第二宇宙速度-3
文字数 3,782文字
「郁也ぁ。どうしたの、どこか体調悪いの?」
階段の下で淳子が呼んでいる。
「お部屋、入るわよ」
淳子は郁也の部屋の扉を開けた。
相変わらず美しい母が、柔らかで明るい薔薇色のスーツに身を包んでいた。通勤着だ。
このひとも、ちゃんと女性なんだな、と暗い気持ちで郁也は思った。
「具合悪いならお休みしなさい。お母さん、学校に電話したげる」
「……どこも悪くないよ。学校、行く」
仮病を使うなら、その内容を考えなければならない。それすら、今の郁也には大儀だった。
「行くんなら、もう起きないと」
「うん」
「本当に、どこも悪くないの? 最近朝起きれるようになってきた、と思ってたのに。心配だわ。起きられるのなら、ちゃんと起きたとこ見届けないと、あたし心配で家を出られないわ」
巧妙だ。このひとは、実際こうやって部下を動かしているのだろう。
「分かったよ。すぐ起きるから出てって」
母の前に出る前に、鏡で確かめておきたかった。泣き過ぎで腫れた目の周りを。
母が心配そうに家を出たあと、郁也はまた寝床に戻ろうかとちょっと思った。
だが、ずる休みをすれば学校から母に連絡が行って、もっと面倒な事になる。そんなことをした理由を問われるのは避けたいことだった。
郁也は仕方なくいつもより一本遅いバスに乗った。
いつもなら随分遠いと感じる学院に、今日はあっさりと着いてしまった。混雑する生徒玄関を抜けて、廊下に出る。
この時間なら、もう間違いなく佑輔は教室にいる。いつか、上級生に階段のところで呼び止められて、郁也が教室に着くのが遅くなったとき、佑輔は様子を見に来たことがあった。それを思い出すと、郁也の足は止まってしまった。
もう、進めない。
郁也は佑輔の顔を見るのが怖かった。
もうあの優しく甘い笑顔は、郁也のものでなくなった。
佑輔に、会いたくない。
嫉妬と絶望に凍りつく、自分の顔を見られたくない。
教室には、向かえない。
予鈴が鳴った。
廊下にだらだらたむろしていた生徒たちは、それぞれの教室へ駆け込んだ。
郁也は教室棟を遠回りして、足音を立てないようにそっと歩いた。
どうしよう。
どこへ行こう。
ボクは今、何をしているんだろう。
郁也の足はいつしか専門棟へ向かっていた。
ぎしぎし鳴る床をそうっと踏んで、美術室横の階段へ。踊り場の窓からは誰もいないグラウンドが見えた。
郁也は入れない筈の理科室の戸に手をかけた。
鍵が開いていた。
誰もいない理科室。今頃教室ではホームルームが始まっている。郁也が登校していないのが、担任の寺沢に知られた頃だ。
息が出来ない。学ランが重過ぎて、肺が膨らまない。頸を、胸を、この紺色の厚い生地が締めつける。
(昨日、佑輔クンは、あの娘と逢ったんだ)
今更ながら、郁也は思った。
(本物の女のコと、比べられたら、敵いっこない)
そう思うと、今日も学ランをまとった自分の姿を、佑輔の前には晒せなかった。
息が、出来ない。
郁也は理科室の窓を開けて、外の空気を吸おうとした。
窓の下の空間。数本の木に囲まれたその開けた場所で、佑輔は大工仕事をしていた。
あの初夏の頃。
美術室の窓越しに、毎日飽きずに眺めた佑輔の肩。
(学校、辞めちゃおうかな)
そう言った郁也の声を聞きつけて、二階を見上げた佑輔と初めて言葉を交わした。
(なら、辞めるなよ)
そう言われて、郁也は頑張った。
そして、見ちゃいけないと自分に言い聞かせていた、甘い夢を、見てしまった。
夢は必ずいつか覚める。
永遠に続く夢はない。
分かっている。そんなことは分かっていた。
また、馴染みの絶望に帰るだけ。元に戻るだけなんだ。
(でも、もう、佑輔クンの前には出られない)
もう、あの爽やかな笑顔を見られないなら、郁也には耐え続ける理由がなかった。
郁也は秋の低い陽差しを避けて下を向いた。涙で乱反射して眩しかったのだ。
窓の下、あの日佑輔が笑っていた位置に。
佑輔は立っていた。
佑輔が笑って腕を拡げるのが見えた。
(郁)
眩しい夏の光。
(郁。おいで。郁)
優しく郁也を呼ぶ佑輔の声。
(何泣いてるんだよ。馬鹿だな。早く来いよ)
(うん。……うん)
来てくれた。もう何を迷うことがあるだろう。
(今、行くよ。佑輔クン)
涙を拭って、郁也はその胸に飛び込んだ。
救急車のサイレンが、こんな丘の上に響いた。
教室中がざわざわした。
しばらくして、サイレンは再び聞こえ、遠ざかっていった。
佑輔は、心臓の辺りを、不穏な予感ににゅっと掴まれるように感じた。
隣の列、三つ前の席は、ホームルームが終わっても空だった。
郁也の席だ。
「んあーっ」
中野は怠そうに伸びをした。手探りで汚れた眼鏡を探す。
中野は最近美術室に寝泊まりすることが多くなった。食事のときだけ、近所の下宿へ帰る生活だ。
眼鏡をかけ、ぼりぼり頭を掻きながら時計を見た。八時三十五分。もうホームルームは始まっている。ぐちゃぐちゃになった髪を解き、首をこきこき鳴らした。一時間目に間に合わなくなりそうなときは、クラスの中野番が呼びに来る。外部の展覧会での入賞が続き、職業画家を目指すと決めた近頃では、教師連中もとやかく言わなくなっていた。
(そうそうあいつらに面倒をかけてもな)
そろそろ行くか、と中野が立ち上がろうとしたそのとき。
木の枝がずざざっと大きくしなり、黒っぽいものが降ってきた。
中野は窓枠を乗り越えた。
「宮本ォォッ」
突然の大音響に教務助手が転がり出てきた。
「はいぃっ」
「電話貸せ」
宮本から引ったくった携帯電話で一一九を呼び出す。
「宮本、お前は内線で職員室。二年一組の担任を呼べ。確か、寺沢さんだ」
「分かりました!」
宮本が美術準備室へ引っ込んだのを見届けて、中野は落ちている紺色の塊に近寄った。
(まるで、スリーピング・ビューティーだな)
倒れているのは、中野のよく知る谷口郁也だった。制服があちこち擦り切れ、頬の皮膚が裂けている。意識なく、痛々しい姿で横たわる郁也は、だがしかし、蕩 けるように幸せそうな微笑みを浮かべていた。
中野は郁也の頬に張りつく髪を、指先でかき分けて遣りながら呟いた。
「だから言ったろ、『繋いどけ』って」
「さっきの救急車、谷口だってよ!」
二時間目が終わり、クラスの情報通が息せき切って駆け込んできた。
皆一斉に振り返った。
聞き込んできた者の周りにたちまち人垣が出来る。全ての情報をとっとと吐き出せと圧力をかける。彼は唾を飛ばして話し始めた。
「飛び降りたらしい。専門棟の、多分理科室からだと思う。一時間目理科室だった一年が騒いでた。鍵が開いてるので入ったら、窓が開いてて、見たらひとが倒れてたって。担任が病院に一緒についていったらしいから、四時間目の数学は自習かもな」
ばさっ。ばさばさばさ。
大きな物音がした。
「おい、瀬川、落としてるぞ」
佑輔は手許に目を落とした。日直の自分が運んできた世界地図が床に転がって、太い巻がだらしなく解けている。
佑輔は屈んで地図を巻こうとしたが、張りがあって大きいそれは簡単に言うことを聞かず、佑輔はなかなか巻き直すことが出来なかった。終いに誰かが横から手を出して、佑輔の代わりに巻き直し、黒板横のフックに装着してくれた。誰かは佑輔の肩を押し、立ち尽くす佑輔を彼の席まで押し戻した。予鈴と同時にその誰かは、席に座った佑輔の肩をポンポンと叩いて、去っていった。
佑輔には、それが誰かも気にならなかった。
ただ意識の底の冷たい石畳に、たったひとり倒れている郁也の姿を追っていた。
郁也は何故かふんわりとした白いドレスをまとっていた。薔薇色の頬を青ざめさせて。シンデレラのように。
とてもキレイで、悲しい姿だった。
「起立、礼」
後ろの席から背中をつつかれ、佑輔はやっとのことで号令をかけた。
「着席」
「先生!」
級友のひとりが、壇上の教師に叫んだ。
「さっきの救急車は、ウチのクラスの谷口君ですか」
教室中がざわついた。
教師は、ずり落ち気味の眼鏡を中指で押し上げるついでに、上目遣いに生徒たちの興奮を測った。
「……今は授業だ」
それだけ答えて、彼は地理の授業を開始した。
授業が始まれば、否応なく生徒たちは静かになった。佑輔は授業など耳に入らず、意識の底に純白の衣装をまとう郁也を追った。さっきちらっと見えたその姿は、どんどん遠く、小さく消えていく。
(待ってくれ……!)
背中をまたつつかれて、佑輔はようやく我に返った。教壇から、教師が眉を片方吊り上げて佑輔を見ている。佑輔は当てられていたのだった。
「……済みません。聞いていませんでした」
佑輔は下を向いてそれだけ答えた。
クラスの一員が飛び降りたかも知れないという事実は、生徒たちを動揺させる理由としては充分だ。教師は佑輔を責めることなく、次の者を指名した。授業は再開された。
郁也の容態はどうなのか。生きているのか、死んでいるのか。
二階から落ちただけで人間は簡単には死なないが、動転しきった佑輔はそう考えるゆとりも失っていた。
たまらず佑輔は手で顔を覆い、机につっ伏した。
耳許でばくんばくんと脈打つのが聞こえた。
その音は佑輔の恐怖を更に膨れ上がらせた。
恐怖。
人間のその感情に、郁也が常に脅かされていたことを、佑輔は知らなかった。
階段の下で淳子が呼んでいる。
「お部屋、入るわよ」
淳子は郁也の部屋の扉を開けた。
相変わらず美しい母が、柔らかで明るい薔薇色のスーツに身を包んでいた。通勤着だ。
このひとも、ちゃんと女性なんだな、と暗い気持ちで郁也は思った。
「具合悪いならお休みしなさい。お母さん、学校に電話したげる」
「……どこも悪くないよ。学校、行く」
仮病を使うなら、その内容を考えなければならない。それすら、今の郁也には大儀だった。
「行くんなら、もう起きないと」
「うん」
「本当に、どこも悪くないの? 最近朝起きれるようになってきた、と思ってたのに。心配だわ。起きられるのなら、ちゃんと起きたとこ見届けないと、あたし心配で家を出られないわ」
巧妙だ。このひとは、実際こうやって部下を動かしているのだろう。
「分かったよ。すぐ起きるから出てって」
母の前に出る前に、鏡で確かめておきたかった。泣き過ぎで腫れた目の周りを。
母が心配そうに家を出たあと、郁也はまた寝床に戻ろうかとちょっと思った。
だが、ずる休みをすれば学校から母に連絡が行って、もっと面倒な事になる。そんなことをした理由を問われるのは避けたいことだった。
郁也は仕方なくいつもより一本遅いバスに乗った。
いつもなら随分遠いと感じる学院に、今日はあっさりと着いてしまった。混雑する生徒玄関を抜けて、廊下に出る。
この時間なら、もう間違いなく佑輔は教室にいる。いつか、上級生に階段のところで呼び止められて、郁也が教室に着くのが遅くなったとき、佑輔は様子を見に来たことがあった。それを思い出すと、郁也の足は止まってしまった。
もう、進めない。
郁也は佑輔の顔を見るのが怖かった。
もうあの優しく甘い笑顔は、郁也のものでなくなった。
佑輔に、会いたくない。
嫉妬と絶望に凍りつく、自分の顔を見られたくない。
教室には、向かえない。
予鈴が鳴った。
廊下にだらだらたむろしていた生徒たちは、それぞれの教室へ駆け込んだ。
郁也は教室棟を遠回りして、足音を立てないようにそっと歩いた。
どうしよう。
どこへ行こう。
ボクは今、何をしているんだろう。
郁也の足はいつしか専門棟へ向かっていた。
ぎしぎし鳴る床をそうっと踏んで、美術室横の階段へ。踊り場の窓からは誰もいないグラウンドが見えた。
郁也は入れない筈の理科室の戸に手をかけた。
鍵が開いていた。
誰もいない理科室。今頃教室ではホームルームが始まっている。郁也が登校していないのが、担任の寺沢に知られた頃だ。
息が出来ない。学ランが重過ぎて、肺が膨らまない。頸を、胸を、この紺色の厚い生地が締めつける。
(昨日、佑輔クンは、あの娘と逢ったんだ)
今更ながら、郁也は思った。
(本物の女のコと、比べられたら、敵いっこない)
そう思うと、今日も学ランをまとった自分の姿を、佑輔の前には晒せなかった。
息が、出来ない。
郁也は理科室の窓を開けて、外の空気を吸おうとした。
窓の下の空間。数本の木に囲まれたその開けた場所で、佑輔は大工仕事をしていた。
あの初夏の頃。
美術室の窓越しに、毎日飽きずに眺めた佑輔の肩。
(学校、辞めちゃおうかな)
そう言った郁也の声を聞きつけて、二階を見上げた佑輔と初めて言葉を交わした。
(なら、辞めるなよ)
そう言われて、郁也は頑張った。
そして、見ちゃいけないと自分に言い聞かせていた、甘い夢を、見てしまった。
夢は必ずいつか覚める。
永遠に続く夢はない。
分かっている。そんなことは分かっていた。
また、馴染みの絶望に帰るだけ。元に戻るだけなんだ。
(でも、もう、佑輔クンの前には出られない)
もう、あの爽やかな笑顔を見られないなら、郁也には耐え続ける理由がなかった。
郁也は秋の低い陽差しを避けて下を向いた。涙で乱反射して眩しかったのだ。
窓の下、あの日佑輔が笑っていた位置に。
佑輔は立っていた。
佑輔が笑って腕を拡げるのが見えた。
(郁)
眩しい夏の光。
(郁。おいで。郁)
優しく郁也を呼ぶ佑輔の声。
(何泣いてるんだよ。馬鹿だな。早く来いよ)
(うん。……うん)
来てくれた。もう何を迷うことがあるだろう。
(今、行くよ。佑輔クン)
涙を拭って、郁也はその胸に飛び込んだ。
救急車のサイレンが、こんな丘の上に響いた。
教室中がざわざわした。
しばらくして、サイレンは再び聞こえ、遠ざかっていった。
佑輔は、心臓の辺りを、不穏な予感ににゅっと掴まれるように感じた。
隣の列、三つ前の席は、ホームルームが終わっても空だった。
郁也の席だ。
「んあーっ」
中野は怠そうに伸びをした。手探りで汚れた眼鏡を探す。
中野は最近美術室に寝泊まりすることが多くなった。食事のときだけ、近所の下宿へ帰る生活だ。
眼鏡をかけ、ぼりぼり頭を掻きながら時計を見た。八時三十五分。もうホームルームは始まっている。ぐちゃぐちゃになった髪を解き、首をこきこき鳴らした。一時間目に間に合わなくなりそうなときは、クラスの中野番が呼びに来る。外部の展覧会での入賞が続き、職業画家を目指すと決めた近頃では、教師連中もとやかく言わなくなっていた。
(そうそうあいつらに面倒をかけてもな)
そろそろ行くか、と中野が立ち上がろうとしたそのとき。
木の枝がずざざっと大きくしなり、黒っぽいものが降ってきた。
中野は窓枠を乗り越えた。
「宮本ォォッ」
突然の大音響に教務助手が転がり出てきた。
「はいぃっ」
「電話貸せ」
宮本から引ったくった携帯電話で一一九を呼び出す。
「宮本、お前は内線で職員室。二年一組の担任を呼べ。確か、寺沢さんだ」
「分かりました!」
宮本が美術準備室へ引っ込んだのを見届けて、中野は落ちている紺色の塊に近寄った。
(まるで、スリーピング・ビューティーだな)
倒れているのは、中野のよく知る谷口郁也だった。制服があちこち擦り切れ、頬の皮膚が裂けている。意識なく、痛々しい姿で横たわる郁也は、だがしかし、
中野は郁也の頬に張りつく髪を、指先でかき分けて遣りながら呟いた。
「だから言ったろ、『繋いどけ』って」
「さっきの救急車、谷口だってよ!」
二時間目が終わり、クラスの情報通が息せき切って駆け込んできた。
皆一斉に振り返った。
聞き込んできた者の周りにたちまち人垣が出来る。全ての情報をとっとと吐き出せと圧力をかける。彼は唾を飛ばして話し始めた。
「飛び降りたらしい。専門棟の、多分理科室からだと思う。一時間目理科室だった一年が騒いでた。鍵が開いてるので入ったら、窓が開いてて、見たらひとが倒れてたって。担任が病院に一緒についていったらしいから、四時間目の数学は自習かもな」
ばさっ。ばさばさばさ。
大きな物音がした。
「おい、瀬川、落としてるぞ」
佑輔は手許に目を落とした。日直の自分が運んできた世界地図が床に転がって、太い巻がだらしなく解けている。
佑輔は屈んで地図を巻こうとしたが、張りがあって大きいそれは簡単に言うことを聞かず、佑輔はなかなか巻き直すことが出来なかった。終いに誰かが横から手を出して、佑輔の代わりに巻き直し、黒板横のフックに装着してくれた。誰かは佑輔の肩を押し、立ち尽くす佑輔を彼の席まで押し戻した。予鈴と同時にその誰かは、席に座った佑輔の肩をポンポンと叩いて、去っていった。
佑輔には、それが誰かも気にならなかった。
ただ意識の底の冷たい石畳に、たったひとり倒れている郁也の姿を追っていた。
郁也は何故かふんわりとした白いドレスをまとっていた。薔薇色の頬を青ざめさせて。シンデレラのように。
とてもキレイで、悲しい姿だった。
「起立、礼」
後ろの席から背中をつつかれ、佑輔はやっとのことで号令をかけた。
「着席」
「先生!」
級友のひとりが、壇上の教師に叫んだ。
「さっきの救急車は、ウチのクラスの谷口君ですか」
教室中がざわついた。
教師は、ずり落ち気味の眼鏡を中指で押し上げるついでに、上目遣いに生徒たちの興奮を測った。
「……今は授業だ」
それだけ答えて、彼は地理の授業を開始した。
授業が始まれば、否応なく生徒たちは静かになった。佑輔は授業など耳に入らず、意識の底に純白の衣装をまとう郁也を追った。さっきちらっと見えたその姿は、どんどん遠く、小さく消えていく。
(待ってくれ……!)
背中をまたつつかれて、佑輔はようやく我に返った。教壇から、教師が眉を片方吊り上げて佑輔を見ている。佑輔は当てられていたのだった。
「……済みません。聞いていませんでした」
佑輔は下を向いてそれだけ答えた。
クラスの一員が飛び降りたかも知れないという事実は、生徒たちを動揺させる理由としては充分だ。教師は佑輔を責めることなく、次の者を指名した。授業は再開された。
郁也の容態はどうなのか。生きているのか、死んでいるのか。
二階から落ちただけで人間は簡単には死なないが、動転しきった佑輔はそう考えるゆとりも失っていた。
たまらず佑輔は手で顔を覆い、机につっ伏した。
耳許でばくんばくんと脈打つのが聞こえた。
その音は佑輔の恐怖を更に膨れ上がらせた。
恐怖。
人間のその感情に、郁也が常に脅かされていたことを、佑輔は知らなかった。