重力加速度-5

文字数 3,881文字

 登校日。
 東栄学院では、八月の一週目に登校日を一日設定している。来なくても欠席には数えないが、補習を受ける者はその手続きを、宿題の第一回提出日に指定されている教科の宿題の提出を、部活動に必要な連絡や相談がある場合はそれを行うことが出来る。夏休みを海外や親の故郷で過ごすといった事情のない者はしぶしぶやって来る。また、水上のように校外活動に従事していて来られない者もいた。
 郁也は、適当な理由をつけて休みにしようと何度も思った。だが、出来なかった。
 それでも佑輔に会いたかったからだ。
 教室では、郁也は佑輔と言葉を交わすことはない。知らん顔さえしていれば、気まずい思いはしないと思った。向こうから声をかけてくることもきっとない。逃げ帰ったときのあの様子なら。
 自分の席からは佑輔の姿は見えない。だが、仲間同士で打ち解けて語り合う佑輔の声を聞けるし、教室の中を移動するとき、チラッとでも視界に入ることはあるだろう。
 そんなことを考えてまで佑輔に会いたがる自分が、郁也は惨めだった。ボクって、何て健気で可愛いヤツだろう。笑ってそんな風に思おうともしたが、悲しい気分の方が勝ってしまった。

 その日、郁也は上着を置いて出た。授業はないので、暑いうちに帰ってこられるから必要ないのだ。夏期間、学ランの着用義務はなくなるが、他の上着が許されない以上、昼夜の温度差の大きなこの地方では、全くそれに袖を通さない日はあまりない。 学ランがないと、気分的に違う。いつもの白のカッターシャツの釦を二つ開けて、郁也は家を出た。
 普段の学院よりもひとが少ない。来ない者は結構いるようだ。教室も心なしか広く感じる。
「お早う」
 郁也は横田の隣に座った。横田の席は教室の後ろ。隣の奴は市内でも有名な開業医の息子で、お医者さんのお父さんだけ置いて、家族で夏休み中シンガポールだかタイだかの別荘に滞在する決まりになっている。それは中等部の頃からで、学院内では広く知られていることだった。主が現れないことを承知の郁也は、今日はその席に陣取った。
「おお、谷口。全然灼けてないな。今年もインドア生活か」
「自分だって、ひとのこと言えないくせに」
「そうでもないさ。ほら」
 横田は郁也にシャツの袖を肩まで捲って見せた。陽灼けして赤黒くなった皮膚の表面が、ぺろぺろ白く浮いていた。
「汚いもの見せるなよ」
 郁也は話の流れに逆らわず、何でそんなに灼けたのか、横田の夏休みの生活を訊ねてみた。
「従兄弟たちと海に行ってさ」
 横田は海辺に住む従兄弟の家に、親戚中の中途半端な大きさの子供たちと一緒に集められて過ごしたとのことだった。そこがここ数年、温泉と海が両方楽しめるリゾート地として開発されている土地であることは、郁也も何となく知っていた。避暑を兼ねて、観光客を呼び込もうという目論見である。横田は小さい頃からの習慣で、夏は大抵そこで過ごすのだと語った。今年そこで知り合った都会の女性のメールアドレスをもらったことも。
「おー、いいねー。青春だねー」
「あ。お前、馬鹿にしてんだろ。綺麗なひとなんだって。ほら」
 横田は自分の携帯電話を取り出した。開くと、そのひとがこちらを見て笑っていた。
 郁也はそれを横目で見て、「ふーん」と鼻を鳴らした。その音に「羨ましくなんかないさ」という気持ちを滲ませるのは、この際エチケットだ。

 視界の端にきらっと光るものがあった。佑輔だ。
 佑輔は真っ直ぐ自席へ向かい、仲間たちと挨拶を交している。仲のいい矢口が佑輔の席へ寄っていった。佑輔は矢口の方へ向いたとき、ちらっと後ろに視線を向けた。郁也は横田の話に適当に茶々を入れながら、気持ちはついつい佑輔を追っていたので、その瞬間佑輔と目が合った。
 だからと言って、何がある訳でもない。
 お互いにすぐ視線を外して、それぞれの友人との会話に戻る。
 郁也は鞄の中を調べる振りをして下を向いた。横田はまだ照れながら、そのひとがどんなに優しかったか、どんな楽しい会話を交わしたかを語っていた。世界がぼやけて見えなくなった。郁也は大袈裟に鼻をかんだ。
 ベルが鳴り、担任の寺沢が入ってきた。寺沢は、教室内の空席状況と、それに付随して少々席のシャッフルが起こっていることを見て取ると、普段は取らない出席を取った。クラス全員の名を呼び、それに応えさせている間、郁也は佑輔の肩を見ていた。
 クラスの三分の一程が来ていなかった。

 郁也の家に夏休みはない。
 母は管理職についてから、上司休まずして部下に休みなしとの信念に基き、必ず一週間以上の休暇を年に二、三度取る。そして、アメリカに住む父の許を訪れるのだ。時には合わせて休暇を取った父が、こちらに帰って来ることもある。
 いずれにしても、わざわざひとでごった返す夏休みや正月時期に移動する必要はないため、また家族の予定につき合えるようそうした期間の休暇は部下に譲るため、母の休暇は郁也の休みと重ならない。郁也はそんな母の生き方をカッコいいと思っている。一週間から十日、ひとりで過ごすのも開放感があって悪くない。
 今年の休暇はまだ寒い時期、確か二月に一度取ったきりなので、次は秋頃にでも取るのだろう。もしかして、父が帰ってくるかも知れない。

 郁也がぼんやりしているうちに、登校日の諸手続きは終わった。解散だ。
 特にすることもない郁也は、成りゆきでいつものように横田たちと理科室に寄っていくことになる。他クラスの部員が、廊下から郁也たちを呼んだ。
「登校日の出席率がこんなにいい部ってのも、問題だよな。一年も皆来てるみたいだし」
「数学オリンピックの強化合宿中の、水上君だけだよ。来てないの」
「まあ、数学を一生研究していこうか、ハード開発に転じて量子コンピューターを作ってみようか、今から迷ってる奴とは、とても比べられないけどねえ」
 郁也も彼らについて教室を出ようとした。鞄を持ち上げたそのとき、郁也を呼び止める声があった。
 振り返らなくても誰だか郁也には声で分かる。身体の芯がびくんと揺れた。郁也の頬がかあっと熱くなった。
「ちょっと、話してもいいかな」
 佑輔が、遠慮がちに立っていた。
 日頃接点のない佑輔に横田たちは意外そうな顔をしたが、「じゃ、先に行ってるよ」とすんなり郁也を置いていった。
 郁也は仮装大会のときのような虚勢を張ろうか、休日を一緒に過ごした友人として振舞うべきか迷った。
 振り返るといつも爽やかな佑輔が、珍しく神妙な顔をしていた。それを見て、郁也も変に気張らず素直にゆくことにした。

 暑い。
 気温が高いのか、自分が火照(ほて)っているのか。郁也にはどちらか分からなかった。
 佑輔は郁也を専門棟の蔭に連れていった。美術室から郁也が毎日眺めた、佑輔たち演劇部員の仕事場より少し奥だ。そこはちょっとした林になっている。春には桜だリラだと花盛りになるのを、郁也は理科室の窓からよく見ていた。木陰は幾分、よそよりは涼しい。
「何。話って」 
 切り出しにくそうにしている佑輔が気の毒になって、郁也は水を向けた。もじもじしていても、それが何だか可愛くっていいなと郁也は思った。
 内容の見当はついていた。この間のことは忘れよう、か、もしくは口止めといったところだろう。それなら、早く済ませた方がいい。
(そんなこと、わざわざ釘を刺しに来なくってもいいのに)
 郁也は自分のせいで佑輔が困ったりするのは嫌だった。それより何より、自分が辛い。
 郁也に見つめられて、佑輔は少し赤くなった。息を吸い込んで、ようやく言った。
「こないだみたいに、また、会えないかな」
 郁也の世界の底が抜けた。重力が方向を失った。近くで遠くで、蝉が鳴いている。じーじーと、いつまでも。こだまのように続く鳴き声。
 郁也は必死にその場に立っていた。
 佑輔は鼻の頭をぽりぽり掻きながら続けた。
「あれから、何だか忘れられなくて……」
 郁也が何の反応もしないので、佑輔の声は尻すぼみになった。佑輔は一旦唇を真一文字に結んでから、早口で言った。
「ごめん! 何か、ヘンだよなそんなの。ごめん。忘れてくれ」
 駆け出そうとした佑輔の背に、郁也は叫んだ。
「いいけど!」
 佑輔は脚を止め、ゆっくりと振り返った。
「別に、いいけど」
 郁也はどんな顔をしていいか分からず、下を向いて呟くようにそう答えた。
「谷口……」
 佑輔がどんな顔をしているのか。郁也は凄く気になった。しかし顔は上げられない。
「……こないだみたいって」
 郁也はぎゅっと目を瞑った。
「格好もあんな感じってこと?」
 眩暈(めまい)がした。

 これはどういう状況なのか。自分は今何を言われているのか。佑輔が言いたいのは、求めているのは何なのか。またあんな風に佑輔と並んで過ごす時間が、自分に与えられると? 郁也の中の女のコが、嬉しさに小躍りするのを感じる。しかし。
 郁也の中で、真っ黒な葛藤がまた渦を巻くのだ。
 何を気に入ったかはさておき、佑輔はまた郁也とこの間のような時間を持ちたいと思った。佑輔が隣を歩きたいと思っているのが、「女のコの格好をした」郁也だったら。それは虚構の存在に等しい。「郁也自身」ではない。少なくとも、今のところは。
 郁也の胸にもくもくと湧き上がる黒いもの。その正体に郁也は気づいた。認めたくないもの。それは。
 嫉妬だ。
「いや。それは……」
 意外なことを訊かれたように、佑輔は考え込んだ。少しして、佑輔は答えた。
「それは、どっちでもいいよ」
 郁也はそっと上目遣いに佑輔を見た。佑輔はにっこり笑っていた。
「中身はひとつだろ」
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