18、

文字数 3,330文字

 スルスミの竜化の術は二日で解けてしまったというのに、レオギンから預かった皇王への手紙は、まだ届けられずにいた。
「ついてなかったなあ。まさか、王太子のお妃を選ぶ舞踏会だなんてね」
 スルスミはくちばしをわきの下に突っこんで、ハティの肩の上で羽づくろいを続けている。
 国中から貴族が集うために、街を警邏する城兵の数が増えているのだそうだ。先日はスルスミを連れていたばっかりに、からまれてしまった。そのとき幻術で城兵を脅かしてくれたまじない師が、どこか姉に似ている気がしたが、まさか、ディッセルベーンに住む姉がイリューシオンにいるはずもない。
「舞踏会自体が始まっちゃえば、そこに警備が集中するから、忍び込みやすくなると思うんだ。舞踏会は明日だっけ?」
「ンガア!」
「あれ、今日か。乗合馬車が再開するのは明日だって聞いたから、ごっちゃになってたよ。じゃあ今日届けちゃえばいいんだ。……レオギンは、皇王なんかに何を書いたんだろうね?」
 スルスミに答えを期待するわけでもなく、ハティはつぶやいた。
「手紙――うれしい内容じゃないのはたしかだよね。僕たちを脅すような男を送り込んできたんだからさ」
 安宿を出て城壁まで歩き、ハティは城門の上を見つめた。二頭の獅子が黄金の車を引く図柄の王旗が掲げられ、堂々とはためいている。たっぷりの金糸で彩られた巨大な旗は西日によく映え、図柄の刺繍が燃え上がるようで美しかった。
 舞踏会に参加する貴族たちの馬車はとうにすべて到着したようで、正面の門は閉ざされていた。
 城壁の西側には、下働きが使う粗末な木戸がある。飛んで入ったスルスミに内側から(かんぬき)をはずしてもらい、一人と一羽はアルソレイム宮殿に侵入を果たした。
「舞踏会ってことは、皇王は自分の部屋じゃなくて、きっと会場にいるよね」
 人の気配がしたので、ハティはあわてて物陰――半開きになっていた客間の扉に隠れた。様子を伺うと、食事をのせたワゴンを押す使用人だった。
「スルスミ。あいつについていけば、舞踏会の会場に出られるかもしれないよ」
 扉につかまって立ち上がろうとした、そのときだった。
 足の真下――床のさらにその下から、獣のうなり声が聞こえた。イヌやオオカミではない。まして、王侯貴族が愛でる毛足の長い猫でもない。
「空耳じゃあ、ないと思うんだけど」
 スルスミもうなずいた。ハティはおそるおそる客間の中をのぞきこみ、そこに猛獣がつながれていないことを確認した。どこにも、おかしな部分はない。宮殿にふさわしい、格調高い客間だ――……
 ――えっ? 
 ハティは目をうたがった。暖炉の奥が、ぽっかり黒い口を開けている。暖炉だというのに薪も灰もなく、ただ四角の穴が開き、かすかにひゅうひゅうと空気の動く音がする。
 おそるおそる穴をのぞきこむと、先ほどよりもはっきりと獣のうなり声が聞こえた。スルスミはぞっと羽毛を逆立てて、ハティは身ぶるいした。穴の中には、ごていねいにも、下りるための石段があった。
「こういうのって……えらい人が逃げるための隠し通路だったりするのかな?」
 スルスミは嫌がっていた。羽毛を逆立てたまま、痛いほどにかぎづめを食いこませてくる。
 だがハティは、この隠し通路こそが皇王の居場所に通じる近道に思われてならなかった。
「行ってみよう!」
 入り口はせまかったが、内部は案外広かった。階段は底が見えずに延々と続き、ハティの胸は高鳴り、一段ずつ下りていった。鼻を引くつかせると、空気は少し黴臭い。しかし獣臭さは混じっていない。獣の臭いも息づかいもまったく感じられないのに、うなり声ばかりは深くもぐるごとに大きく聞こえるようになっていた。
 ようやく階段が終わって、ハティは両腕を前に突き出す格好で手探りしながら前進した。やがて手のひらが冷たくごつごつとした感触とぶつかった。平面に何かが彫刻された壁か扉らしい。何が彫られているのだろうと触っているうちに、取っ手のようなものを探り当てた。難なく扉は進路を開けた。
 たちまち外気と光が押し寄せて、ハティは目をつぶった。鋭い金属音が鳴り響き、怒号が飛び、あまりのことに目も耳もハティも呆然とした。
「逃げるな!」
 うっすらとまぶたを持ち上げると、金色の光の中に、ふたつの人影が立っていた。
「逃げるのではない」
 先ほどとは違う声が応じた。
「ここに獅子の車が在ること自体、私の権利を証明しているとは思わぬか」
「戯言を!」
 もう一度金属同士がぶつかり合う音を聞いて、ハティは、それが剣を交えるときの音なのだと気がついた。
 何度もまばたきをして目を慣らしながら、スルスミの背中を撫でた。スルスミは猛禽に追いつめられでもしたかのように硬直し、黒い目を見開いている。
「スルスミ?」
 烏が見つめる先をたどり――ハティは息をつめた。
 そこには光そのものがあった。光の源があった。
 目を射抜いたのは西日ばかりではなかった。そこには、絵でしか見たことがない神獣が、たしかに存在していた。
 黄金に輝く巨大な獅子が二頭。一頭で馬の数頭分の大きさがあるだろう。レオギンの髪を思わせる西日色のたてがみをふさふさとたくわえ、巨体は小さな箱につながれていた。箱には、馬車の御者台のようなものがついている。
 ――ああ……二頭立ての、獅子の車なんだ。
 それらは、王旗の図柄そのものなのだった。
 剣戟の音がやみ、ハティは顔を上げた。一方の人物が、獅子の車に乗りこんだのだ。彼は腕に何かを抱えていた。それを車の席に横たえてから、剣の鞘で獅子の尻を強く打った。獅子はにわかに走り出した。寝ぼけたような走りかただ。
「逃げるなと言ったろう、バイスン!」
 剣戟を交わしていたもう一方の男は罵りながら、獅子に追いすがった。
 ――バイスンって、皇王の名前だ! 
 一拍遅れて気がついたハティも走り出し、スルスミは羽ばたいた。一足先に駆け出していた男は金の体毛をつかんで獅子によじ登り、御者台の相手に切っ先を向けた。獅子たちは少しずつ速足になったがハティも何とか追いつき、ぶらぶらする尻尾をつかんだ。
 バイスンは男の刃を防ごうと、手綱を手放して剣を抜いた。獅子たちが咆哮を上げるとともに、大地を蹴った。獅子も車も黄金色に染まる空を翔け上がり、ハティは尻尾につかまった腕一本で宙ぶらりになってしまった。引っぱられて痛んだのだろう――獅子はハティを振り落とそうと身をよじり、手綱が手放された車は大いに揺れた。
 二頭をつなぐ鎖がちぎれた。二頭立ての車が、獅子一頭と、一頭が引く車に分かれてしまった。その衝撃で、ハティは手を放してしまった。
 ディッセルベーンの小麦畑のような、豊かな金色の空を見た。そして、とてつもない突風を全身に感じた。手足がすべてもぎとられるのではないかと思った。
「ガ――――ァッ!」
 スルスミの悲鳴が聞こえた。


「ハーティス!」
 冷静でいられるはずなどなかった。アーレインは弟の名を呼び、ただ両腕を突き出した。
 ヒーリア神に祈ることも有用な術をつむぐこともできずに、ひたすら強く願うばかりだった。助かってほしいと。
 まじない師の術は、「見せかけ」と「知識」を基本とするもの。まじない師の枠にとらわれているかぎり、どんなに願っても、何も変わらない。
 ――なら、薬草園の魔女だったら、空から落ちてくる者をどう救うだろう? 
 突然、視界が拓けた心地だった。
 ――(ことわり)を、曲げればいい。
 熔岩と氷河がアーレインの内側で噴き上がり、歓喜の雄たけびをあげて彼女に襲い掛かった。原初の大波が、彼女の自我を根こそぎ奪い去ろうと踊り狂う。
 アーレインは唇を引き結び、暴風吹き荒れる大海のただなかで踏ん張った。少しでも気を緩めれば、途方もない彼方まで連れ去られてしまう。
 意思を熔かし、意志をくじこうとする熱く冷たい奔流が全身を駆けめぐるのを感じながら、アーレインは落下するハティを見つめた。何もないはずの宙がぐんにゃりと歪んだ。
 途端、腕の中に重みを感じた。
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