第二宇宙速度-7

文字数 3,912文字

 肩は時折痛んだが、医師はそろそろ帰ってもよいと言った。
 退院すれば、また学院へ通う毎日だ。
(学校、辞めちゃおうかな)
 病室のドアをノックする音がした。
 日曜日。午後顔を出した淳子も帰り、郁也は淳子にインターネットから焼いてきてもらった大検についての資料に目を通していた。郁也たちは高等部に進んだときから選択教科を決めているので、それに必要な科目は網羅していないが、今からなら間に合うだろう。
(ああ。本当に「さよなら」だ)
 さっぱりする。
 郁也はそう、強がってみた。
「はい」
 郁也は資料から目を上げずに返事をした。どうせまた看護師だ。人形のように可愛らしい郁也は、彼女たちに大人気だった。何かにつけあれこれ世話を焼きに来る。ちょっとうるさいくらいだった。

 きい……、とドアがゆっくり開いた。
 看護師の気配と違う。
 郁也は顔を上げた。
 そこに立っていたのは。
 世界中で、一番会いたい、一番会いたくないひと。
 神様のご機嫌をうっかり損ねて天上へ戻れなくなった天使のように、途方に暮れた顔をして、佑輔が立っていた。

 デニムのパンツに、厚手の綿のシャツジャケットは渋い赤系のチェック。襟許には白いカットソーがのぞく。白いバスケットシューズが爽やかだった。郁也は思わず見とれてしまいそうになるのを必死にこらえた。
「出てって」
 郁也は乱暴に顔を伏せ声だけでそう言った。佑輔は戸口に立ったまま動かない。
「帰ってよ……!」
 腹の底から、内臓ごと絞り出すような思いで郁也は言った。
「……嫌だ」
 佑輔は後ろ手にドアを閉めた。
「帰らない」
 一週間ぶりに聞く佑輔の声。正確には九日振りだ。郁也が封印しようと全身全霊を傾けてきた想いを、その声はあっさり解放してしまいそうだった。
 決意が、鈍る。
 九日間の、郁也の苦闘が、無駄になる。早く立ち去ってもらわなければ。郁也の目の前から消えてもらわなければ。郁也は両手を握り締めた。
 佑輔は、恐る恐る、しかし一歩も退かない決意を滲ませて、じっとその場に立ち尽くしていた。
 ふたりとも無言のまま、随分長い時間が過ぎた。
「……座ったら」
 とうとう郁也がそう勧めると、佑輔は微かに首を振って、ベッド脇の丸椅子に腰かけた。手脚の長い佑輔にはその椅子は小さ過ぎて、ふざけてこども用の椅子にかけているように見えた。
 九日振りの佑輔は、頬骨が出っ張り、切れ長な目もギョロッと大きく見える。顎もほっそり尖ったようだ。
(痩せた、な)
 いや、やつれた、と言うべきか。
 佑輔は沈痛な面持ちで、俯いたまま黙って座っていた。
 何か言うことがあって来たんだろうに、言い出せないでいるのだ。
 郁也は、そんな佑輔が気の毒になった。それに、自分の決心が鈍るのも困る。
 引導を渡してやる。佑輔にも。自分にも。

 郁也は意を決して口火を切った。
「……楽しかったよ」
 せめて、最後は笑顔で。だが自分が笑っているかどうか、郁也には全く分からなかった。
 佑輔は郁也のその言葉に、はっとしたように顔を上げた。
「どうしてそんなこと言うんだよ」
 佑輔の顔は泣きそうに歪んでいた。
「どうしてって……」
 それはこっちが聞きたいことだ。ふたりのことを過去のものにしたのは、佑輔の方だ。郁也ではない。そう冷たく思おうとしても、郁也は目の前の佑輔が可哀想で、愛おしくって、ぎゅっと抱き締めてしまいたくなる。
「だって。敵わないもの」
 本物の女のコには。
「言わせるなよ。こんなこと」

 郁也は佑輔から顔を背けて、窓の外を見た。
 十月の街路樹は赤く色づき、今年最後のあで姿を誇っている。
 冬は目前だ。
 生き物全てが動きを止め、じっとして遣り過ごす、清潔な冬。
 早く終わらせてしまおう。郁也は皮肉に笑った。
「せっかくの日曜日に、こんなとこで時間潰してて、いいの」
 涙声になりそうで、一旦深呼吸して郁也は続けた。
「彼女は、いいの?」
 佑輔は不快そうに鼻を鳴らした。
「あんなの……」
 佑輔がそう言ったとき、郁也の身体のどこかで、不穏なものがぶるっと揺れた。
 もしかして……。
(だめだ。今更、もう)
 方針転換は、なしだ。絶対。苦しい日々は、もうこりごりだろう、郁也。
「最後まで、したんでしょ」
 この嫉妬を、怒りに変換して、佑輔を追い出すんだ。この部屋から。自分の心から。
「したけど……」
 性格上、佑輔は郁也に嘘を吐けない。郁也はそれを知っていた。決定的だ。分かっていたことだけれど。
「ごめん」
「何を謝るの」
「ごめん。女のコってどんなものかな、って興味も確かにあったけど」
 佑輔は郁也の方へ向き直った。
「月曜に郁が理科室の窓から落ちたって聞いたとき、『俺のせいだ』って思った。だけど、それは自惚れじゃないかって思い直した。郁にとって、俺の存在がそんなに大きい訳ないって。けど、先週、ここへ入れてもらえなかったとき、やっぱり俺のせいだったんだって分かったよ。俺、ずっと、……怖かった」
 佑輔は何を言おうとしているのだろう。郁也は佑輔の方を見ないように、街路樹の赤い葉が風に吹かれるのに集中しようとした。
「段々余裕を失って、切羽詰まった感じがしてきてさ。どうしていいか、分からなくなって。もしかして俺がガキだから、経験ないから、こうなのかなって思った」
 意味が分からない。分かろうとなんて、して遣らない。
「怖かったんだ、俺。始めっから、俺が押し切ってつき合ってもらったようなものだったろ。郁は優しいから断らないでくれたけど、本当はどうなんだろうって」
 佑輔の肩が震えているのが伝わってくる。空気が揺れる。
「本当は俺に、男にこんなことされてるの、嫌なんじゃないかって。そう思い始めたら、もう、真っ暗だよ。怖くて怖くて」
 佑輔は僅かに笑った。
「それなら郁が、もう嫌だなんて思えないように、俺を忘れられなくなるように、気持ちよくさせればいいかなって頑張ってみたりしたけど。結局俺は郁をひどく苛めただけだった」
「……ああ」
(あれは、ヤバい感じに気持ちよかった。実際)
 郁也は思い出してぞくっとした。最後に佑輔の部屋へ行ったときだ。

「郁、俺には笑ってくれたけど、たまに横顔すっごく悲しそうでさ。……ああ、やっぱり、俺じゃダメなんだなって。郁を心底幸せに笑わせることなんて、所詮俺には無理だったんだなって。郁にとって迷惑なら、いっそこのまま忘れようと思ったんだ。でも駄目だった」
 郁也は何も言わずにじっとしていた。息を潜めて。
「ごめん」
 佑輔は深く頭を下げた。
「郁。俺を、許せないか」
 佑輔は、郁也の息遣いを窺うようにそう聞いたあと、不思議ときっぱりこう言った。
「でも俺、諦めないから。郁が俺を許さなくても、俺を嫌いでも、俺、絶対に諦めないから」
 決めたんだ、俺。佑輔はまっすぐにそう言い切った。
 郁也は、夢の続きにまた引き込まれていくような眩暈を感じて目を閉じた。悲しくって、幸せな夢。もう、あの夢の続きを見るのは止めよう。悩みに悩んでそう思い切ったのに。

「あのコのことは、どうするの?」
 郁也は自分の声が震えているのが悔しかった。
「ああ」
 佑輔は、たまたま当たりが悪かったのかも知れないけど、と前置きして言った。
「あんな、自分からホイホイ脱ぐような女、俺ダメだよ。『俺、アンタには合わないみたいだ』って、あれっきりにしてきた。さっぱりしたもんだったよ」
(……そうなん、だ)
「やっぱり、何て言うかさ。ああいうのが真っ裸で転がってても感じない、って言うか。それよりも、郁が恥ずかしそうに下向いてニコッと笑った方が、そそるよ、断然」
 それは俺だけかも知れないけどな、と佑輔は鼻の頭を掻いた。
(ああ。もう。だめだ)
 郁也はそれ以上こらえることが出来ず、肩を震わせた。
「酷いよ。そんなの、ボクが拒める訳ないじゃない!」
 こんなに。こんなに好きなのに。
「ボク、ずっと思ってた。ずっとずっと、『ボクはこんな身体だから、本気で好きになんてなってもらえない』って」
 辛かった。そう言って、郁也はぽろぽろ涙をこぼした。
 だから、佑輔クンの部屋に呼ばれたときは、本当に、本当に嬉しかったんだ。
 静かな日曜の病室に、郁也の絞り出すような泣き声が響く。
「ごめん。ごめんな、郁」
 そう言って佑輔は郁也の頬を拭った。あとからあとから溢れる郁也の涙。絶望に凍えていた郁也の心が、融けて流れ出す。郁也の細い肩は大きく震え続けた。元々細い郁也の身体は、この九日間で、切ないほどに薄くなった。佑輔は折れそうな郁也の肩を、包帯を巻かれた側に力を加えないよう気遣いながら、そっと抱いた。
「郁。好きだよ」
「嘘」
「嘘じゃない。本当だよ」
 郁也は佑輔の胸にしがみついて、尚も泣きじゃくった。佑輔は郁也の頭を何度も何度も撫でながら、「好きだよ、郁」と繰り返した。

 秋の短い陽は落ちて、窓の外はとっぷり暗くなった。
 ドアをノックする音がした。
「谷口くーん、お夕食ですよぉ」
 看護師がトレイを持ってドアを開けるが早いか、ふたりはパッと身体を離した。佑輔がすかさずティッシュを取って郁也に渡す。郁也は大きく鼻をかむ振りをした。
「今夜は、少ーし食べられるかな。ほら、美味しそうですよ」
 そう言って看護師はトレイを置いて出ていった。
「じゃ、俺、そろそろ」
 気を遣ったのか、佑輔は立ち上がった。
「佑輔クン……」
「明日また来る」
 佑輔は出て行きかけて、何を思ったかまた戻ってきた。
 ベッドの中から佑輔を見上げる郁也の瞼に、佑輔は素早くキスをして、風のように病室を去っていった。
「絶対来るから!」
 

 次の日の朝、郁也は淳子に電話した。
「ボク、退院する。学校、行くよ」

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