6、

文字数 4,776文字

 アイルとリンコレッタに先導されて、アーレインは塔の階段を下りた。
 ――早くレギンスとブーツに履き替えたい……。
 リンコレッタは、アーレインよりも裾が長くさらにふんわり広がったドレスを着ているものの、やはり慣れているらしく、軽々と石段を駆けていった。
「ヒュルストーのことは、メリルも知らないんだ」
 口うるさい女中のことが彼も苦手らしく、アイルはやや顔をしかめた。
「前の女中頭とリンコレッタの乳母なら、ヒュルストーのことを心得ていたのだけどね。ふたりとも、流感で死んでしまった。今となっては、ヒュルストーを知っているのは僕とリンコレッタ、辺境伯とその夫人、そして執事のバートラムだけだよ」
「どうしてそんなに隠されているの?」
「いろいろと難しい事情があるんだよ。今だって、ヒュルストーのところに行くってばれないように、気をつけてよ?」
 メリルをはじめとする女中や、おしゃべりな小間使いたちに見つからぬよう、彼らはホールを横切らずに窓から庭へ出た。育ちが良いはずのアイルも令嬢のリンコレッタも靴を窓枠にかけて、身軽に芝生の上に飛び降りた。町の子どもと変わらない振る舞いに、アーレインは妙な安心と親しみをおぼえた。無論、彼女もひらりと窓枠を乗りこえた。
 正直を言えば、ここまで来れば、いくらでも逃げ出すことはできた。
 アーレインはまじない師だ。幻術を編み、手を触れずして物を動かし、リンコレッタや女中たちを脅かし狂乱させるのは朝飯前。厩舎で馬を手に入れたなら、ディッセルベーンまで逃げ切れるだろう。裾の長いドレス姿だろうと、乗りこなす自信はある。命を取るつもりで射掛けられるのでもなければ、多少の追っ手も恐ろしくはない。
 それをしなかったのは、ひとえに腹の虫がおさまらなかったからだ。ヒュルストーと呼ばれる青年――アーレインを城館まで連れてきた張本人に一撃をお見舞いし、納得のいく申し開きを聞かなければ、手当てし損、気絶させられ損のままだ。
 わけがわからないのはたまらない。意味不明の五里霧中は、魔女にさらわれてしまった弟の件だけで充分すぎた。
「気をつけて!」
 よそごとを考えていてつまずきかけたアーレインに、アイルがささやいた。
 東塔と南塔のあいだに設けられた花壇は、日当たりがよく色とりどりの春の花を咲かせている。その花々をゆっくり観賞することもなく、一行は花壇にそって南塔のほうへと走った。窓辺に人の気配があるときは姿勢を低くして、すばやく通り過ぎた。
 南の塔のごく近くに、地下へと続くささやかな使用人用階段があった。お屋敷の地下階は、料理長や執事が取り仕切る使用人たちの舞台と決まっている。始終騒がしく人々が行き交っているはずだが、階段を下りきった廊下に人の気配はなく、アーレインは首をかしげた。無骨な青銅の燭台がぽつんと門番のようにたたずみ、あとは質素な木製のドアが見えるばかりでだ。
 アイルはそのドアを躊躇なくノックした。
「バートラム」
 執事の名を呼んだが、返事はない。
「一足遅かったか……もう終わって、通常業務中かな」
「上階にいるんじゃないかしら? お祖父様に用を言いつけられてしまったのかもしれないし」
 リンコレッタもあきらめ顔で首を振った。
「せっかくここまで来たけれど、長居はよくないわ。いったん東塔に戻って待ちましょう?」
 令嬢の決断は素早かった。さっさと階段を上りはじめ、それにアイルも続く。しかしすぐにリンコレッタが短い叫び声をあげ、アーレインは地下で動けなくなった。
「あちゃあ」――アイルがうめいた。
「こんなところで、何をしていらっしゃるんです?」
 怒りにふるえた、中年女の声。メリルである。
「そろそろお勉強のしたくをしなくちゃなりませんのに、お部屋はもぬけのからなんですもの。こうして探しに出てもなかなか見つからなくて、バートラムに訊こうと思ってきてみれば……」
「バートラムは留守よ。ノックしたけど、いなかったわ」
 たちまちメリルの雷が落ちた。
「そうでしょうとも! でも、まいりました価値はございました。お嬢様と坊っちゃんを見つけることができたのですから。さあさ、お部屋にお戻りになってくださいまし。南の塔に近いバートラムの部屋にたやすく近づくものではありません!」
「いくら南塔だって、こんな太陽のまぶしい朝に出てくる亡霊なんかいないわよ」
 令嬢がかわいらしく唇をとがらせて抗議したが、メリルは容赦しなかった。
「戻りますよ。国史学の新しい書物が昨夕届きましたから、ご覧になってください」
 小鳥のさえずりのように高らかに不満を歌い上げるリンコレッタの波打つブロンドの陰に隠れて、アイルは階段から地下のアーレインを振り返った。彼は小声で、
「君はメリルに見つかってないよ。僕たちは一度引き返して、また頃合いを見て脱け出してくるから、アーレインは先に行っていて」
「行くって、どこへ?」
 アーレインも声をひそめた。
「ヒュルストーのところへは行けないんじゃなかったの?」
「執事のバートラムは、すべての鍵をあずかっているんだ。もちろん、南塔の鍵も」
 ここでリンコレッタが足を踏み鳴らした。メリルが、「お嬢様の振る舞いは下町の聞き分けの悪い子どもとおんなじです!」と怒りをあらわにする。アイルは首をすくめて、再びアーレインに向き直った。
「僕もリンコレッタも、バートラムに鍵を借りなくちゃだめなんだ。けど、アーレインはまじない師だろう? さっきポットを動かしたみたいにして、簡単に鍵を開けて入れるかもしれないよ」
 ――なるほど。
 言われてみれば、その通りだ。
「入ってすぐ右手に、大きな書棚がある。その書棚のまんなかには赤い革表紙の頑丈な本が三冊並んでいて、この三冊の本を取り出した向こうの壁に動く石レンガがある。石レンガを強く奥に押すと書棚自体が動くようになるから、書棚を動かしてできた通路に入るんだ。南塔の入り口のすぐ前に出られるよ」
 じゃあ、がんばって。またあとでね。
 彼は朗らかな笑顔をアーレインに向けると、愚痴をこぼし続けるリンコレッタの後ろについて地上へと出ていった。あとには、アーレインだけが残された。
「泥棒のまねごとをしろってね」
 アーレインは一人ぼやいた。とはいえ、多少の後ろめたさは感じるものの、好奇心がうずくのも事実だった。試してみる価値はある。
 幼い頃には、教会に秘蔵されているというヒーリア神の聖遺物が見たくて、近所の遊び仲間を率いて忍びこんだアーレインである。そのときは目的にたどり着く前に大人たちに見つかってしまい、司祭にこっぴどく説教されたのだったが。
 鍵は簡素なもので、まじないを乗せた指先で軽くはじいただけで難なく開いた。
「ごめんなさい」
 部屋の主に謝罪の言葉だけを置いて、アーレインはドアの中にすべりこんだ。後ろ手に鍵をかけなおす。
 きちんと整頓された、堅実質素な室内だ。きっと、部屋の主の性質もそうなのだろう。
 アイルに言われたとおり、ドアを入ってすぐ右手にある書棚へと歩み寄った。赤い革表紙の本はすぐにそれとわかった。四すみに金具が留めてある、立派な装丁の本だ。取り出したこの三冊を手近な戸棚へと移し、空いた空間から書棚の向こうをのぞきこむ。周囲よりも微妙に飛び出していた石レンガをためしに押してみると、音もなく奥へと沈んだ。石レンガが沈みきったのと同時に書棚が少し浮き上がった気がする。
 アーレインはドレスの両袖をまくりあげると、書棚の側面にまわり、全体重をかけた。小麦の束をいっぱいに積みこんだ荷車を押し進めるように、書棚が動く。しかし大変な重さで、すぐに腕が痺れてしまう。棚板に指先で印を描いて息を吹きかけた。書棚は嘘のようにやすやすと横に滑った。
 開いた隙間に入り、通路側から書棚をもとの位置へと戻す。こちら側には取っ手がついていたので移動させやすかった。
 南塔への通路はせまく、地下ゆえに冷たい。春も半ばだというのに底冷えする。行き止まりに手をさしのべてみると、突き当たりはドアではなく、厚織りの布でさえぎってあるのだった。
 布の向こう側は薄暗く、人気が感じられない。こっそりとすべり出ると、彼女はすばやく布を戻した。通路を隠している布は、表から見ればみごとな刺繍絵の大判タペストリーだった。
 タペストリーのすぐ左手に繊細な鉄細工の柵門があった。南塔の入り口に違いない。ためしに手をかけてみると、やはり閉まっている。精巧な錠がかかっていた。
 鍵穴をのぞきこみ、アーレインは考えた。この精巧さでは、仕組みもわからずに開錠は難しい。何か道具があれば別だが。
 何か使えるものはないか――しばし考えをめぐらせた末、袖のふくらみを作っている細いリボンをぬきとった。口の中でまじないを唱えながらリボンをなでると、それは見かけこそ同じだが針金のような強靭さを得る。
「教会に忍びこんだのは……ハティがいなくなって、簡単な魔術を覚えてすぐだったから、十二歳のとき。だとしたら、この術を使うのは五年ぶりね」
 鍵穴にまっすぐ伸びたリボンを挿しこみ、二言三言つぶやく。リボンは錠の中で曲がりくねり鍵穴にぴたりと合うかたちで止まり、アーレインが右にひねると、カチリと小気味良い音を立てた。
 ふたつめの鍵は、石の螺旋階段をのぼりきった踊り場の扉に取りつけられていた。細工こそ見事だったが、中の造りは城館の塔にあまりふさわしくなく、むしろ牢獄の扉につくもののようだ。アーレインは先ほどと同様にして錠を開けた。今回はガコン、と鈍く重々しい音が響いた。
 ――メリルは、鍵が三重にかかっていると言ったっけ。
 とすれば、残る鍵はあとひとつ。
 小さな鍵だ。さあ開けてやろう。そう思い、最後の扉に触れようとした。
「何をしている?」
 予期せぬ声に彼女は立ちすくんだ。
 しまった、大きかったふたつめの鍵を開けた音が聞こえてしまったか――。
 五年前、教会で司祭に見つかったときのように、こわごわと振り返った。誰一人見当たらない。空耳のはずはないと思いつつ視線を戻すと、いつのまにかドアは向こう側へと開いていた。
 そしてそこには、麦藁色の髪の青年が、壁に寄りかかり立っていたのだ。
「……どうやってここまで入ってきた?」
 端整な面立ちだが、顔色はあまり良くない。長身痩躯、琥珀を思わせる金茶の瞳、そしてなにより骨ばった手に押さえられた脇腹――アーレインには見覚えがあった。
「鍵は俺とバートラムしか持っていないはずだが?」
 アーレインは手にしていたリボンを突き出した。事情を知らない者の目には、リボンは頼りなく彼女の手に垂れ下がっているように見える。
「執事さんが部屋にいなかったの。だから自力で開けてきたのよ」
 彼は不信げに、突き出された彼女の手の先を見た。だが、アーレインが手を放した途端にリボンが床に落ちて金属的で硬質な音を立てると、彼は秀麗な眉を跳ね上げた。アーレインは睨めつけるようにして彼を見上げた。
「具合はだいぶ良くなったんでしょうね?」
 彼は落ちたリボンと自分の脇腹、アーレインを順番に見つめた。アーレインの皮肉が通じたのか通じなかったのか、ふっと笑みをもらした。乾いた笑みだった。
「……魔女か」
「アーレイン。ただのまじない師よ。あんたがヒュルストーなのね?」
「――いや。そうとも名乗っているが、おまえには正確な方を知らせるべきだろう。ライナスだ」
 ――正確な方? どういうこと? 
 強烈な一撃をお見舞いする時機を逸したような気がして、アーレインは唇を噛んだ。
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