重力加速度-7

文字数 3,921文字

 テレビで観るのと違って、生で観る野球は結構面白かった。スポーツに興味のない郁也は、ここに来るまで正直期待していなかった。だが、思った程広くない空間で、打ったり取ったりする音がパーン、パーンと響き渡り、選手も表情が分かる距離で走り回って戦っているのは迫力があり、郁也もつりこまれて観てしまった。これが臨場感というものか、と郁也は思った。  
「でも、本当によかったの」
「何が」
「お兄さん、自分が行きたかったんじゃないの」
「ああ、いいのいいの。どうせあいつ今日仕事だし」
(ふーん。年、離れてるんだ)
 ファールフライが飛び込んで来た。悲鳴と歓声。郁也も身体をすくめて球から逃げた。ぱんと小気味のよい音がしてボールは客席の間を跳ね、家族連れがそれをキャッチした。小学校に上がったくらいの男の子が、お父さんに助けられて捉まえたボールを嬉しそうに振り回した。
「それに、もともと俺のためだったし」
 試合は再開された。
「瀬川君の、ため」
(わあ……。何か「会話」だあ)
 前回は郁也も緊張していたし、あまり話さなかった。こうしてお互い打ち解けつつあるのが郁也には嬉しい。  
「ああ。何か……、お袋が、相談したらしいんだよ兄貴に。俺の様子がおかしいって。そうしたら兄貴がこのチケット持ってきた」
「具合、悪かったの、瀬川君」
 郁也は心配になった。体調がよくないのに自分と出歩いたり、今日だってこんな暑い日につき合わせているのかと思うと、気が気ではなくなった。
 佑輔は鼻の頭を掻き掻き言った。
「いや。別に……ただ、いつものように三杯飯食わなかったり、ボーっとしてたりしただけなんだけど。大袈裟なんだよ。でもお袋にとっちゃさ、俺が飯食わないってだけで、何かもう、一大事件らしくて、泡食って兄貴に電話したらしいんだよな。そんなに普段食ってるかっつうの。食ってるけど」

 郁也はその情景を想像してみた。息子思いのお母さん、食べ盛りの息子、独立した上の息子ともよく連絡を取り合って……。温かい幸せな日本の家庭。郁也の家庭も決して不幸ではないが、そういった普遍的な安定感のようなもの、そうしたものは確かに欠けている気がした。
(だからこんなに真っ直ぐ育つのか……)
 郁也は佑輔を眩しく見た。
「そしたら兄貴が、そんなの『恋煩い』だって勝手に決めつけ、て……」
 佑輔は口ごもり、その横顔を見る見る赤くした。
「こい、わずらい……」
 郁也は力なく呟いた。
(誰に? 瀬川君、誰か好きなひといるの? どんなひと?)
 やっぱりそうか。きっと、誰より可愛い女のコなんだろな。そりゃそうだよね、こんなにカッコいいんだもん。郁也の目の前が真っ暗になった。
 佑輔はごほんと咳払いして早口に言った。
「大体デリカシーってものがないんだよ、うちの家族には。ひとが悩んでるときに、全く、能天気な」
「……そうなんだ」
「ああ。そんで、『その娘と一緒に行ってこい』ってチケット寄越して。どうせ、取引先から押しつけられた券だとは思ったからさ、『はい、どうも』っつって有難く頂いたけど。谷口……?」
 郁也のしょげ返り振りに、佑輔も気づいたようだった。
「何」
 長い睫毛の下から郁也は佑輔を見た。佑輔は郁也の肩をぐいっと押した。
「……何か、ヘンなこと考えてんじゃないだろうな」
「ヘンなことって?」
「いやあ……」
 ふたりは互いに黙り込んだ。

 応援の歌とブラス。カキーンと爽快な球音が響いた。長く伸びた球は外野席に飛んだ。わあーと客席が歓声に包まれた。
「それで」
「ん?」
「その娘はどうしたの?」
 沈黙の重さに耐えかねてやっと捻り出した言葉は醜い嫉妬が剝き出しで、言ってしまってから郁也は死ぬ程後悔した。なのに、続けて次の言葉がポロリと出る。
「チケットはいいの?」
「んー」
 佑輔はまた鼻を掻いた。
「だからさ。こうして、有効に活用してる」
 郁也は恐る恐る顔を上げた。佑輔は前を向いて試合を見ている振りをしていたが、郁也の視線にまた赤くなって、郁也に持たせたポップコーンのバケツにがさっと手を突っ込んだ。乱暴にそれを頬張る佑輔を、郁也はバケツを胸に抱いて見た。
「そんなに見るなよ」
 佑輔は郁也の頭をばさばさっと撫でた。
「谷口はさあ、もっと、自分の影響力ってものを考えた方がいいよ」
「エイキョウリョク?」
「そうだよ。そんな目でじっと見られたら、みんな、どうにかなっちゃうから」
 そんな目って。この目が何?
「自覚ないのもほどほどにしとけよ」
「だから、何だよ、その自覚って」
「だーかーら」
 佑輔は説明しようと口を開くが、どうも言葉が出て来ないようだった。そんなに言い辛いことなのだろうか。郁也はまた不安になる。自分には何か自分にだけ分からない欠陥があるのではないか。子供の頃から繰り返し襲われる恐怖。
 佑輔はふいっと説明を諦めた。そして、郁也にそっと言い渡した。
「……俺のいないところで、そんな目して誰かを見るなよ」
(だから、そんな目ってどんな目だよ! ちっとも分かんないよ)
「眼鏡でもかけてろってこと」
 頬を膨らませて郁也は言った。佑輔は笑った。
「ああ、いいねえ。そのアイデア」
 話も通じなくて、さぞかし変なヤツと思われてるだろうな、と郁也は思った。でも、いいや。瀬川君とこんなにいろいろ話せて。学院ではそれぞれの友人もいるし、こんなにゆっくり口を利くことなんて出来ないもんね。

 君たち普段どんなことしてるの。佑輔が郁也にそう訊ねる。ほら、クラスの水上とか、横田とかさ、よく一緒にいるだろ。
 うーん。郁也は考えた。電器屋覗いたり、本屋行ったり、かなあ。部室で事足りるので、高等部に上がってから彼らと出歩く機会は減っていた。
「前はたまに図書館行ったりしたけど」
「図書館! それいいね」
 佑輔は宿題が片づかないので、教えてくれと郁也に頼んだ。嘘だあ。瀬川君、成績いいじゃん。佑輔はぺろっと舌を出した。でもさ、宿題に困ってるのは本当だよ。俺、ひとりでやるの、苦手なの。自己管理出来なくってさ。
 佑輔が郁也の顔を見た。佑輔の目は黒に近い茶で、郁也の意識を吸い込みそうに深い色をしていた。佑輔の視線は郁也の頬を辿り、唇を、か細い喉へと伝う。郁也の鎖骨に揺れる銀のペンダントヘッド。流星のデザインだ。郁也は胸の釦を二つ目まで開いていたことを思い出した。唐突にそれが恥ずかしくなって、郁也は急いでシャツの襟を掻き合わせた。
 じゃあ、次は、図書館。


「あれ、お母さん。どうしたの」
 郁也は時計を見た。もう午前九時を回っている。
「ああ、郁也」
 やっと起きてきたの、と母はふふっと笑った。
「コーヒー、入ってるわよ」
「ありがと」
 郁也はパジャマのまま台所へ向かった。
「珍しいね。こんな時間に」
 郁也の母、谷口淳子は仕事に向かうスーツ姿のまま、のんびりテレビの天気予報を見ていた。いつもの出勤時間から一時間以上過ぎている。
「連絡待ちなのよ」
 淳子は、会社のどこだかの実験農場で何か重大なトラブルが起きたらしく、研究所の所長として対策に走らなくてはならないのだ、と言った。
「本社がわたしを呼び出したいらしいんだけど、わたしはすぐ農場に飛びたいの。それで今、部下が情報収集してくれてるんだけど……」
「へえ。お母さん、今所長さんなの」
「あら、言ってなかったかしら」
「うん。聞いてない」
「あらやだ」
 農場に飛んでよければ、社外秘のデータを持った部下と空港で落ち合う。その許可が下りなければ、淳子は本社へ向けて出発する。場合によってはアメリカに飛ぶ必要があるかも知れないとのことだった。
「ふーん。よかったね。そうなったら、お父さんに会えるよ」
「あら、そうね。ふふっ。……って違うのよ。そんな悠長なこと言ってる場合じゃないのよ。それに行ったとしても、弘人さんのところとはかなり離れてるから、会いに行くことは出来ないと思うわ」

 それにしても、相変わらず凄い心臓だ。幾ら情報が揃うのを待つしかないとは言っても、そんな事態なら、先ず自分の職場へ駆けつけたくなるのが人情ではないのか。それを淳子は、自分がどこへ向かうか結論が出るのを、そのまま自宅で待っている。
 確かに行く先が海外ともなればそれなりの旅支度がいるし、淳子の職場である研究所は山の中で、空港とは反対方向だ。ここから空港へ真っ直ぐ向かえば職場から行くより一時間は短縮できる。
 いちいち尤もな淳子の話を聞き、郁也は眩暈がしそうになった。
 この度胸の半分でも、受け継いでいれば。
「あなたはあのひとの繊細さを、もらったのね」淳子が郁也によく言う台詞だ。

 ピロピロピロ。どこかで携帯電話の着信音が鳴る。
「ほら、お母さん。連絡来たんじゃない」
「あら、ほんと」
 淳子は電話を探して鞄の中を引っかき回す。。電話の主も淳子の性質をよく知っているのか、切らずに淳子の出るのを待っている。「家の電話にくれればいいのに、もう」と淳子が呟くのが聞こえた。
 郁也はもう笑うしかなかった。どこまで図太い神経か。この連絡を待っていたのだろうに。
 淳子は仕事で仕方なく携帯電話を持ち歩かされてはいるが、外でそれを使うことはない。彼女にとっては携帯電話は、通信機能のついた便利なデジカメなのだ。勿論、アメリカにいる彼女の夫との通信用の。
 結局淳子は農場へ直行することになったようだ。
「じゃ、行ってくるわ」
「うん。行ってらっしゃい」
 相変わらず、いつ帰るとも、今晩のご飯はどうしろだのは一切ない。高校生にもなった息子を子供扱いしない母を、郁也は尊敬していた。
 さて、トーストでも焼いて食べよ。
 今日も暑いぞ。卵でも焼こっと。
 郁也は馴れた手つきで台所に立った。
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