第二宇宙速度-4
文字数 3,547文字
昼休みの半端から、クラス内で郁也が親しくしていた横田や水上たちが、ひとりひとり教師に呼ばれて連れていかれた。ひとり五分程度の拘束で、彼らは担任の寺沢と生徒指導から、教頭同席の下、郁也の交友関係について尋問されたようだった。
「それって、当局はいじめの線を洗ってるってことかよ」
「いやあ、一応、形式的なものじゃないかな。調査せずに放置したとなると、後々まずい事もあるかも知れないし」
「結局、事故じゃなく、自殺、ってことか」
「馬鹿。自殺だなんて、あり得ないよ。あいつくらい頭よけりゃ分かるさ。二階の高さじゃ死ぬには足りないって」
「事件ってことも考えられるけどな」
「それって少し不穏当発言」
「あーあ、容態はどうなんだろ。心配だなあ」
「横田、お前、何か聞いてこなかったの」
「一方的に色々質問されて、こっちから聞ける状態じゃなかったよ」
「で、お前、何て返事したの」
「返事のしようがないよ。別に変わったとこなんてなかったし、思い当たる節なんて」
「やっぱりそうか。そうだよな」
ホームルームでもないのに、クラス全体が討論会の様相を呈してきた。教室の戸が開いて、またひとり戻ってきた。
「おい、どうだった」
「あれこれ聞かれたよ。多分横田や水上と同じこと」
「何か聞けたか」
「何も。堅いよ、先生たち」
佑輔はそんな級友たちの会話を聞くともなしに聞いていた。自分を呼んでくれないか、と佑輔は願った。彼らは玉砕してくるが、何とか情報を仕入れたかった。だが、ふたりの交際を知る者はない。教師が事情を訊こうとするリストに、佑輔の名が上がることはない。
佑輔が歯がみをするうちに、五時間目の予鈴が鳴った。
「変わったことと言えば、谷口、あいつ最近明るくなったよな。ちょっと前までひとを寄せつけない雰囲気っていうか、口数少なかったけど」
「ああ、それは俺も思った。笑うようになったよな」
「それがまた、可愛いの。俺、何度かどきっとしたことある」
クラスが沸いた。数人が俺も、俺もと同意した。
(なのに、何故)
誰もが思って、口に出せない疑問はそこだ。勿論事故の可能性はある。だが、幼稚園児ならともかく、高校生が事故で窓から落ちる。それも考えにくい。
帰りのホームルームでは、寺沢がアンケート用紙を皆に配った。
最近、校内や校外で、不当な暴力であるとか、嫌がらせ、トラブルなど、経験または見聞きした者は協力して欲しい、と言うのだ。
しーんとした教室に、ただシャーペンの走る音だけがする。
(あいつを苦しめたのは、俺だ)
佑輔の全身は自責の念でぎりぎり締め上げられるようだった。
用紙を回収して教室を出た寺沢に、佑輔は思わず駆け寄った。そして郁也の容態はどうか、病院は、と尋ねた。
寺沢は意外そうな顔をした。郁也と仲のよいグループより先に、その輪の外の佑輔が急いでやって来たからだろうか。
彼は案外あっさりと、佑輔の質問に答えた。
「木の枝で落下の衝撃は減らされたので、傷は大したことなかったみたいだね。脳震盪で意識は失ってたけど、鎖骨にヒビが入ってたのと、全身のかすり傷だけだ。命には別状ないよ」
安心しなさい、と寺沢は佑輔に郁也の担ぎ込まれた病院も教えてくれた。
「あ。だけど、見舞いは落ち着くまで、そうだな、二、三日は遠慮しなさいね。他のみんなもね」
寺沢は教室の戸口に鈴生りになっているクラスの連中の方を目を遣り、そう言い渡して去っていった。
(それで、顔は。顔にキズはついたんですか)
佑輔は寺沢に確かめたかった。あの美しい顔にキズがついたら、もしかしてそれが残るようなことになったら、郁也はどんなにか落胆するだろうと心配だった。
だが、級友たちの前でそれは聞けなかった。
佑輔は彼を取り囲んできたクラスの連中に、機械的に情報を伝達した。
誰にも聞かせたくなかったが、それは無理なことだった。
二、三日。
今週中には一度、行こう。
(命に別状ないよ)と寺沢は言った。
よかった。
(よかった。郁)
佑輔はひとまず胸を撫で下ろした。
「……あれ、お母さん。どうしているの」
温かな佑輔クンの腕の中にいる筈なのに、どうしてこのひとの顔のアップが目に飛び込んでくるのかしら。郁也は不思議に思って瞬きした。
淳子は目尻に涙を浮かべて郁也の頬をぴたぴた叩いた。
「何を言ってるの、この子は。あなたが学校の窓から落ちたっていうので、飛んできたんじゃない」
確かに淳子は、朝着ていたシックな薔薇色のスーツのままだった。
(なーんだ。佑輔クンじゃ、ないんだ)
郁也は、森の中で、佑輔とじゃれ合いながら駆け回っていた。木漏れ日がきらきらして、夏の日のようだった。坂道を駆け下りながら、ちょっとした段差を、先に降りた佑輔の腕に掴まってふわりと飛び降りるところだった。段の下で佑輔は、笑って郁也を胸に受け止めてくれる筈だったのに。
(夢、だった、のか)
夢。
そうだ。
それは夢に決まっている。
佑輔の温かく優しい胸は、もう郁也に開かれることはないのだから。
それはもう、違う女のコのものになってしまった。
現実を思い出すと、夢の中のほわほわした感情が残っている胸が、銛を突き刺されたように鋭く痛んだ。
「痛っ」
胸から肩にかけて、きつく包帯が巻かれていた。郁也は辺りを見回した。
「あれ、ここ……」
「病院よ。郁也。あなた、学校の二階の窓から落っこちちゃったのよ。覚えてる?」
淳子は「もう。ここしばらく、あなたにしては珍しく明るい素振りだったのに」などと歌うようにぼやいた。
ああ。そう言われれば、そうかも知れない。
はっきり思い出せないが、学院に着いてから、郁也はどうしても教室に足が向かず、専門棟へ向かっていた。きっと理科室に入っていって、窓から外を見たのだ。窓の外にはきらきらと夏の陽が輝いていて。
佑輔がそこにいた。
佑輔は笑って郁也を招いた。優しく温かなその胸を開いて。
それは確かに現実ではなかったのだろう。
絶望に正常な判断力を失って、幻覚と願望のない交ぜになったものに向かって飛び込んだのだったとしたら。現実の世界では、確かにそれは多少の傷を負うであろう行為だ。
ナースコールの釦を押した淳子は、続いてどこへやら電話をかけた。看護師がやって来て、郁也の意識状態を確認するような手続きを始める。話の内容から察するに、淳子が話しているのは、郁也の担任の寺沢のようだった。
(あ、まずい)
学院側は、郁也が転落した理由を調査するだろう。学院側の管理に手落ちがあったか、なかったか。なかったなら、郁也が自分の意志で飛び降りたことになる。飛び降りる意志があったとすれば、その理由を調べられる。
(どうしよう。学院側が管理責任を問われずに、ボクも深く追求されないストーリーを考えないと)
看護師の質問は下らなくて、郁也はイライラした。向こうも仕事なのだから、と分かってはいても、うんざりした。
そうか。病院か。
これで少なくとも数日は、学院に行かなくても済む。教室で、佑輔と顔を合わせることも。
気づくと、痛むところが幾つもあった。手探りで確かめると、何ヵ所かは手当がしてあった。
(身体を、見られたんだ……)
郁也の身体のあちこちに、うっすらと残る佑輔の口づけの跡。医師や看護師には気づかれてしまっただろうか。それらはもう随分と薄く消えかかっていた。
(ボクの身体には、まだあの跡が残っているのに)
佑輔の唇は、あのぽっちゃりした彼女のものなのだ。
(佑輔クン……)
郁也は、うっと呻き声を上げた。涙が後から後から溢れてくる。
「郁也? あら、どうしたの。郁也」
淳子が驚いて郁也のベッドをのぞき込む。
「何でもない。何でもないから」
郁也は身体の痛みに顔を顰 め、枕につっ伏した。
「お願い。ひとりにして」
淳子は静かにドアを開け、病室から出ていった。
お願い。ボクをもう解放して。
身の程知らずの夢を見たことは謝ります。
ボクが悪かった。
だから、お願い。
許して下さい。
許して。
「あら、谷口君。お手洗い、そっちじゃないわよ」
「え」
看護師にそう言われ、初めて郁也は自分の手が格子を握り締めて揺さぶっていることを知った。鍵のかかった格子戸は、この病棟の出入り口で彼ら患者たちを守っている。声のした方を郁也は振り返った。
「ああ。そうだっけ」
看護師は郁也が手を放したことを確認すると、笑顔で自分の用に戻っていった。
夜になると、空気の冷たさが心の中にまで入り込んでくる。
そこかしこからひっきりなしに聞こえていた話し声や物音が絶えると、もう気を紛らわせるものもない。
(どうか、お願いです。ボクを。ボクを、もう、許して)
これまでその存在を信じたこともない神に、郁也は祈った。
「それって、当局はいじめの線を洗ってるってことかよ」
「いやあ、一応、形式的なものじゃないかな。調査せずに放置したとなると、後々まずい事もあるかも知れないし」
「結局、事故じゃなく、自殺、ってことか」
「馬鹿。自殺だなんて、あり得ないよ。あいつくらい頭よけりゃ分かるさ。二階の高さじゃ死ぬには足りないって」
「事件ってことも考えられるけどな」
「それって少し不穏当発言」
「あーあ、容態はどうなんだろ。心配だなあ」
「横田、お前、何か聞いてこなかったの」
「一方的に色々質問されて、こっちから聞ける状態じゃなかったよ」
「で、お前、何て返事したの」
「返事のしようがないよ。別に変わったとこなんてなかったし、思い当たる節なんて」
「やっぱりそうか。そうだよな」
ホームルームでもないのに、クラス全体が討論会の様相を呈してきた。教室の戸が開いて、またひとり戻ってきた。
「おい、どうだった」
「あれこれ聞かれたよ。多分横田や水上と同じこと」
「何か聞けたか」
「何も。堅いよ、先生たち」
佑輔はそんな級友たちの会話を聞くともなしに聞いていた。自分を呼んでくれないか、と佑輔は願った。彼らは玉砕してくるが、何とか情報を仕入れたかった。だが、ふたりの交際を知る者はない。教師が事情を訊こうとするリストに、佑輔の名が上がることはない。
佑輔が歯がみをするうちに、五時間目の予鈴が鳴った。
「変わったことと言えば、谷口、あいつ最近明るくなったよな。ちょっと前までひとを寄せつけない雰囲気っていうか、口数少なかったけど」
「ああ、それは俺も思った。笑うようになったよな」
「それがまた、可愛いの。俺、何度かどきっとしたことある」
クラスが沸いた。数人が俺も、俺もと同意した。
(なのに、何故)
誰もが思って、口に出せない疑問はそこだ。勿論事故の可能性はある。だが、幼稚園児ならともかく、高校生が事故で窓から落ちる。それも考えにくい。
帰りのホームルームでは、寺沢がアンケート用紙を皆に配った。
最近、校内や校外で、不当な暴力であるとか、嫌がらせ、トラブルなど、経験または見聞きした者は協力して欲しい、と言うのだ。
しーんとした教室に、ただシャーペンの走る音だけがする。
(あいつを苦しめたのは、俺だ)
佑輔の全身は自責の念でぎりぎり締め上げられるようだった。
用紙を回収して教室を出た寺沢に、佑輔は思わず駆け寄った。そして郁也の容態はどうか、病院は、と尋ねた。
寺沢は意外そうな顔をした。郁也と仲のよいグループより先に、その輪の外の佑輔が急いでやって来たからだろうか。
彼は案外あっさりと、佑輔の質問に答えた。
「木の枝で落下の衝撃は減らされたので、傷は大したことなかったみたいだね。脳震盪で意識は失ってたけど、鎖骨にヒビが入ってたのと、全身のかすり傷だけだ。命には別状ないよ」
安心しなさい、と寺沢は佑輔に郁也の担ぎ込まれた病院も教えてくれた。
「あ。だけど、見舞いは落ち着くまで、そうだな、二、三日は遠慮しなさいね。他のみんなもね」
寺沢は教室の戸口に鈴生りになっているクラスの連中の方を目を遣り、そう言い渡して去っていった。
(それで、顔は。顔にキズはついたんですか)
佑輔は寺沢に確かめたかった。あの美しい顔にキズがついたら、もしかしてそれが残るようなことになったら、郁也はどんなにか落胆するだろうと心配だった。
だが、級友たちの前でそれは聞けなかった。
佑輔は彼を取り囲んできたクラスの連中に、機械的に情報を伝達した。
誰にも聞かせたくなかったが、それは無理なことだった。
二、三日。
今週中には一度、行こう。
(命に別状ないよ)と寺沢は言った。
よかった。
(よかった。郁)
佑輔はひとまず胸を撫で下ろした。
「……あれ、お母さん。どうしているの」
温かな佑輔クンの腕の中にいる筈なのに、どうしてこのひとの顔のアップが目に飛び込んでくるのかしら。郁也は不思議に思って瞬きした。
淳子は目尻に涙を浮かべて郁也の頬をぴたぴた叩いた。
「何を言ってるの、この子は。あなたが学校の窓から落ちたっていうので、飛んできたんじゃない」
確かに淳子は、朝着ていたシックな薔薇色のスーツのままだった。
(なーんだ。佑輔クンじゃ、ないんだ)
郁也は、森の中で、佑輔とじゃれ合いながら駆け回っていた。木漏れ日がきらきらして、夏の日のようだった。坂道を駆け下りながら、ちょっとした段差を、先に降りた佑輔の腕に掴まってふわりと飛び降りるところだった。段の下で佑輔は、笑って郁也を胸に受け止めてくれる筈だったのに。
(夢、だった、のか)
夢。
そうだ。
それは夢に決まっている。
佑輔の温かく優しい胸は、もう郁也に開かれることはないのだから。
それはもう、違う女のコのものになってしまった。
現実を思い出すと、夢の中のほわほわした感情が残っている胸が、銛を突き刺されたように鋭く痛んだ。
「痛っ」
胸から肩にかけて、きつく包帯が巻かれていた。郁也は辺りを見回した。
「あれ、ここ……」
「病院よ。郁也。あなた、学校の二階の窓から落っこちちゃったのよ。覚えてる?」
淳子は「もう。ここしばらく、あなたにしては珍しく明るい素振りだったのに」などと歌うようにぼやいた。
ああ。そう言われれば、そうかも知れない。
はっきり思い出せないが、学院に着いてから、郁也はどうしても教室に足が向かず、専門棟へ向かっていた。きっと理科室に入っていって、窓から外を見たのだ。窓の外にはきらきらと夏の陽が輝いていて。
佑輔がそこにいた。
佑輔は笑って郁也を招いた。優しく温かなその胸を開いて。
それは確かに現実ではなかったのだろう。
絶望に正常な判断力を失って、幻覚と願望のない交ぜになったものに向かって飛び込んだのだったとしたら。現実の世界では、確かにそれは多少の傷を負うであろう行為だ。
ナースコールの釦を押した淳子は、続いてどこへやら電話をかけた。看護師がやって来て、郁也の意識状態を確認するような手続きを始める。話の内容から察するに、淳子が話しているのは、郁也の担任の寺沢のようだった。
(あ、まずい)
学院側は、郁也が転落した理由を調査するだろう。学院側の管理に手落ちがあったか、なかったか。なかったなら、郁也が自分の意志で飛び降りたことになる。飛び降りる意志があったとすれば、その理由を調べられる。
(どうしよう。学院側が管理責任を問われずに、ボクも深く追求されないストーリーを考えないと)
看護師の質問は下らなくて、郁也はイライラした。向こうも仕事なのだから、と分かってはいても、うんざりした。
そうか。病院か。
これで少なくとも数日は、学院に行かなくても済む。教室で、佑輔と顔を合わせることも。
気づくと、痛むところが幾つもあった。手探りで確かめると、何ヵ所かは手当がしてあった。
(身体を、見られたんだ……)
郁也の身体のあちこちに、うっすらと残る佑輔の口づけの跡。医師や看護師には気づかれてしまっただろうか。それらはもう随分と薄く消えかかっていた。
(ボクの身体には、まだあの跡が残っているのに)
佑輔の唇は、あのぽっちゃりした彼女のものなのだ。
(佑輔クン……)
郁也は、うっと呻き声を上げた。涙が後から後から溢れてくる。
「郁也? あら、どうしたの。郁也」
淳子が驚いて郁也のベッドをのぞき込む。
「何でもない。何でもないから」
郁也は身体の痛みに顔を
「お願い。ひとりにして」
淳子は静かにドアを開け、病室から出ていった。
お願い。ボクをもう解放して。
身の程知らずの夢を見たことは謝ります。
ボクが悪かった。
だから、お願い。
許して下さい。
許して。
「あら、谷口君。お手洗い、そっちじゃないわよ」
「え」
看護師にそう言われ、初めて郁也は自分の手が格子を握り締めて揺さぶっていることを知った。鍵のかかった格子戸は、この病棟の出入り口で彼ら患者たちを守っている。声のした方を郁也は振り返った。
「ああ。そうだっけ」
看護師は郁也が手を放したことを確認すると、笑顔で自分の用に戻っていった。
夜になると、空気の冷たさが心の中にまで入り込んでくる。
そこかしこからひっきりなしに聞こえていた話し声や物音が絶えると、もう気を紛らわせるものもない。
(どうか、お願いです。ボクを。ボクを、もう、許して)
これまでその存在を信じたこともない神に、郁也は祈った。