第二宇宙速度-5

文字数 3,867文字

 寺沢がやって来た。彼はいじめの事実があったかどうかだけ知りたがったので、「ないです」と答えた。
 自殺企図の可能性ありということで、精神科の医者に面談された。
 夜は病棟の出入り口に施錠をするし、郁也の病室はナースステーションのすぐ前だから心配ないが、ひとの出入りのある昼間はついていてくれ、と淳子は病院から言われた。確かに病室の窓は八センチ程しか開かない仕組みになっていた。
 考えた末、淳子は病室をオフィスにすることに決めた。部下に道具を運び込ませて数日間、ここに居座ることになった。
「これがウチの馬鹿息子。困った子なんだけど、わたしに似てキレイでしょ」
 何て紹介の仕方だ。郁也は恥ずかしくて思わず下を向いてしまった。
「彼がウチの事務方のトップ。川村さんよ」
「川村です。このたびはご迷惑おかけします」
 折り目正しいひとだ。背はあまり高くないが、スーツの似合うかっちりした身体つき。
 事務方のトップということは、所長の淳子の直属の部下だ。
「それはそれは。あの通りで、いつも母がご迷惑を……」
 郁也は小さくなって頭を下げた。
 川村は微笑みとも苦笑ともつかない表情で曖昧に笑った。
「いえいえ、かえって我々は、働き甲斐があるんですよ。信頼して任せてくれるので。責任はわたしが取るから、どんどんやってくれていいのよ、と」
「ああ。それは分かる気がします」
 面倒臭がりの淳子のことだ。細かいことは全部部下に遣らせて、外から何か言われたときだけ神妙な顔をして謝り倒すのだろう。何を言われているかは右から左で聴いちゃいない癖に。郁也がそう言うと川村は、「身内の評は辛辣なものですよ。実際、出来るひとです」と答えた。

「素敵なひとでしょ?」
 淳子は郁也に耳打ちした。年齢は、わたしの守備範囲じゃないけど、と淳子は歌うように続ける。多分、三十代後半、落ち着いているが、もしかしたらもっと若いかも知れない。
「息子に何を言ってるの、お母さん」
 ふふふ、と笑って、淳子は次の荷物を取りに出た。
 確かに、素敵なひとだった。美形ではないが、誠実そうな人柄が顔に現れている。真面目そうだが、時折茶目っ気たっぷりに笑って見せる。素っ頓狂な淳子との遣り取りもすっかり手慣れたもので、細かい書類仕事は秘書のように全て請け負い、淳子が心おきなく所長業に専念出来るよう手配しているらしかった。実に有能そうだ。
 教師以外で、大人の男のひとを間近に見るのは初めてだった。
 佑輔のことが心になければ、ちょっとポーッとなってしまうかも知れない。
(こういうひとを、好きになればいいのに)
 郁也の中の女のコが言った。下手に格好いいひとは、もててだめね。
(何て節操のない。こんなに辛い思いをして、もうそんなことを考えるなんて)
 郁也は呆れた。
(でも、まあ。失恋の最大の薬は次の恋愛、とはよく言うよね)
 どちらにしても、普通の男のひとは、男のコの郁也には興味がない。
 郁也はまた、波風のないひとりの人生に戻るだけだ。


 昼間はいい。
 淳子は毎日来て、郁也のベッドの足許で、時折うんうん唸りながら凄いスピードで仕事をしている。
 郁也も論文の下読みを命じられたりした。
「ええー、何か難しそう。読めないよ、こんなの」
「大丈夫。これね、はい、専門用語の辞書。文法は文学作品じゃないから単純よ。中学英語に出てくる時制だけ。訳文はまとまってなくていいから」
 数頁プリントアウトした論文と、分厚い辞書。
「無理だって」
「文句言わない。ケガでしょ。病気じゃないんだから」
 何かしてないと、ボケるわよ、と本人的には最大の脅し文句らしいことをつけ足して、淳子は押し切った。
「もう。ボクはあなたの部下じゃありません」
 そう言い言い、郁也は命じられた仕事を淡々とこなした。
 気分転換になった。 
 もともと郁也は勉強に逃避することで、直面する困難から目をそらしてきた。
 淳子の下請け仕事も同じことだった。
 郁也の仕事は、川村も評価してくれた。

 精神科医にも、寺沢にも、色々聞かれた。
 結局郁也の捻り出したストーリーは、「窓の外に、転落のショックではっきりとは思い出せないが、何か、蜘蛛の巣に蝶か何かがかかっていて、手を伸ばせば届きそうなその蝶を助けようとして、うっかりバランスを崩して落ちました」というものだった。全面的に郁也の過失だということにしたいので、郁也が馬鹿っぽい落ちをつける必要があった。
 それにしても、ちょっと間抜け過ぎる。
 郁也は悔しい気がしたが、他によい話も思いつかず、これで通すことにした。
 寺沢はこれであっさり退き下がったが、精神科医は納得いかない顔をした。郁也が食べ盛りの十代だのに、病院の食事を食べ切らないのが腑に落ちないらしかった。郁也は「好き嫌いがあって」と恥ずかしそうに言ってみたが、大した効果はなかった気がした。さすがプロだな、と郁也は舌を巻いた。
 食べものはどれも味がしなくて、咽を通らない。
 それに加えて、郁也はもうしばらくぐっすり眠れていなかった。
 入院中身体を動かす用がなくて、疲れないから眠れないと嘘を吐き、睡眠薬でももらおうかとも思ったが、精神科医に余計な詮索をされるのが怖くて言い出せなかった。
「こんなに安静にしているのに、どうしてこんなにやつれちゃうのかしら」
 淳子は郁也の頬骨の辺りを心配そうに撫でた。
「こんな専門的な論文を、続けて訳させられてるからかな」
「やっぱり、しばらくは日常生活から隔離して、ここで静養していた方がいいようね」
 郁也はどきっとした。淳子には、郁也が悩みごとを抱え、ひとりもがいていることが分かるのだろうか。郁也は淳子の瞳の奥を覗いた。大人は同時に複数の世界を抱えている。目を見ても、淳子がどこまで気づいているのか、郁也にはさっぱり読めなかった。

 入院して何日目か。
 夕方、病室のドアがノックされた。
「郁也。学院のお友達が見えてるわよ」
 郁也は手にしたペーパーを取り落とした。床に白い紙が散らばった。
「……会いたくない」
「郁也?」
 郁也はベッドに潜り込んで、頭からシーツを被った。
 淳子は気遣わしげに首を振って、廊下へ出ていった。
 学院生が二回、真志穂が一回、郁也を訪れた。郁也はどれも面会を拒んだ。
 誰にも会いたくなかった。
 忘れよう、忘れようとするあれこれが、生々しい形でやって来る。郁也はそうした記憶を連れてくる全てに、今は会いたくなかった。
 記憶の断片が風化して、色褪せたアルバムに綴じ込んでしまうまで。
 懐かしんで、笑って頁を捲れる日が来るまで。
 そんな日が現実にやって来るかだろうか。
「あんなに仲のよかった真志穂ちゃんなのに……」
 淳子は驚いた。


 真志穂の面会すら郁也が拒んだとき、淳子は廊下で真志穂に尋ねた。
「あの子、何も話さないんだけど。真志穂ちゃん、何か知ってる」
 真志穂は、郁也がメールも電話も返して来ない日が二日続いた時点で、郁也の家の電話を呼び出した。そこで初めて入院のことを知り、翌日訪ねて来たのだった。
「わたしが知っていると言える程、いくちゃんが話してくれていたとは思えませんが」
 そこで真志穂は言葉を切り唇をぎゅっと結んだ。真志穂が聞かされていた話の内容は、窓から落ちたり、やつれたりなどということとは合致しなかった。幸せそうに頬を染めて、彼の許へ急ぐ郁也の姿が、苦々しく思い出される。
 そういえば先週の木曜、最後に真志穂の部屋にやって来た郁也の様子は、いつもと少し違っていたっけ。真剣にメイクの手順を習う郁也。それまで嬉しそうに真志穂の着せ替え人形でいた郁也が、そうした技術を自ら求めた。
 何か、しようとしたのだ。それだけは確かだった。
 だが、それは彼の母には言えないことだ。他の誰にも。それは、この世でたったひとり、郁也の共犯者でいるために、真志穂が犯してはならない裏切りだ。
 淳子はゆったりと真志穂の次の言葉を待っていた。

 やがて、真志穂は口を開いた。
「あんなに嬉しそうだったのに。幸せそうだったのに。わたし、許せない……」
 相手の男も。この世の道理も。郁也の細い身体の上に重くのしかかる運命も。
 可哀想だ。そんなの、郁也が可哀想過ぎる。
 あんなにキレイで、可愛い郁也が、それではあんまり可哀想ではないか。
「そう。……そうよね。あの子もそういう年頃ですものね」
 淳子は(やっぱりね)という顔で溜息を吐いた。子供は成長する。そういう事象も、思春期の郁也の前にやって来る、当然の発達段階だ。当然ではあっても、親としては、やつれた息子の姿は見るに忍びない。
「でも」
 真志穂はきっと淳子の方に向き直った。
「いくちゃんが立ち直れなくっても、世界にまた出ていけなくっても。あのコがどんな選択をしても、引き受け手がなかったら」
 真志穂は頬がカッと熱くなるのを感じた。
「わたしが引き受けます。最後は、わたしが」
 そうだ。
 それだ。
 真志穂の心の隅に、いつもわだかまっていた小さな塊。その正体はそれだ。
 郁也は女のコの心を持つ男性型の身体。
 真志穂は女のコの心を欠いた女性型の身体。
 この地上で、こんなにしっくり来る組み合わせが、他にあるだろうか。
 ひとから見ても不自然じゃない。
 一途な瞳で淳子に宣言した真志穂を、淳子は優しく抱き締めた。
「いい子ね。真志穂ちゃん。優しいいい子。ありがとう。あの子のことを、大事に思ってくれて」
 ありがとう、と淳子は何度も真志穂の髪を撫でた。
 見送る淳子に何度もお辞儀をして、真志穂は病院を後にした。
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