと笑う。
――馬鹿言わないで。気を失っているあんたを私が助けたんでしょっ。
バックミラー越しに見えるマルクは目尻を垂らし、鼻の下を伸ばしている。
ウェインはマルクの発言を真に受けたようで重ねて礼を言う。
「ありがとうございます。イーシンが今いるのはあなたのおかげです。感謝してもしきれません。本当に、どう、この気持ちを表せばいいか……」
「いやあ、そんなに感謝されると困るなー。じゃあ、今度めしでも行きませんか。ご馳走しますよ」
だはははは……、馬鹿笑いするマルクの後頭部をおもいっきり蹴飛ばしてやりたい。
――ウェインもウェインよ。私に対する態度と全然違うじゃない。
カッカしすぎたようだ、鼻血がたらりと垂れる。
イーシンは慌ててハンカチを鼻に当て、改めて聞いた。
「それで、ウェインはなんでここにいるの」
車内がシンとなる。張りつめた冷気にイーシンはきょとんとする。
「えっ、なに、なに、どうしたの」
裏拳がイーシンの顔面に炸裂した。
イーシンは腫れた頬をペットボトルで冷やしながらウェインの説明を聞いた。
話が終わるまで、いいや、また殴られてはかなわない、今日は一切口を利かないつもりだ。
ウェインの説明はこうだ。
国際ニュースでイーシンとマルクが捕まったことを知り、本社社長ロバートに連絡を取った。
ウェインはイラクに単独乗り込み、現地の調査員カリムとミーアと共に手がかりを探っていた。
親友だったジュディス・カーターの兄がムスリム革命団の指導者サイードと知り、交渉するためサイードの居宅を訪れた。
カリムとミーアに連絡が取れず、サイードを問い詰めてもしらをきられ、そのうえ、『イーシンは監禁場所から逃げた』と聞かされた。
交渉を断念し、サイードの元から逃げてきた、ということらしい。
「イーシンが無事なら、もしかしたらカリムとミーアも生きているかもしれない。……もし、死んでいるなら遺体だけでも埋葬したい」
ウェインは進行方向を見つめ、言った。
イーシンは頭を右に左に傾け、腕を組む。
――……要するに、武装集団に囚われた私をウェイン一人で助けに来たってこと。内戦状態にあるイラクに、アースを辞めたウェインが。
考えれば考えるほど頭がこんがらがる。
誘拐の首謀者が親友の兄だと気づいたからだとしても、普通は警察か国防総省に連絡して終わりだ。一般人に戻ったウェインが単身で紛争地に乗り込んでくるなんて考えられない。
――……じゃあ、やっぱり私を助けに来たってこと。……でも……。
ウェインの横顔をちらりと見る。
――……私たち、そんなに仲良かったっけ。
なんて言おうものなら裏拳どころか全身ボコボコにされかねない。
ウェインは背筋を伸ばし、カリムとミーアが心配なのだろう、膝の上に置いた両拳を握り、進行方向をじっと見つめていた。
村外れに車を停める。
「武装集団が支配している村に入るのは危険だわ。敵に捕まるかもしれないし村民が密告するかもしれない」
「ここまで来て引き返すってのか」
マルクは不満げだ。
「以前お世話になった家主に聞いてみる。何か知っているかもしれない」
マルクは面白くねえと言わんばかりに運転席でふんぞり返り、ウェインは「……頼む」と頷いた。
イーシンは助手席に移動し、家主に連絡を取る。
「昨日、男女が行方不明になった事件はないかしら」
後部座席のウェインに聞こえないよう小声で尋ねる。
家主は興奮気味に教えてくれた。
訓練場襲撃事件が起きた以外は町も村も平穏だったため、男女二人が路上で射殺された事件は珍しく、家主はわざわざ現場を見に行ったそうだ。
「現場近くの店主が見ていたそうだ。『二人とも銃で撃たれ死んだ。男は女を逃がそうとして力尽き、女も男を支え、二人庇い合うように死んだ』らしい。『ニカブで顔を隠した女が三人がかりで撃っていた。女の一人は子連れだった』そうだ。俺が見に行った時は血の海でな。男たちで葬ってやったよ」
「二人の名前は分かる」
「残念だが。ニュースにもならなかった。おそらくムスリム革命団の仕業だ。奴らの悪事はニュースに流れない」
「そのようね」
「村の広場から三百メートルほど離れた共同墓地に二人を埋葬した」と家主は言った。
「木を突き立てただけの小さな墓だがないよりはましだ。彼らの魂はアッラーがお救い下さる」
「……ありがとう。……他に何か変わったことは」
「他には……」
短い間が入り、家主が叫んだ。
「あったっ。そのすぐ後に黒ずくめの男たちが民家を荒らし、放火していった。近くの家にも燃え移って消し止めるのに大変だった。二本木が生えた通り沿いの一軒家だ。村じゃ、殺された男女の家だったんじゃないかと噂している。やったのはムスリム革命団の奴らだ」
「……ありがとう。もう切るわ。敵に気づかれたらあなたにまで迷惑がかかってしまう。元気でね」
「イーシンに神のご加護を」
携帯を切り、イーシンは深いため息をついた。
イーシンが説明を終えると、車内には重い空気が流れた。
事件が起きた日時と場所、男女の特徴、放火された家の場所……、様々な情報を勘案すると、カリムとミーアが殺されたことは間違いないようだった。
ウェインは押し黙り、マルクも口をへの字にし黙り込む。
イーシンは疑問を口にした。
「殺されたうえ家に放火される理由ってなにかしら。ウェイン、あなたは武装集団の指導者に、サイードだっけ、会いたがっていたんでしょう。だったら、部下を迎えに来させればすむ話じゃない。カリムとミーアさんを殺して鍵を奪い家に火を放つって、おかしいでしょう。二人はよっぽど武装集団に恨まれていたか、邪魔な存在だったのかしら」
思いがけない質問だったようだ、ウェインは戸惑いの表情を隠さない。
「……それは、ない……。カリムは部族長と何度か会ったが、サイードには会ったことがないはずだ」
答えに繋がる記憶を必死に手繰り寄せるように灰色の目が落ち着きなく揺れる。
「サイードは『ちょろちょろとかぎ回っているネズミを静かにさせろ』と部下に命じたと言っていた。『カリムとミーアには会ったことがない』とも」
「あなたがカリムから聞いた『指導者は外国人である』話は私は家主から聞いたわ。他の住民も知っていると思う。指導者の過去を知っているあなたの方がよっぽど重要な秘密を握っている。あなたからカリムとミーアに情報が漏れたと思ったのかしら。そうだとしても変よね。あなたは歓待され、逃げた後も追手をかける気配がない」
ウェインは弱々しく首を振った。
「分からない」
イーシンは続けた。
「推測だけれどカリムはもっと重要な情報を入手していた。それを察知したサイードが二人を殺害し、家もろとも情報を抹消したとは考えられないかしら」
ウェインはきっぱりと否定した。
「それはない。カリムは仕事に忠実だった。情報を入手したなら真っ先にアース本社に報告するか、私に教えてくれただろう。私は何も聞いていない」
「……そう……」
結論は出ず、重苦しい沈黙に包まれた。
「カリムとミーアが亡くなったと本社に連絡する。イーシンの無事も話す」
有無を言わせぬ口調だ。
「借金の返済は免除してもらえるよう頼んでみる。だからイーシンは帰る準備をしろ」
「ん。んんんん」
言葉に引っかかりを感じイーシンは聞いた。
「イーシンはって、ウェイン、あなたも帰るんでしょう」
「私は残る。サイードの企みが何かを突き止め、阻止する」
――はあっ、なに言ってんの、あんた。
いけない、マルクの口癖がうつっちゃった。……と、それはどうでもいい。
「ウェイン、冷静になりなさいよ。あなた一人でどうやって阻止するのよ。突き止めるったってどうやって」
ウェインは物憂げに言う。
「アメリカに帰ったらもっと分からなくなる。私はここにいてサイードの動向を探り、計画を食い止める」
――マルク、あんたぼさっとしてないで何か言いなさいよ。
マルクは運転席を倒し、組んだ両手を枕に寝そべっている。
マルクは振り返り、にっかり笑った。
「面白れぇ。俺も手伝う」
「ちょっと、本気なの」
マルクは威勢のいい声で「おう、俺はウェインに付き合う。イーシン、てめえは帰れ」と犬でも追い払うように「シッシッ」と手を振った。
ウェインが本社に連絡を取っている間、イーシンはマルクを後部座席に引っ張り込んだ。
「あんた、付き合うって。危険を承知で言っているの」
「おう、あたぼうよ」
自信ありげに胸を張るマルクにイーシンは疑いの眼差しを向ける。
「ウェインにいいところ見せて気を引こうとしても無駄よ。あの子、きっとサイードのことが好きなんだわ。カリムが殺されたのもきっと嫉妬よ。カリムとウェインの仲を疑ったサイードが嫉妬で殺したんだわ。ミーアって人は巻き添えを食ったのよ」
「あああっ、ふざけたこと抜かすな。ぶん殴るぞ」
「ふざけていない」
イーシンはマルクの鼻先に人差し指を突きつける。
「だって変じゃない。声で親友の兄かもしれないって思ったって。それでわざわざこんな危険な場所にくる。十二年前でしょう、初恋にしたって時効よ。相当の思い入れがなければ来ないわよ。……いたっ」
マルクが太い指でイーシンにデコピンをした。
「痛いじゃないっ」
「てめえはぼんくらか」
「なによっ」きいーっと歯を剥く。
「ウェインはおめえを助けに来たんだろが」
「それはないわ」
イーシンは断言した。
「あの子、私を嫌っているもの。面と向かって『嫌い』って言われたのよ。そんな相手を助けに来ると思う」
「かああーー、これだからオ〇マはよお」
「差別用語よ。私はオ〇マじゃない、性的マイノリティよ。それにこれとは関係ないでしょ」
マルクはこれ見よがしに鼻をほじる。
「嫌いな奴を助けにくるかよ。てめえのことが好きなんだよ」
――……すき、スキ、スキー……。
「マルク、あなた何語話しているの」と真剣に聞いた。
マルクは小指についたでっかい鼻くそをピンと飛ばした。鼻くそがイーシンの額につき、「ギャッ」と叫んだ。
「俺の娘もあんなもんだった」
「あなた子どもがいるのっ」
鼻くそをつけられたショックよりマルクに子どもがいた事実にびっくりだ。
イーシンはハンカチでしきりに額を擦りながら聞き耳を立てる。
「ああ。かみさんと離婚してめったに会えないが、今二十六だ。娘が四、五歳くらいの時はハグしようとしただけで『パパ、嫌い』、『パパ、不潔』、『パパ触らないで』と大騒ぎだった」
「……あなた、それ本気で嫌がられているわよ」
「本気で嫌っちゃあいねえ。俺の誕生日に花の首飾りをくれるんだ。『パパ、お誕生日おめでとう』ってよ。可愛いもんだ」
まんざらでもない笑みを浮かべるマルクにイーシンは尋ねた。
「あんたの娘とどう繋がるわけ」
「だからよ、反抗期真っ盛りの娘が父親に甘えているようなもんだ。嫌い嫌いと言いながら本当は好きなんだよ」
面白くもなさそうに鼻くそをイーシンに飛ばす。イーシンは必死でよけた。
「あの子、私を拳で殴ったのよ。一度ならず二度も。それも愛情の裏返しなわけ」
「そりゃあ、助けに来て、『あなた、なんでここにいるの』なんて言われたらどつきたくもなるぜ」
イーシンの真似だろう、マルクは両手を組み体をくねらせ、女のような声を作る。
「……助けにきてなんて頼んでないし……」
マルクが角ばった顔をぬっと近づける。
「本人には言うなよ。俺だったらそいつの体バキバキにへし折って丸めて人間肉団子にしているぜ」
肉団子になった自分が目の前を転がっていく。
イーシンは手を上げ、誓った。
「……絶対、言わない」
マルクはにやりと笑った。
「まあ、心配すんな。可愛い娘もいつかはひとり立ちして他の男にかっさわれるもんよ。そしてその男は、俺だ」
自信たっぷりに太い親指で分厚い胸を指す。
イーシンはぶったまげた。
「あなた、ウェインが女に見えるの」
「おおう、見える見える。とびっきりの美人だ。気も強い。女はああでなくっちゃ」
イーシンはあんぐりと口を開けた。
ねじが一本、ううん十本くらいとんでいる。ウェインが女性に見えるなんて……。
イーシンは恐る恐る、マルクに忠告した。
「下手に近づくと首をへし折られるわよ」
マルクは大笑いした。
「体と体のぶつかり合いか。望むところだ」
胸をそらし笑うマルクにイーシンは眩暈を覚えた。
――……なぜかしら。ウェインが可哀そうに思えてきた。マルクといい、サイードといい、ロバートといい、あの子の周りってろくな男がいないのね。
じわあっと目の縁に涙が盛り上がる。うっ、とイーシンは口元を押さえた。
戻ってきたウェインは思いつめた様子で話す。
「本社社長に報告した。アース社が調査会社と遺族にカリムとミーアが死んだ経緯と墓所を説明し、最大限の配慮をしてくれるそうだ。ミーアは家族がいない。共同墓地に半永久的に埋葬できるよう手配してくれる。『できればカリムと同じ場所で眠らせてほしい』と頼んだ。イーシンは……」
言いかけて、なかなか続きを話さない。
「イーシンは、私と一緒に帰って来いと……。『ウェインがイーシンを連れて帰ってくると約束した。二人で帰ってこなくては。ウェインが留まるならイーシンも一緒に行動させなさい。足手まといになるなら問題だが監禁場所から自ら脱出したんだ、それなりに戦力になるということだ。構わないから手伝ってもらいなさい。帰ってきた暁には負債は全額免除するし、昇進も保証する』と……」
ウェインは一気に言った後、やはり困惑した表情で押し黙る。
「なんで私がウェインに付き合わなくちゃならないのよ」
イーシンは素で返した。
ウェインは大きく頷き、「もう一度、社長と話をする」と踵を返す。
イーシンはやけ気味に言った。
「いいわよ、付き合うわよ。付き合えばいいんでしょう。その代わり状況が悪化したら真っ先に逃げるわよ。その時はアメリカに帰らない。夜逃げさせてもらうわ」
ロバートは一度言いだしたら聞かない。
十年以上付き合いがある友人(もしくは知人)が命からがら脱出した無事を喜びもせず危険地帯に留まらせる男だ。腐った性根は死んでも治らない。
ウェインは思いつめた様子で黙り込む。
イーシンを帰らせたいが自分は残りたい。『連れて帰ると約束した』とロバートに痛いところを突かれ葛藤しているのだろう。根がくそ真面目なのだ。
イーシンは開き直った。
「いいわよ。ウェインは私を助けに来てくれたんでしょう。あなたを置いて一人帰るのも気が引けるし、私を拉致監禁しカリムとミーアさんを殺した奴らに仕返ししたいしね。……断っておくけど、私は戦力にならないからあてにしないでちょうだい」
まだ葛藤しているようだ、ウェインは唇を強く引き結ぶ。
「おいっ、俺も付き合うぜ。一人より二人、二人より三人ってな」
マルクが張りきっている。
――あんたは来なくていい。
イーシンは遠慮したかったが、戦力は多い方がいい、かも……、と考え直し、反対しなかった。
「だめです。あなたまで巻き込むわけにはいきません」
ウェインは頑なに拒んだが、マルクは「任せとけ。俺は傭兵だ。こういうのは得意中の得意よ」と胸を叩く。
「できませんっ。これ以上無関係な人を危険な目にあわせられない」
言い張るウェインを「ああー、うるさい、うるさい」とマルクは遮り、「俺はなにがなんでもついて行く」とごり押しした。
「情報がないことには動きようがないわ。一人、情報収集のプロを知っているの。連絡を取ってみる」
イーシンは携帯をかけた。
「イーシンか」
すぐに繋がり、イーシンは泡を食った。
「ア、アーロン・スタイナー。お久しぶり。実はあなたに相談したいことがあって……」
「今どこにいる。会って話そう」
「え、ええっ。でも、私今、イラクにいるの」
「ああ、俺もだ。待ち合わせをしよう。明日の夜、バスラの街でどうだ。来れるか」
バスラはイラクとクウェートの国境近くの、チグリス川付近にある。
「ええ、幹線道路を使えば行けるわ」
「よしっ。近くまで来たら連絡をくれ」
「ええ、でも、あの、報酬が払えるか」
「その話も明日だ、じゃあな」
ぶつりと切れた。
「……なんなの……」
携帯を持ったまま、イーシンは呆然と呟いた。
車を運転しながらマルクが口を開く。
「アーロンってどんな野郎だ」
マルクの問いにイーシンはしどろもどろになる。
「以前、ちょっと調べてもらいたいことがあって頼んだことがあるの。腕は確かよ。元CIA、アメリカ中央情報局に勤めていた情報収集のプロよ。今はフリージャーナリストをしているわ」
「そんなお偉い奴とどこで知り合ったんだ」
「私は昔アメリカ軍に所属していたの。その後は民間軍事請負会社アースに勤めていて。アーロンはフリージャーナリストになってからは紛争地で活動する機会が多くて、お互いにいろいろ助け合ってきたというか……」
「イーシン、なんか隠してるだろ」
マルクがバックミラーに顔を近づけ、意地悪い笑みを浮かべる。
「なにを、よ。変な言いがかりをつけないでちょうだい」
イーシンは平静を装い否定した。ちらりと隣にいるウェインを見る。
日本で働いていた頃、アーロンに『ウェインの個人調査』を頼んだことがある。当時、ウェインがあまりにも頑なに自分の計画に反対するものだからどこかのスパイではないかと疑ったのだ。結局、ただの想い過ごしと分かり、調査書は極秘裏に処分した。
ウェインは知らないし、これからも知られてはならない。
――……アーロンに口止めしておかなくちゃ。
マルクはまだ意地悪い笑みを浮かべ、鼻歌まで歌っている。
イーシンは眠るふりをして目を閉じた。
――それにしても、私が誘拐されたことをアーロンほど情報収集に長けた者が知らないなんて。
テレビでも報道された。とぼけているのか、本当に知らないのか。それにアーロンもイラクにいるなんて……、偶然にしてはできすぎだ。
昨年(二〇一六年)十月にイラク政権はISに奪われたイラク第二の都市モスルの解放作戦を開始している。今年一月にモスル東部を完全に制圧、二月にモスル西部の空港を、三月に市庁舎などの政府関係の建物を奪回している。
モスル解放が目前の今、フリージャーナリストのアーロンがいても不思議ではないけれど……。
ウェインの出現、カリムとミーアの殺害、サイードの陰謀、アーロンのイラク入り……、いろんな情報が一気に入ってきて頭が痛くなってきた。
イーシンはそのまま眠りについた。