重力加速度-9

文字数 4,680文字

「ただいま……と」
 郁也は居間の扉を開けた。ガランと片づいた部屋に、今朝自分が飲んだコップだけがそのまま出しっ放しになっていた。
 母はまだ帰らないようだ。郁也はカレンダーを見て「二、三……」と数えてみた。もう七日だ。その間、二度ほど家の留守番電話にメッセージが入っていたが、郁也の携帯電話には着信もメールもなかった。
(前に公衆電話からケータイにかかって来たことがあったから、まあ、番号くらいは控えているよね)
 それが今年に入ってのことだったなら。淳子の手帳は、確か毎年更新されていた。

 あっという間の夏休み。郁也たちには八月一杯続く夏休みは、入学式の桜と同じくらい馴染みがない。郁也はそれをテレビ用の演出だと、結構後まで思っていたくらいだ。この地方では桜が咲くのは五月の初め、夏休みは一ヶ月弱だ。二学期が始まるまで、もう一週間もない。通知表には母に代わって自分で印鑑を押しておこう。
 始業式まで、あと……。郁也はカレンダーを数えた。あと五日だ。
 佑輔の宿題は順調に仕上がりつつあった。そろそろ図書館なんかに通う必要もないくらいだ。連日の外出で疲労が溜まるかと思ったが、毎日楽しくて郁也は意外と平気だった。佑輔と親しく話せる機会が失われるのは悲しいことだ。

 郁也は残りご飯を炒めて、冷凍庫の魚を焼き食卓についた。テレビをつけようとリモコンを手にして、止めた。今日は何だか、作りものの賑やかさに触れたくない。
 静かだ。いつも静かなこの家だが、今夜は特にそう感じる。かちゃかちゃと郁也の食器の音だけが響いた。今頃、佑輔は賑やかな食卓を、サラリーマンの父と、パートから帰って急いで夕食を用意した母と、もしかしたら仕事が早く終わって一食たかりに来た兄と、仲よく囲んでいるのだろうか。小さな頃と違い、この年になると、賑やかな家庭は正直うるさいときもあるだろう。郁也もこの静けさに不満はない。いつもは郁也の身体にしっくりくるこの静けさが、今日に限って郁也には淋しく感じた。
 あと五日で夏休みが終わる。
 佑輔と宿題をダシに一緒に過ごす時間もなくなる。
 二学期が始まれば、またそれぞれの友人たちと適当に群れて暮らす。佑輔と郁也とでは、違い過ぎて校内では側にいられない。もうこんな風に会うこともなくなる。あと五日。郁也に残されたのはそれだけだ。

 始業式の前日、夏休み最後の夜に花火大会がある。その日は昼間勉強して、夜観に行こうと佑輔に誘われていた。何ておあつらえ向き。演出バッチリだ。その夜、ボクはシンデレラになろう。ガラスの靴を最後まではいて帰る、手がかりを残さないシンデレラだ。
 悔いのないように、夏を終わろう。
 郁也は真志穂にメールした。


 吹く風にいつしか涼しさが混じり、日が暮れると肌寒い。
 夏が終わる。
今日は夏休みの最終日。佑輔と過ごす最後の一日だ。
 嬉しさ半分、悲しさ半分。そして、夜は花火大会だ。
 図書館を訪れるひとも減った。
「皆、もう宿題終わってんじゃない」
 揶揄うように郁也は言った。
「読書感想文は今からじゃ間に合わないよな」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて佑輔は応えた。

 佑輔の宿題も片づいて、今日は焦ってすることもない。ふたりはそれぞれ自分の参考書や教科書を持ち込み、進学校の生徒らしく自主学習だ。郁也は問題集を拡げてペンを持ったが、問題に集中出来ず、時間だけが過ぎていった。佑輔のペンもさっきから動いていない。開いた頁もそのままだ。
「喉、渇かない」
「ああ、うん」
 勉強道具を拡げたまま、ふたりは息抜きに外へ出た。
 出入り口にも自販機はあったが、少し歩きたくなって、ふたりはどちらからともなく公園へ向かった。

 初めてふたりで歩いた日。あのときと同じ道を、あのときと同じ売店へ向かう。また註文した飲み物が出るのを、郁也が席を取って待った。今日は郁也をじろじろ見る者はいない。
 あの視線は性の対象としての女性に向けられる類のものだと、今では郁也にも分かっていた。男性が対象としての女性に向ける眼差し。そのとき、対象は人格を剥奪されて、単なる欲望の収束点として機能する。絵画の投視法の消失点のように、あらゆる属性を失った欲望の対象は、だとすれば、別に女性ですらなくていい。消失点は消失することによって、無限の可能性を獲得するのだ。現に、生身の女性そのものよりも、その一部であるとか、極端な場合は女性が身につける物に欲望することもあるではないか。だとすると、たまたまある男の欲望を引きつける特徴を備えていれば、郁也の男性型の身体が彼の対象に選ばれることもあり得る。あの日郁也を(おびや)かした視線の持ち主にとって、女のコの格好をした郁也がそうだったように。なら。
「可愛いお姫さま」であり続ければ? 誰かにとっての「お姫さま」を演じ続ければ、郁也はその誰かの欲望の対象であり続けられる?
 しかし。
 観念の世界ではともかく、現実の生活にはその先があるのだ。幾ら察しが悪くても、十六歳にもなった郁也は欲望のその先を知っていた。ただ憧れて遠くから眺める。言葉を交わすようになる。隣に座る。そして。
(カマトトぶってもダメだ。自分だって、瀬川君の身体をそんな風に見てるじゃない)
 郁也の口許に自嘲的な笑いが浮かんだ。
 郁也はお姫さまの姿をとることが出来るが、お姫さまイコール郁也ではない。「お姫さま」の郁也を愛する男がいたとしても、その男は郁也を愛しているとは言えない。この論法で行くと結論はひとつ。郁也を愛する男は存在しない。相手が女でも同じことだ。
 分裂した郁也の各部を同時に志向する男も女もいやしない。郁也はそう信じていた。

「お待たせ」
 佑輔はアイスコーヒーをふたつ、テーブルの上に置いた。
 風が、涼しい。
「夏ももう終わるね」
「ああ、今日は涼しいな。夜はあったかい格好しとけよ。風邪引くからな」
 やっぱり佑輔は優しい。郁也は何だか泣きそうになった。
(まだ早い。まだ早いよ、郁也)
 何か軽い話をしよう。郁也は前々からの疑問を口にした。
「瀬川君って、演劇部でしょう。芝居に興味があるって雰囲気じゃないけど」
「ああ、ないね」
「じゃあ、どうして演劇部にしたの」
「松山が」
 松山は郁也たちと同じクラスの演劇部員だ。中等部の頃から、演劇部でヘアメイクを担当している。今年の仮装大会で、郁也を「白雪姫」に仕立てたのはひとえに彼の功績だ。
「あいつが『役者やらなきゃ演劇部はラクだ』って。俺、あいつと中等の時一度同じクラスだったから」
 選択科目が既に決定している高等部と違って、中等部では一年から二年に上がるときにクラス替えがある。
「確かに夏と冬の二回セット組むだけだし、あとは公演のとき運び込んで組み立てて運び出してだけだろ。ラクだったよ」
 佑輔は屈託なく笑った。郁也は恐る恐る訊いた。
「瀬川君、中等部ではバスケやってたんだよね」
「あれ、よく知ってんな」
「凄く上手いのに。勿体ないね」
 佑輔の長い手脚。運動してると、本当にカッコいい。勿体ない。それは郁也の本音だった。
「三年やって飽きたっつーか、疲れたっつーか。もういいか、と思って。結構大変だったんだよ。高等部上がったらラクしようと思ってさ」
 うんうん。テニス部に半年で音を上げた郁也はその気持ちもよく分かる。

 やや間を置いて、声のトーンを一段低め佑輔は続けた。
「……本当言うとさ。スポーツって金かかるんだ。バスケは道具はあんまり要らないけど、試合だ、遠征だって、交通費もバカにならないし。ほら、俺ん家、みんなと違って金ないだろ」
 佑輔は紙コップに嵌った蓋を外してアイスコーヒーを飲んだ。こくり、と大きく咽が上下した。
「『それでもバスケやりたい』ってのがあったら、もっといい成績残して、奨学金獲りにいってたんだろうけど、俺そんな才能ないし、スポーツで飯食える訳ないし。そんな時間と体力あったら、バイトして勉強して、将来就職してちゃんとやっていけるように準備した方がいいかと思って。……って、全然やってないけどな」
 あんまりひとに言ったことないんだ、と佑輔は照れ臭そうに郁也に笑って見せた。
 郁也は聞いていて恥ずかしくなった。
(ボクなんか、いじめられたからって東栄学院入って、学ラン嫌だからって辞めたがったりして……)
 佑輔と比べると、あまりに幼く馬鹿げているように感じた。それと引き換え佑輔の考えの大人びていること。
 郁也はこれまで、将来についてなど考えたことすらなかった。考えまいとしていたのかも知れない。
(どう転んでも、明るい未来なんて、ボクの前には拓けてこなさそうで。考えるの、コワイもんね)
「瀬川君って、偉いんだね。ボク、そんな風に考えたことなんて、なかったよ」
 郁也は蓋越しにストローを回しながら言った。
「偉くなんか、ないけど」
 佑輔はそっと郁也を覗き込んだ。

「谷口、何か今日、元気ないな。どうかしたのか」
「え」
 どうしよう。瀬川君とこうしてふたりで会えるのが最後だから、なんて言えないよ。どうしよう。何か、違う適当な答え、何かないかな。何か。
「あ、明日っからまた、学校だな、と思って」
 郁也はどぎまぎしながら言った。
「そう言えば、谷口、前も『辞めたい』って言ってたな」
 成績もいいし、水上や横田みたいに友達もいて、部活も楽しくやってそうに見えてたけど、何か辛い嫌なことがあるのか。佑輔はそう郁也に尋ねた。何気ない問いかけを装いながら、佑輔の目は真剣だった。佑輔に心配顔でじっと見つめられて、郁也の胸の奥がぎゅっと(うず)いた。

 嫌なことはあるが言えないと答える郁也に、佑輔はなおも答えを迫った。郁也は甘えたようにこう言った。
「言ったら、瀬川君、きっと笑うよ」
「笑わないよ」
「本当に」
「ああ、笑わない」
 郁也は軽く深呼吸してから、学ラン着るのが嫌だから、と告白した。「へ?」と聞き返したきり呆気に取られている佑輔を残して、郁也は立ち上がった。
「待てよ」
 紙コップを屑入れに放り込んで、郁也はすたすた歩き出す。佑輔は慌てて追ってきた。
「ごめんごめん。そんなに怒るなよ」
 郁也はぷいっとそっぽを向く。佑輔は長い脚をばたつかせて郁也の前へ回り込んだ。
「悪かったよ。な。謝るから」
 焦り顔の佑輔に郁也はついぷっと吹き出した。佑輔はホッとしたような顔をした。谷口は結構意地悪だ、と苦情を申し立てた後、佑輔は郁也に尋ねた。
「何で、学ラン着るのが嫌なんだ」
「んー」

 郁也はどこまで話したものかと思案した。今ここで自分の性向について全てを語る気には到底なれない。無難なところと言えばこの辺か。
「何か、ああいうのって、ガラじゃないっていうか。ウチの学ランって、あれじゃない、昔の蛮カラ時代からのものでしょう。そんな野蛮さはボク持ち合わせてないし。ボクには似合わな過ぎて、着てて自分でもすっごく違和感あるんだよね」
「そおかあ」
 佑輔は頭の後ろで手を組んで、空を見上げて呑気に言った。そして悪戯っぽい目をくるっと郁也に向けた。
「『コスプレ』みたいで可愛いけどな」
(「コスプレ」!)
 そんな受け取り方があるのか。郁也は思いっきり肩透かしを食らわされたような気になった。確かに郁也自身、その姿がコスプレみたいに感じられて、だからこそ嫌だったのだが。
「あはは」
 郁也は笑った。笑うしかなかった。
「あはははは。『コスプレ』か。そいつはいいや」
 美少女が少年キャラのコスプレで学ランを着ているところ。そのイメージは悪くない。
「いいだろう」
 佑輔が自慢そうに鼻をひくつかせた。
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