12、

文字数 3,681文字

 ハティは台所の入り口に立ちつくして、やがて、大きなため息をついた。
「これは……悲惨だね」
 ハーティスが白い小麦粉の海に見つけ出した少女は、指先をどろりと緑色に染めて、至極不機嫌そうに両頬をふくらませていた。オレンジ色を帯びた金の髪に小麦粉が降りかかり、まるで粉砂糖で装ったケーキのようだ。

 ことは、朝一番から始まっていた。
 毎日たっぷりと朝寝を楽しむはずのレオギンが、今日ばかりは早起きをしたらしい。ハティが目覚めたときには、すでに彼女のベッドはもぬけの空だった。
 いぶかしく思いながらも、ハティはくしゃくしゃの髪を手櫛で押さえ、顔を洗おうと水場に向かった。彼らの家はモルタルで塗り固めた白い壁に、いぶした茅葺き屋根がのっただけの小さなもので、寝室と仕事場のある母屋と、台所と水場の離れに分かれている。水を使うには、一度外に出て離れまで行かなくてはならない。
 日中は夏の訪れを身近に感じるようになったが、早朝はまだ少し冷える。首をすくめて身ぶるいしてから、ハティは一歩踏み出した。
 サンダルで踏んだ山ハッカは朝露と溶けあって、レモンに似たさわやかな匂いをふりまく。軒先に干していた手巾を取り、かぐわしい繁みをかきわけて、彼はレオギンの姿を探した。しかし草や木々の陰のどこにも、獅子のたてがみに似た黄金色は見当たらない。
 ハティは汲み上げた水で顔を洗い、水浴び後の仔犬のように頭をふって水を飛ばした。手巾に顔をうずめると、ほのかに花の匂いがした。
 ――ひょっとすると、奥地まで行っているのかも。
 五年間レオギンとともに暮らし、入り組んだ迷宮さながらの薬草園でほとんど迷うことのなくなったハティでも、奥地とよばれている場所にはいまだ入ったことはなかった。レオギンに隠れてさぐってみようと試みたときも、鋭い棘を持ついばらが柵のようにはりめぐらされていて、のぞき見ることさえかなわなかった。
 奥地には特別大切なものがあるらしく、年に数度訪れるとき、レオギンは入念に準備を整え、朝早くから家を空ける。
 ――奥地に行ったのだったら、まだしばらく帰ってこないかな。
 留守のあいだに朝食の用意をしてしまおうと決めたとき、何かが割れる派手な音が、朝の澄んだ空気を震わせた。これから向かおうとしていた台所のほうからだ。
 ――スルスミ? 
 あのふてぶてしいカラスが、つまみ食いをしようと棚に潜り込みでもしたのかもしれない。スルスミはくちばしを器用に使って、吊した野菜や保存用のナッツを食い散らかした前科が何度もある。どんなお仕置きをすれば学習するだろうかとハティが考えていると、はたしてそのスルスミ本人が、慌ただしげに羽ばたいてやってきた。
「つまみ食いは禁止だって、さんざん言ってるじゃないか」
 肩にとまったスルスミは、せわしなく頭を動かしてガァと鳴いた。嫌な予感がした。
「もしかして、レオギンが?」
 スルスミは両方の翼を広げた。真黒い瞳をくるくると動かし、首を伸ばして台所のほうを示す。
 ハティはスルスミを肩にのせたまま土間に駆け込んだ。ほのかに焦げ臭さがただよう。そのきな臭さは毎秒濃くなり、最悪の事態の想像に拍車がかかる。
「レオギン!」
 土間を駆け抜け、かまどのある石タイル敷きの炊事場に飛び込んだ。
 たちまち白い粉がいきおいよく舞って、彼の視界をけぶらせた。咳きこみながら白い粉けむりを手ではらうと、ひどいありさまが広がっていた。
 鍋とその中身が床にひっくり返っている。ガラスの器であっただろうものが割れて、かけらが飴のようにきらきらとしている。油らしきべとべとがそこかしこに飛び散り、焜炉(こんろ)の上には炭のようなかたまりが散乱し、ボウルや木べらがあらぬところであらぬものと一緒に転がっている。
 麻袋から小麦粉がこぼれ出て、一面は白い粉の海。肩から舞い降りたスルスミはこわごわ歩き出したが、数歩歩いてすぐに生卵の白身にすべってしまい、小麦粉にまみれて白カラスになりはてた。
「これは……悲惨だね」
 白い小麦粉の海のまんなかで、レオギンは指先をどろりと緑に染め、至極不機嫌そうに両頬をふくらませている。
「怪我してるじゃないか。ガラスで切ったの?」
「切ったのではなく、気づいたら切れていたんだ。私のせいじゃない」
「そういう問題じゃないよ」
 ハティは彼女を無理やり立たせて“つんと臭う緑色の血液”を洗い流した。ガラスのかけらが傷口に残っていないことを丹念にたしかめ、清潔な布巾を巻いた。
「僕はてっきり、奥地にでも行ったんじゃないかって思ってたのに」
「今日は夏待ちの節気だろう」
「節気? それ、何十年も前にすたれてると思うよ。学校で習ったことないし」
「ばかもの、祝い事に良い日だ。一年以上遅れてしまったが、ハティの十二祝いをしてやりたくて」
 ハティは息をのんだ。
 レオギンは無事なほうの手で焜炉の上の炭を指差し、ひっくり返った油鍋をあごで示した。みるかげもなく黒と白のまだらになってしまった長衣をはたいて彼女は腰を上げ、唇をとがらせた。
「……祝い菓子を作ろうとしたんだよ。そうしたら、勝手に鍋がかまどから落ちて油がこんなふうになってしまったんだ。揚げないと祝い菓子は食べられないのに」
 もちろん、勝手にかまどから鍋が落ちるはずなどない。
「かまどがだめなら焜炉でやろうと思ったのに、とんでもなく火が上がって、生地が燃えつきそうになってしまったし。火を消そうとしたら天袋からボウルや木べらや瓶が降ってくるし――まったく、本当に散々だった」
 何もしないのに、天袋から調理器具が降ってくるとも思えない。それでも、ハティは追求せずに濡らした手巾をさしだした。レオギンは少しだけばつが悪そうに、ちらと彼の顔を見遣り、すぐに視線を伏せて手巾を受けとった。
 ――こういう顔をすると、レオギンも、同じ年くらいの女の子に見えるんだけどな。
「別に台所を汚そうと思ったわけじゃない。ただ、祝い菓子を揚げたかっただけだ。だから、今日は私が全部自分で片づけるから……そんなあきれたみたいな顔で年長者を見るな。いたたまれなくなる」
「あきれてなんかないよ」
「いいや、あきれたにちがいない」
 普段の覇気はどこへやら、肩を落としていそいそと片づけをはじめた。ハティこそいたたまれない気持ちで、散らばった器具類を彼女の背中側で拾い集めた。何かがぶつかり合う物音に顔を上げると、竹ぼうきとちりとりがレオギンに命じられて、小麦粉を掃きにやってくるところだった。
「レオギンは……僕がここに来る前も、誰かの十二祝いを祝ってあげたの?」
 レオギンはしばらく口をつぐんでいたが、炭になった祝い菓子を、痛みに耐えるようすでごみ箱に捨てるときになって、ようやく答えた。
「私は六十年くらい生きてきたが、祝い菓子を食べたことはあっても、十二祝いをしようと自分で祝い菓子を作ろうとしたのははじめてだ。はじめてでなかったら、もっと手際よく作れたさ」
 真っ黒なかたまりが、ごみ箱に捨てられる。その手もとを見つめながら、ハティはその黒いものが自分のためだけに作られたといううれしさと、炭になりはててしまって捨てられてしまう悲しさに、胸をおさえた。
「弟子をとらなくなってから、この場所を訪れる者は誰もいなくなった。昔は皇王が獅子の車に乗ってやってきたものなんだが。自分の仕事を減らしたようで後ろめたくはあるが、洗礼をやめたのは正解だったと思っている。薬草園をめぐっていさかいが起きるのは、もうたくさんだ。でも――それでも」
 一瞬言いよどんで、逡巡してから、彼女はもう一度口を開いた。
「それでも、やっぱり一人はさびしくてな……。ただ一緒にいてくれる人間がほしくて、あの日ハティを呼んでしまった。ハティは弟子ではなくて、はじめての家族だ。家族を祝ってやりたいと思うのは当然だろう?」
 彼はたしかにレオギンの弟子ではなかった。薬草園の魔女のそばにいたのではなく、ハティはレオギンというひととともに暮らしてきたのだ。
「祝い菓子がなくたって、祝うことはできるからな。――おめでとう、ハーティス。一年遅れだけれども」
「ありがとう」
 少し泣きたい気持ちでハティは微笑んだ。
「そうだ! 来年、一緒に祝い菓子を作ろう? そして今度はレオギンの十二祝いをしようよ。レオギンだって、今年か来年くらいに十二歳でしょう?」

 ハティから目をそらし、床の油をふきながらうなずいた。
「あ……ああ。――そうだな」
 レオギンも泣きたい気持ちだった。
 年を取るのではなく“一年ごとに年がひとつ若くなる”身体で生を受けてしまった彼女にしてみれば、十二歳の少女の身体になるということは、あと十二年しか生きられないという宣告に等しい。
 哀しいかな、まだ十二年間しか生きていないハティは、そこまで考えがおよばずに、純粋にレオギンを祝いたいと考えているのだった。
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