重力加速度-10

文字数 5,095文字

 郁也は花火が始まる前、二時間貰って図書館を出た。
 打ち合わせどおり真志穂の部屋へ向かった。
 そして今、佑輔の待つ図書館の入り口へと道を急いでいる。
 打ち上げが始まるのが七時半。図書館はその前に閉まるので、入り口前のベンチで佑輔は郁也を待っている筈だ。
 郁也は急ぎ足が出来ないので、なるだけ早めに向かいたかった。その甲斐あって、七時十分、もうすぐ図書館前に着く。
 郁也が佑輔の姿を見つけたとき、佑輔はベンチで膝に広げた本に目を落としていた。
 花火大会は公園の裏手、市街を流れる川のこちら岸で行われる。郁也が佑輔の許へ急ぐ道も、見物に向かう市民が大きな流れを作っていた。

 こつこつ、と軽い足音がして、佑輔の手前で止まった。
 佑輔の視野に華奢な白い靴の先が入った。
 佑輔が本から目を上げると、清楚な少女が立っていた。
 紺地に白い水玉のワンピース、白いレースのカーディガンを肩にかけ、恥ずかしそうに佑輔の前に佇む少女。
 その可憐さに、佑輔は言葉なくただ少女を見上げていた。
 郁也だった。
「お待たせ」
 そう言って郁也は微笑んだ。今まで作ったどの顔よりも、キレイな笑顔でありますように。そう祈って郁也は笑った。
 せめてこの笑顔だけでも、少しでも、少しでも永く、瀬川君の心に留まりますように。
「谷口……」
 佑輔は郁也を見つめたままゆっくりと立ち上がった。膝の上の本がバサッと音を立てて地面に落ちた。郁也はワンピースの裾をつまんで、膝を揃えてそれを拾った。郁也は本についた砂をぱさぱさと払ってから佑輔に手渡した。
「行こう」
「……ああ」
 ひとの流れは更に密になっていた。ふたりははぐれないように肩を寄せて歩いた。
「凄いひとだね」
「ああ」
「いつも家の窓から見てたから、こんなに混み合うなんて、知らなかった」
「そうか」
 会場へ向かうひとは若者が多かったが、家族連れもあった。グループで、カップルで、お父さんとお母さんと子供たち、祖父母と孫の組み合わせもあった。堤防に着くと、多くのひとが手に手に何か食べ物を持っている。祭りにつきものの屋台が出ていた。
 郁也たちは午後の一時からいて、その間何も食べてない。何かが焼ける匂いと醤油の焦げた香りが漂う。郁也が佑輔を振り返った。
「瀬川君、お腹、空かない?」
「そうだな」
「待ってて。ボク、何か買って来る」
「待てよ、谷口」
 駆け出した郁也を佑輔は慌てて追う。このひと混みでは一度はぐれたら二度と会えない。佑輔は郁也の白いカーディガンを見失うまいと必死だった。
「ふふふ。たこ焼き買っちゃった」
 追いついた佑輔に、郁也はにっこり手にした箱を掲げて見せた。佑輔は「うん」と短く答えて郁也の肩をそっと押した。低い位置の花火も見たければ、早めに場所を確保しておいた方がいい。佑輔は郁也を促して、堤防の石段に陣取った。郁也は導かれるまま、佑輔の隣に座った。

 辺りはざわついて、イベント開始前の興奮に包まれていた。ひとびとの熱気とひといきれでむっとするほどだ。だが、日没後時間が経つにつれ気温は下がる。夏の盛りは過ぎていた。
「冷たくないか」
「うん。大丈夫」
「これ、敷いとけよ」
 そう言って佑輔は鞄の中からトレーナーを取り出した。自分はシャツに上着を羽織っている。念のためそれで寒かったら使おうとしていたのか、郁也のために備えたのか。「いいよぉ」と遠慮する郁也を「いいから」と押し切って、佑輔は郁也にトレーナーを手渡した。
「……ありがと」
 郁也は頬を染めた。佑輔の優しさが、気遣いが嬉しかった。今この瞬間、自分は世界一幸せだと思った。明日からのことは考えまい、今このときだけを生きようと思った。物語のお姫さまのように。彼女たちは決して計画や打算で動いていない。訪れた王子との甘い瞬間に殉じて永遠を手にする。なら自分も、今夜このときに殉じて、永遠の記憶を手に入れよう。
 それでいい。
 こんな幸せなときを持てただけでも、ボクにとっては充分奇跡なんだもの。
 ありがとう、瀬川君。
 大好きだよ。
 橋の向こうの空が薄紫にぼんやり光る。残光が佑輔の鼻筋にぼやけた。郁也は急いで、買ったばかりのたこ焼きを開けた。
「はい」
 ひとつ串に刺して、郁也は佑輔に差し出した。佑輔は一瞬戸惑った顔をして、照れ臭そうに少し笑った。差し出す郁也の手に自分の手をそっと添えて、湯気の立つたこ焼きをぱくっと口に入れた。もぐもぐ口を動かしながら、佑輔は鼻の頭を掻いた。郁也は今触れられた佑輔の骨張った指の感触に、胸が苦しくなった。ふたりが代わる代わるそれを食べ終わる頃、川べりにアナウンスが流れた。

 花火の美しさは、刹那の輝き、それに尽きる。
 しかし、いつも数キロ離れた自宅二階の父の書斎から眺めていた郁也だったが、今年会場に来てみて、爆発の際の音と衝撃も、花火の魅力を増す大きな要素だということを知った。胎児が母体の心音と同調するように、一斉に同じ音と衝撃に晒され、外部のペースを等しく体験することで、その場にいる沢山の別の身体と同調する。
「花火の色見てるとさ」
「うん」
 爆音の中で会話しようとすると、互いの声を聞き取るために耳と口を近づけなくてはならない。短い言葉を交わすたびに、ふたりは恋人同士のように身体をぴったりくっつけた。
「『炎色反応』って思うよね」
「何だよ。ロマンがないな」
「えー。そうかな」
 郁也は唇を尖らせた。
「それぞれの元素の、特有の光。ロマンじゃない」
 花火の色を作り出すのは、火薬に混ぜる少量の鉱物である。鉱物がそれぞれの元素特有の色の光を出すことを利用して、職人たちは自分の作品を創造する。赤から黄、緑、青から紫へと、光の階梯を自在に操って。
 人間も、本当はそんな存在なんじゃないかな。
「赤」と「青」の間のグラデーションを漂って生きている。
 郁也はぼんやりそんな風に思った。
 両端付近が混み合っているだけで、橙のひとや黄色のひと、若草色やエメラルド、いろんな色がきらめいている。それぞれのひとの、特有の色。そんな世界のスペクトルを郁也は思い描いてみた。それが案外現実に近いような気がした。
 ひゅーーーん、どどん、ぱらぱらぱら。
 ひゅーーーん、どんどん、ぱらぱらぱら。
「近くで観ると、天頂近くで花火が開くんだね」
「うん」
「開いた後、落ちて来る光が、何だか流星群みたい。キレイだね」
「そうだな」
 言葉少なに答える佑輔。だが、郁也が何か言おうとするたび、耳を寄せて聞き漏らすまいとしてくれているのは郁也にもよく分かった。初めて学院の外で会ったとき、あのときも佑輔はオレンジのシャツドレスで現れた郁也に、声も出せないでいたっけ。
(普通の男のコの瀬川君は、やっぱりキレイな女のコの姿に弱いんだ)
 いいじゃないか、それで。そう、郁也は思った。
(ボクが可愛い女のコになれたから、こんな時間を、思い出をもらうことが出来たんだよね)
 郁也の胸の奥で、温かいものがとろりと揺れた。温かいというより熱いそれは、郁也の胸郭を一杯に満たし、心臓を通して、全身に溢れていく。
(瀬川君……)
 郁也は佑輔の肩にそっと凭れた。佑輔の腕が遠慮がちに郁也の身体に回った。プログラムが終了するまで、ふたりはずっとそのままの形で寄り添って座っていた。

 花火が終わると、集まった群衆は大きなうねりとなって会場の外へ向かった。帰り道までひとでぎゅう詰めになるのも嫌で、ふたりはひとの波がある程度引けるまでその場で遣り過ごしてから立ち上がった。
 佑輔が郁也に腕を差し伸べた。石段を、堤防を、ヒールのある靴を履いた郁也が安全に昇り降り出来るよう手を貸してくれた。
 駅前まで一緒にいられる。佑輔の家に帰るバスは、駅前を出た後、本当はこの公園の側を通過する。この近くのバス停から乗る方が佑輔には都合がいい。しかし佑輔がそうしようとしないのを郁也は知っていた。特に今夜はこの姿だ。佑輔は郁也が無事にバスに乗るのを見届けようとするだろう。 
 やや回り道になるが公園を抜けて行けば、ごった返す人波から離れられる。
 夜の公園は木々のざわめきも昼とは違って、淋しい声で鳴っていた。
 木の根に郁也がつまづかないように、佑輔は郁也の腕を取った。温かく力強い佑輔の腕に、郁也は気が遠くなった。佑輔の腕に(すが)って歩くのが精一杯だった。
「疲れたか」
 佑輔は聞いた。
「ううん。そんなことない」
 郁也は何とか答えた。
「キレイだったねえ、花火」
「ああ」
 佑輔は突然立ち止まった。郁也が「何」と尋ねる間もなく腕を引き寄せ、郁也の唇にキスをした。
 そっと押し当てられた唇は震えていて、郁也には震えているのは佑輔なのか、自分の鼓動のせいなのか、どちらとも判別がつかなかった。
 ただひとつ言えるのは。このキスを受けているのは、「お姫さま」の郁也だということ。
「今度は逃げないんだね」
 佑輔の唇が離れた後、郁也は呟いた。
「谷口、俺……」
 腕を絡めたまま、佑輔は口を開いた。佑輔の瞳は濡れたように光っていた。先程降り注いだ花火の輝きは、まだふたりの身体に留まっているのか。昏い輝きだった。郁也はこの目をずっと見ていたかった。佑輔の身体にこのまま腕を回して、その体温を感じたくなった。抱きしめたい。この可愛いひとを。
「………」
 佑輔は、焦れったそうに首を振った。言いたいことは喉まで来ているのに、そこから先に出て来ないもどかしさが伝わってきた。
 触れ合った腕から自分の欲望を読み取られないうちに、郁也は佑輔の腕を解いて身体を離した。自分の皮膚を引き剥がされたような痛みを感じ、郁也は息を呑んだ。佑輔は悲しそうな顔をして唇をかんだ。言いたい言葉はまだ出て来ない。郁也は苦しげな佑輔を見て可哀想になった。
(いいよ。言いにくいことなら言わなくて)
「行こう」
 郁也は佑輔を促した。佑輔はなおも口をパクパクさせたが、結局郁也に従った。
 佑輔の言えなかった言葉は、きっと郁也が聞いてはいけない言葉だ。
 それが愛の告白に類する言葉なら。
 それは郁也を有頂天にし、それは郁也を絶望に叩き込む。
 それを受けるのは、郁也の演じる「お姫さま」だから。生身の郁也にとっては、曖昧には勝利の鐘の音が、正確には残酷な失恋を意味する。
 こんな複雑な人間には、関わらない方が幸せだ。
 郁也の夏休みは終わった。
 十二時の鐘は鳴ったのだ。
 郁也は装備を確認して撤収するシンデレラだ。ガラスの靴を残してはいかない。佑輔の人生に、万が一にも自分という汚点を残してはいけない。
 これは奇跡だと郁也は思った。自分の一生に一度だけ訪れた恩寵。この記憶を支えに、きっと、ボクは生きていける。
 ありがとう。
 瀬川君。
 ごめんね。本当に、ごめん。
 本当は、さっきの言葉、最後まで聞きたかった。瀬川君が言い終わるまで、じっと待っていたかった。
 でも、もう十二時の鐘は鳴ったんだ。
 これ以上は、もう、許されない。
 佑輔の腕の支えなしで歩く白いパンプスは、ひどく不安定で窮屈だった。


 真志穂のアドバイス通り、郁也は自宅の物置に、いつもの服とメイク落しのウェットティッシュを用意しておいた。花火を見終わってバスに乗ると、帰宅はそれだけで九時を過ぎる。真志穂の部屋に寄っていては、終バスを逃してしまう。
 それに、まっすぐ帰れば、駅前まで佑輔と一緒にいられる。
 これが最後。郁也はそう覚悟していたので、一分でも長く佑輔といたかったのだ。
 借り物のワンピースを汚さないようにざっと畳んで、ウェットティッシュの包装をぺりっと破く。程度が分からないが、大目に何枚も掴んで、引っくり返し引っくり返し顔を拭った。
 小さな唸り声が聞こえた。郁也は気味悪くなって耳を澄ませた。それはとても近いところから聞こえていた。気づくとそれは郁也の喉の奥から搾り出されていた。自分でも知らぬうち、郁也はすすり泣いていたのだ。
 拭う端から涙が溢れる。
(いけない。お母さんにヘンに思われる)
 こらえよう、こらえようとして、郁也は歯を食いしばった。
 佑輔は優しかった。ワンピースで現れた郁也を見たときの、佑輔のあの顔。息もつけずに郁也を見つめていた。足許が悪いところでは手を貸してくれ、石段が冷たいとトレーナーを貸してくれた。そして、二度目のキス。
 今度は郁也もその感触を思い出せた。
 夢のような時間。夢のような記憶。
 感謝することはあっても、泣くようなことは何もない。
 郁也は何度も自分にそう言い聞かせた。
 服とティッシュを物蔭に隠し、この泣き顔の言い訳を考えながら郁也は物置を後にした。
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