重力加速度-4

文字数 2,438文字

 緊張のせいか、郁也は喉が乾いていた。
 それは佑輔も同じだったかも知れない。外に出たふたりに夏の陽差しは容赦なく照りつけた。公園を歩くと売店があった。日除けのパラソルが涼し気に見えた。
「谷口、席取っといて」
「うん」
 註文の飲み物が出てくるのを待つ間、郁也は木陰のより涼しそうなテーブルを選んで腰かけた。時折風が枝々を鳴らす。郁也は耳の上辺りを押さえて、真志穂のつけた分け目が乱れないようにガードした。
 髪から手を離したとき、何か嫌な感じがした。そっと辺りを見回すと、斜め前方から来る強い視線があった。郁也は怖くなった。郁也を射貫(いぬ)不躾(ぶしつけ)な視線。郁也はその場に凍りついた。

 見た目は普通の若者だった。多分、郁也たちより三つ四つ年上だろう。郁也をじっと見つめるその男は、僅かに笑みを浮かべているようにも見えた。
 どうしてそんなに見るんだろう。やっぱりボク、おかしいのかな。すれ違うひとには気づかれなくても、止まってじっと見たら、こんな格好してるボクが、実は女のコじゃないって分かっちゃうのかも。知られちゃったのかな。
(どうしよう。どうしよう……)
 とても長い時間に思えた。ようやく紙コップを手にしてやって来た佑輔の腕に、郁也はしがみついた。
「やっぱりボク、変じゃない?」
 佑輔は郁也の異変に気づいた。
「どうした、谷口」
「あそこのひと、ずっとボクを見てる」
「何」
 佑輔は急いで振り返った。離れた席に男がひとり、こちらを向いて座っていた。佑輔は割って入り男の視線を遮った。郁也を自分の肩で庇うように座り、改めてその男を睨みつけた。男はチッとがっかりした表情で去っていった。佑輔はようやく肩の力を抜き、郁也を振り返った。
「気にすんな」
 郁也は震えていた。
「ごめん瀬川君。ボク、やっぱり変なんでしょ。こんなカッコで来たりするんじゃなかったんだ」
「……それは違うよ」
 佑輔は郁也の前にコップを押し出した。郁也はそっと手を伸ばした。冷たいオレンジジュースは、郁也の胸を通って、黒い霧を少し洗い流してくれた。ぷるんと光る唇でストローをくわえる郁也を見て、佑輔は言った。
「谷口って、本当に、自覚ないのな」
「え……」
 自覚? 
「どういうこと」
 きょとんとしている郁也に、佑輔は頭を掻いた。
「つまりさあ」
 佑輔はそこで言い淀んだ。佑輔が彼の註文したアイスコーヒーをぐっと飲み干した後も、郁也は佑輔の言葉を待っていた。参ったなと呟いて、佑輔は今度は鼻の先をぽりぽり掻いた。
「……言わせるなよ」
「ごめん」
 何だか分からないまま郁也は謝った。佑輔は、今日はふたりとも謝ってばかりだと言って笑った。佑輔の笑顔は郁也を幸せにする。今日はこんなに近くで、この笑顔を見られたんだ。忘れないよ、瀬川君。郁也の鼻の奥がつーんとした。

 コップはふたつとも空になっていた。氷が融けてかちと鳴った。
「行こうか」
 公園の真ん中には池があり、家族連れやカップルがボートを漕いでいた。笑い声が聞こえた。子供が船の上ではしゃいで、母親にたしなめられている。地面からの照り返しを避け、ふたりは木陰を歩いた。
 郁也は半歩下がって佑輔に続いた。佑輔の肩を見ていたかった。白い襟が風に煽られ、やや灼けた頚が隠れたり現れたりした。頚から顎、頬、額。美しい、鋭い輪郭。
 会話らしい会話もなく、ふたりは林を歩いた。ヒールに慣れない郁也に合わせて、佑輔はゆっくりゆっくり歩いた。もうすぐ終わる魔法の時間を惜しむ郁也の気持ちと、それは丁度よく合っていた。
「あっ」
 慣れないヒールを木の根に取られ郁也はバランスを崩した。悲鳴に近い郁也の声に、佑輔は反射的に腕を差し出す。郁也はそれに摑まった。佑輔に抱きついたような格好になって、郁也は慌てて汗ばんだその腕を放した。ふたりの間を午後の風が勢いよく吹き抜けた。郁也は思わず服の裾を押さえた。
 風に舞い上がった木の葉が郁也の髪に止まった。
 佑輔はそれをつまみ取ろうと手を伸ばした。
 郁也の目の前に佑輔の顔があった。ふたりの頬をそろそろと風が撫でていった。郁也の眼差しに引き寄せられるように、佑輔の顔が近づいて来た。
 唇が触れ合った。
 何も考えられなかった。拒むことも、応えることも出来ないまま、郁也は息を止めていた。
 長い、長い時が流れた。だが、現実にはそれは何秒とも言えない一瞬だった。
「あ……ごめん」
 唇を離すと佑輔はたじろぐように数歩下がり、妙に赤くした顔を背けた。そして、郁也が呼び止める猶予もなく、佑輔はそのまま池の向こうへ走り去った。


「良かったね。デート出来たんだね」
 真志穂は心から喜んでくれた。
「『デート』って、言うのかな」
「だって、プラネタリウム観て、お茶して、公園散歩したんでしょ。立派なデートコースじゃないかー」
 メイクを落とす道具を順番に郁也に手渡しながら、真志穂は深く頷いた。郁也はそれぞれの使い方を真志穂に確認しながら、手順を進めた。佑輔にキスされたことだけは、真志穂には言わなかった。 
 衣装も脱いで、郁也はすっかり今朝ここに来たときの格好に戻った。
「ありがとう、まほちゃん。服はクリーニングして返すから」
 真志穂は郁也の手を取って、ぎゅっと握った。
「いいよ、返さなくって。それ、いくちゃんにあげる」
「まほちゃん……」
「初めからその積りだったんだ。今日の記念に、ね」
「ありがと、まほちゃ……」
 言葉にならなかった。
 郁也は真志穂の手を握ったまま泣いた。今日三度目の涙だった。一度目は待ち合わせの場所に着いたとき。二度目は佑輔が郁也を置いて行ってしまったとき。二度必死に涙をこらえた分、郁也ははすすり上げて存分に泣いた。天国と地獄を行ったり来たりした一日の喜びと悲しみの全てを、声を上げて泣くことで消化してしまいたかった。後は早く思い出の箱の中に押しこめてしまうだけ。きらきら光る宝石箱の中へ。
 真志穂は優しく郁也の背中をさすってくれた。その手は自慢の妹をいたわるように温かだった。
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