第5話 文芸サークルって……

文字数 3,693文字

 突然ですが、皆さんは、『小説は一人で書くか、サークルに加わるか』、どちらがいいと思いますか。
 私には小説仲間が一人いました。過去形です。
 私の周囲は本を読む人がほとんどいなくて、書いている人は全くいませんでした。ですから、小説仲間ができた時はとても嬉しかった。
 創作のコツや文学賞などの情報を教えてもらえるし、作品の感想も聞ける、と思っていたからです。
 しかし、ずっと後になって冷静になると、こうした期待は「相手に乗っかって手っ取り早く小説を書くコツが知りたい」という甘えだったと気づきました。
 小説仲間の彼女に「作品を読んでほしい」と頼まれ、読んだことがありますが、持ち帰りではなく、目の前で彼女の視線を感じながら読むので、とてもじゃないけれど作品に集中できませんでした。感想を言いましたが、彼女は他の何人からも同じような感想を言われたそうです。
 憶測ですが、彼女は、指摘された部分をこだわりがあるためにどうしても修正できず、他の誰かに「これでいいよ」と言ってもらえないかと、その作品を他の何人かに読んでもらっていたのだと思います。
 後日、私も自分の作品を読んで貰おうと彼女の前に出しましたが、読んで貰えませんでした。「ここはどう書けばいい」、と質問してもごく簡単な返事があるだけ。
 少し前に、彼女とは、私が一次選考を通過したことでちょっとしたいざこざがあり、ギクシャクしていました。次第に、小説のことには触れず、友達として付き合うようになりました。
 ……本当は彼女の気持ちも分かるのです。関係修復にあと一歩踏み込めなかった自分にも負い目があります。
 同じように作家を目指す二人が、作家になれる者はごくわずかの現実で、仲良く切磋琢磨というわけにはいかないのかもしれません。

 では、一対一ではない、サークルだったらいざこざはなかったのかというと、……分かりません。
 高校時代に、文学サークルではなく、漫画サークルに加わっている友達がいました。
 その友達は他の部活もしていて、サークル仲間も全員、掛け持ちで何かしら活動していました。
 漫画サークルの活動自体は週に一回程度で、集まっても漫画を読み合うことはせず、ボーリングに出かけたり、カラオケに行ったりしていたようです。
 漫画サークルに入っていた友達は漫画を描いていましたが、サークル仲間ではない別の友達に自作の漫画を読んでもらっていました。そして、同人誌のマーケット等などで自分の漫画を販売していました。
 絵は上手く、プロでも通用すると私は思ったのですが、友達が描く漫画はBLものだったので、サークル仲間には読んでもらいにくかったのかもしれません。
 全てがこんなふうだとは言いませんが、サークルに入っているからと言って有意義な創作談義ができるとは限りません。
 漫画を描くのは時間がかかるでしょう。読み手の好みもあります。BLものは絶対読まない、人だっていると思います。
 同じ結末でも「いいね」と思ってくれる人もいれば、そうじゃない人だっているでしょうし、サークル仲間の作品を読んで、「よし、自分も頑張ろう」と思える人もいれば、よそよそしくなる人だっていると思います。
 漫画よりも小説の方が書くにも読むにも時間がかかります。二五〇枚程度の小説を書き上げるのに六ヶ月かかるとすると、そう頻繁には集まらないでしょう。
 書き上げた小説を読んでもらい感想をもらうにしても、相手にも学校や他の活動、塾、バイトもあるでしょうから、すぐには感想を聞けません。
 感想をまだかまだかと待ち、感想をもらっても納得できない。感想を出す方も、相手の心証を害さないかと思うと当たり障りのないことしか言えない、そういう気持ちになってもおかしくありません。
 後年、『文芸サークルに加わる功罪』みたいな内容の記事を読みました。
 メリットは切磋琢磨できる、デメリットは馴れ合いになる、サークル間でいざこざが生じる、とかなんとか。
 〈ああ、そういうことか〉と、その時、腑に落ちました。
 彼女とのいざこざは、私が執筆活動を辞めようと思った要因の一つでもあり、また執筆活動を再開してからも彼女に執筆を再開したことは言えず、結局、関係を絶ちました。
 彼女から言ってくれたので、罪悪感はほとんどありません。もっとああすれば良かったという少しの後悔と感傷はありますが……。
 あれ、話が暗くなっているなあ……。

 結論を言うと、『小説は自分で書くしかなく、知りたい情報は自分で探し、小説を読んで書き続けることでコツを掴んでいくしかない』ということです。
 もちろん、自分の作品を読んでくれる友達や家族がいるとすごく励みになりますし、書く意欲もわきます。
 今のご時世、本を読む人は極端に減っていますので、そういう貴重な存在は大事にしましょう。
 ただ、作品自体の講評や具体的な意見を求めるのは読んでくれる相手にとって過剰かもしれません。友達や家族は一読者として読んでくれているのであり、編集者の目で読んでいるのではありません。
 大抵の人は、視点がどうこう、小説の書き方がどうこうと考えながら小説を読んでいません。
 読んでもらう方も、誤字脱字や、「ここが分かりにくい」とか、簡単に書き換えられる指摘なら納得でき、感謝もできますが、作品の大幅な改変を求められたらとても応じられないと思うのです。
 例えば、「バッドエンドより、ハッピーエンドが読みたい」と言われたらどうでしょう。
 作品の大幅な改変は時間を要します。書き加えるならば一部分だけでなく、作品全体の流れを考えないといけませんし、削る作業はそれに加え、精神的にもきついです。
 それでも、〈一理あるかもしれない〉と直して投稿したとしましょう。それで、ダメだったら、〈やっぱり直さない方がよかったかもしれない〉と、後悔するかもしれません。
 私は編集者から『作品が長すぎる。前半三分の一を削ってはどうか』とコメントをいただいたことがあります。
 作品ごとの項目を作って触れようと思うので詳細は省きますが、編集者のコメントを読んだ時、私は書き直して再度挑戦しようとは思えませんでした。
 私が、『ここは書きたいと思っていた部分』だったからです。例え友達や家族に言われても直さなかったと思います。気にはすると思いますが。
 私が導き出した結論は、作品への感想は一人一人違う。
 審査員が評価する作品と編集者が求める作品、作者自身が書きたい作品と読者が読みたい作品もそれぞれ違い、さらに同じ読者、編集者、書き手、審査員でも好みは分かれる、ということです。
 審査員全員が同じ意見なら、最終候補作を審査するのは一人か二人でいいはずです。
 通常は、多数決で決着が付くように、審査員は三人か五人、奇数で組まれていると思います。(注)審査方法により違います、付き合いもあるそうです。

 ですから、自分が書く作品に関して、文法、物語の構成、その他もろもろは自分で気づくしかない、と思うに至りました。←私の見解です。他者の視点はあるに越したことはありません。
 自分の中にもう一人の自分、『小説はあまり読まない、へそ曲がりで、でも冷静で頭はいい人物』を作り、その人物になりきって、自分の小説を、初めて読む作品と思い込んで、読むのです。物語を知らない、どこかの素人が書いた作品として。
 そうすると、誤字脱字、描写不足、描写過剰、場面と場面の繋がり、物語の矛盾点、キャラの違和感、視点の混在……等、第三者から指摘を受けた部分は自分でも気づけるようになります。
 気づいたうえで直せる部分と直せない部分が出てくるのは仕方がありません。作品に対する「こだわり」、自分の中の軸(信念)は創作するうえで大切だと思います。
 そのこだわりを捨て、臨機応変に書き直せる人が作家に向いているのかもしれませんが……。
 気づいたけれど敢えて直さず投稿した、その作品が、もしかしたら評価されるかもしれないし、反対に評価されず結果に繋がらないかもしれません。
 しかし、まずは、気づくことが大事だと思います。

「私は嫌われても平気だからズバズバ言うわよ」、という友達がいれば参考にすればいいし、プロ作家さんが開いている講習会に参加するのもアリです。しかし、最終的には自分でできるようにならないと、必ずどこかで行き詰まってしまいます。

 公募ガイドで小説指南をしていたワ〇〇キさんは、研修生?を毎年のように文学賞に受賞させているみたいです。リスト載っていました。今も講習会?をされているかは、知りませんが、作品のあらすじを送ればそれが一次を通過するかどうか添削する、と書いていました。(注)今もしているかどうか分かりません。ネット等でお調べ下さい。
 たまに、多額の入会金を提示し、「この講習会を受けた人は必ず本を出せます」というセミナーがあります。それは講習会商法?、いわゆる鷺です。
 小説家志望者を架空の文学賞でおびき寄せ、出版費用としてお金を請求する文学賞商法もあります。もちろん、鷺です。
 お気を付けください。

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