第二宇宙速度-2

文字数 3,969文字

 まほちゃん。
 ボク、もっとキレイになれるかな。
 ボクがもっとキレイになったら……。
「勿論、いいよ。いいけど、どしたの。どんな心境の変化?」
 真志穂はうきうきと郁也の髪をダッカ―ルで留めた。
 木曜日。
 郁也は部活も佑輔も投げ捨てて、真志穂の部屋へ急いだ。淳子には「今日は遅くなる」と朝のうちに言っておいた。
 郁也は真志穂に特訓を願い出たのだ。
 真志穂がいつもしてくれる変身の魔法を、自分で使えるようにするために。
 真志穂は基本的な用具を郁也の前に並べた。レクチャーの内容をメモに取る。ブラシなどの道具類は予めひと揃い、真志穂に頼んで用意してもらった。真志穂セレクションだ。
 肌を整えて、ファンデーションを塗る。郁也の青ざめた肌がつるんと潤む。睡眠が思うように取れない日が続いて出来た目の周りの隈も、幾分目立たなくなった。
 アイメイクを習う。複雑な手順。真志穂は「いくちゃんの可愛らしさを損ねないように、最小限に留めるのがポイント」と、少しの手数で郁也の瞳がきらきら輝くような技術を披露した。やって見る。何とか出来そうだ。
 頬にうっすら赤みを差し、唇をうるうる光らせて。
 髪はセットしやすいように、また毛先を揃えて貰った。細いオレンジのリボンを編み込んで仕上げる。
 夏に着たオレンジのシャツドレスは、カーディガンと脚はレギンスで。陽の高いうちならまだ着られそうだ。
 出来上がったのは、どこから見ても、完璧な美少女だった。
 馬鹿なことだ。
 無駄なことだ。
 こんなにしても、どうせ中身はあんなじゃないか。
 鏡の中の少女は、きっと口許を引き締めた。
(いいじゃないの。一生に一度、馬鹿なことをする自由が、わたしにもあっていいでしょ。どうせ、時間はもう残り少ないんだから)
 真志穂が、近々写真館でちゃんと写してもらおう、と言った。
 失われる時間を、それが確かに存在したことを、記録するために。
 全ては失われてゆく。郁也の指の間から、さらさらと音を立てて。
 決断をする時期が、近づいているのかも知れない。


「週末はどうして過ごすの」
 変な抑揚がつかないように、細心の注意を払って郁也は尋ねた。
 駅前で学院の通学バスを降り、周囲に知っている者がいなくなってから。やっと郁也は佑輔と話が出来る。並んで歩ける。ルールは何も変わっていない。
「明日は先週使ったセット、ばらして片づける仕事があるな」
 演劇部は地区大会を突破出来なかったので、今年の舞台のセットはもう用済みなのだ。予算を抑えるため、使い回せるパーツはなるべく手入れして残しておくので、結構手間と時間がかかるんだ、と佑輔は言った。
「じゃ、あさって、日曜日は?」
 明るい声に聞こえるように、郁也は努力した。佑輔を振り返って見上げるときに、伸びかけた髪がふわっと顔の周りに拡がるよう、角度とスピードを計算して。
 遠心力で浮かんだ髪が、重力に引かれて元に戻った。答えを待つために郁也は立ち止まっていた。
「あさっては約束が……」
 佑輔は続く言葉を慌てて呑み込んだ。「しまった」という顔をした。
「ああ、そうなんだ。それじゃ、またね」
 郁也は笑顔で手を振って、佑輔の前から駆け出した。
 ちゃんと笑えていただろうか。
 佑輔が「キレイだ」と言ってくれた、郁也の笑顔。
 佑輔の記憶には、とびきりの笑顔を残したい。
 たとえ、佑輔がもうそれを思い出すことがなくっても。
 

 日曜日。
 寒くて天気が悪ければ、郁也は家でじっとしていようかと思っていた。
 天気予報では終日快晴。
 その通り、朝から絶好の行楽日和だ。
 母も今年は、夏の事故のせいかいろいろ忙しいらしく、この土日も仕事へ出かけた。
 午前の光の眩しく差し込むキッチンに、郁也はひとり取り残された。
 こんな日に、初めてデートするんなら、きっと午後だ。夏の日の記憶が蘇る。駅前の電器屋で、初めて待ち合わせをしたあの日。自分に向けられた佑輔の笑顔。郁也はそれを振り払うように、熱いシャワーを浴びた。
 髪を乾かすとき、真志穂に教えられたような向きで流れを作る。
 自分の皮膚にあれこれ手をかけるのは、これはこれでひとつの快楽ではないか。手のひらや指の先を使って、自分の外見を作り上げてゆく感覚。ブラシが肌を撫でる感じ。
 真志穂にやってもらうより、それらは濃密に郁也に刻み込まれていく。
 身も心も、整えられ、作り上げられてゆく過程。行為の主体と客体が、ふたつながらこの身にあって。
 グロスを引き終わった郁也の唇から溜息が漏れた。
 真志穂の指導は大したものだ。真志穂自身の施術とそう変わらない仕上がりの美少女が出来上がった。
 仕上げにオードトワレをひと吹きして、郁也は家を後にした。

 ひとりで歩く、街。
 深まりゆく秋の太陽は日に日に傾きを増し、世界の色彩も鮮やかさを欠いてゆく。
 こんなに好い天気なのに、どこか色褪せて、ぼんやりとした輪郭だ。
 街路樹はオレンジから赤みに色づき、落ち葉が次々と足に絡まる。
 郁也は、駅前からメインストリートを抜けて、いつもの公園へ向かっていた。
 何が目的という訳でもない。ただひとり、ぼうっと歩き続けた。
 白いパンプスにも足が慣れ、今や郁也は傾斜も段差も平気だった。
 もう誰の手助けも要らない。
 時折風にリボンが揺れる。木々の枝が風に吹かれてざざっと音を立てる。その音に紛れてひとの話し声がするたび、郁也ははっとして振り返る。
 ひとより頭半分程飛び出た、若い男の姿が視界に入るたびに、どきっとして目を凝らす。
 郁也はどうしても佑輔を探してしまった。
 佑輔を見つけたら、どうしようと思うのか。郁也は自分でも分かっていなかった。
 この姿で、デート中の彼らに割り込む気なのだろうか。
 この姿の郁也なら、あのぽっちゃりした娘に勝てると思っているのだろうか。やっぱり郁也の方がキレイだと、考えを変えてくれるとでも。
 魔法はあくまで魔法であって、現実を変えられるものではない。その魔法の下は、痩せっぽちの男性型の貧相な肉体だ。
 若い、高校生のカップルが歩きそうな場所を、郁也はひとり歩き続けた。
 たまにひとが郁也を振り返る。様々な年齢の、大抵は男だ。じろじろ不躾に投げかけられる視線も、郁也を満足させはしない。佑輔以外の男に幾ら見られても、郁也は何も感じなかった。ただ、こうした姿で外へ出た初めの頃のように、視線に(おび)えることはなくなっていた。自分のこの姿の魅力を理解したからだ。
(谷口って、本当に自覚ないのな)
(自分の影響力ってものを考えた方がいいよ)
 佑輔の言葉が郁也の耳に残る。
 思えば、佑輔には随分酷いことをした。
 食欲が落ちるほど悩んだ相手とデートしていたのに、その相手は話を聞いて架空の少女に嫉妬していたのだから。
(あのときは、まさか自分がその「恋煩い」の対象だとは、思いもしなかったな)
 郁也は自分の胸にぽっかりと大きな穴が空いているように感じた。このシャツドレスをはぐって見れば、向こうの空が透けて見える程に。

 どれくらい歩いただろう。
 郁也は歩き疲れてベンチに腰かけた。
 目の前に白い教会が建っていた。
 つい先週、佑輔を待ったベンチだった。
 あれからまだ一週間。正確には八日しか経っていない。
 たった八日間で、世界はこんなに変わってしまった。
 あのとき黄色く揺れていた木の葉は、今は茶色くくすんで悲しげに垂れ下がっている。
(まるで、ボクみたいだ)
 見た目をキレイに繕う程、自分を惨めに感じてしまう。
 もう嫌だ。
 早く帰って、メイクを落とそう。こんな可愛い服も脱いで、リボンを外そう。
 立ち上がろうとした郁也に、「おひとり、ですか」とひとりの男が声をかけた。
 緑のセーターにグレーのズボン。歳は郁也より四、五歳上だろうか。折り目正しい丁寧な口調は品のよさを感じさせた。こんなところで見ず知らずの郁也に声をかけるのだから、どの程度かは知らないが、郁也が余程哀れっぽくしょぼくれていたとも考えられる。
(同情されたのかな)
 いいひとそうだな、と郁也は思った。こんなひとと一緒にいるのも、悪くない。少なくとも、今の郁也は正直淋しかった。笑って、返事をしてみようか。
「え……」
 郁也は慌てて口許を押さえた。
 声を出せば、郁也が女のコでないことが知られてしまう。
 今までこの格好で外に出られたのは、普通の女のコの振りをして街を歩けたのは、隣に佑輔がいてくれたからだった。
 佑輔は郁也が本当は男のコだと知っている。声変わり後の男の声で喋っていても、だから別にどうということもなかった。
 だが。
 髪にリボンを結んだ美少女に声をかけたこのひとは、郁也が自分の声で返事をしたら、驚いて逃げてしまうだろう。嫌悪に顔を引き()らせて。
 郁也は自分がたとえようもなく醜い怪物になったような気がした。
 悲しかった。
「あの……」
 男が何か言いかけるのを尻目に、郁也は涙をぽろぽろこぼしながら、その場から走って逃げた。
 もう嫌だ。
 もう、嫌だ。


 家に帰って、郁也は泣きながら顔を洗った。
 母はまだ帰っていなかった。
 しーんと静まり返る家にひとり、郁也は泣いた。
 メールの返事は来ていなかった。
 惨めだな、と思いつつ、郁也は佑輔のケータイに、メールを入れておいたのだ。何てことのない、普通の挨拶のような文面で。句読点の合間に醜い嫉妬があふれないよう、何度も読み返してから送った友達メール。
 ひっく、と息をついて、郁也はケータイを開いた。
 十八時二十三分。
 外はとっぷりもう暗い。
 深呼吸をしてから、郁也は佑輔のケータイを鳴らしてみた。番号は登録してあったが、いつもメールで、通話したことはそういえばなかった。
 電源が、切ってあった。
 郁也のケータイの画面に、はたはたと涙の滴が落ちた。
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