重力加速度-1

文字数 4,622文字

 七月に入っても雨が降れば気温は下がり、空気はひんやりと鋭さを取り戻す。しかし教室の中は活発な熱源がひしめき合ってむっと暖かく、雨に閉ざされてどんより暗い日には、彼らの頭もぼーっとしてしまう。
 生徒たちの意識が授業に集中しにくいのを見て取るや、このクラスの担任でもあり天文部と物理部顧問でもある寺沢は、今日の数学の授業を質問中心に切り替えた。ランダムに当てて答えさせることで、少しでも考える頭を呼び起こそうという狙いは見え見えだった。

 東栄学院OBでもある寺沢は、一学期も残すところあと二週というこの時期に、学院祭の準備で生徒たちの気もそぞろなのを良く理解してくれていた。しかし同時に、中高一貫のこの学院で、高等部二年のこの時期のもつ重要性を、生徒たちに深く認識させなければならないとも思っている筈だった。特にこの「物・化・地理」コースにあっては尚更だ。理系のなかでも国立を中心に、ハイレベル校を目指す生徒が多く取る選択パターンだった。
「ほんじゃ、次、二十八頁の問三。横田君、前来てやってみて」
 ほい、とくぐもった返事をして立ち上がったのは、郁也と同じ天文部の横田である。高二で身長一五四センチの横田は、背の低い順に七人が有無を言わさず「小人さん」に抜擢された仮装行列で、自動的にその一翼を担う栄光に浴している。表向きは飽くまでしぶしぶ参加の郁也にとっては、貴重な同志であった。

 寺沢の遣り口は決まっていた。まずひとりに問題を解かせてみる。そして、その回答が妥当かどうか、次に当てた生徒に答えさせ、その解説をさせるのだ。これはなかなか思考力を鍛えられる。手強いながらも、この手法を生徒たちは評価していた。また、初めに当てられたものが解いている間に、他のものは心の準備が出来るのだった。
 黒板を走るチョークの音、ぱらぱらとノートを捲る音、耳を澄ませば、しとしとと落ちる雨垂れや、他クラスの授業の声なども微かに聴こえる。
 静けさを聴きながら、郁也は昨日の会話を思い返していた。


(何で。何か他にやりたいことでもあるの)
 声の主が他ならぬ佑輔だったことに、郁也の鼓動は一拍飛んだ。
 即答出来ずにいる郁也を知ってか知らずか、佑輔はその快活な笑顔でこう重ねた。
「芸能プロダクションにスカウトでもされた、ひょっとして」
「瀬川君……」
 もしかして、郁也が佑輔と口を利くのは、これが初めてだったろうか。
「……何で、芸能プロ?」
 郁也はどうにか、少しぶっきら棒に聞こえるように答えた。
「だって谷口、キレイだから。美術部にも頼まれてモデルやってたろ」
 リズムを取り戻しかけた心臓が、この一言でまたびくんと跳ねた。
「…………『キレイ』なんて、女のコに使う言葉だよ」
「そうか? よく分かんないけど」
 郁也を見上げる佑輔は、傾きかけた陽差しをまともに浴びて、眩しそうに目を細めた。風が郁也の髪を揺らした。郁也はうるさそうにそれをかき上げた。
 郁也は、勇気を出して、自分に向けられた佑輔の顔をまっすぐに見た。屈託のない、素直そうな明るい笑顔だった。捻じ曲げられた自分との差異を感じた。佑輔の発した初めの問いに、郁也は答えた。
「やりたいことなんて、ないけど」
 やりたくないことなら、幾つかある。望んじゃいけないことなら、幾つもあるよ。
「なら、辞めんなよ」
 軽く手を上げて、佑輔は去っていった。背中に張りついたTシャツに筋肉の作る影が動いた。
 それだけだった。

 それだけの会話を、あれから郁也は繰り返し繰り返し耳の奥で再生した。憧れの瀬川君と、初めて交わした言葉。瀬川君は、ボクが美術室にいたことを知っていた。どうしてだろう。ボクがずっと瀬川君を見ていたことは、まさか気づかれていないよね。
 郁也の理性はその可能性を何度も否定した。そんなことはあり得ない。だから、安心していいよ。だから、ヘンな夢見るんじゃない。ボクは、男のコなんだから。
 そのせいで、郁也は少々睡眠不足だった。
「……谷口君。おーい、谷口君」
 寺沢が呼んでいた。郁也は当てられていたのだった。
 慌てて教科書の頁を繰る。 
 これは部活で嫌味のひとつも言われるな。

 
 衣装合わせの日がやってきた。
 放課後の教室に、衣装班全員、美術班(大道具・セットを担当)と演出班の一部、それから郁也たちキャストが揃った。それぞれ係のものが用意した衣装や持ち物をキャストが実際に身につけ、予行演習をするのである。
 朝から授業そっちのけで張り切っていた総合演出の岩城が、チェック表と首っ引きであちこち走り回っている。郁也たちキャストは、岩城がOKを出した順に、手渡されたものに取り敢えず袖を通してみる。
「小人」のひとりである横田は、先が大きく反り返った靴を渡されて、呆然と郁也に呟いた。
「これ履いて、四キロも歩くのか」
 その他の小人も口々に、「歩くとこの帽子落ちる、絶対」「長袖暑い」「つけ鼻のせいで前が見えない」などとぼやきだした。
「いや、それよりもさ。ウチ、親がえらく楽しみにしてて。見に来るって聞かないんだよ。参っちゃうよな。とても見せられる代物じゃねえもん」
 そう継母の「鏡」役が言うと、既に真っ白に塗りたくられた「継母」が、耳まで裂けそうな口を開いた。
「ウチはオヤジがOBだから気楽だ」
 継母こそ笑いを取るために故意(わざ)とごつくてでかい奴が割り振られたので、余程見苦しい。 

 そんな周囲のぼやきの中、制服のズボンのまま白いシャツの胸を大きくはだけて、郁也は衣装班の松山に「白雪姫」のメイクを施されていた。「アンタたち、文句があるんならアタシと変わってあげるワヨッ」と言わんばかりの不機嫌オーラを放出しながら。
 松山は、中等部の頃から演劇部で、ずっとヘアメイクを担当してきたプロフェッショナルだ。今回使っているメイク道具も、こっそり部から持ち出してきたものだった。松山は郁也の目許に長いつけ睫を貼りながら叫んだ。
「おーい、演出班。タイム計測してるか? ここまででどのくらいだ」
 四十五分、と答えがあった。
「かーっ。俺ひとりじゃ、とても手が回んねえよ。みんな、地塗りくらいは自分でやって貰えないかな」
 地塗りって何だ、と声が上がる。
「こら、笑ってんじゃねえ」
 郁也の顔を終えて松山は、照れくさそうにへらへら笑っている、王子役の矢口のメイクにかかった。すかさず衣装が駆け寄ってきた。
「ドレスは後ろで留めるから、まず自分で袖だけ通して。靴はこれだから。ストッキングはかないと歩き辛いからね」
 郁也は手渡された品々を見て、頭の中で手順を整理した。
(ドレスは邪魔になるから先に着られないけど、ペチコート着けてはき替えればいいかな)
 郁也はそれ以上の説明を求めることなく、白いレースが幾重にも広がったペチコートを腰まで上げて、部屋の隅でズボンを脱いだ。そして出来るだけひとに見られないように、素早くストッキングを上げた。後は衣装に言われたように、ドレスの袖を通して、靴をつっかけて、計二分。
「さすがっすね」
 衣装班がそう唸った。

 二人がかりのドレスの紐を背中でぎゅっと締められて、松山に教えてもらいながら、郁也は柔らかなウェーブのかかったカツラを頭に乗せた。松山に最後の手直しをしてもらって、さあ出来上がり! 
 仕上がった「白雪姫」に、「おおーっ」という歓声が上がった。周囲の野郎どもの目がぎらぎらして気味が悪い。
 郁也は教室に鏡がないのが不満だった。お姫さま姿を見たいのもあったが、自分の表情を確かめたかった。
(笑っちゃダメ。ムスっとした顔してなくちゃ)
 身動きするたび、ペチコートとドレスの裾がふるっと揺れる。郁也の気持ちに呼応するようなその動きに、郁也は秘かにうっとりした。

 そのとき、扉がガラッと開いて、「抽選終わったぞー」と声がした。総務の二人が、クラスを代表して仮装行列当日の出順決めのくじを引いてきたのだ。
「どうだったどうだった」
「一番最初じゃねえだろうな」
 その場にいた全員の視線が彼らに集まる中、郁也だけはくるっと背中を向けた。
 総務のひとり、斉藤が長過ぎる間を溜めていると、ぐるりから「無駄に引っ張ってんじゃねえ」「早く言え」「阿呆」と罵声が飛んだ。
「じゃん! 四番です」
 斉藤は四と大書されたわら半紙を高く掲げた。教室中が「おおっ」とどよめく。
「それは縁起のいいこって」
「いいのかよ」
「『大四喜(タースーシー)』っていうだろ」
 窓枠に掴まって外を眺める振りをしていた郁也の肩を、誰かが、とん、と叩いた。
 郁也はびくっと身体を固くした。 
(ああ、神様……)
 クリスチャンではないが、郁也は目を閉じて祈った。
「いい出来だな。可愛いお姫さまだ」
 郁也は振り返った。二名の総務のもう一方、瀬川佑輔が笑っていた。
「……瀬川君」
「こんな近くで見ても、全然違和感ないのな。やっぱ谷口、キレイなんだなあ」
 身長差が少しあるので、佑輔が郁也の顔をよく見ようとすると、ほんの少しだけ上体を傾げる形になる。佑輔にのぞき込まれて、郁也の頬は紅潮した。
「近くで見ても違和感ないのは、本人の素質だけじゃありませんー」
 松山がすかさず俺の腕も褒めろと迫る。お前の腕は充分知ってるよ、と佑輔は松山を軽くこづいた。
「道具、足りないものなかったか。予算あと少しだけ残ってるぞ」
 佑輔が松山にそう訊いた。金勘定も総務の仕事だ。うーんそうだなあ、と考え顔になった松山を、総合演出の岩城が大声で呼んだ。
「時間足りないなら、他のヤツでも出来ることを教えてやってくれ。四番目じゃ、支度にそんなに時間取れない」
 願ってもないとばかりに松山は岩城や他のメンバーと協議に入った。

 佑輔は窓枠にすっと腰かけ郁也と並んだ。こうなると総務には仕事がない。
「これで今年も、『仮装大賞』は貰ったな」
 佑輔は言った。
 郁也は耳まで熱くなってくるのを感じた。化粧の下から、頬の赤味が浮き出やしないか気になって、顔を上げていられない。郁也は俯いた。
「そんなこと言わないで。恥ずかしいよ」
「どうして」
「どうしてって。そんなの、当たり前じゃない。こんな格好させられることも恥ずかしいけど。まずこの格好そのものが、恥ずかしいだろ。カッコ悪いよ」
 郁也はドレスを持ち上げて見せた。その手も、強がって吐き捨てた声も震えているのが自分にも分かった。
「恥ずかしくないよ」
 佑輔は松山の指示に衣装班が目を白黒させるのを眺めたまま言った。
「全然、恥ずかしくなんかないよ」
 膝が小刻みに揺れている。他の連中に聞かれないよう声を潜め、俯いたまま郁也は言った。
「じゃあ、瀬川君なら、こんな格好で外出られる? こんな格好した人間を連れて、一緒に街歩ける?」
 同じ啖呵を切るんでも、よりにもよってどうしてこんな惨めなことを、自分は言ってしまうんだろう。それも、他の誰にでもなくこの、瀬川佑輔に。郁也は涙が出そうになってきだ。
 佑輔は全く動じず、のんびりと答えた。
「歩けるよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ」
 郁也はそれが芝居かどうか自分でも分からなくなりながら、挑戦的に言い放った。
「じゃ、証明出来る? 本当にこんな姿のボクと、街歩けるかどうか」
「ああ、いいよ」
 松山が岩城と何事か合意したらしく、経費担当の佑輔を呼んだ。佑輔はノートを手に立ち上がった。そちらへ行きかけて、佑輔は郁也を振り返り、悪戯っぽく笑った。
「そっちこそ、逃げんなよ」 
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