重力加速度-6
文字数 3,637文字
郁也は佑輔に、野球の試合に誘われた。兄貴がチケットを二枚くれたんだ、と佑輔は言った。
(へえ。瀬川君、お兄さんいたんだ)
すらっと背も高くて落ち着いた感じのする佑輔に、上の兄弟がいたとは。郁也は何となくおかしくなって、自室のベッドに寝転がったままくすりと笑った。
(お兄さんと喋るときって、どんななんだろ。甘えた言葉遣いしたり、するのかな)
あの顔で。と郁也は思う。くっきりした鼻梁に切れ長の瞳、頬には無駄な肉はなく、やや薄めの唇。他の者がどう見るかは知らないが、郁也にとってはこの上なく凛々しく美しい。
唇。
あの日、一緒にプラネタリウムを観た後、歩いた公園で触れ合った唇。
あのとき、佑輔には特別その積りはなかったのかも知れない。郁也の髪に引っかかった木の葉を取ろうと近づいた流れで何となく、ちょっとしたはずみでそうなっただけかも知れない。
郁也は人差し指で自分の唇を軽く撫でてみる。
ここに一瞬触れた、佑輔の唇。
驚きのあまり意識が飛んでいて、その感触を郁也は思い出せなかった。
どこかに眠るその記憶を抽き出そうと、郁也は指で唇をなぞり続けた。
記憶の代わりに、郁也に訪れるのは渇望だった。
理科室から見下ろした佑輔の背。美術室から見えた佑輔の腕。体育館で見たTシャツの下の躍動する筋。衣装合わせのとき郁也を覗き込んだ焦茶の瞳。
そうした断片に、プラネタリウムで感じた肉体の重みや温かさといったデータを載せる。
(瀬川君……)
苦しい。胸と腹を鎖で締めつけられてでもいるように、肺が膨らまない。息が出来ずにもがいていると、吐き出せなかった不純物が体内で凝 り、高まり、熱を持つ。どろりと蠢 くそれは、郁也の心の奥をじりじりと灼き融かした。
昼間聞いた佑輔の言葉。あれは夢ではなかった。「こないだみたいにまた会いたい」とはどういう意味か。こないだみたいに。こないだ。記憶にノイズが混じって。考えがまとまらない。胸が痛くて。息が出来ない。
佑輔が再現したいと望んでいるのは何? 少女の扮装は必要ないと言った。では、何? ボクの何? ボクの存在を間近に感じたいということ? 郁也が今、その不在をこんなにも苦しく感じている佑輔の存在。この感覚を、少しは彼も感じているということだろうか。
佑輔の存在。その存在を感じさせる、空間の歪み、圧力。郁也より少し背が高く、郁也よりしっかりした骨格、それを取り巻くしなやかな筋肉。その動き。いつも見ている佑輔の姿が、重量感と熱量で肉づけされて。郁也のまだ幼い精神は、佑輔の存在を求めて、今ここの彼の不在に、切ない苦痛に身を捩る。
もし。
もしボクが。
もしボクが女のコだったら。
もしボクが女のコだったら、瀬川君は、あんな言い方しないで済んだかもしれない。
もしボクが女のコだったら、ボクはあんな風に答えただろうか。
女のコだったら。何を遠慮することもなく、瀬川君の彼女に、普通になれたのだろうか。
女のコのボクになら、キスをしてももっと平気だ。走って帰ることもない。笑ってまたねと言って、次逢ったときに続きをするんだ。
じゃあ、女のコじゃないボクになら?
このボクに許されているのは何? 何を望むの? 何を望んじゃいけないの?
白雪姫の姿の郁也を「可愛い」と言った佑輔。女のコの格好で出向いた郁也を「変じゃない」と言った優しい声。佑輔はあの女のコにまた逢いたいのか。そうではないと彼は言った。では何?
等しく全てを諦めると誓っていた。なのに、佑輔は郁也を呼び出し、次の約束まで取りつけていった。郁也の心にタンポポのようなささやかな希望が生まれ、それを根こそぎにする激しさで疑心暗鬼の嵐が吹き荒れる。郁也の葛藤はまたその深度を増した。
(痛い……)
郁也の身体の底が軋 む。ここで「女のコに生まれたかった」と思ってしまえば、今ある自分が無になってしまう。男のコの姿のまま、頑張って来た年月が虚しくなってしまう。そう認めてしまうのは敗北だ。男のコとして頑張って来た郁也が、それではあまりに可哀想過ぎる。
郁也は呻 いた。頭の芯が熱い。その一点を譲れない。それは、その執着は、プライドなのか。それとも今ここで手を引いてしまえば、これまで注ぎ込んだ金が無駄になると、引き際を見失うギャンブラーの思い込みなのだろうか。
最後、佑輔は言っていた。「中身はひとつ」と。何を思って出た言葉だったのか。
こうして真っ暗な冷たいところで、葛藤を繰り返す郁也の内部の争いを、佑輔は当然知る由もない。いつもと変わらぬ爽やかな笑顔。中身はひとつ。そうだったらどんなにか。もし本当にそうだったら。
郁也の心を青い影が覆った。そもそも佑輔は、郁也に別段何も求めてやしない。ただちょっと、いつもの友人たちとは毛色の違った遊び友達を増やそうとしているだけ。そうに違いない。だって、男のコの瀬川君は、男のコのボクを、決して求めない。
こないだ。こないだのキス。それはただのはずみで。
そんな積りはなかったのかも知れない。
忘れた方が、いい。
大したことじゃない。だから忘れた。そういうことにする。
……ボク自身は、きっと一生、忘れないと思うけど。
郁也の瞳から、一筋熱い涙が溢れた。
考えた末、郁也は女のコの格好はしないで行くことにした。
青みの差したグレーのパンツに、学院に着て行くものよりも細身にシェイプされた白いシャツ。サンダルはこの間、真志穂と買い物に行ったときにはいていたもの。シャツの釦を二つ開けた胸許には、銀のペンダントを下げてみた。いつもの友人たちとの休日には、絶対つけていかないものだ。
佑輔が誘ってくれたのは、夏休みの人出に合わせた昼間の試合だった。待ち合わせは前回と同じ駅前だ。
郁也が歩いていると、離れたところで何か光った。郁也が横目で確認すると、二、三人の女子高生が、きゃあきゃあ行ってデジカメを掲げていた。通りすがりの女のコが郁也の姿をカメラに収めたのだ。
こうしたことはたまにある。休日の私服姿のときもあるし、通学途上のときもある。これはれっきとした肖像権の侵害だ。
しかし郁也は彼女らを好きなようにさせていた。面倒臭いのもあるが、自分と同じ年頃の女のコに何と話しかけたものか見当もつかなかった。
正直女のコは苦手だった。
真志穂はあまり語りたがらないが、女のコ間での感情のもつれや争いには深刻なものがありそうだし、ナチュラルボーンな女のコというものに対して郁也が持つ複雑な想いもある。反感、憧憬、嫉妬、羨望、……。
郁也がそうした想いを抱く現実の女のコたちの一部が、郁也の姿形を評価して、憧れ、画像を保持したがる。皮肉なことだ、と郁也は思う。
「谷口ー」
佑輔は今日も爽やかに、郁也を見つけて手を振った。今日は男のコのフリの郁也は、ハートを散らさないように注意して駆け寄った。今日の佑輔は色物のTシャツに下はベージュっぽい短いパンツ。郁也ははかないので名前は知らないが、よくある膝下丈のバサバサしたものだ。骨と筋がごつごつ浮き出た、シャープなすねが丸見えだった。
(嬉しいけど……。隣に座ると、目の遣り場に困るなあ)
郁也はそんなオヤジのような妄想をおくびにも出さず、佑輔に続いて球場行きのバスに乗り込んだ。普段は乗降客の少ない地方都市のバスだが、今日のこの路線は混んでいた。郁也は、バスが揺れる度に触れ合う佑輔の肘や肩に、いちいちどきどきした。
降りるとき、佑輔が出したのは通学パスだった。
「瀬川君、家どこ」
「あ、俺?」
佑輔は町名を言った。駅からこのバスでもう少し先の町だった。郁也と落ち合うために駅前まで出たのだ。
「初めからここで待ち合わせればよかったね」
佑輔はきっぱりこう答えた。
「ダメだ。それじゃ谷口が俺を見つけられない」
(逆はともかく、それはないと思うよ)
郁也はこっそり笑った。
「それに、またこないだみたいに谷口のことじろじろ見るヤツがいたら、嫌だろ」
「え……。今日はこっちだよ」
郁也は手を広げて自分の服装を示した。今日は普通の男のコバージョンだ。他人から変に思われることはない。
郁也が心底不思議そうに覗き込むので、佑輔は目をそらした。
「まあ、確かにひとは多いよね」
郁也はぞろぞろと球場内へ進むひとの群れを見て、溜息を吐 いた。集団は好きじゃない。でも今日は、瀬川君がいるから、いい。
郁也は佑輔に「何か食べる?」と訊いた。
「友達に野球連れてってもらうって言ったら、母が」
郁也の母は郁也に、何か食べてこいと言って無造作に千円札を二枚手渡した。間違ってもふたり分のサンドイッチを作って持たせたりしない母である。
「やったあ。じゃ、ポップコーン。こういうとこで、そういうの一度食べてみたかったんだ」
佑輔は幼ない子供のように目を輝かせた。そんなに喜んでもらえるなんて。母よ、ありがとう。郁也は母に近年抱いたことのない心からの感謝を奉げた。
(へえ。瀬川君、お兄さんいたんだ)
すらっと背も高くて落ち着いた感じのする佑輔に、上の兄弟がいたとは。郁也は何となくおかしくなって、自室のベッドに寝転がったままくすりと笑った。
(お兄さんと喋るときって、どんななんだろ。甘えた言葉遣いしたり、するのかな)
あの顔で。と郁也は思う。くっきりした鼻梁に切れ長の瞳、頬には無駄な肉はなく、やや薄めの唇。他の者がどう見るかは知らないが、郁也にとってはこの上なく凛々しく美しい。
唇。
あの日、一緒にプラネタリウムを観た後、歩いた公園で触れ合った唇。
あのとき、佑輔には特別その積りはなかったのかも知れない。郁也の髪に引っかかった木の葉を取ろうと近づいた流れで何となく、ちょっとしたはずみでそうなっただけかも知れない。
郁也は人差し指で自分の唇を軽く撫でてみる。
ここに一瞬触れた、佑輔の唇。
驚きのあまり意識が飛んでいて、その感触を郁也は思い出せなかった。
どこかに眠るその記憶を抽き出そうと、郁也は指で唇をなぞり続けた。
記憶の代わりに、郁也に訪れるのは渇望だった。
理科室から見下ろした佑輔の背。美術室から見えた佑輔の腕。体育館で見たTシャツの下の躍動する筋。衣装合わせのとき郁也を覗き込んだ焦茶の瞳。
そうした断片に、プラネタリウムで感じた肉体の重みや温かさといったデータを載せる。
(瀬川君……)
苦しい。胸と腹を鎖で締めつけられてでもいるように、肺が膨らまない。息が出来ずにもがいていると、吐き出せなかった不純物が体内で
昼間聞いた佑輔の言葉。あれは夢ではなかった。「こないだみたいにまた会いたい」とはどういう意味か。こないだみたいに。こないだ。記憶にノイズが混じって。考えがまとまらない。胸が痛くて。息が出来ない。
佑輔が再現したいと望んでいるのは何? 少女の扮装は必要ないと言った。では、何? ボクの何? ボクの存在を間近に感じたいということ? 郁也が今、その不在をこんなにも苦しく感じている佑輔の存在。この感覚を、少しは彼も感じているということだろうか。
佑輔の存在。その存在を感じさせる、空間の歪み、圧力。郁也より少し背が高く、郁也よりしっかりした骨格、それを取り巻くしなやかな筋肉。その動き。いつも見ている佑輔の姿が、重量感と熱量で肉づけされて。郁也のまだ幼い精神は、佑輔の存在を求めて、今ここの彼の不在に、切ない苦痛に身を捩る。
もし。
もしボクが。
もしボクが女のコだったら。
もしボクが女のコだったら、瀬川君は、あんな言い方しないで済んだかもしれない。
もしボクが女のコだったら、ボクはあんな風に答えただろうか。
女のコだったら。何を遠慮することもなく、瀬川君の彼女に、普通になれたのだろうか。
女のコのボクになら、キスをしてももっと平気だ。走って帰ることもない。笑ってまたねと言って、次逢ったときに続きをするんだ。
じゃあ、女のコじゃないボクになら?
このボクに許されているのは何? 何を望むの? 何を望んじゃいけないの?
白雪姫の姿の郁也を「可愛い」と言った佑輔。女のコの格好で出向いた郁也を「変じゃない」と言った優しい声。佑輔はあの女のコにまた逢いたいのか。そうではないと彼は言った。では何?
等しく全てを諦めると誓っていた。なのに、佑輔は郁也を呼び出し、次の約束まで取りつけていった。郁也の心にタンポポのようなささやかな希望が生まれ、それを根こそぎにする激しさで疑心暗鬼の嵐が吹き荒れる。郁也の葛藤はまたその深度を増した。
(痛い……)
郁也の身体の底が
郁也は
最後、佑輔は言っていた。「中身はひとつ」と。何を思って出た言葉だったのか。
こうして真っ暗な冷たいところで、葛藤を繰り返す郁也の内部の争いを、佑輔は当然知る由もない。いつもと変わらぬ爽やかな笑顔。中身はひとつ。そうだったらどんなにか。もし本当にそうだったら。
郁也の心を青い影が覆った。そもそも佑輔は、郁也に別段何も求めてやしない。ただちょっと、いつもの友人たちとは毛色の違った遊び友達を増やそうとしているだけ。そうに違いない。だって、男のコの瀬川君は、男のコのボクを、決して求めない。
こないだ。こないだのキス。それはただのはずみで。
そんな積りはなかったのかも知れない。
忘れた方が、いい。
大したことじゃない。だから忘れた。そういうことにする。
……ボク自身は、きっと一生、忘れないと思うけど。
郁也の瞳から、一筋熱い涙が溢れた。
考えた末、郁也は女のコの格好はしないで行くことにした。
青みの差したグレーのパンツに、学院に着て行くものよりも細身にシェイプされた白いシャツ。サンダルはこの間、真志穂と買い物に行ったときにはいていたもの。シャツの釦を二つ開けた胸許には、銀のペンダントを下げてみた。いつもの友人たちとの休日には、絶対つけていかないものだ。
佑輔が誘ってくれたのは、夏休みの人出に合わせた昼間の試合だった。待ち合わせは前回と同じ駅前だ。
郁也が歩いていると、離れたところで何か光った。郁也が横目で確認すると、二、三人の女子高生が、きゃあきゃあ行ってデジカメを掲げていた。通りすがりの女のコが郁也の姿をカメラに収めたのだ。
こうしたことはたまにある。休日の私服姿のときもあるし、通学途上のときもある。これはれっきとした肖像権の侵害だ。
しかし郁也は彼女らを好きなようにさせていた。面倒臭いのもあるが、自分と同じ年頃の女のコに何と話しかけたものか見当もつかなかった。
正直女のコは苦手だった。
真志穂はあまり語りたがらないが、女のコ間での感情のもつれや争いには深刻なものがありそうだし、ナチュラルボーンな女のコというものに対して郁也が持つ複雑な想いもある。反感、憧憬、嫉妬、羨望、……。
郁也がそうした想いを抱く現実の女のコたちの一部が、郁也の姿形を評価して、憧れ、画像を保持したがる。皮肉なことだ、と郁也は思う。
「谷口ー」
佑輔は今日も爽やかに、郁也を見つけて手を振った。今日は男のコのフリの郁也は、ハートを散らさないように注意して駆け寄った。今日の佑輔は色物のTシャツに下はベージュっぽい短いパンツ。郁也ははかないので名前は知らないが、よくある膝下丈のバサバサしたものだ。骨と筋がごつごつ浮き出た、シャープなすねが丸見えだった。
(嬉しいけど……。隣に座ると、目の遣り場に困るなあ)
郁也はそんなオヤジのような妄想をおくびにも出さず、佑輔に続いて球場行きのバスに乗り込んだ。普段は乗降客の少ない地方都市のバスだが、今日のこの路線は混んでいた。郁也は、バスが揺れる度に触れ合う佑輔の肘や肩に、いちいちどきどきした。
降りるとき、佑輔が出したのは通学パスだった。
「瀬川君、家どこ」
「あ、俺?」
佑輔は町名を言った。駅からこのバスでもう少し先の町だった。郁也と落ち合うために駅前まで出たのだ。
「初めからここで待ち合わせればよかったね」
佑輔はきっぱりこう答えた。
「ダメだ。それじゃ谷口が俺を見つけられない」
(逆はともかく、それはないと思うよ)
郁也はこっそり笑った。
「それに、またこないだみたいに谷口のことじろじろ見るヤツがいたら、嫌だろ」
「え……。今日はこっちだよ」
郁也は手を広げて自分の服装を示した。今日は普通の男のコバージョンだ。他人から変に思われることはない。
郁也が心底不思議そうに覗き込むので、佑輔は目をそらした。
「まあ、確かにひとは多いよね」
郁也はぞろぞろと球場内へ進むひとの群れを見て、溜息を
郁也は佑輔に「何か食べる?」と訊いた。
「友達に野球連れてってもらうって言ったら、母が」
郁也の母は郁也に、何か食べてこいと言って無造作に千円札を二枚手渡した。間違ってもふたり分のサンドイッチを作って持たせたりしない母である。
「やったあ。じゃ、ポップコーン。こういうとこで、そういうの一度食べてみたかったんだ」
佑輔は幼ない子供のように目を輝かせた。そんなに喜んでもらえるなんて。母よ、ありがとう。郁也は母に近年抱いたことのない心からの感謝を奉げた。