第二宇宙速度-9
文字数 4,371文字
「ええっ。じゃあ、松山君も知ってるの」
郁也は顔を両手で挟んだ。中野はもう仕方がないとは言え、松山は同じクラスだ。
「ああ。それから、これ。矢口が」
B4サイズの紙の束を、佑輔は鞄から取り出した。
(言っとくが、これはお前のためじゃないぞ。「お姫さま」を救うのは、「王子」の務めだからな。お前先週のノート、全っ然取れてないだろうが。しょーがないから、ついでにお前も見ていいぜ)
そう言って、矢口が佑輔の机の上にどさっと置いていったのだ。
「大塚と下谷とで手分けしたから、後で礼を言っとけよって」
「ええー」
恥ずかしー。
郁也は身悶えしてベッドに倒れ込んだ。ベッド脇の丸椅子に腰掛けた佑輔を、恨めしそうに横目で睨んだ。
「恥ずかしくって、もう学校行けないよ」
佑輔の顔が嬉しそうに輝いた。佑輔は昨日郁也が大検の資料を手にしていたのを憶えていた。郁也がこのまま学院を辞めてしまおうかと考えていることに、佑輔は気づいていたのだ。
「戻るのか、学院に」
「……うん。明日退院して、あさってから」
郁也は頬を赤らめて目を伏せた。佑輔の咽がごくりと鳴った。
郁也は慌てて身体を起こした。
「さっき寺沢さんが来て」
「うん」
ややくぐもった声で佑輔は返事をした。
「『教師は生徒の幸せを願うものだ』って。『どんな内容で幸せになっても構わないけど、成績には影響させるな』って。そんで」
郁也はさらに赤くなり、消え入りそうな声で続けた。
「『瀬川にも、そう言っとけ』って……」
「完全に、バレてるな」
「うん」
佑輔は難しい顔でしばらく考え込んでいた。
「郁」
「ん?」
「そんなに俺とつき合ってるの、バレるの嫌か」
「え」
(そんなんじゃ)
「そんなんじゃ、ないけど」
郁也は毛布の端っこを弄んだ。
「……ボク、小学校のとき、女のコっぽいって、ひどくいじめられてたのね。だからちょっとトラウマで。怖いんだ。そういうの、ひとに知られるの」
「うーん。小学生の感性と、俺たちとは違うだろ。現に郁なんかクラスのアイドルじゃないか。俺、いっつもハラハラしてたよ。郁があんまりもてるから」
「そ、そんなこと」
郁也は焦って、どもってしまった。
でも、そうかも知れない。夏以降のクラスの連中の郁也への接し方は、ちやほやというか、大切に押し頂くというか。「白雪姫」に対する「七人の小人」のようだった。
郁也は、ずっと心に仕舞っていた重い質問を、思い切って佑輔にぶつけてみた。
「ボクがもし女のコだったら、佑輔クン、嬉しいかな」
「え……?」
佑輔は目を丸くした。
「もし、もしボクが女のコの身体になったら……」
郁也はそこで言い淀んだ。頑張れ。もうひとこと。
「そうしたら、佑輔クン、ずっとボクの側にいてくれる?」
郁也は泣きそうに必死な目をして、佑輔を見上げた。
夢はいつか覚める。
そう悲観して、うじうじしている意気地なし。そんな生き方はもう嫌だ。
佑輔クンは昨日初めて、ボクのこと、好きだと言ってくれた。
それなら、ボクも、頑張ってみる。
ボクに出来ること、やってみたいんだ。
いつまでも、佑輔クンの好きな郁でいられるように。
「郁……」
佑輔は目を白黒させて黙り込んだ。郁也の問いは、佑輔の人生に現れたことのない難問であるに違いない。だが、佑輔はその問いをはぐらかして逃げたりしなかった。何分か、腕を組みじっくり考えた末、ようやく佑輔は口を開いた。
「……郁は、女のコになりたいの?」
郁也は下を向いた。
「分かんない。佑輔クンが、その方がいいんなら」
物心ついてからずうっと考え続けて、未だに答えが出ない。女のコに、なってしまいたいのか、そうでないのか。郁也の中の様々な部分が、それぞれの希望を持っていて、多数決を取るといつも答えがまとまらない。そんな感じでもうすぐ十七だ。
「……だって佑輔クン、女のコの方がいいんでしょう? ボクが女のコの格好で現れたら、佑輔クンの反応、全然違うよ」
「そりゃだって、ドレスアップしてたらいつもよりキレイだもの。どきどきするよ。俺だって、ちょっと細身のスーツなんか着てさ、髪もビシッと決めてたら、郁、きっと、びっくりするぜ」
郁也は想像してみた。
(確かに。……鼻血出そ)
佑輔は尚も考えていたが、はっとして郁也の腕に触れた。
「セックスは? 普通に出来るの?」
「それは、……そのためにそうするんだもの」
「そうじゃなくって」
佑輔はいやいやと首を振った。
「郁は、ちゃんと感じたり、イッたり、出来るの? 今と同じように」
「え、それは……」
余程のことがない限り性感は保たれる。だが、オーガズムはどうだろう。
通り一遍の解剖学的知識しか持たず、女性の身体の仕組みを実際には知らない郁也には、全く見当がつかない。
「どうだろう。分かんない」
郁也が自信なさげに答えると、佑輔はきっぱりとこう言い切った。
「じゃあ、俺は、今のままがいい」
「佑輔クン……」
佑輔は照れながら、正直に続けた。
「俺、郁が『気持ちいい』って顔してるの、見るの好きなんだ。あれ、本当にすっごく感じる。あのときの郁の声も好き。だから、俺は、今のままの郁がいい」
今のままの郁がいい。
「それ、本気で言ってるの」
「本気だよ。何で」
佑輔は震える郁也に事もなげにそう答えた。
郁也は嬉しくって、嬉しくって、どうしていいか分からない。
少し意地悪を言ってみた。
「そんなこと言って佑輔クン、可愛い女のコが現れたら、そっちにグラッと行っちゃうんじゃないの」
「そんなことないって。俺、女はもう経験してきたぜ。その上でこう言ってんだから、信用しろよ」
「うわ、そう来るか」
「おうともよ」
笑い顔を曇らせて、郁也は言えなかった不安をまたひとつ、口にした。
「でも、ボク、もうすぐ十七になるよ。今に身体もごつくなるし、ヒゲも濃くなる。背だって、佑輔クンを追い越しちゃうかも知れないよ。そうなったら。そうなったボクのこと、佑輔クン、嫌いになるんじゃない?」
悲しげにそう尋ねる郁也の肩を、佑輔は引き寄せた。
「それは大丈夫。脳内変換出来るから」
「どういうこと?」
佑輔の声は自信に溢れていた。
「俺の視界の中では、郁のとこだけ、金の粉を振りかけたように、いつもキラキラ光ってるの。そういうフィルターがかかってるの。だから、郁がどんな姿になっても大丈夫」
佑輔は郁也の顔を覗き込んでつけ加えた。
「恋って、そういうものだろう?」
(うわあ)
もう、郁也には、ひとことの反論もない。
ただただ真っ赤になって、佑輔の胸に抱かれていた。
それにしても。
(「金の粉」かあ)
郁也の「そこだけワット数が違う」イメージと、何という違いだろう。
でも。表現の違いはともあれ、ふたりとも同じ視界を持っているということだ。
「佑輔クン……」
郁也は胸がいっぱいになって、佑輔の胸に頬を摺り寄せた。
佑輔が突然、身体を硬くした。
「ごめん。郁。ちょっと離れて」
郁也の身体を遠ざけ、佑輔は丸椅子を少し離してベッドにつっ伏した。
「佑輔クン……?」
郁也は不安げに佑輔を呼んだ。
郁也が悲しそうな顔をするのをちらっと見て、佑輔は郁也の手をぽんぽんと叩いた。
「違う違う。そうじゃないって」
佑輔は苦しそうに眉を寄せている。、郁也は自分の勘違いに気づいた。そして、また赤くなった。
「ご、ごめん」
「ちょっとの間。な。すぐ収まるから」
郁也もつられてもじもじしてしまう。
「ここ一週間、してないから。そんな気になれなくて、自分でも触ってなかったし」
「……うん」
郁也は佑輔が可哀想になり、背中をさすって遣りたくなった。だが、今自分が触れれば逆効果なのは分かる。そして、郁也も幾分身体の底が甘い感じになってきた。
「佑輔クン……」
郁也は吸い寄せられるように、唇を開いて足許の佑輔の方へ身体を折り曲げた。
コンコン!
勢いのいいノックに続いて、淳子が明るく病室に入ってきた。
「今日はいいコにしてたあ? 郁也」
間一髪、と言うのだろうか。心臓がばくばくする。
「あら、お友達?」
「あ、う、うん。同じクラスの、瀬川佑輔君」
ついでに仕方なく、郁也は佑輔にも「母です」と紹介した。
佑輔が立ち上がった拍子に丸椅子が倒れた。そのままぴょこんとお辞儀する。
「うんうん。先週一度、来てくれたわよね。ごめんなさいね、気難しくて。困ったコなのよ、もう」
そして淳子は郁也の耳許に唇を寄せて、「素敵な男のコね!」とウインクした。
(どういう意味なの、お母さん!)
「お友達が見えてるんなら、お邪魔はしないわ。これ、ふたりで食べて。お茶が欲しかったら、上の喫茶室に出前を頼みなさい。じゃ、退院は明日の午前十時よ」
淳子はそう言って、嵐のように去っていった。
郁也は手のひらの汗を拭った。
「ふう」
佑輔も倒した椅子を元に戻して溜息を吐いている。
「危ないとこだったね」
「うん。そうだな」
悪戯を見つかりそうになった幼児のように、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「お菓子だって。食べない?」
「それよりも、俺はこっちを食べちゃいたい気分だけど」
佑輔はそう言って郁也の髪にくしゃっと指を入れた。
「うーん、ボクも。でも、ここでは無理だよ」
「そうだな」
佑輔が一週間なら、郁也は二週間だ。
「明日学校終わったら、ボクん家へ、来る?」
郁也は初めて佑輔を自宅に誘った。
「……いいのか」
「うん。ウチの方、終バス早いから、九時くらいがリミットだけど」
「郁……」
「ご飯も、ついでに食べていけばいいよ。母にはそう言っとく」
「本当に、いいのかな」
「うん。ボクもう、親バレしても全然平気。というか多分、母はもう気づいてる。さっきの感じでは」
「そ、そうなのか」
どっちかって言うと、学院のひとに知られちゃう方が怖いよお、と郁也は笑った。
でも、佑輔クンがいてくれるから、きっと大丈夫。
幸せな夢。ボクはこの夢から醒めないように、努力してみる。この夢の方を、これからは現実にするんだ。
これから先、郁也の身体が変わってきたら、もし違和感の方が強くなったら、また今日みたいにふたりで話し合って決めればいい。
ひとりなら結論が出なくても、ふたりなら納得出来る方向がきっと見つかる。
十六から十七になるこの年。
郁也は初めて恋をした。
複雑な郁也の中の、女のコも、男のコも、こぞって好きになれたひと。
複雑な郁也を身体ごと、好きになってくれたひと。
郁也はこれを奇跡だと思った。
幸せな夢。
これから先の長い人生、どんなことに出会っても。
この恋は色褪せることなく、郁也の心の中で輝き続ける。
苦くて、甘い、胸の疼きとともに。
「佑輔クン?」
「何」
佑輔は優しく郁也を覗き込む。
「ありがとう。……大好きだよ」
佑輔は、今まで郁也が見たこともないような、嬉しそうな顔で笑った。
郁也は顔を両手で挟んだ。中野はもう仕方がないとは言え、松山は同じクラスだ。
「ああ。それから、これ。矢口が」
B4サイズの紙の束を、佑輔は鞄から取り出した。
(言っとくが、これはお前のためじゃないぞ。「お姫さま」を救うのは、「王子」の務めだからな。お前先週のノート、全っ然取れてないだろうが。しょーがないから、ついでにお前も見ていいぜ)
そう言って、矢口が佑輔の机の上にどさっと置いていったのだ。
「大塚と下谷とで手分けしたから、後で礼を言っとけよって」
「ええー」
恥ずかしー。
郁也は身悶えしてベッドに倒れ込んだ。ベッド脇の丸椅子に腰掛けた佑輔を、恨めしそうに横目で睨んだ。
「恥ずかしくって、もう学校行けないよ」
佑輔の顔が嬉しそうに輝いた。佑輔は昨日郁也が大検の資料を手にしていたのを憶えていた。郁也がこのまま学院を辞めてしまおうかと考えていることに、佑輔は気づいていたのだ。
「戻るのか、学院に」
「……うん。明日退院して、あさってから」
郁也は頬を赤らめて目を伏せた。佑輔の咽がごくりと鳴った。
郁也は慌てて身体を起こした。
「さっき寺沢さんが来て」
「うん」
ややくぐもった声で佑輔は返事をした。
「『教師は生徒の幸せを願うものだ』って。『どんな内容で幸せになっても構わないけど、成績には影響させるな』って。そんで」
郁也はさらに赤くなり、消え入りそうな声で続けた。
「『瀬川にも、そう言っとけ』って……」
「完全に、バレてるな」
「うん」
佑輔は難しい顔でしばらく考え込んでいた。
「郁」
「ん?」
「そんなに俺とつき合ってるの、バレるの嫌か」
「え」
(そんなんじゃ)
「そんなんじゃ、ないけど」
郁也は毛布の端っこを弄んだ。
「……ボク、小学校のとき、女のコっぽいって、ひどくいじめられてたのね。だからちょっとトラウマで。怖いんだ。そういうの、ひとに知られるの」
「うーん。小学生の感性と、俺たちとは違うだろ。現に郁なんかクラスのアイドルじゃないか。俺、いっつもハラハラしてたよ。郁があんまりもてるから」
「そ、そんなこと」
郁也は焦って、どもってしまった。
でも、そうかも知れない。夏以降のクラスの連中の郁也への接し方は、ちやほやというか、大切に押し頂くというか。「白雪姫」に対する「七人の小人」のようだった。
郁也は、ずっと心に仕舞っていた重い質問を、思い切って佑輔にぶつけてみた。
「ボクがもし女のコだったら、佑輔クン、嬉しいかな」
「え……?」
佑輔は目を丸くした。
「もし、もしボクが女のコの身体になったら……」
郁也はそこで言い淀んだ。頑張れ。もうひとこと。
「そうしたら、佑輔クン、ずっとボクの側にいてくれる?」
郁也は泣きそうに必死な目をして、佑輔を見上げた。
夢はいつか覚める。
そう悲観して、うじうじしている意気地なし。そんな生き方はもう嫌だ。
佑輔クンは昨日初めて、ボクのこと、好きだと言ってくれた。
それなら、ボクも、頑張ってみる。
ボクに出来ること、やってみたいんだ。
いつまでも、佑輔クンの好きな郁でいられるように。
「郁……」
佑輔は目を白黒させて黙り込んだ。郁也の問いは、佑輔の人生に現れたことのない難問であるに違いない。だが、佑輔はその問いをはぐらかして逃げたりしなかった。何分か、腕を組みじっくり考えた末、ようやく佑輔は口を開いた。
「……郁は、女のコになりたいの?」
郁也は下を向いた。
「分かんない。佑輔クンが、その方がいいんなら」
物心ついてからずうっと考え続けて、未だに答えが出ない。女のコに、なってしまいたいのか、そうでないのか。郁也の中の様々な部分が、それぞれの希望を持っていて、多数決を取るといつも答えがまとまらない。そんな感じでもうすぐ十七だ。
「……だって佑輔クン、女のコの方がいいんでしょう? ボクが女のコの格好で現れたら、佑輔クンの反応、全然違うよ」
「そりゃだって、ドレスアップしてたらいつもよりキレイだもの。どきどきするよ。俺だって、ちょっと細身のスーツなんか着てさ、髪もビシッと決めてたら、郁、きっと、びっくりするぜ」
郁也は想像してみた。
(確かに。……鼻血出そ)
佑輔は尚も考えていたが、はっとして郁也の腕に触れた。
「セックスは? 普通に出来るの?」
「それは、……そのためにそうするんだもの」
「そうじゃなくって」
佑輔はいやいやと首を振った。
「郁は、ちゃんと感じたり、イッたり、出来るの? 今と同じように」
「え、それは……」
余程のことがない限り性感は保たれる。だが、オーガズムはどうだろう。
通り一遍の解剖学的知識しか持たず、女性の身体の仕組みを実際には知らない郁也には、全く見当がつかない。
「どうだろう。分かんない」
郁也が自信なさげに答えると、佑輔はきっぱりとこう言い切った。
「じゃあ、俺は、今のままがいい」
「佑輔クン……」
佑輔は照れながら、正直に続けた。
「俺、郁が『気持ちいい』って顔してるの、見るの好きなんだ。あれ、本当にすっごく感じる。あのときの郁の声も好き。だから、俺は、今のままの郁がいい」
今のままの郁がいい。
「それ、本気で言ってるの」
「本気だよ。何で」
佑輔は震える郁也に事もなげにそう答えた。
郁也は嬉しくって、嬉しくって、どうしていいか分からない。
少し意地悪を言ってみた。
「そんなこと言って佑輔クン、可愛い女のコが現れたら、そっちにグラッと行っちゃうんじゃないの」
「そんなことないって。俺、女はもう経験してきたぜ。その上でこう言ってんだから、信用しろよ」
「うわ、そう来るか」
「おうともよ」
笑い顔を曇らせて、郁也は言えなかった不安をまたひとつ、口にした。
「でも、ボク、もうすぐ十七になるよ。今に身体もごつくなるし、ヒゲも濃くなる。背だって、佑輔クンを追い越しちゃうかも知れないよ。そうなったら。そうなったボクのこと、佑輔クン、嫌いになるんじゃない?」
悲しげにそう尋ねる郁也の肩を、佑輔は引き寄せた。
「それは大丈夫。脳内変換出来るから」
「どういうこと?」
佑輔の声は自信に溢れていた。
「俺の視界の中では、郁のとこだけ、金の粉を振りかけたように、いつもキラキラ光ってるの。そういうフィルターがかかってるの。だから、郁がどんな姿になっても大丈夫」
佑輔は郁也の顔を覗き込んでつけ加えた。
「恋って、そういうものだろう?」
(うわあ)
もう、郁也には、ひとことの反論もない。
ただただ真っ赤になって、佑輔の胸に抱かれていた。
それにしても。
(「金の粉」かあ)
郁也の「そこだけワット数が違う」イメージと、何という違いだろう。
でも。表現の違いはともあれ、ふたりとも同じ視界を持っているということだ。
「佑輔クン……」
郁也は胸がいっぱいになって、佑輔の胸に頬を摺り寄せた。
佑輔が突然、身体を硬くした。
「ごめん。郁。ちょっと離れて」
郁也の身体を遠ざけ、佑輔は丸椅子を少し離してベッドにつっ伏した。
「佑輔クン……?」
郁也は不安げに佑輔を呼んだ。
郁也が悲しそうな顔をするのをちらっと見て、佑輔は郁也の手をぽんぽんと叩いた。
「違う違う。そうじゃないって」
佑輔は苦しそうに眉を寄せている。、郁也は自分の勘違いに気づいた。そして、また赤くなった。
「ご、ごめん」
「ちょっとの間。な。すぐ収まるから」
郁也もつられてもじもじしてしまう。
「ここ一週間、してないから。そんな気になれなくて、自分でも触ってなかったし」
「……うん」
郁也は佑輔が可哀想になり、背中をさすって遣りたくなった。だが、今自分が触れれば逆効果なのは分かる。そして、郁也も幾分身体の底が甘い感じになってきた。
「佑輔クン……」
郁也は吸い寄せられるように、唇を開いて足許の佑輔の方へ身体を折り曲げた。
コンコン!
勢いのいいノックに続いて、淳子が明るく病室に入ってきた。
「今日はいいコにしてたあ? 郁也」
間一髪、と言うのだろうか。心臓がばくばくする。
「あら、お友達?」
「あ、う、うん。同じクラスの、瀬川佑輔君」
ついでに仕方なく、郁也は佑輔にも「母です」と紹介した。
佑輔が立ち上がった拍子に丸椅子が倒れた。そのままぴょこんとお辞儀する。
「うんうん。先週一度、来てくれたわよね。ごめんなさいね、気難しくて。困ったコなのよ、もう」
そして淳子は郁也の耳許に唇を寄せて、「素敵な男のコね!」とウインクした。
(どういう意味なの、お母さん!)
「お友達が見えてるんなら、お邪魔はしないわ。これ、ふたりで食べて。お茶が欲しかったら、上の喫茶室に出前を頼みなさい。じゃ、退院は明日の午前十時よ」
淳子はそう言って、嵐のように去っていった。
郁也は手のひらの汗を拭った。
「ふう」
佑輔も倒した椅子を元に戻して溜息を吐いている。
「危ないとこだったね」
「うん。そうだな」
悪戯を見つかりそうになった幼児のように、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「お菓子だって。食べない?」
「それよりも、俺はこっちを食べちゃいたい気分だけど」
佑輔はそう言って郁也の髪にくしゃっと指を入れた。
「うーん、ボクも。でも、ここでは無理だよ」
「そうだな」
佑輔が一週間なら、郁也は二週間だ。
「明日学校終わったら、ボクん家へ、来る?」
郁也は初めて佑輔を自宅に誘った。
「……いいのか」
「うん。ウチの方、終バス早いから、九時くらいがリミットだけど」
「郁……」
「ご飯も、ついでに食べていけばいいよ。母にはそう言っとく」
「本当に、いいのかな」
「うん。ボクもう、親バレしても全然平気。というか多分、母はもう気づいてる。さっきの感じでは」
「そ、そうなのか」
どっちかって言うと、学院のひとに知られちゃう方が怖いよお、と郁也は笑った。
でも、佑輔クンがいてくれるから、きっと大丈夫。
幸せな夢。ボクはこの夢から醒めないように、努力してみる。この夢の方を、これからは現実にするんだ。
これから先、郁也の身体が変わってきたら、もし違和感の方が強くなったら、また今日みたいにふたりで話し合って決めればいい。
ひとりなら結論が出なくても、ふたりなら納得出来る方向がきっと見つかる。
十六から十七になるこの年。
郁也は初めて恋をした。
複雑な郁也の中の、女のコも、男のコも、こぞって好きになれたひと。
複雑な郁也を身体ごと、好きになってくれたひと。
郁也はこれを奇跡だと思った。
幸せな夢。
これから先の長い人生、どんなことに出会っても。
この恋は色褪せることなく、郁也の心の中で輝き続ける。
苦くて、甘い、胸の疼きとともに。
「佑輔クン?」
「何」
佑輔は優しく郁也を覗き込む。
「ありがとう。……大好きだよ」
佑輔は、今まで郁也が見たこともないような、嬉しそうな顔で笑った。