重力加速度-8

文字数 4,326文字

 約束の時間に、郁也は駅前にいた。
 今日は図書館。球場で佑輔に誘われたとおりだ。
 佑輔はまだ現れない。郁也はこれまで二回とも、郁也が着いたとき既に佑輔はここに立っていたことを思い出した。
 暑い……。
 郁也は電器屋の外壁を見上げた。街頭テレビにニュースが流れていた。
(あ、これ……。お母さんが今朝言ってた件だ)
 ニュースでは、国内の或る実験農場で起こった災害について報じていた。その災害自体は大規模なものでないが、バイオハザードにつながる危険性があるとのこと。アナウンサーは住民に注意を呼びかけていた。
(全国ニュースで流れてるよぉ)
 大問題だ。これでは淳子はしばらく帰らないかも知れない。
 ま、いいか。慣れてるし。
(瀬川君、来ないな……)
 郁也はまた写真に撮られたりするのが嫌で、本を出して読み始めた。球場で「谷口が俺を見つけられない」と言っていた佑輔。郁也が佑輔を見過ごすことなどあり得ず、それを知らない佑輔の自信はおかしかった。本で顔を隠しているボクを、さあ、瀬川君は見つけられるでしょうか。郁也は頁の陰でくすくす笑った。
 もう少し待って来なかったら、メールしてみよう。

 野球場を出て、いいと言うのに、佑輔は駅前までと郁也と一緒にバスに乗った。通学パスがあるから、運賃はかからないからいいんだと佑輔は言った。
(だって、瀬川君、反対方向じゃない)
(いいんだって。どうせこのまま家に帰ったってヒマなんだから)
(宿題したら)
(それを言うな、それを)
 別れ際、ふたりはケータイの番号とアドレスを交換した。機体同士を向き合わせてデータを送っている間中、郁也の手は微かに震えていた。そして、何故か佑輔の手も。
 骨張った佑輔の手を郁也は思い出す。郁也の手も骨っぽいが、ただ細いだけで貧相だという気が郁也にはする。それに比べ瀬川君の手、指。カッコいいよなあ。
 あの手に、指に、触れられたら。どんな感じがするだろう。
 球場で。佑輔は郁也の頭をばさばさ撫でた。髪に残る佑輔の指の感触。その軽さ、鋭さ。公園で。郁也の髪に引っかかった木の葉をつまみ取った佑輔の指。その指が郁也の頬に、唇に触れる。郁也はそれを愛おしむように包み込んで。
「ごめん、遅くなった」
 息せき切って佑輔が駆けてきた。どっきりして、郁也は今の妄想がバレやしないかと内心焦った。冷静に考えれば、そんな可能性あり得ないのだけれど。後ろめたい気分を振り払うように郁也は首を振った。
「ううん全然。でもどうしたの」
「兄貴のヤツ……」

 佑輔が待ち合わせに出かけようとすると、休みで実家に帰っていた佑輔の兄が、車で佑輔を送ってやると言い出した。珍しいこともあるなと思いつつ、せっかくの好意だと佑輔は兄の言うとおりにした。駅に着くと、兄は「どれだ、どれがお前のお姫さまだ?」としつこくついて来ようとした。
「ホントしつっこくて、まくのに手間がかかったよ」
 佑輔の口から「お姫さま」という単語が出てきたとき、郁也の胸がぎゅ……と痛んだ。
「そうだね。ボクを見たら、お兄さん、がっかりしちゃう」
「カンケーないよ、あんなヤツ」
 ふたりは図書館へ向かって歩き出した。図書館は、ふたりで歩いた公園の脇に、科学館、美術館などと並んで建っている。初めて学院の外で会った日と同じ道を、ふたりは黙って歩き続けた。

 何か話さなきゃ、と郁也は焦った。
「瀬川君さ、矢口君とか、大塚君とかと、遊ばなくていいの」
 郁也は級友の名前を挙げた。
「誘われてるんじゃない」
「ああ。誘われてるけど……。あいつら、お坊ちゃまだからさ。とても全部はつき合えないよ。いいとこ三、四回に一回かな」
 ウチ、貧乏だから、と佑輔は笑った。
「瀬川君……」
「矢口なんか、今頃ハワイだよ。俺ん家は普通のサラリーマンだから」
 あいつらもその辺の事情は察してくれて、断っても嫌な顔はされないよ。そう言って佑輔は笑った。
「俺、小学校の頃出来よくってさあ。学院に来る奴はみんなそうだろうけど。何か親が、夢見ちゃって。無理して名門私立に俺を入れちゃったんだよな。俺も別にどっちでもよかったし。地元の公立に行ったヤツらとは今でもたまに会うよ。家も近いし。でもさ、お袋パートに出ても追っつかなくて、兄貴は大学行けなかった。本人はラッキーだったみたいだけど。勉強嫌いなんだって言って」
 佑輔は肩をすくめた。
「だからさ、俺、遊ぶ金なんてないんだ。ごめんな、しょぼいとこしか行けなくて」
 佑輔が言いたいのは、お金を払って遊ぶ遊園地とか、映画館とか、交通費をかけて遠出するとか、そういうことなのだろう。郁也はそんなこと全然構わなかった。
「何か、いいな。そういうのって」
「ええっ」
「何ていうか、家族皆で助け合ってるって感じじゃない」 
 そうかなあ、と佑輔は大きく首を振った。
「単にビンボーなだけだって」

 それより、と佑輔は言った。
「何か、俺ばっかり喋ってる気がする。谷口ん家の話も聴かせてよ」
「ええ、ウチ?」
 佑輔はうんうんと頷いた。郁也はしょうがないな、という顔をした。
「ウチは、父がずっと家にいなくって、母とふたりで。母もボクが小さい頃は今より仕事が忙しかったから、夜もいないことが多かった。しーんとした静かな家だったよ」
「ふーん。だから、そんなに品良く育つのかな。谷口って、何て言うか、もの静かっていうか、大人っぽいよな」
「大人っぽい?」
「うん、そんな感じ」
(へえ、そんな風に見えるのか。瀬川君の方が、ずっと大人っぽいと思うけど)
 予算もままならない地方都市の図書館には、仕切りのあるひとりがけの机などほんの僅かで、午前中から陣取っている少数の図書館通いのプロに押さえられている。郁也たちアマチュアは、八人がけの大テーブルだ。郁也は佑輔の向かいでなく、隣でもなく、角を挟んで九十度に座った。その方がお互いの手許がよく見えて、教えたり教えられたりしやすいからだ。というのは建前で、郁也の本音は、その方が佑輔と近づけて、顔も見えると思ったからだった。
 実際、腰かけてみるとそのとおりだった。話すときにはひそひそと小声でなければならず、佑輔が何か尋ねるとき、郁也が答えるとき、お互いに相手の声を聞き取るためには、どうしても顔を近づけないといけない。肩が触れ合ったり、テーブルの下で膝がぶつかったりしてしまう。
(ああ。オヤジみたい、ボク)
 佑輔の横顔が近づいたり、佑輔の肩や膝が当たるのを心待ちにして、顔には出さないようにしているけれど、やってることは結構いやらしいかも。
 古い建物だが空調は申し分ない。涼しい中でくっついたり離れたりして、ふたりの、特に佑輔の宿題は順調に片づいていった。


 その時、真実を知るものはひとりもいなかった。
「『いなかった』、だから、"There was not~"だろ」
 佑輔の一番苦手な英語のしかもグラマーだ。静粛にしていては佑輔の宿題が進まないので、ふたりは廊下の長椅子で肩を寄せ合って問題に取り組んでいた。
「いや、待てよ。『ひとりも』ってことは"THere was no one who knew the truth"だ!」
 佑輔が鼻息も荒く熟考の成果を書き入れようとして、全幅の信頼を寄せる彼の教師をチラっと見る。
「うーん。それでも通じると思うけど」
 郁也は眉を寄せて答えた。
「どっちかっていうと、"No one knew the truth, tthen."の方がすっきりしない? 出題者も、"No one"を主語に作文出来るかを見ると思う」
「そうかー」
 佑輔は素直に郁也の答えを書き込んだ。

 ふたりの図書館通いは数日に及んでいた。郁也の母、淳子は仕事で帰らず、郁也は午前はだらだら家で過ごし、午後は佑輔と図書館、夜は家で適当に済ますか真志穂のところで焼肉パーティーをするなどして、近年にないハッピーな日々を過ごしていた。
 ふー、と溜息を吐いて佑輔は肩を落とした。
「いやあ、ホンットに、俺英語ダメだー」
「何弱音吐いてんのさ。これからだって」
 郁也は佑輔の腕を励ますように軽く握った。頭はいいのだから、今まで熱心でなかった経験不足を補えば、すぐに出来るようになる。郁也は佑輔にそう言った。
「……谷口は凄いよな。数学も物理もあれだけ出来て、高性能の理系脳なのに、その上英語も出来るなんて」
 俺なんか、と佑輔は頭を抱える。
「だから、違うって。経験だって」
 ああ、落ち込んじゃう。止めなきゃ。郁也は慌てて口を開いた。
「ウチ、父が、メールも電話も、英語でないと相手してくれないんだよ」
「へ?」佑輔は郁也を指差した。「ハーフ?」
「違うけど」
 郁也はちょっと笑った。
「母が昔、論文書こうとしたとき、あまりにも英語が出来なくて、それはそれは苦労したんだって。結局その時は父が手伝って、何とか完成させたらしいんだけど。父は父でアメリカへ行ってから大変だったけど、使えば出来るようになるからって。国際会議も英語だよって。だから、父は母に英語の勉強をさせるために、我が家では父の前では英語が公用語なの。ボクはついで、というか、母のとばっちり」
「へえー」
 佑輔は目を見張った。
「何か、カッコいいなあー」
(カッコいい? 瀬川君が、ボクのこと、「カッコいい」って言うの?)
 いつも郁也は佑輔を「カッコいい」と思っていた。その逆があり得るなんて、考えもしなかった。

「お父さん、何してるの。実業家?」
「ううん。研究者。向こうの大学で、宇宙で育つ植物の研究してる」
「宇宙?」
「うん。そのうち宇宙で暮らすひとが増えたら、絶対必要な技術だからって。スペースシャトルが飛ぶたびに、データもらって調べてる。データ量も予算も全然違うから、日本で同じ研究は出来ないって」
 どちらかが退職するまで、きっと父と母は今のままの生活だ。都合のつくときだけ往ったり来たりして。そんな七夕生活を、郁也の知る限り彼らはもう十年以上も続けている。
「何か……」
 佑輔がぼそりと言った。
「谷口と俺とじゃ、本当に住んでる世界が違う気がしてきた」 
 うーん。それはボクがずっと感じていたことだよ。
「そうだね。ボク、瀬川君みたく、背高くないし、カッコよくないし、スポーツ出来ないし」
 郁也は思っているとおりのことを口にした。佑輔は不思議そうに郁也を見た。
「それ、本気? 谷口、俺のことそう思ってるの」
「うん」
 背が高くって、カッコいいって? そうだよ。他のひとは知らないけど、ボクはそう思ってる。郁也は心の中でそう呟いた。
 佑輔は元気よく次の問題に取りかかった。
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