7、

文字数 6,233文字

 十五年前のこと。
「うそでしょう!」
 幼いライナスは叫んだ。
 まだほんの六歳だったが、ものごとが正しいか間違っているか程度はわかるつもりでいた。実際、ライナスは賢い子どもだった。
「だって、父上がそんなことなさるはずがないもの。なさるはずがないんだもの! そのお話は、うそじゃなければ、きっと何かのまちがいです!」
「ええ、わたくしだって、旦那様はそんなことをなさるお方ではないと存じております。けれどもお城の人たちは、旦那様を犯人と決めつけているのです。旦那様はご自身の潔白を証明なさるためにお城に参上なさったのに、裁判もなしに牢に入れられてしまうだなんて……ああ、慈悲深きヒーリア神! 旦那様をお助けくださいまし!」
 ライナスは乳母の胸に飛びこんだ。乳母に優しく背中をさすられると思わず泣きそうになったが、ぼくは父上の子なんだからと、自身に言い聞かせ涙をこらえた。
「ねえ、兄上は?」
「巡察先から急ぎ駆けつけてくださるそうですよ。でも本当に、どうしてこんなことに……。旦那様が、ずっと皇王様に誠実にお仕えしていたのは、誰の目にも明らかでしょうに」
 首都イリューシオンは、大きな混乱の渦に陥っていた。皇王が、建国祭の宴のさなかに暗殺されたのだ。
 水晶の杯を掲げ持ち、祝詞を朗々と詠いあげてワインを口にした途端、皇王は血を吐いて倒れた。毒殺だった。すべての料理、飲み物は毒見役によって調べられているはずであるのに。
 黒い血を吐き続けながら痙攣を起こす夫のもとへ駆け寄ろうとする皇王妃を、一人の近衛兵が押しとどめた。皇王妃は彼の無礼を責めたが、次の瞬間、白鳥のように優美なその身体は、近衛兵の一閃を受けて鮮血を噴きつつ崩れ落ちた。
 場はさらに騒然とし、貴婦人たちの絹を裂く悲鳴、色を失った男たちのあわてた足音が交錯した。皇王妃の胴がぱっくりと裂けたのを一瞥し、下手人は獲物を投げ捨てて人の群れの向こうへと逃げてゆく。誉れ高い近衛兵と偽り大罪を犯した者を逃がしてなるものかと、本物の近衛隊が死力を尽くし捜索したが、その日のうちには捕まらなかった。
 皇王と皇妃殺しの大罪人が捕らえられたのは、数日後だった。
 幾重もの厳重な警備をくぐりぬけてアルソレイム宮殿に侵入した男は、年端もいかない三人の王子たちさえも次々と手にかけていた。王太子は弟たちを守ろうとして勇敢にも戦ったらしく、全身に切り傷を受けて血を失った末に聖母の(かいな)に導かれ、楽園へと旅立った。二番目の王子は喉をかき切られていた。生まれて間もない第三王子は女官に抱かれて逃げ出したと聞いたが、その女官がじきに地下水路で変わりはてた姿となって発見された。小さな王子は水路に流されてしまい、きっと亡骸は見つかるまいと、哀しい結論に至った。
 皇王夫妻をその手にかけた男は、地下水路から脱出しようとしたところを王弟バイスンに待ち伏せされ、御用となった。即座に拷問室送りとなり、ぼろきれのようになるまで王族殺しの動機を問いつめられたという。
 この男が「シェルパーダ公爵の依頼で皇王と王子たちを手にかけた」「シェルパーダ公は皇王位に就くために王籍に戻りたがっていた」と告げたのが、今朝のこと。報せを受けた公爵は正装に着替え、宮殿に参上した。
 公爵の言い分は一切聞き入れられず、王族出身の父から爵位を継いだ高貴な身の上でありながら、牢獄に入れられるという屈辱を味わうこととなったのだ。
「ぼく、お城へ行きたい。お城へ行って、父上は皇王様にひどいことなんかしていないって証明してくる。だって父上が“けっぱく”なのは、ぼくが一番知っているもの」
 乳母は無言で、純粋なライナスを抱きよせた。
 乳母にはわかっていた。誰が法廷に出向き公爵の潔白を声のかぎりに叫ぼうとも、もはやどうにもならないことを。公爵は、よからぬ企みを持つ者によって、その者が手を染めた恐ろしい罪をすべて着せられようとしていることを。
「馬車を用意させて。ぼくがお城へ行く。父上を助けたい」
 金茶の瞳から雫がこぼれそうになるのを懸命にこらえ、ライナスは乳母の腕にすがった。
 乳母は、彼のやわらかでまっすぐな麦藁色の髪を指で梳きながら考えていた。ひょっとしたら、この父思いの愛らしい小公子の命さえ、危なくなるかもしれない――と。
 彼女は聡かった。たいした家名を持たない中流の出であるが、シェルパーダ家に奉公する以前は女官見習いとしてアルソレイムに出仕していたこともある。そんな若い娘時代、彼女は作法に厳しい宮殿の仕事を覚えていくと同時に、華やかな宮廷の裏には暗く汚いものが常に渦巻いているということを嫌でも知った。貴族の中にはいくつもの派閥があり、その派閥同士が醜い争いを水面下で繰り広げている。王族の血を引く公子公女と縁組をし、少しでも良い爵位と封土にあずかろうとする者が目を光らせている。自分の利益のために、たやすく他者を陥れる。誰の間者がどこにひそんでいるとも知れない。
 シェルパーダ公が無実の罪のために処刑されるとなれば、息子たちからの復讐を恐れて、隠れて糸引くまことの罪人は、ライナスやその兄までをも亡き者にしようとするかもしれない。彼女は想像して身ぶるいした。あってはならないことだ。
「奥様、ライナス様!」
 そこへ、息を切らせた急使が駆けこんできた。彼は帽子をとる礼儀も忘れ、愕然と目を見開き、唇をふるわせている。悪い報せをたずさえているのは明白だった。
「どうしたのです」
 ただならぬ様子に、シェルパーダ公爵夫人は立ち上がった。
 夫人の琥珀を思わせる瞳は、揺れずに凛と澄んでいる。金のユリのように背筋を伸ばした美しい母と、汗だくになりながら真っ青にふるえている急使とを、ライナスはかわるがわる見た。恐怖が腹の底から胸へ喉へと迫り上がり、呼吸ができないほどに苦しい。
「どのようなお話なのです?」
 急使に、夫人はあくまで静かにたずねた。急使は唾を飲み込み、白くなった唇を懸命に動かした。
「公の、あのすばらしきシェルパーダ公の、斬首刑が決まりました……」
 世界が凍りついた。ライナスの世界から、色がなくなったのだと思った。すべてが灰色に凍り動かなくなり、感覚も感情も吹き飛んで、静寂だけに支配される。
 その静寂の氷は、乳母の声によって砕かれた。砕けた欠片が刺さったように、心臓が悲鳴を上げた。
「なんてことです! 旦那様が一言でも弁明なさる場は、わずかでももうけられなかったのですか。皇王の弟君は、何を考えていらっしゃるのだか! 裁判さえしないでよりによって斬首だなんて、よっぽどの事情を抱きこんでいらっしゃるのでしょうよ」
 夫人は乳母とは対照的に、ただ静かに、女神の彫像かと見まごうほど微動だにせずにたたずんでいた。その金茶色の瞳は今も静かだが、それは蒸留された怒りと悲しみのために澄んでいるのだった。
「一番小さな旅行鞄に、ひとそろいの着替えだけ入れなさい」
 その日の夕食時、夫人はライナスに言った。
「着物はできるだけ粗末なものを。ディシー、準備を手伝ってあげてちょうだい」
 乳母は夫人の考えを汲み取ってうなずいた。世の不条理さをうらみ、口もとはゆがんでいる。
 夫人は食事途中のライナスに近づき、軽くかがんで視線を合わせると、息子の小さい手をそっと包みこんだ。ライナスはスプーンを置いて真剣な面持ちの母と向きあった。
「母上?」
「夜のうちに逃げるのです」
「どうして」
 いくら賢くとも、まだ六つでしかないライナスには、これから降りかかるかもしれない危険までは予測できなかった。夫人はライナスが哀れで、切なくてならなかった。
「よくお聞きなさい、ライナス。母上のお父様の家がエレイズにあります。お祖父様のお屋敷には何度か行ったことがあるでしょう? そこまで馬車に乗って逃げなさい。馬車はもうすぐ、母上が頼んだ時間にやって来てくれる手はずになっています」
「母上は一緒に来ないの?」
「母上はまだ行けません」
 夫人はきっぱりと言った。彼女の上品な細身は飾りひとつない黒の喪服をまとっていても、大層美しかった。
 ライナスは母の美質をそっくり受け継いでいた。しかし凛として屈しない精神は、自分が生まれる前にすべて兄に持って行かれてしまったと、ライナスは幼心に感じていた。自分はむしろ母よりも父に似た性格だろう。
「帰ってきてくれる兄上ともお話しなければなりません。すべてがすんだら、母上もエレイズに向かいます。それまでの辛抱だから、良い子でなさい」
 うながされて、ライナスは乳母と子ども部屋に向かった。
 一度だけ使ったことのある旅行鞄をクローゼットから取り出し、洋服ダンスを開く。若草色のブレザーや金ボタンのついたスーツもプレスが行き届いてしまわれていたのだが、旅行鞄に詰め込まれたのは、灰色の格子縞の上下だ。郵便配達人の制服に似た、フリルのないブラウスを乳母が差し出した。
「ディシー、兄上はいつごろ到着するの?」
「若様なら、明日のお昼にはご到着なさるかと。もうそろそろ、道中から使者を立てられるんじゃないでしょうか。……ほら、どなたかいらっしゃったようですよ」
 窓の外から門衛の声が聞こえた。誰かと声高に話している。母が依頼した馬車が迎えに来るにはまだ時間がある。では、やはり兄の使者だろうか。
 結果から言えば、兄が寄越すような折り目正しい使者ではなかった。宮殿からの使者だ。しかし、アルソレイムの城兵であることを示す鎧をまとっているにもかかわらず、彼らは乱暴で遠慮を知らなかった。門衛は殴り倒され、槍を振りかざして館に踏みこんだ。仰天した執事がなにごとかと問うても、問答無用に突き飛ばされてしまった。
「お逃げください、今すぐに!」
 小間使いが子ども部屋に駆けこんできたのは、門衛の話し声が聞こえてまもなくだった。
 シェルパーダ夫人は青ざめつつも、ライナスに手を差し伸べた。
「母上?」
「時間がないのです」
「何があったの? 下が騒がしくなったけれど」
「ライナス、ついていらっしゃい」
 夫人は答えずにライナスの手を引いた。乳母は涙ぐみ、祈るように手を握り合わせて言った。
「奥様、ライナス様とお早くお逃げになってください。わたくしどもが礼儀知らずの城兵に話をしてきます。そのうちに」
「ありがとう。ディシー、頼みますよ」
「ああヒーリア神! どうか奥様とライナス様をお守りください!」
 乳母と小間使いは下階へと下りていき、ライナスは母に手を引かれてさらに階段を上った。
 最上階まで一息に上がり、廊下の一番奥まで小走りに進む。ライナスには母がどこへ向かおうとしているのか何となくわかった。父の書斎だ。
「書斎には、逃げ道が隠されているのですよ」
 母は告げた。
「大きい黒檀の机があるでしょう? あの机の下には、目立たないように扉が作ってあるのです。梯子が床から地面にまでつながっていて、そのままたどって行けば誰にも見つからずにお館を出ることができますよ」
 立派な扉を開けて書斎に入ると、夫人はかんぬきをかけた。
「用意した服に着替えなさい。急いで」
 主人が不在となってから薪の足されていない暖炉の火は頼りなげだ。それでも、まだ近くは暖かかった。ライナスを暖炉の前で着替えさせ、掻き出されていた灰をすくい、息子の髪になすりつけた。まぶしい麦藁色の髪はみるみる白っぽくなり、埃に汚れ何日も洗っていないように見える。
 すべての上着のボタンを留め終えたとき、にわかに廊下が騒がしくなった。次いで、乳母の割れるような叫びが響いた。
「お逃げください!」
 お逃げください、どうかお逃げください! 
 彼女の叫びは何度も繰り返されたが、鈍い嫌な音がしてぴたりとやんだ。
 夫人は唇を噛み、一瞬天井を見遣り、白魚にもたとえられる美しく細い指を、何のつもりか暖炉の小さな炎に突き入れた。思わず上げそうになった悲鳴を、ライナスはすんでのところで飲み込んだ。
「熱くて痛いでしょうけれど、良い子だから我慢してちょうだいね」
 熱くて痛いのは母上のほうでしょうと言いかけて、扉がただならぬ激しさでたたかれる音に、ライナスは硬直した。シェルパーダ夫人は扉のほうを見向きもせずに、せっかく留めたブラウスと上着のボタンをはずさせた。肌着もめくり上げ、ライナスの左の肩がむき出しになる。
「我慢してちょうだいね」
 彼女はもう一度言い、火傷しているに違いないその指を息子の肩に近づけた。ライナスは息をのんだ。母の指にはまっている、家紋の指輪――手紙を書いたとき、封蝋に刻印する指輪が、熱と共に迫り来る。
「くうっ、うっ……!」
 歯を食いしばっているあいだに、剣と槍が交差した指輪の印章が、肩に焼きついた。剣と槍が交差した、シェルパーダ家の印章。まるでフォルール神の墓標の、斜め十字のようだ。
 耐えた息子を笑顔でほめると、夫人は隠し通路の入り口を開け、ライナスを梯子につかまらせた。扉にはもはや拳ではなく、武器が打ちつけられているようで、今にも壊されてしまいそうだ。
「この通路をたどって外に出て、どこかに隠れて馬車を待ちなさい。御者にはエレイズに行くようにすでに言ってあります。馬車から降ろしてもらったら、お祖父様の門衛に肩の印章を見せなさい。指輪や手紙を持たせてあげられれば痛い思いをさせずにすんだでしょうけれど、道中検問にあって荷物を改められたなら、おまえの命が危なくなるから……。良いですか、お祖父様のお家に行ってこの印章を見せなさい。良いようにしてもらえますよ」
「母上もディシーも、今から一緒に逃げようよ」
 夫人はかぶりを振り、
「おまえは先に行きなさい」
「どうして」
「……あのね、ライナス」
 扉を鋭い矛先が貫いたのを、ライナスの大きな瞳がとらえた。途端にすくんだ彼の身体を夫人は力の限りに抱きしめた。
「ライナス。おまえの父上は、何の罪もないのに殺されようとしているのです。母はそれがどうしても許せないの。王弟という地位だけで、元老院や皇王国会議にすらなかなか顔を出さなかった人間に、あの方を裁く権利なんてないのに。だから、わたくしは、最後までここで戦います。父上が斬頭台に上るのをただ見ているだけでは嫌なのです」
「だったら、母上と一緒にぼくも戦う!」
 ライナスは這い上がろうとしたが、母におしとどめられた。髪をくしゃりとなでられ、頬に口づけられた。
「おまえは、いきなさい」
 何か言わなくてはと思うのに、ライナスの喉も肺も腫れるように痛むばかりで、言葉は出ない。
「いきなさい!」
 机の下――ライナスにとっては頭上の床板が、母の手によって閉められた。
 腕を伸ばしてみたものの、鍵をかけられたのか、入り口はびくとも動かない。母の遠ざかる靴音が聞こえた。かんぬきを開けに行ったのだろう。扉をあんなに無茶苦茶に叩く人間が、まともに話を聞くはずがない。
 母が言った「いきなさい」は、行けということなのか。生きろということなのか。どちらの意味だったのだろう? 
 ライナスにとっては肩の焼き痕よりも、胸の疼きのほうが比べものにならぬほど痛かった。
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