第二宇宙速度-8

文字数 3,619文字

 寺沢がやってきた。
 淳子は郁也の退院を伝えたのだろう。
 先週の郁也は思い詰めた顔をして、真っ青で精気がなかったが、今日は頬の辺りにぽぉっと赤みが差していた。担任から見ても、どことはない色気のあるコだった。
 寺沢は郁也のケガの回復度合いを確認して、補助が必要かどうか調べに来たのだった。
 郁也の鎖骨のヒビも幸い大したことはなく、重いものさえ持たなければ、体育の授業以外は問題ない。こんなに長い入院が許されたのは、ひとえに精神科領域の要因を疑われたからだった。
「ま、何にせよ、よかったね」
 寺沢は丸い顔を左右に振った。
「わたしたち教師は、親御さんと同じように、生徒の幸せを願っている訳でね。そのコそれぞれの幸せの内容は問わないけど、一応、学力を身につけてもらうことを通じて、幸せのお手伝いをする、ってところが役割なので」
 郁也は身構えた。説教だろうか。いや、寺沢はそういったタイプの教師ではない。
「若い頃は、いろいろあるやね。わたしの頃もそうでした。幸か不幸か、わたし自身は全然もてなかったので、そうした苦労はなかったけれども、ね。恋愛も大いに結構。でも、成績に影響のない範囲なら、という条件は外せない、から」
 寺沢は鞄を抱え直した。これからまた学院に戻って、仕事の続きをするのだろう。
「そう。あいつにも、そう言っといて。ほら、あいつ」
「え?」
 郁也は焦って声がひっくり返った。
「あの、あいつ、ほら、瀬川。ちゃんと伝えといてよ」
「せ、先生?」
 郁也は心臓が口から飛び出すかと思った。
「何を驚いてるの。前から見てるとね、よーく分かるよ。君が当てられて苦労してると、あいつ、本当に心配そうにハラハラして、はは。見てるとおんもしろいんだ。あれ見たくて、わざと当てんの、難しいとこ。君が入院したときなんか、みんなの前なのに真っ先に君のこと聞きに飛んできたよ。わはは」
 この、悪魔!
「先生……」
 郁也は上目遣いに寺沢を睨んだ。
「そんな目をしても、だーめ。わたしには効かないからね。そういうのは瀬川にやって」
 んじゃ、あさっては気をつけて来るように、と寺沢は飄々と病室を出ていった。
(はああ。びっくりした)
 郁也は脱力してベッドに崩れ落ちた。
 寺沢は、だとしたら、学院側にもとぼけていてくれたのだろうか。
 いじめがあったかどうかを確認に来たとき。その後の様子を見に来たとき。郁也の下手な言い訳を、嘘と知りつつ公式採用してくれたのだろうか。
(ボクと、佑輔クンのこと分かってて……)
 郁也は感謝した。
(そっか。そうなんだ)
 寺沢が郁也を目の敵のように当て出したのは、二学期に入ってすぐだ。その頃、既に佑輔は寺沢に気づかれるほど郁也を気にしていたのだった。郁也はくすぐったい気持ちでベッドの上を転がった。もうじき、佑輔がやってくる。

 元気よくドアを叩く音がした。郁也はドアに飛びついた。
「よ」
 郁也がドアを開けると、佑輔が照れ臭そうに笑っていた。
「……どうしたの、その顔」
 郁也は佑輔の腫れた口許を指先でそっと撫でた。
「ケンカしたの?」
 佑輔が荒れていたのを郁也は思い出した。郁也は見ていないが、中野のところへ押しかけたり、隣のクラスと一悶着起こしたり。自分のせいで、また佑輔が馬鹿なことをしでかしたのか。そう思うと、郁也は責任を感じて、再び学院に通うのを躊躇してしまう。
「殴られた。松山に」
「松山君?」
 郁也は驚いた。
「どうして……」
 中等部の頃からのつき合いではないか。
「いや、帰り道、専門棟の裏に差しかかったら……」
 

 佑輔は郁也が入院してからも、つい帰りは専門棟を経由してしまっていた。自分のしたことのせいで郁也が学院に来られなくなったのに、いつも郁也と示し合わせて通りがかったこの道を行けば、郁也がそこに笑っているような気がした。それが習慣となって、今日も佑輔はここを通った。
「瀬川!」
 後ろから呼び止める声がして、佑輔は立ち止まった。松山が、肩を怒らせて追ってきていた。
 美術室の前。佑輔が夏に演劇部の大工仕事をしていた空間で、松山は佑輔の頬を勢いをつけて思い切り殴った。予期せぬ攻撃に、佑輔の長身が吹っ飛ぶ。
 ずささっと地面に倒れた佑輔を、拳の痛みに奥歯を嚙み締めた松山が見下ろした。
「いてて……。何だよ、いきなり」
 佑輔は口の端を手の甲で拭った。血の混じる唾を吐き出す。
「何だって。理由は分かってんだろ」
「……どうかな」
「何いっ。じゃあ、もう二、三発殴られれば、はっきり思い当たるだろうぜ」
 松山は佑輔の学ランの胸許を掴み上げ、自分の利き腕を大きく振り上げた。
「もう止めとけ、松山」
 この場にそぐわない間延びのした声が割って入った。
 松山は振り返った。中野が窓枠にだらりと凭れてこちらを向いていた。
「中野サン……」
 お前サンにまでサンづけされるいわれはないけどな、などと中野はぶつぶつ言った。
「そいつをよく見てみろよ。頬の肉なんか、げっそりこそげて、骨ばっかりじゃねえか。そんなの何発も殴ったら、お前サンの拳の方が壊れっちまうぜ」
 中野に言われて、松山は佑輔の顔を見返した。「ちっ」と舌打ちして、乱暴に掴んだ胸許を放す。息を整えてから、松山は佑輔を睨んだ。
「じゃあ、あいつに免じて許してやるよ。あいつと、それからそこの中野サンにな」
 佑輔は眩しそうに目を細めて松山を見上げた。
「……何で、分かったんだ」
「そんなもん、見てりゃ分かるんだよ」
「いつ、見てたんだよ」
 佑輔は声を低めた。郁に手を出そうとするなら、許さない。

 松山はぷいっと横を向いた。
「演劇部の地区大会で、中空きの時間に、お前、どっか抜けたろ。その前にあの辺の店屋のこと、いろいろ聞いたりしてたからよ。これは、花火大会のとき一年が言ってた『すっごい美少女』とやらだろう、と思って。お前は誤魔化してたけどよ。そんで、ホールの端っこからオペラグラス覗いたら。……谷口だった」
 佑輔は、松山が郁也をストーキングしてそれを知ったのではないことが分かって、部分的に警戒を解いた。ふうっと溜めていた息を吐き出した。
「なーんだ、と思ったけど。谷口の顔見てたら、分かったよ」
 松山は脚に絡みつく枯れ葉をつまみ上げ、ふうっと吹き飛ばした。
「あいつ、凄く嬉しそうに笑ってて。あいつのあんな顔、見たことなかった」
 佑輔はがっくりうなだれた。その日、郁也をああまで苦しめた、佑輔の裏切りが始まったのだ。
 松山は拳に残るダメージをもう一方の手で揉みほぐそうとした。拳を開いたり閉じたりして、ダメージの残りを確かめた。
「そう思って思い返すと、ああ、そうかもなあ、って気がしたよ。坂本のこととかな。俺たちの誰も、あんな風にあいつを笑わせることなんて出来やしない。お前だけなんだ」
 松山は最後に痛む手をぶるぶると回した。
「他のヤツらも、気づいてんのかな……」
 佑輔は気弱に呟いた。
「さあな。お前ら、上手くやってたんじゃないの。俺だって、あの大会なかったら気づかなかったかも知らんし。他のヤツのことは知らんよ。でもな。谷口は何つっても、俺たちの『お姫さま』だからよ。何つーか、ま、みんなの妹みたいなものだから。泣かしたりなんか、しようものなら」
 松山は喉許を掻き切るジェスチャーで佑輔を脅した。佑輔はそれを見て、ふっと笑った。
「分かった。もう一度、俺にチャンスをくれ」
 松山は首を幾度か縦に振り、佑輔をそこに残して歩き出した。
「『すっごい美少女』も、あいつだよ」
 佑輔は松山の背中に白状した。松山は振り返らず、手だけ挙げてそれに応えた。

 がさがさがさ、と秋の風が枝々を揺らした。赤い葉がはらりはらりと降り続く。
 中野は「よいこらせっ」と、およそ若者らしくない仕草で美術室の窓を乗り越えてきた。
「丁度その辺だったよ。あいつが倒れてたの」
 佑輔は慌てて身を起こした。
「初めに見つけて救急車呼んだの、俺なんだ。当局に発見されたら、隠蔽されるかと思ってな」
 どうやら杞憂だったらしいがな、と中野はもごもご言った。中野はそのまま佑輔の側まで来て、木の根に腰を下ろした。背中を丸め、自分の膝に肘をついた。
「どんな夢見てたんだか。あいつ笑ってたよ。幸せそうに。まるで『眠り姫』みたいに」
 佑輔は無言で二階の理科室の窓を見上げた。
「『泣かすな』って、言っただろ」
「……済まん」
「ま、いいけどな。あいつ、松山も、お前サンが真っ暗な顔でふらふらしてるときには、手を出さずに待ってたんだぜ。感謝しとけよ。ほれ。もう一度、チャンスがあるんだろ。行けよ。待ってるんだろ、お前サンのお姫サンは、お前サンのことを。早く行ってやれ」
 中野はしっしっと佑輔を追い払う身振りをした。
 佑輔は立ち上がり、制服についた砂を払って照れ臭そうに笑った。
「ありがとう」
「おお。しっかりな。次は許さんぞ」
 そして、佑輔は一目散に郁也の待つ病室へ駆けつけたのだった。
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