双曲線-12

文字数 4,561文字

 教室は異様な緊迫感に満ちていた。
 午前の体育の時間に隣のクラスの坂本から受けた侮辱をどうしてやろうか、とクラスの半分程が燃えていた。
 勿論、郁也たちインドア理系オタクチームは、その燃え損なった残りの半分だ。どうもこういう熱血青春ノリにはついていけない。
 ついていけないのだが、全く知らん顔を決め込むことも出来ないのが、困った立場の郁也だった。そもそも郁也が一学期の学院祭以来クラスのアイドル、というか、横田言うところの「マスコット」のような祭り上げられ方をしているところに、坂本はかみついてきたのだ。そうである以上、いざ鎌倉の際には旗頭として担ぎ出される危険性がある。そして、その坂本に実際に殴りかかったのは佑輔であり、郁也は佑輔の最近の直情的な行動をも心配していた。
 あの時中野が言っていた。「犬を飼うなら繋いでおけ」と。
 郁也が上級生に絵をもらったとき、佑輔は凄い勢いでどこかへ行った。郁也が教室に着いてからもしばらく、佑輔は戻ってこなかった。
(きっと、あのとき) 
 佑輔は中野のところに行ったのだ。美術部で中野の存在感は大きい。一般の生徒が思い浮かべる美術部員と言ったら、二年生ではまず彼だ。
 佑輔は中野に何を言ったのだろう。中野はどこまで知ったのか。
「つないでおく」という言葉の真意は。
(ああ。本当に繋いでおければ、どんなにか安心だろうよ)
 郁也は嘆息した。

 突然、大きな物音と振動、怒声が廊下から響いた。「止めろ」「やっちまえ」と興奮した叫び声が続く。
 郁也は思わず佑輔の席を振り返った。いない。
 まずい。
 郁也は他の連中と一緒に、廊下へ駆け出した。
(ああ。もう、どうしてそんな……)
 郁也が廊下へ出ると、果たして佑輔が坂本を殴り飛ばしていた。
 佑輔は真っ青になって震えている。こんな佑輔は見たことがない。
 騒ぎになると教師たちに知られてしまう。そうなるといろいろ面倒なことになる。
 身体を起こし、反撃しようと向かってくる坂本と、まだまだ殴り足りない佑輔を、両クラスの良識派が押さえにかかる。ふたりとも体育会系の筋肉を持った機動的な身体なので、止めるのも容易でない。右左ふたりがかりでも引きずられてしまう。
「瀬川君、止めて」
 郁也が佑輔に飛びついた。
 坂本の方も隣のクラスの級長が、じきじきに止めに入っていた。
「どうしたの。何か言われたの」
 郁也は佑輔の前に立ちはだかった。
 さすがの佑輔も、郁也を力ずくで押しのけることは出来なかった。ようやく立ち止まった佑輔の両腕に、止めに入った者たちがぶら下がっていた。
 佑輔は怒りに震えながらも、郁也の問いに首を縦に振った。
「何を言われたの」
「……言えない」
 佑輔はぷいと横を向いた。首の筋も浮いている。

 向こうでは、隣のクラスの級長が、坂本やその場にいた者たちから何やら聞き取っている。内容までは聞きとれないが、坂本が言い淀む度に「はっきり言えよ」「正直に」と促す言葉が聞こえた。最後に彼はやれやれとばかりに首を振って、「白井君、白井君いるか」と郁也のクラスの級長を呼ばわった。
「正式に謝罪をしたい。聞いたところでは、どうもウチのクラスの坂本がそちらを一方的に侮辱したらしい。内容は本人たちの名誉に関わるのでここでは繰り返さないが、謝る。受けて欲しい」
 こんな儀式がかった交渉は珍しい。代々受け継がれて来た学院の伝統にのっとって、揉めごとの処理をすることにしたらしい。クラス間の揉めごとなら、正式には級長同士が間に入ることになっている。級長が代表に立って、当事者間の軋轢をさばくのだ。謝罪を一旦受け容れてしまえば、後日その件を蒸し返すのは御法度となる。
「はーい。はいはい。では、謝罪をお受け致しましょう。瀬川君、いいですね」
 相変わらすクイズショーの司会者のような白井である。
 白井に確認されても、佑輔はまだ怒り冷め遣らぬの態でそっぽを向いている。幾ら代表が立っても、当事者が受けなければこの場は収まらない。郁也は焦った。これ以上面倒も、自分が目立つことも御免だ。佑輔の気持ちを無視したことなかれ主義だと、郁也は苦く思った。しかし、佑輔がこのまま暴走するのだけは、何としても止めなければ。
「受けて。瀬川君」
 郁也は頼んだ。
 佑輔は、郁也には弱い。郁也に頼まれれば従うしかない。しぶしぶ首を縦に振った佑輔に、坂本が吐き捨てた。
「はん。殿下の勅令ってか」
 静まりかけた佑輔の怒りがまた燃え上がった。坂本に飛びかかろうとする佑輔を、今度は郁也も身を挺して止めに入った。
 郁也の身体にぶつかった瞬間、佑輔は自分の勢いに強くブレーキをかけた。佑輔は郁也に対してバッファローだ。郁也を()ぎ倒して進めば郁也が壊れてしまう。佑輔の身体を食い止めたとき、坂本に蹴られた脚がひどく痛んだ。うっと呻いた郁也の顔を佑輔は我に返って見返した。佑輔は郁也に抱き留められた格好になっていた。
「……ごめん」
 佑輔は郁也の身体から離れた。
 せっかく収まりかけた場を台無しにするのかと、坂本は向こうの級長や良識派らに叱られこづかれていた。これで一般生徒の心証も明らかに佑輔側有利となった。
 予鈴が鳴った。
 早く片づけてしまおうと、級長たちは規則通りの手順で佑輔と坂本を握手させ、今回の揉め事の終結を宣言した。


「坂本君に言われたことって、何だったの」
 郁也は我ながらずるいなと思いつつ、白いシャツの胸許に佑輔の指が触れた瞬間、そう聞いた。
 佑輔の気持ちが不安定なのを見て、その日郁也は自分から佑輔の家に寄りたいと申し出た。
 当然佑輔は拒まない。
「言えないよ。そう、言ったろ」
 佑輔は郁也の膝に目を落とす。郁也は釦を弄びながら外すに外せないでいる佑輔の手を握って、なおも迫った。
「どうしてさ」
「どうしても」
 郁也は閉口した。
 中野の忠告のこともあり、郁也は佑輔の暴走を何とかしなきゃと思った。止めるためには、佑輔を暴走に駆り立てるものが何か明らかにする必要がある。そう思ったのだが。

 押し問答をしている間は手を放してもらえないと悟ったのか、とうとう佑輔は根を上げた。
「俺の口からは言えないよ。郁を(おとし)めるようなことだったよ。だから、俺」
 郁也の手が弛んだ。すかさず佑輔の手はそこから抜け出し、逆に郁也の手を握り返した。郁也の細い指に佑輔の唇が圧し当てられる。それは細かく震えていた。
「許せなかったんだ」
「佑輔クン……」
 佑輔に握られたまま、郁也の指も震えた。
 佑輔が、いつも快活で明るい佑輔が、怒ってひとに手を上げるなんてあり得ない。
(信じられない)
 両側から腕を掴まれても、まだ坂本に突進しようとした佑輔。穏やかな佑輔のあんなところを、郁也は今日初めて見た。その怒りは誰のためでもなく。
(ボクの、ために)
 胸が。身体が、爪先まで熱い。
 もう何も訊けなかった。佑輔は郁也の指から視線を上げ、震えている郁也を見た。濡れて輝く焦茶の瞳。この目に見つめられて追及を続けるなど、郁也には到底出来やしない。郁也の唇からは佑輔を問い詰める言葉ではなく、熱い吐息がふっと漏れた。
 郁也が力を弛めたと見て取るや、佑輔は郁也を抱え上げそのままベッドに放り込んだ。
 

「痛た……」 
 郁也は痛みに思わず顔をしかめた。
「どれどれ、どこ」
 佑輔は心配そうに郁也の手が押さえる場所をのぞき込む。
 あちこち痛んだが、一番ひどいのは昼間坂本に蹴られた脛だ。
「……ごめん。ごめんな、郁。ごめん」
 佑輔は心底済まなそうに紫色に腫れ上がった皮膚を、重さをかけないように気を遣いながらさすった。そして郁也の膝に額をすりつけた。郁也の手がゆるゆるとそこへ伸び、佑輔の髪を撫でる。
「俺、どうかしてた」
「佑輔クン……」
 郁也の声は自分でも分かるほどとろんと甘くなっていた。
「……いいんだ。ボクも、気持ち、よかったし……」
 最後の方は消え入りそうに小さくなった。
(恥ずかしい……。あんな風にされて、あんな反応しちゃうなんて)
 郁也は羞恥と激しい感覚の余韻に身動き出来なかった。
 今日の佑輔は狂っていた。
 佑輔は、郁也の皮膚に残る痕跡の上に、繰り返し繰り返し唇を押し当てた。痕跡の残る場所は、郁也が特に敏感に反応する点だ。そのマーキングの上を、郁也の変色した部分の皮膚を、憑かれたように執拗に舌と歯で責め続けた。郁也が痛みに身を捩り、「止めて」と懇願するまでそれを続けた。
 全身を隈なくそうして責め続けた佑輔が、最も時間をかけたのは右の脛だった。
 佑輔のタオルと湿布で腫れはやや抑えられたが、坂本の靴の跡は時間の経過と共にどす黒く盛り上がっていた。佑輔はそこに吸いつき、かみついた。郁也が泣いてもなかなか止めてくれなかった。
 まるで、坂本の存在が郁也の身体にその痕跡を残すのを厭い、自分による新たなペイントで、すっかりその上を塗り潰してしまおうとでもいうように。
 郁也はその痛みを甘んじて受けた。
 快楽と苦痛の信号が区分出来ない形で郁也の身体を翻弄し続けた。痛みが強ければ強い程、そこに佑輔の欲望の強さを感じて、郁也は陶然となった。「痛い」と訴え、「止めて」とせがむ自分の言葉がまた佑輔を駆り立てるのも刺激的だった。
(もう少しで、新しい違うヨロコビを知ってしまいそうだったよ)
 ふふふ……と郁也は咽の奥で笑った。

 秋の日は短い。郁也の身体を検めるために、佑輔は机の電気スタンドを点けていた。受験生の手許を照らすための清潔な白い光が、郁也の全身につけられたキスマークを妖しく浮かび上がらせる。
(どうして佑輔クンは、今日に限ってこんな風にしたんだろ)
 佑輔が強く郁也を求めれば求める程、郁也はそれを上手く受け止められているか不安になる。佑輔はもしかして、こんな仕方では満足しないのではないか、と。
 今日の佑輔の遣り方は、郁也を感動させはしたが、これこそ佑輔自身の不本意の表れではないのだろうか。
 郁也は、佑輔の欲望を十全に受け止める器官を持たない。
 いつも郁也が怖れていること。その怖れがまた立ち現れる。
 然るべき器官の欠如によって、佑輔は郁也との行為に満足しないのではないか。
 郁也はいつしか手を止めていた。
「郁。何を考えてる」
 佑輔はそっと郁也の目を覗き込んだ。
 郁也は勇気を振り絞ってこう言った。
「佑輔クン、ボクとこういうことしてて、あんまり楽しくないんじゃない?」
 自分と佑輔とでは、身体の造りが対称過ぎて、凹凸が上手くかみ合わない、というか、しっくりいってない感じがするんじゃないか、と郁也は言った。
「佑輔クンはこれでいいのかなと思ったら、ボク……」
 そう思うと心配で心配で、まだ佑輔クンの前に現れてもいない女のコに嫉妬するんだ、とまでは言えなかった。だが、郁也にとってはこんな恥ずかしいことを口にするだけで精一杯だ。胸から上に紅葉を散らして、ようやく郁也がそれだけ言うと、佑輔は焦茶の瞳をきらきら輝かせた。
「それって、『物足りない』ってこと?」
「ええっ」
「凹凸バッチリの方法も、あるぜ。上級編で」
「えええー?」
「真っ赤になっちゃってえ。本当に、可愛いんだからなあ、郁は」
 いい傾向だよ、と佑輔は郁也の鼻の頭にキスをした。
 何か。はぐらかされちゃった。
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