19、

文字数 5,994文字

 聖母の(かいな)に抱かれ楽園へと導かれる生命(いのち)を引き止め、手ずから返されたならば、このような感じなのかもしれない。
 黄金に光るほのかな重みをかかえて、アーレインは座りこんだ。カラスが心配そうに腕の中をのぞきこむ。
 ハーティスの細い身体の無事を確認して、アーレインは大きくため息をついた。と同時に光は消え去り、ずしりと膝に本来の重みがかかった。
「ハティ」
 名を呼びながら軽く頬をたたくと、薄茶色のまつげが震えた。カラスが髪の中にくちばしを突き入れて、毛の房を引っ張る。顔をしかめながら目を開けた少年は、ぼんやりとアーレインをながめ、やがてつぶやいた。
「やっぱり……姉さん、だったんだ」
 アーレインは薄茶の頭を抱き締めた
「どんなに心配だったかわかる? この五年間、早く助け出したいと思って私は」
「そうだ。さっき、皇王が」
 はっきりと目覚めたらしいハーティスが、彼女の言葉をさえぎった。
「皇王が、誰かと言い争いながら獅子の車に乗ってどこかへ行ったんだ」
 アーレインは冷たい水を浴びせられた気がした。
「誰かって、麦藁色の髪をした、背の高い若い男の人ではなかった?」
「そう。皇王と剣を交えてた」
 ライナスに間違いない。
「その人はどこへ行ったの?」
「皇王と戦いながら、獅子に乗ってどこかへ」
「どこかって、どこなの?」
「そんなの、僕にわかるわけないじゃないか」
 むくれるハーティスに、アーレインは戸惑った。
 そういえば、城兵にからまれてもおびえた様子ひとつ見せなかった。まだ十三歳のはずであるのに。竜に変わったカラスや神獣の獅子を見ても、間近で剣が打ち合わされても、おののかない。空から落ちてあやうく命を失うところだったのに、けろりとしている――魔女の薬草園ですごすうちに、人ではないものに変じてしまったような気がした。
「……薬草園の魔女は、どうしたの。なぜハティは首都にいるの?」
 ハティは緑の封蝋で留められた巻紙を、ぞんざいにアーレインに差し出した。
「僕はレオギン――薬草園の魔女から、この手紙を皇王に渡すようにってよこされたんだ。せっかく追いついたと思ったのに、皇王に渡しそびれちゃった。何か、これに手がかりが書かれているかもしれないよ」
 封蝋をやぶって、文面を床に広げた。ハティもカラスも、アーレインと一緒に達筆な文字の手紙を読んだ。
 そして最後まで読み終わらないうちに、そろって息をのんだ。

『バイスンに告ぐ。
 私は二度と弟子をとらないと心に決めた。
 私の平穏な暮らしを壊そうとするな。
 たとえおまえが私を見つけ出しても、おまえが得るものは何もない。
 万が一、おまえが無理に薬草園を我がものにしようとするならば、
 私はこの園に火を放とう。
 どのみち、フォルール神の墓守はあと十二、三年もすればいなくなる。
 そうとなれば薬草園は滅びるのだから、同じことだ。
 だが願わくば、あと十年余りだけ。静かに余生を過ごさせてくれ。
                        薬草園の魔女 レオギン』

「火を放つって……あと十二、三年って……」
 自身に危険がおよんでもけろりとしていたハティの顔色が、はじめて蒼白になった。小刻みに震え出した肩をさすってやりながら、アーレインは、彼がこぶしが色を失うほどに強く握り締めていることに気づいた。
「ねえスルスミ。レオギンは、あと十二、三年で死んじゃうの? だから、十二祝いをしようと言ったら、あんなふうに視線をそらしたの?」
 スルスミと呼ばれたカラスは、聞こえていないかのようにわき腹の羽毛をつついた。
 ハティはふらふらと立ち上がった。しかし足もとはおぼつかず、アーレインが支えなくてはならなかった。
「少し前に、薬草園が皇王の手先に見つかったんだ。それでレオギンは、薬草園を燃やそうと思ったのかもしれない。だから僕とスルスミを遠くへ逃がしておいて、墓守だからって理由で、ひとり残って……」
 ハティは唇をわななかせた。
 アーレインにしてみれば、魔女の事情など知ったことではなかった。薬草園の魔女はこの五年間、アーレインの弟を(かどわ)かした天敵だったのだ。
「ハティ」
 彼女は五年ぶりに、まっすぐ目を合わせて弟と向き合った。
「あんたにとって、薬草園の魔女って何なの?」
 彼の両肩に手を置くと、震えが痛々しいほどに伝わってきた。
「私はずっと――あんたが、私のせいで魔女にさらわれたのだと思ってた。助け出したくて、まじない師の力をつけてきた。……なのに、ハティったら、魔女の心配ばかりしているじゃないの。あんたにとって、彼女は何者なの?」
「レオギンは、家族だよ」
 ハティはきっぱりと言った。
「――うん、家族だ」
「家族というのは私や、ディッセルベーンの父さん、母さんのことでしょう?」
「血のつながりも家族だけど、レオギンも家族なんだ。……僕は、さらわれたんじゃない。僕はレオギンと一緒にいたいから、レオギンと一緒にいるんだ」
 彼の言葉には、すがすがしいほどに迷いがなかった。
「それって変? 僕がおかしい?」
「……ううん、おかしくない」
 アーレインはむりやり笑顔を作った。
「私も、そうなのかもしれない」
 初めは、ライナスに反発を覚えた。だが、過去を知らされるに足るだけ信用されていると、仄暗い喜びを感じたのも事実だ。彼の本当の名を知らされているのだと、リンコレッタとアイルに優越感を持っていたのも否めない。
「まじない師なんだもの。たとえ牢につながれたって逃げられるのだから、とっとと帰ればよかったのに、放っておけなかった」
 南塔を訪れるたびにライナスが淹れてくれたコーヒーは、とてもおいしかった。あの香りに包まれた彼の部屋を、知らず知らずのうちに守りたくなっていたのかもしれない。
「私だって、脅されたからじゃない。一緒にいたかったから、一緒にいたの」
 深呼吸すると、静謐な力がみなぎった。胸いっぱいに息を吸いこみ、風のように吐き出す。
「薬草園に、行かなくては」
 バイスンも、彼を追ったライナスも、間違いなく薬草園へ向かったのだろう。
 手紙にあるように、魔女が本当に火をつけてしまうかもしれない。炎に巻かれてしまえば、もろとも死んでしまうだろう。
「でも、どうやって?」
 ハティが泣き出しそうな声でたずねた。
「空飛ぶ獅子は、もう行ってしまったのに」
「薬草園には、あんたの大切な人もいるんでしょう? 助けたいんでしょう? そんな情けない顔してどうするの」
「僕の大切な人、も?」
「私だって、助けたい人が皇王を追いかけて薬草園に向かったのよ」
 助けるか、見捨てるのか。クロナガヘビの傷を手当てしたときのように選択をせまられても、もはや迷うことはなかった。
 ――追いつくために今、一番必要なものは何だろう? 
 相手は、神獣が引く車だ。実在など考えたこともなかったが、この目で見たのだ。獅子や竜に乗れば、追いすがれるに違いない。だが、幻術でそれらしいものを見せかけるのと、自分たちが乗るために組み上げるのとではわけが違う。竜の翼の構造が正しくなければ、きっと墜落してしまうだろう。
 頭の中にしっかりと姿を描き、手ざわり、質感までをも思い起こせる何か。そして今一番必要な、獅子の車に追いつけるだけの力を持った何か――。
 つばをのみこみ、アーレインは周囲を見まわした。そして不意に、スルスミのつぶらな瞳と目が合った。困ったようにまばたくその目が、アルソレイム宮殿へのつかの間のつきあいだった相棒――栗毛の牝馬を思い出させた。
「馬がいいわ。脚の速い馬がほしい。脚が強くて、速い馬が」
 熔岩と氷河の内海に、ひづめの震動とスルスミの羽ばたきとアーレインの鼓動が響き、まざりあい、大きな渦となった。アーレインは渦の中に腕をつき入れ、暴れる獣の尾をつかんで引きずり出した。
 カラスの体がパン生地よりもふくらみ、引き伸ばされて、現れた大きな駿馬にハティが歓声をあげた。その黒馬のたてがみには、少しだけカラスの羽毛の名残りがあった。
 アーレインは鞍も何もないスルスミの背にまたがり、ハティに手を差し伸べた。
「乗りなさい。――スルスミ、二人分でも耐えられるわね?」
 スルスミは豪快な鼻息で応えた。
 アーレインは太い丸太のような黒い首にしがみつき、ハティは姉の腰につかまった。スルスミは誇らしげに棹立ちになり、強く床を蹴って踊り出た。ひづめが石畳を砕き、ますます加速した。あまりに速いのに揺れもしないので、舌を噛む心配もない。アーレインは馬の四肢が宙に浮いているのではないかとも思った。
 
 走るうちに夜は更け、やがて明け方が近づいた。スルスミの首筋がしっとり汗ばんでいる。
 東の空が白んで、雲が薄紫に染まりはじめた。太陽が顔を出し、西方を走るシュラノー川の川面が宝石粒のようにきらめく。フォンティーナ山脈のかたちよい峰々が正面から朝日を浴びて、紅色に染めた。
 遅いヒースの咲いた荒野を走りつつ、アーレインは北東の方角を見つめて眉をしかめた。相当な速さで駆けているはずなのに、まだ黄金の獅子の車は見当たらない。ハティにますますしっかりつかまっているように言い、アーレインはスルスミの腹を蹴った。黒い首筋に玉の汗が浮かび、ガラス玉のように転がりおちた。
 昇った朝日に照らされて、はるか前方の宙で何かが光ったような気がした。目の錯覚かもしれない。ちぎれ雲が太陽の光を反射したのかもしれない。だが、アーレインは確信した。鼓動が速まった。
「ハティ。ヘーデンの城館のどこに、薬草園はあるの?」
「空から見れば誰でもわかるし出入りも自由って、レオギンは言ってた」
「だけど馬の姿では、スルスミでも飛べないでしょう」
「普通に薬草園に入ろうと思ったら、僕がいつも使っている入り口か、鍵がかかっている門か、どちらかだ」
「あんたは、勝手に薬草園を出入りできたの?」
 だったら、どうして一度くらい帰ってこなかったの! 
「僕が薬草園の外に出るのは食べ物を調達したり、レオギンのために用事を果たしたりするときだけだよ。薬草園の場所は秘密だから、できるかぎり外には出なかったんだ」
「ハティがいつも使っている入り口って、鍵が何なくても入れるのね?」
「……でも、僕じゃないと難しいかもしれない」
「どうして」
「姉さんじゃせまいかもしれないんだ」
「失礼なやつ! 私、そんなに太ってないでしょう」
「そういうことじゃなくて。……入り口って、雨水を流すための排水路なんだ。僕だって最近はきゅうくつになってきてる」
「……じゃあ、鍵がかかっている門の、鍵はどこにあるの?」
「僕も知らない」
 アーレインは一瞬絶句した。
「本当に、知らないの?」
「辺境伯が持っているって、それだけしか知らない。レオギンがフォルール神の墓守、皇王が国守り。それと同じことで、ヘーデン伯は代々薬草園を秘密の庭として隠すつとめを負った庭守だから。ずうっとそうなんだって。フォルール神の墓石が五百年前に今の城館に建てかえられてからも、変わらず庭守をしてくれているのだって」
「でも辺境伯は、もうフォンティーナに行ってしまったじゃないの」
「たぶん……辺境伯は、自分がいなくなるときに鍵は持ち出していないと思う」
 ハティはアーレインの背中に額を押しつけた。
「庭守が秘密を持ち出すとは思えないもの。きっと、誰かに引き継いだんだと思う」
「バートラムさん? それともアイル?」
「さあ……。だけど鍵を預かっているのは辺境伯のはずなのに、レオギンはたしか、『魔術師でなくては鍵は開けられない』って、そんなことを言ってたな」
 アーレインは眉根を寄せて、
「それは、魔術師が鍵ということ?」
「そうだと思うけど、術で鍵を開けようとしても開かないみたいだよ」
 ――なんだろう。何か、引っかかる気がする。
 思い至って、彼女は飛び上がった。
 前方にヘーデン北東部の小麦畑が見えてきた。その向こうには領館の尖塔がのぞき、獅子の車のものと思われる金の霧のようなわだちが城館の屋根の中に吸いこまれてゆく。
 再度、アーレインはスルスミのわき腹を蹴った。彼のたてがみと一緒に汗のしずくも握りしめた。
 シュトロム村を過ぎディッセルベーンを過ぎ、馬丁たちの詰め所を一瞬で通り過ぎ、アーレインはヘーデン城館の玄関にスルスミを止まらせた。バートラムが駆け出してくるのを視界の端にみとめながら、アーレインはハティを馬背からおろした。長時間馬に乗っていたために足ががくがくとし、まっすぐ立てないハティのために、アーレインは少し理を曲げてやった。
「あんたは、先に行きなさい」
「でも、鍵は」
「鍵は大丈夫。あんたは薬草園の魔女が大切なんでしょう? 助けたいのなら、早く行きなさい」
 ハティの瞳が揺れ、迷ったのはわずかな間だけだ。
「――ありがとう、姉さん」
 そう言い残して、彼は駆け出して行った

 スルスミから下りたアーレインは、早速バートラムに駆け寄った。
「バートラムさん。秘密の庭の鍵って、知っています?」
 老執事は目を白黒させて首を横に振った。彼のこんなにあわてた表情を見るのは、はじめてだった。
「知らないなら庭の鍵はいいんです。訊いてみただけですから」
「どうなさったのです? 先ほどものすごい音がいたしました。いったい何が起こっているのです?」
「ごめんなさい、帰ってきたら話します!」
 アーレインは南塔を駆け上がった。彼女が近づくだけで、術のかかった錠は次々と弾け飛んだ。
 ライナスの部屋を開け放ち、アーレインは膝をついて、テーブルや椅子の下を探った。
 ほどなくして探しものは見つかった。古ぼけた“黒の魔術師の札”は遊戯盤の上に、ほかの絵札と共に重ねられていた。絵札を裏返してみると、いずれもこまやかな文様が刻まれた金属で飾られている。
「この“黒の魔術師”で、門が開くってわけね」
 部屋を飛び出し、一刻を惜しんで階段の手すりを乗り越え、飛び降りる。ハティを受け止めたときのようにふわりと体が浮いて、静かに着地することができた。
 東塔と北塔のあいだの壁を調べると、鉄門が繁った蔦に隠されていた。ためしに術で開けようと試みても、ハティの言ったとおり、魔女の強烈な力で守られている。だが、鉄門の正面にあるくぼみに魔術師の絵札を差し込むと、かちりと小気味よい音がした。
 アーレインはからんだ蔦をかき分けるようにして、ひたすらに薬草園を目指した。
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