双曲線-2

文字数 4,321文字

 店に入ってすぐの携帯電話の陳列棚を、佑輔は興味なさそうに眺めていた。
「焦ったな。谷口がどんどんキレイになってるの、気づいてるのは俺だけじゃなかったんだ」
 郁也が側へ寄ると、唐突に佑輔はそう言った。
「キ、キレイって。そんな」
 郁也は顔から火を吹いた。
 佑輔は新型モデルの見本機を開いたり閉じたりしながら続けた。
「谷口、街中で盗み撮りとか、されるだろ」
 郁也は頷いた。
「俺もたまにあるけど。谷口、最近そういうの増えてないか」
 言われてみれば。夏休み中ここで佑輔と待ち合わせするからだと思っていたが、頻度を考えると増えているかも。
「そうかも知れない、かも」
 佑輔は見本機をパチンと閉じた。
「本当は俺、あんな風に谷口がみんなからじろじろ見られるのも嫌なんだ」
 佑輔は閉じた機体を棚に戻しながら、その長身を屈めた。
「俺って、醜い……」
 あ、だめ。落ち込んじゃう。図書館で郁也に英語を教わっていたときのように、佑輔はしゅんとしおれた。郁也は周りを気にしながら、佑輔の二の腕の辺りを撫でた。
「そんなことないって。瀬川君はカッコよくって、素敵だよ。ボクはそう思ってるから」
 佑輔の肩がぴく、と動いた。言ってしまってから、郁也はこれではまるで愛の告白だ、と気づいた。慌てて手を引っ込めた。
 他意はない。他意はないんだ、と自分に言い聞かせ、努めて何でもないように明るく郁也は振舞った。
「瀬川君、お腹空かない? ボクさっきからお腹鳴って」
「ああ。そう言えばいい時間だな。何か食ってくか」
 始業式は午前で終了だ。郁也たちはその後理科室で駄弁(ダベ)っていたので、もう昼はとうに過ぎている。
 学院生の来ない、旨い店を知ってると佑輔は言った。
「学院のお坊ちゃま方は見向きもしないような汚いとこだけど、いいか」

 そこは屋台に毛が生えたような小さな店で、カウンターの他にはテーブルが二つしかなかった。全体に赤を基調にした店内も、時の流れがそれをはっきりしない色に変えていた。「ラーメン」「天津飯」などと大書された張り紙を見るに、どうやら中華料理店のようだ。
 佑輔は郁也に気を遣ってかテーブル席を選んだ。
「何食う」
 訊かれても、郁也にはよく分からなかった。
「何が旨いの」
「大体何でも。俺はいっつもこのヘンかな」
「じゃ、それ。同じやつ」
 佑輔は定食を二つ、自分の分は大盛りと註文した。
 物珍しそうにきょろきょろしている郁也に、佑輔はくすっと笑って尋ねた。
「あいつらとは、どんなとこ入るの?」
「あいつらって。ああ、部の連中とか?」
 郁也はテーブルに立てかけられたメニューを手に取った。
「あんまり外食とかしない」
「そうなんだ」
「うん。水上君のお母さんが料理の先生してるから、新メニューの試食とかにときどき呼ばれる。たまに何か持たされて来るときもあるかな」 
「へええ」
 佑輔はますます世界が違うというように首を振った。
「じゃあ、谷口ん家は」
「ウチ? ウチは、母がいればウチで食べるよ。母は作るの好きだから。すっごい豪快で、野菜の皮とかよく剥けてないけど。いないときも、自分で用意するよ。せいぜい近所の蕎麦屋の出前弁当かな。昔からよくしてもらってて、毎月、後でまとめて払ってる。以前は母は帰り遅い日が多かったし、今もたまに出張とか入るし」
「お母さん、忙しいんだ」
「あはは。こないだテレビに映ってた。インタビューされて。何とかって農場で事故あったの知ってる? あれ、母の会社でさ」
 淳子は結局あの出発の朝から九日目の深夜、出ていった日に着ていたスーツをよれよれにして帰宅した。
「新種の作物を試験的に栽培する区画を隔ててるネットが燃えたか何かして、在来種を脅かす可能性が出たらしいんだよね。それで慌てて現地へ飛んで、気象情報と作付状況首っ引きで、連日畑を焼く指示を出して」
 遺伝子の飛散を防ぐため、漏れ出たと思われる区画を一斉に焼いて、付近の農作物への影響を食い止めるのだ。
「結局焼くのはほとんど自社の畑で済んだらしいんだけど、一部近隣の農家の所有地も焼かなきゃならなくて、補償がどうとか、役所や農協への説明やお詫びとか、状況は大変だったみたい。本人はケロッとしてたけど」
「凄いんだ」
「いやあ。現地の農家や役所のひとは、スカートはいた女のひとが来たのを見て、面食らってたらしいよ。でも、本社の研究所の所長さんが、連日現場で煙まみれで作業して、着たきり雀で飛び回ってるのを見るでしょ。結局納得してもらったって。『あたしだったから丸く納まったのよ』なんて」
 まだ五十前の淳子は郁也に似て美しい。そして中身と大きくギャップのある女っぽい喋り方と身のこなし。その淳子が誠心誠意現場で汗を流したら、ひとびとは感銘を受けるだろう。淳子は「こういうとき、却って女性ってのは幸いするかも」と言い、ふふふと笑っていた。
「ずるいんだよ」
 郁也はスープを一口飲んだ。
 佑輔は、郁也の話に耳を傾けながら、勢いよく大盛りの定食を食べ進めていた。見ている方が元気づけられる、スピード感ある食べっぷりだ。
「……瀬川君のお母さんが心配したの、分かる気する」
「え、何で」
「その勢いが突然止まったら、びっくりすると思う」
「そうかなあ」
 佑輔は一瞬箸を止めた。
「確かに、谷口は食細そうだもんな」
 食は細くないと思うが、佑輔の前だと何だか恥ずかしい。テーブルの下で、脛が時たまぶつかり合うのも照れ臭い。
「そ、そんなこと、ないけど」
 郁也は下を向いた。そして、佑輔に倣って、大口を開けて料理を抛り込んでみた。ちょっとむせたが、美味しかった。
 郁也はすっかり満腹した。これで五百円とは、世の中広い。


 バスを降りて、家まで。鍵を開けて階段を上る。自室の扉を閉めたところで、郁也は力尽きた。
「はあ――っ」
 深い溜息を吐いて、郁也は扉に凭れたままずるずるとその場にへたり込んだ。
 さっきの、駅前のバス停での別れ際。
 佑輔は郁也の乗るバス停までついてきた。バスが来て、乗り込む郁也に、佑輔は「じゃあな」と軽く手を上げた。扉がふたりの間で閉じたとき、佑輔は何だか悲しそうな顔をした。窓の向こうで、小さくなる佑輔は、見えなくなるまでこちらを見送っていた。
(どうしよう)
 郁也はうずくまり頭を抱えた。
(どうしよう。どうしよう……。そんなこと、考えたこともなかった)
 佑輔は、もしかしたら。
 ――郁也のことが好きだ。
 そう考えれば、全て辻褄が合う。
 球場での、謎の言葉。
 あのとき、佑輔は母親に心配されて、と言っていた。食べなくなって、と。今日見た限りだが、育ち盛りのあの食欲が落ちれば確かに家族は心配するだろう。では彼の兄は何と言ったか。「恋煩い」だと。そう佑輔は言っていた。野球の試合を見に行った日。その前にはあったことといえば。
 郁也と佑輔が、学院の外で初めて会った。

 お姫さまの扮装を恥じる郁也に「そんなことない」と言い張った佑輔。賭けに勝った佑輔のための罰ゲームのように、郁也が少女の格好をして待ち合わせをし、プラネタリウムに行って。その日、郁也は佑輔にキスされた。自分のしたことに怯んで、飛んで帰った佑輔に置いてけぼりにされた。食欲が落ちるほど佑輔が悩んでいたのはその後だということになる。 
 それから、自分ひとりでも出来るだろうに「宿題教えてくれ」と言ってきたこと。
 郁也の学ラン姿を「可愛い」と言ったこと。
 そして、今日の電器屋での言葉。
 その場では気づかなかったが、「谷口が皆からじろじろ見られるのが嫌だ」と佑輔は言った。そしてそんな自分を「醜い」とも。
 この文脈で「醜い」の内容として当てはまるもの。それは「独占欲」か、または「嫉妬」か。そんな感情が起こるのは、ひとを好きになったときだけだ。
 郁也はずっと、「こんな自分を愛してくれるひとは現れない」と絶望していた。
 決して望んではいけないと自らを堅く戒めてきた。
 だから自分さえ忘れれば、何事もなく思い出として片がつくと思っていた。
 百歩譲って。恥ずかしい自惚れを承知で仮定すれば、佑輔が「女のコの姿の郁也」を好きだとしても、もう郁也がその格好で現れなければいいだけの話だと。そう思っていた。
(でも……)
 バスに乗った郁也を見送る佑輔の、淋しそうな肩。
 郁也が自らの一部を剥ぎ取られるように感じる、あの痛いくらいの喪失感の、何割かでも佑輔が感じているのだとしたら。
 そして。今日学院で、佑輔のくれたメール。
(もしかして。もしかしてやっぱり)
(瀬川君も)
(瀬川君も、)
(瀬川君も、ボクのこと)
 もう、どうしていいか、分からない。

 昨日で最後、と覚悟したのに。最後だと思うから、キレイにして、ヒールを履いて、ふわり広がるワンピースの裾を揺らして、佑輔の腕に摑まって歩いた。佑輔の肩にそっと寄りかかった。
 佑輔とキスをした。
 全部思い出にすると決めていたから。
 なのに。
(嘘だ)
(あり得ない)
(そんなこと。起こる筈がない)
 郁也は何度も繰り返し、これまでの経過を検証してみた。
 佑輔の言葉を思い返してみた。
 導き出される結論の中で無理なく矛盾のないものは。
 それはやはりひとつしかないように思えた。
 だとしたら、随分思わせ振りな言動を取ったことになる。まさか、男のコのまま佑輔に好いてもらえるとは。そんな可能性は微塵も考えてなかったから。
(瀬川君……) 
 郁也は自分の肩を抱き締めた。歓喜と羞恥と当惑が郁也の体内で渦を巻いた。佑輔が郁也のことを好いてくれる。単なる級友としてでなく、郁也が他の男に見られるのを嫌がる程に。そのことは郁也の心と身体を(とろ)かした。夢に見たものを、夢の中にしか存在し得ないものを、手にすることがもし叶うのならば、現実が夢の世界に変わるのならば。郁也のこの存在すらもこの世界で許されることがあるかも知れない。封印した願いを、解き放ってもいいのかも知れない。この姿のままで佑輔に愛される。そんな夢を、願望を、郁也はもう存在しないことにして耐えなくてもいいのだろうか。
 熱い熱い渦の中に、郁也は融けて混じらない異質な部分を感じた。絶望的な冷たさと暗さをもつ一筋の流れ。
 郁也はそれが何だか知っていた。
 恐怖。
 真っ黒な恐怖だ。
 ひとを好きになる。初めは観念でも、人間は動物だ。いずれ、身体を求め合う。
 男のコの郁也は観念的には可愛くても、普通の感覚を持った普通の男は、そのとき、郁也の身体を許容するだろうか。
 郁也にはやはりそうは思えなかった。
 期待するだけ期待して、最後の最後で拒絶されたら。郁也はきっと立ち直れない。
(どうしたらいいんだろう)
(ボクは、どうしたら……)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み