第二宇宙速度-6

文字数 3,255文字

 夜六時。夕食の配膳を目途に、淳子は病室を引き上げる。終業時間だ。
 郁也が出された食事に箸をつけるのを見届けてから、淳子は家路に着いた。
 良くも悪くも、淳子の明るさは周囲を彼女のペースに引き込む力がある。文句を垂れつつ、郁也は昼間、論文の下読みをしたり、川村の手伝いで羅列された数字をパソコン上で表にまとめたりと、雑務に忙殺されていた。
 その間は、余計な事を考えずに済んだ。
 淳子が大口を開けて弁当をぱくつくのにつられて、昼の食事は比較的咽を通った。川村が無給で働く郁也へのご褒美に、何か甘いものを差し入れてくれることもあった。
 だが、夕食はだめだった。
 少し食べると、胸がむかむかする。
 トレイを片づけた後、郁也は淳子に持ってきてもらった科学雑誌を広げる。毎日同じ頁を開く。
 活字を目で追っていても、ちっとも頭に入ってこないから、進まないのだ。
 広げた頁は、あちこちふやけて波打っていた。

 ひとりになると、昼間は雑事で押さえておけた、記憶の蓋が開く。
 郁也は毎日同じ迷路にはまり込む。
(佑輔クン……)
 春。球技大会で、郁也に向かって駆け込んできた佑輔。カッコよくて、郁也はつい見とれてしまった。それまでその存在を意識することもなかった佑輔に、そのとき以来、郁也はすっかり夢中になった。
 夏。学校祭の仮装行列。恥ずかしくて恥ずかしくて、誰にも言えないけど、嬉しかったあれこれ。「お姫さま」になった郁也。夕暮れの教室には王子さまがいて、郁也の姿を満足そうに見つめていた。今思い出しても、郁也の胸はどきどきする。
 夏休みは一緒に過ごした。好きになってもいいけど、絶対自分は好きになってもらえっこないんだから、甘い夢は見ちゃだめだよ。毎日自分にそう言い聞かせて、待ち合わせの場所へ急いだ。だから、佑輔の気持ちに気づくのが遅くなった。佑輔には可哀想なことをした。
 佑輔の、気持ち。
 あの頃、佑輔は、郁也のことが好きだった。
 ご飯が食べられなくなる程、お母さんやお兄さんに心配される程、郁也のことが好きだった。
 なのに。
 ひとりの女のコが現れただけで。
 また、見慣れた頁にぽたぽたと滴が落ちる。
(佑輔クン……!)
 それとも、やっぱり郁也の思い違いだったのだろうか。
 普通の男のコが、郁也なんかを好きになる筈がなかったのだろうか。
 なら、あんなこと、しないで欲しかった。
 佑輔の家に初めて行った日。雨が降っていた。
 傘のない郁也に自分の傘を持たせて、自分は半分濡れながら歩いていた佑輔。
 雨音にも消されきらない、切ない声を郁也は上げた。
 郁也の事を好きでないのなら、あんなこと、しちゃだめだ。
 好奇心なら、男のコは他に掃いて捨てる程いるじゃないか。学院には男子ばっかりなんだから。
(何も、ボクじゃなくたって)
 選りにも選って佑輔のことを、胸が潰れそうに好いている、郁也を選ばなくったって。
「う……うう……」
 大きく肩を上下させて、郁也はひとりで泣いた。すすり上げるたび走る痛みに唇をかみ締めながら。

 泣くだけ泣いたら、忘れられるかな。
 何日かそう思ったが、変わらなかった。
 郁也の心の中で、佑輔の重さは変わらなかった。
(ボクの身体が男のコであるうちは、こんな思いが続くのかな)
 本物の女のコには敵わない。
 でも、もし、ボクが女のコだったら。
 考えても、もう仕様がないことだ。もう、佑輔は郁也の許に帰ってはこないのだから。
 分かっていても、郁也はそう考えることを止められない。
(もし、ボクが、本当に女のコだったら……)
 丸いふっくらした胸を、佑輔の欲望を柔らかく受け止める器官を持っていたら。
 運命は変わるかも知れない。
 微かに光が見えそうになると、必ず毎夜黒い悪魔がやって来てこう囁く。
(じゃあ、その低い声はどうするんだ。街で声をかけられても、挨拶ひとつ返せないその声は。はは。裏声の練習でもするか)
 真っ平ごめんだな。と別の郁也は応える。
 結局、プライドなんだ。
 自分がこれ以上惨めになるのが耐えられないんだ。
(これ以上?)
 これより惨めなことがあるだろうか。
 どんな対策を立てたところで、佑輔は帰ってこない。
 幾晩か泣き続けた郁也は、無理にでもこう思うことにした。
(一生、誰とも肌を触れ合わることなどないと思って、諦めていたでしょう。それが、あんな幸せな思いをさせてもらったんだよ。それだけで、もう奇跡だって、自分でも分かっていたじゃない。よかったよ。まだヒゲもなくてキレイなうちに、好きだったひとに見てもらえて。抱き締めてもらえて)
 よかったんだ。幸せだ。ラッキーなんだ。
 だが、次の夜は、めそめそ泣くところから再スタート。堂々巡りだ。


 金曜日には郁也の様子も落ち着き、精神科医は淳子を解放することを了承した。淳子は川村以下二名を呼んで、臨時オフィスの調度を撤収させた。
 淳子は帰り際、「いいものがあるのよ」と勿体ぶって自分のノートパソコンを郁也に開いて見せた。
「何?」
「しーっ」
 淳子はメールに添付されたデータを開いた。動画だった。
「こほん、こほん。ああ。……郁也君」
 父、弘人だった。
「君がケガをして入院していると聞きました。その後回復は順調ですか」
「日本語だ……」
 郁也は驚いて淳子の顔を見た。淳子は黙って頷いた。
「君も、もうすぐ十七だ。成長するにつれ、行動半径は広がり、困難な局面に出会ったり、危険な梯子(はしご)に足をかけたりすることもあるでしょう。しかし、そんなとき、決断を下す前に、わたしたちのことを思い出して欲しいのです。君は、わたしと淳子さんの大切な、何にも代え難い宝物だということを」
 画像が粗くてはっきりしないが、そこで父は眼鏡の奥を拭ったようだった。
「もうひとはこの歳になると、自分自身に夢や希望は抱かなくなる。次の世代です。わたしは、君が君の世界をよりよく生きられるように、今、研究をしています。君と、君の仲間たちの生きる世界が、希望に満ち溢れたものとなるように。わたしと淳子さんは共に、君の幸せを何より願って生きています。どうか、どうかこのことを、常に頭の隅に置いておいてもらいたい。日頃、側にいることの出来ない父の、たったひとつの頼みです」
「……弘人さん……」
 淳子が横で瞳を潤ませた。
「大人になりつつある君の、相談相手としては何かと食い足りないかも知れないが、いつでも君のことを思っていますよ。あまり淳子さんに心配をかけないで。では。身体大事に」

 そこで父のメッセージは終わった。郁也は父がこんなに長く、しかも日本語で話すのを初めて聞いたような気がした。しかし、内容がどうも。
「お父さんって、ボクが自分から何かしたように、思ってない?」
 淳子は目を見開いた。 
「あなたね。まさか、あんな作り話があたしたちにも通用すると、思ってるの」 
 あんまり親をナメんじゃないわよ、と淳子は歌うように言いながら立ち上がった。
「蝶々を助けようとしただなんて。あなたいつからそんなお優しいコになったのよ。しかも、そんなことで誤って転落したりする訳ないじゃない。あなたみたいな賢いコが」
「お母さん……」
 全部お見通しだったのか。郁也は愕然とした。大体蝶々って何よ、もう秋よ。そう言いながら淳子はパソコンを閉じた。
「でもまあ、学校には、黙っててあげるわ。いろいろと、知られたくないことがあるわよね、そのくらいの歳の頃って。そんな馬鹿馬鹿しい作り話をでっち上げる程、話せないことがあるってことですもんね。でも」
 淳子は全ての荷物を手に持って、郁也を振り返った。
「弘人さんが言ったことは本当よ。あなたが目指すのがどんな形の幸せであっても、あたしはちっとも構わない。本当にあなたが幸せになるんならね。けど、何かしでかすときには、まず、あたしたちのことを、思い出してからにして頂戴。分かったわね」
 郁也は承諾するしかなかった。
「Yes,ma'am.」
 郁也は敬礼して見せた。
「Right」
 淳子は笑って出て行った。
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