双曲線-1

文字数 4,106文字

 紺色の制服の前を留めると、いつもの息苦しさが郁也の肺を押さえつける。
 久しぶりの再会にそこかしこで熱烈な挨拶を交わす生徒たちの中を、郁也は重い足取りで自分の教室へ向かった。
 どんな顔をしていいか分からない。
 プライベートであんな格好をして佑輔と会っていたことも、佑輔がそんな郁也にキスをしたことも、他の誰にも知られてはいけない極秘事項だ。
 夏休み中、佑輔と過ごしていたことが知られれば、芋づる式にそれらが白日の許に晒されてしまう気がした。だから、佑輔を見ても、知らん顔をしているのが正解だ。自分に目もくれない郁也に気づいて、佑輔は傷つくだろうか。それとも、佑輔の方からそういう態度を取るだろうか。
 自分に、佑輔を無視した態度が取れるだろうか。
 うじうじ考えていると、教室まではあっと言う間だった。
 郁也は仕方なく教室の戸を開けた。
 出来る限り普通に、郁也は入っていった。側を通る者たちになるべくいつも通りに挨拶をした。みんな、妙に愛想よく郁也に挨拶を返した。
 佑輔はもうやって来ていた。
 佑輔の席は郁也の隣の列の三つ後ろ。席に向かう途中、佑輔と目が合った。
「お早う」
 佑輔は小さく郁也に笑いかけた。おはよ、と返事して郁也は席に着いた。
 鞄を置くと、緊張が弛んで郁也は机に突っ伏した。
 胸で携帯電話が震えた。
 見ると、佑輔からメールだった。
(きょうも「コスプレ」カワイイ)
 壁の掲示物を見る振りをして郁也は横を向いた。視界の隅では、佑輔が真っ黒に灼けて登校して来た矢口と何やらつっつき合っていた。郁也はそっと机の下で、(バカ)と打ち返した。郁也のところに水上がやってきて何やら言った。郁也が身体を水上に向けたとき、視界の端でケータイを開いた佑輔が小さく舌を出したのが見えた。


 始業式が終わった後の理科室は、横田の変身で持ち切りだった。髪は切りっ放し洗いっ放しだった横田が、それをセットし、あまつさえコロンまでつけての御登場だったからだ。これには一年から三年まで、全員が度肝を抜かれた。
「なあなあ、これって、美容室で切ったん?」
「朝何分くらい掛けるんすか、ドライヤー」
「まさか、カーラー巻いたりしねえよな」
「馬鹿者。サザエさんじゃあるまいし」
 冷やかしでくんくん鼻を鳴らす者もいて、今日だけ横田は大人気だった。
 横田の変化の理由は決まっていた。登校日に自慢そうに見せびらかしていた、あの女性との交際だ。まさかとは思ったが、あの後もふたりの交流は続いていたものらしい。
「『避暑地の恋』っていうか。どうせすぐ振られると思ってた」
 郁也は正直に呟いた。横田は怒り出すでもなく、郁也を振り返って笑った。
「へへへ、俺も」
 そこへ現れた顧問の寺沢も、横田の恋の顛末(「末」って何だよ、まだ終わってないぞ、と横田は言ったが)を聞いて、
「都会の女性に憧れて、彼女の住む街の大学へ行こうと勉強する。それも勉強する動機としては、いーんじゃないでしょうか」
と澄ました顔で言った。ただ、勉強が手に付かなくなって、成績がこれ以上下がることのないようにと釘を刺すのは忘れなかったが。
「『これ以上』って何ですか、先生。ひと聞きの悪い」
「いやあ。一応部の顧問としては、わたしの担当の数学と、部活動の物理くらいは点数にもう少し色をつけてもらわないと、立場ないからね」
「担任はともかく、部活動って何ですか。僕は天文部ですよ。物理部じゃありません」
「ええっ。お前って天文部だったの」
 上級生からもそんな茶々が入る。
 寄ってたかって横田を揶揄う部員たちだが、皆女性と接点のない男子校生、結局羨ましいのだ。ここへ集まる部員たちは皆似たり寄ったりで、男女交際はおろか、服装にも構わない者が多い。そんな彼らには、恋人が出来て、それも年上の美人だなどという状況は、すぐには想像出来ない異世界のことである。
 照れながら素直に話す横田も微笑ましい。
 郁也もそんな横田が羨ましかった。横田には余計な障害なく上手くいって欲しかった。向こうがどんな積りなのかは今ひとつ分からないが、まあ、若いんだし、どちらかが嫌になるまで、幸せな時間を過ごしたらいい。

 郁也の胸でケータイが震えた。さり気なく皆の輪から離れて、郁也はそれを開いた。
(今、部活? 俺ヒマだから、待っててもいいかな。図書室にいる)
 佑輔だった。
 郁也はちらっと横目で部員たちの様子を窺った。郁也を見ている者はなかった。郁也の胸の奥で何かが、冷え込んだ日に足許で鳴く雪のような音を立てた。
(もう出るとこ。一緒に帰る?)
 郁也はもう待てなかった。すぐにも佑輔に会いたくなった。昨日あんなに「これで終わり」と泣いたのに、メール一通でこんなにも浮き足立ってしまう自分をどうしようもなかった。今すぐ教室棟三階の端っこにある図書室に駆け込まないようにするのがやっとだ。
 佑輔からはすぐ返信が来た。
(これから五分したら、出る。専門棟の裏を通るよ)
 これは約十分後に美術室の横から外へ出ると丁度そこを通りかかる、という意味だ。「ボク、そろそろ帰るよ」
 活動らしい活動にならないようだし、そろそろ失礼しようかな、という風を、郁也は自然に装おうと努めた。
「お、そうだな。そろそろ帰るか」
 郁也につられて他の部員たちも帰り支度を始めた。いやいや、君たちはゆっくりしていき給えよ、と郁也は慌てたが、ひとりで抜け出せなかったときのための時間差なのだ。一応心配はない筈だ。
 荷物をまとめ椅子を整頓して、皆でぞろぞろと階段を降りた。横田を肴に盛り上がる群れをさり気なく先に遣って、郁也は窓から外を見た。佑輔がこちらに向かって歩いてくる。
 どうして彼の姿を見るたび、いちいち胸が震えるんだろう。
 郁也は学ランの胸の辺りを押さえた。佑輔に「可愛い『コスプレ』」と言われた学ラン。嫌は嫌だが、前ほどでなくなった気がする。
(ふふ。現金なものだね)
「あ、瀬川君」
 通りかかった佑輔に気づいて、水上が声をかけた。
「おお。お揃いだな。今部活の帰り?」
「うん。横田君の変化を、皆で面白がってたとこ」
 何の変哲もない級友同士の会話だ。佑輔はやはり頭の回転が速い。機転が利く。
「横田?」
 佑輔が話題の主を探した。あまりの変化に、すぐには分からなかったらしい。
「おおっ。お前、どうしたの、そのアタマ」
「瀬川、お前、同じクラスだろ。教室で見てた癖に、何だよ。わざとらしい」
「いや。分かんなかった。多分、見えてても、これが横田だとは認識してなかった」
「お前なあ」
 お前に観察力っつーものはないのか、と横田は佑輔を責めた。それが照れ隠しなのが見え見えで、その会話に部員たちはますます喜んだ。

 所定の位置に、学院の通学バスは停まっていた。運行時刻に決まりはなく、ある程度頭数が揃ったら出発することになっている。朝など特にこのバスだけでは利用する学院生全員をカバー出来ないが、すぐ近くを公共のバスも走っている。希望があれば途中で停車はするが、基本的に駅前までノンストップの通学バスの方が少し早い。
 天文部と物理部のメンバーに佑輔も混ざって、一行が乗り込むと静かにバスは発車した。
 次に拾う中等部の子たちが乗りやすいように、高等部生は奥から詰めていくのが慣わしだ。それでも高等部の生徒でいっぱいのときは、諦めて公共のバス停へ向かったことが中等部の頃郁也にも幾度もあった。彼らは後部の座席にまとまって、今会話に加わったばかりの佑輔に説明する、という形で横田の話を続けた。
「へえ。横田、夏休みの間に、そんなことになってたのかあ」
 よかったな、と佑輔は素直に祝福した。
「あれ、そっちこそ、何かリアクションに余裕が。さては」
 横田も負けじとつっ込みを入れる。何かいいことがあったのでは、と言うのだ。
「うーん。まあ、俺のことはいいじゃない」
 佑輔は動じず笑って受け流した。
 通路を挟んで隣に座った郁也の方が手に汗を握っていた。それに、郁也は「佑輔に決まった彼女」疑惑を捨て去った訳ではないのだ。あの日球場で佑輔の言わんとしたことは、結局郁也には分からなかったのだから。
 横田を肴に彼らはひとくさり笑い終えた。ふと、横田が言った、
「でも、谷口も何か雰囲気変わったよな」 
「え、え? ボク?」
 突然自分のことを言われて、郁也はたじろいだ。
「そう言えば、そうかもな」
 そうだそうだ、と皆が郁也をじろじろ見た。郁也は慌てた。
「変えてないよ、どこも。普通だよ」
「いや。どっか違う気がする」
 横田が断言した。どこだ、どこが違う、と部員たちは郁也に視線を集中させた。。
「髪伸びた?」
「ああ、不精して、最近床屋行ってない」
 本当は少し伸ばしたくて、真志穂に毛先だけ整えてもらっている。
「眉毛。細くないか」
(最近女のコメイクで、まほちゃんちょっと剃ってた)
「睫毛も二、三本増えてないか」
(そんな、漫画じゃあるまいし)
「いや、何か、そんなパーツパーツのことじゃなく」
 横田がもどかしそうな声を上げる。
「何か、そう、全体的な雰囲気がさ」
 何だ何だ、と皆が息を詰めて郁也を観察する。郁也は固くなって彼らの視線に耐えた。
「明るくなったよな」
 佑輔がさらりと流した。
「そうだそうだ」「前はもっと、何か、背中も丸めてて」「笑顔がなかった」などと部員たちは好き勝手言う。水上がウィンクして言った。
「クラスのみんなの扱いの方が、本人よりも変化したよね」
 仮装大会からこっちの、彼らの郁也への下にも置かない気遣い振りのことを言っているのだ。
 そこから話題は学院祭のことに移っていった。
 ぼうっとした連中ばかりと思って郁也は油断していた。横田は恋をしているだけあって、感覚が鋭くなっているようだ。
 バスを降りると、真っ先に佑輔が「じゃ」と言って去っていった。部員たちは三々五々、次のバス停へ向かう者、どこかへ寄り道する者と、挨拶を交わして散っていく。郁也は「ちょっとケータイ屋のブースに寄る必要が」とか何とかもぐもぐ言って、横田や水上たちと分かれた。郁也は横田が駅の駐輪場に入っていくのを横目で確認して、電器屋に向かった。
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