双曲線-11

文字数 4,290文字

 階段を上る途中の窓からは、中野の制作中のキャンバスがよく見えた。大作は離れた方が見やすいものだ。
(「幸せはどこに」か…)
 階下で何やら大きな物音がして、中野がうんざりした様子でそちらへ向かうのが見えた。中野は見た目は胡乱(うろん)だが、いいヤツだ。最近は美術室の主と化していて、郁也がいつここを通ってもそこにいるような気がする。
 郁也の幸せは、今、ここにある。
 この同じ学院の建物の向こうとこっちで、郁也は佑輔と同じ時間を過ごしていた。離れていても、いつでもメールで連絡が取れて、いつでも同じことを考えることが出来た。
 十六歳から十七歳へ。この時間、ふたりの航跡は確かに寄り添っている。
 佑輔はいつも優しくて、郁也は嬉しくて涙が出そうになる。佑輔が激しく郁也を求めるとき、郁也はこれまで味わったことのない自己肯定感に包まれる。郁也は佑輔の欲望を通して、自らの身体を許容することが出来た。許し、受け容れた肉体は、郁也にかつて想像もしなかった世界をくれた。
 今、郁也は幸せだ。
 だが。いつか本物の女のコが、佑輔の前に現れたら。
 考えまいとしても、いつもそこへ帰ってしまう、恐怖。
 永遠の夢なんて、ない、と。
 手に入らないという絶望と、手に入れたと確かに感じたものを失う怖れ。
 その苦しみはどちらがより大きいだろうか。

 痩せっぽちの取るに足らないただの少女ノーマと、美と名声と富と愛を手に入れ、それらが指の隙間から次々こぼれ落ちるのを、恐怖のうちに見つめていたマリリン。
 有名な話だ。
 もし、ノーマがマリリンになれなかったら。
 恐らく生涯を不幸なままで、何も持たずに終えただろう。他の多くの女たちと同じように。
 では、マリリンは幸せだったか。この世で女性が望む全てを手にした彼女は、次々に恋人と別れ、失いゆく美貌を一秒でも永らえさせることに血道を上げ、そして全てを失った。
 彼女は、最期、自分が「マリリン・モンロー」という架空の存在を演じたことを、一時でも悔いただろうか。ティーンの頃の憧れを胸の奥に仕舞ったまま、不幸なノーマで一生を終えるべきだったと、後悔したりはしなかっただろうか。
 郁也は赤い流れを揺蕩(たゆた)う女の顔を見下ろした。それは変わらず虚ろな表情で宙を眺めるだけだった。


 郁也は体育の時間が苦手だ。
 中等部のとき、半年でテニス部の練習に音を上げた郁也は、たった四十五分の体育の授業でも、その日の種目によっては疲れが次の時間に残ってしまう。
 そして今日はよりにもよって、サッカーだった。
 二クラスづつ合同で行われる体育の授業は、互いにライバル視する理系クラス同士がぶつかり合う格好の舞台である。あまりにやる気のない動きをしていると、級友たちの中で悪目立ちしてしまう。ごっこ遊びの延長とは言え、それはそれで盛り上がるのが学院生の楽しみなのだ。
 そしてまた、郁也が体育を嫌うのには、もうひとつ大きな理由がある。
 運動着に着替えなければならないことだ。
 学ランを着て男子校に閉じ籠められるのが辛い郁也にとって、皆とひとつの更衣室で着替えるのも、大変な苦痛だった。毛深いのやらごついのやら、これでもかとばかりにいろんな男の身体に囲まれる圧迫感もさることながら、自分の身体をひとに見られることに大きな抵抗があった。色白で痩せていて、この年齢の男子としては郁也の身体は貧相だった。しかしそれよりも何よりも、つるっと真っ白な脛をひとに見られてしまう。
 真志穂のところで可愛い女のコの格好をして遊んでいると、どうしても体毛を処理したくなる。郁也は男のコにしては薄い方だが、それでもスカートの下から覗いていい程度では収まらない。特に今年は、少し前に女のコの格好で佑輔の前に出たりしたので、夏物の女性の衣服から見える部分は全て手入れをしていた。
 それを誰かに気づかれるのが怖かったのだ。
 着替えるときはいつも隅の方で、ぽってりした横田かひょろっとのっぽの水上の蔭に隠れるようにして、素早く済ませた。

 空が高い。
 よく晴れたこんな日は、まだ日中それなりに気温が上がる。しかし、郁也の伸びかけた髪を揺らす風は、清浄で枯れ葉の匂いがした。
 郁也は早くも息が上がって来た。出来るだけ目立たないところで、点数に関係なくうろうろしていたいのだが、このチームの司令塔はよく目が利いて、「谷口ー、右だ、行ったぞ」などと次々指示が飛ぶ。瞬発力には問題のない郁也は、つい指示通りに動いてしまい、そろそろ疲れが脚に来ていた。
 日頃の運動不足を痛感するな。
 郁也がそう考えながら自分の正面に飛んで来たボールに足を出した瞬間。
 佑輔の目にそれは、コマ送りのスローモーションのように見えた。
「………!」
 対戦相手である隣のクラスのひとりのラフプレイで、郁也が地面に投げ出された。郁也のボールをカットしようと、肩をぶつけ転ばせた後、勢い余った振りをしてわざと郁也の細い脛を蹴ったのだ。
 審判役の体育教師の笛より早く、佑輔は走り出していた。
「大丈夫かい、谷口君」「谷口!」「どこだ、右足か」などとメンバーが集まってくる。駆け寄った佑輔の目の前で、郁也は「痛……」と眉根を寄せて唇をかんだ。佑輔の頭に血が昇った。
「坂本ぉ! お前、故意とやったな! 見てたぞ全部」
 佑輔はラフプレイの当人の襟首を掴んだ。
「何だと。言いがかりにも程があるぜ。離せよ瀬川」
「言いがかりだと。しらばっくれる積りか、こいつ」
「うるせえ! たまたま脚を振ったら、そいつがそこにいたんだよ」
「この野郎」
 佑輔は利き腕の拳を高く振り上げた。
 ピー、と再度笛が鳴った。体育教師が「よいしょっ」とふたりを引き離した。
「はいはい、そこまで。瀬川、谷口を連れてってやれ。坂本は退場。両チームひとり欠けで、いいな。再開」

 坂本というのは、バスケ部でも実力はあるのだが、よく感情に任せてダーティーなプレイをするので、敵味方共に警戒されている奴だった。中等部時代、三年間同じバスケ部で汗を流していた佑輔は彼の性質を知り抜いていた。ライバルクラスのアイドル的な存在で、一部から「お姫さま」のように大事にされている郁也を、坂本がよく思っていないのは明らかだった。
「へっ。いちいち御大層に奉ってよ。気色悪ぃんだよ」
 坂本が腹立ち紛れに捨て台詞を吐いた。郁也を抱えたままそちらへタックルしかける佑輔を、郁也は痛くない方の脚で必死に止めた。
「もういいって。もう止めなよ」
 佑輔はまだ腹立ちが収まらない様子だったが、そう言われて仕方なく郁也の肩を担いで歩き出した。
 坂本の最後の台詞は、佑輔と郁也だけでなく、クラスの他のメンバーをも侮辱したものだった。それを耳にした面々がそれぞれ顔色を変えるのが、郁也の視界の端に入った。やれやれ、これでまたテンションが上がる。郁也は内心うんざりした。
「郁、痛むか」
「うーん、ちょっとね。大したことないよ」
 衆人環視の中、堂々と寄り添って歩ける幸運。佑輔は言った。
「引きずって歩くのも、何だかまどろっこしいな。いっそのこと抱き上げちゃおうか」
 郁也は痛みをこらえながら、きゃっと笑い声を上げた。
「嬉しいけど、それはやっぱりふたりだけのときにやって欲しいな」
「よーし。じゃあ、覚えておけよ」
 グラウンドの端に郁也を降ろすと、佑輔は急いで郁也の蹴られた方の脚を、運動着のジッパーを上げ、裾を捲り上げて確かめた。郁也の白い脛が露わになる。運動着のお蔭で傷こそついていないものの、色が変わっている。後で腫れ上がりそうだ。
 どうやら打撲で済みそうなことを確認すると、佑輔はほっとして、郁也の脚を抱きかかえるようにして膝に顔を埋めた。
「もう、俺、体育の時間は気が気じゃないよ。バッファローの群れにひとりだけ人間を放り込んだみたいなんだもの。気をつけてくれよな、頼むから」
 バッファローかあ。じゃあ、佑輔クンも。
「バッファロー」
 郁也は笑って佑輔を指差した。
「そーだよ。俺もバッファローだよ。郁と比べたら、誰だって」
 郁也の体格は、同年代の男子と比べると、頼りないほど華奢だった。佑輔が額を膝にこすりつける。郁也の指が震えた。

「谷口くーん」
「おい、大丈夫か」
 グラウンドの向こうから水上と横田が走ってきた。郁也は彼らが到着する前に、慌てて捲り上げられた運動着の裾を下ろした。
「冷やしといた方がいいな。待ってろ」
 辿り着いた友人たちと入れ替わりに、佑輔は立ち上がった。
「ひどい目に遭ったね」
「折れてないか」
「そんなあ。大丈夫だよ」
「あれ、どう見ても故意とだったよな。坂本のヤツ」
「横田君、見てたんだ。僕丁度違うこと考えてて」
「水上君はいつも違うこと考えてるよね」
「えへへ」
 終了の笛が鳴った。選手交代だ。
 横田がグラウンドへ向かった。次のメンバーに入っているのだ。
 佑輔が駆け足で戻ってきた。手にしたタオルを郁也に手渡し、言った。
「これ。取り敢えず冷やしとけば、ちょっとは違うから」
 グランドの中央から教師が「おーい、瀬川。早くしろ」と呼んでいる。
「はい」
 叫び返して佑輔はまた駆けていった。
 郁也の手に残された白いタオルは、ひんやりと冷たかった。手洗い場まで行って、濡らしてきてくれたのだ。いつも佑輔が首に巻いたり、腰ポケットから垂らしているタオル。郁也には見慣れたこのタオルも、実際手にするのは初めてだった。
「親切だねえ、瀬川君って」
 水上が感心したように言った。
「うん。そうだね」
 郁也は運動着の裾から、そっとタオルを押し込んだ。

 授業が終わり、更衣室でのいつもの苦行を終えた郁也は、両側を横田と水上に守られ、混み合う廊下を片脚を引きずり歩いていた。
 後ろからどすどすと足音が近づいてきた。
「郁」
 そう言ってから、息を呑む気配がした。郁也はその場で足を止め、横田と水上を一、二メートル遣り過ごしてからゆっくりと振り返った。
 佑輔が小さく舌を出している。
「何」
 郁也はほとんど唇の動きだけでそう応えた。
「これ、貰ってきた。すぐ貼っとけよ」
 湿布薬だった。怪我をした本人にしか出さないものを、佑輔は何か適当なことを言って保健室から分捕ってきたらしかった。
「ありがと」
 郁也の口許が(ほころ)んだ。佑輔のしてくれることは、いつも本当に郁也には嬉しい。郁也の表情を確認すると、佑輔は照れ臭そうに「じゃな」と言って、早足で横田たちを追い越していった。
 横田が「どうした、谷口」と振り返った。
「うん。これ。貰った」
 普段あまり接触のない佑輔の親切に、水上が「瀬川君って、いいひとだねえ」と呟いた。
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