4、

文字数 3,754文字

 目覚めてまず目にしたものは、まるでバラ色の雲のように見えた。もしかしたら自分は死んで、聖母まします楽園に来てしまったのかもしれない。
 アーレインはぼんやりとバラ色の頭上を仰いだ。星海の向こう、闇の虚空を百日越えたところに存在するという、美しい楽園。司祭の説法によれば、死者は皆そこへ誘われて穏やかに暮らすのだそうだ。
 しかし頭がはっきりするにつれて、バラ色の雲に見えたものは、幾重にも交差した絹の天蓋と知れた。アーレインは死んだのではなく、上等の寝台に横たわり、柔らかい羽根布団をかぶって眠っていたのだ。
 痛みきしみをあげる身体にうめきながら、彼女はゆっくりと上半身を起こした。
 大きなガラス張りの窓の外は、うっすらと白んでいる。いったい、どれほど眠っていたのだろう? アーレインは記憶をたどり、何度も目をしばたいた。
 ――たしか、いつものように裏山に薬草を採りに行っていて、おぼつかない足どりの人を見つけたのだっけ。
 彼は草むらに倒れこみ、アーレインはこの青年を介抱した。けれども命を助けられたはずの青年は彼女に礼を述べるどころか、奇妙なことでアーレインを責め立てた。アーレインはわけもわからぬうちに殴られ、意識が遠のくのを感じて――そして、気づけば寝台の上だった。
 天蓋の垂れ下がった絹をかきわけ、寝台から降り立った。目と鼻の先に、小さなテーブルと水差しがある。ブドウの実と蔓の意匠が彫りこまれたテーブルは紫檀製で、青ガラスの水差しには金箔がひとすじ入っている。
 アーレインが招くと、カタカタと小刻みにふるえながら水差しとグラスが手元へやってきた。半分ほど注いでグラスをあおると、冷えた水は喉に心地よく、おいしかった。
 宙に浮いたままの水差しをくるくるともてあそびながら、天井や、絵画のかかった壁を眺める。シャンデリアは水晶と真鍮でしっとりと落ち着いた美しさをたたえており、絵画も品のよい風景画ばかりだ。暖炉にはほんのり淡い火が入り、マントルピースに陶器のティーセットが飾られている。以前、アーレインの店を訪れた行商人が「リッラ製の高級品だ」と自慢げにティーカップを売りつけようとしたことがあったが、今見ているティーセットが最高級のリッラ陶器であったならば、行商人のカップは二束三文の偽物だったのだと断言できる。
 もう一口水を飲み、つくづく自身を観察した。着なれた厚織りの上衣とレギンスではなく、いつのまにか絹地の寝巻きに着せ替えられている。広い襟ぐりのせいで、少し肌寒い。愛用のブーツも行方不明なので、裸足なのも心もとなかった。
 首をすくめ両手で肩をさすりながらドアの前までやってくると、勝手にドアが開いた。アーレインも驚いたが、ドアを引いた女中のほうが数倍仰天したようで、言葉にならない叫びを上げながら駆けていった。数分後に、着替えの服をたずさえて戻ってきたのだが。
 女中から手渡された着替えは、淡いベージュ地に細かな小花柄が織りこまれた――「育ちのよいお嬢さん用」の室内着だった。清楚な詰め襟のドレスで、胸からウエストにかけてピンタックがほどこされ、ふくらんだ袖には細いリボンがあしらわれている。五年前、十二祝いの際に着た晴れ着に当時は大喜びしたものだが、この室内着と比べてしまえば、ままごとの衣装のようなものだろう。
「お着替え、お手伝いいたします」
 アーレインはきっぱり断った。ドレスの着方などよくわからないが、他人に着替えを見られるのは我慢しがたい。
「では次の間にひかえておりますので、お着替えがすみましたらお呼びください。坊っちゃんのところまでご案内いたします」
 女中の言葉に、ドアを閉めようとしていたアーレインは問い返した。
「坊っちゃんって?」
「アイル坊っちゃんです」
「……誰?」
「ですから、アイル坊っちゃんです。生まれてすぐに天涯孤独の身におなりになったとかで、お優しいお館様がお引きとりなさったのですわ。お館様のお孫様のリンコレッタお嬢様とは、遊び相手というよりもきょうだいのようなものですのよ」
 アーレインは首をひねった。裏山で助けた麦藁色の髪の青年は、「坊っちゃん」と呼ばれるには、少々育ちすぎている年齢に思われる。
 苦労してようやく着替え終え、アーレインは次の間に向けて声をかけた。女中は襟元が曲がっている、スカートのふくらみが均一でないなど細かいことをひととおり注意してアーレインをいらつかせた後、ようやく廊下に出て歩き出した。
 女中の灰色の混じったひっつめ髪を見つめながら、アーレインはひとしきり胸の中で毒づいた。スカートなど、十二祝いの祭日以来はいていないのだ。
 ――ご令嬢じゃないのだから、ドレスの着方なんて知らなくて当然じゃない。どうして私はこんなところであなたの小言を聞かなくちゃならないの? そもそもここはどこだというの? 
 突然女中が振り向いたので、胸中のつぶやきが聞こえてしまったのかと思い飛び上がった。
「あなたには申し上げておかねばならないことがたくさんあります。心してお聞きになってください。よろしいですか?」
「よ……よろしいです」
「一つ目。お館様は、十五年前に愛娘のシャルロッテ様を亡くされてからというもの、奥方様と、シャルロッテ様の忘れ形見のリンコレッタお嬢様と、それはそれは静かにひっそりとお過ごしになっておられます。お館様は喧騒が大のお嫌いなのです。お館では決して、お騒ぎになられませんよう」
 言い返したいことはたくさんあった。しかしアーレインはただうなずくだけにとどめた。
「二つ目です。このお館の東西南北のすみにはそれぞれひとつずつ、合計四つの塔がございます。北の塔はお館様の書斎、西の塔は奥方様のバラの温室、東の塔はリンコレッタお嬢様とアイル坊っちゃんのお部屋です。けれども、南の塔はもう長いこと、十数年も閉められたままになっております。南の塔近くには、なんでもシャルロッテ様やそのご夫君の亡霊が徘徊なさるそうで……。くれぐれも、南塔にはお近づきになりませんよう」
「亡霊?」
 アーレインは訊き返した。低級霊や性悪の小妖精程度ならば、たいした準備がなくとも祓うことができる。館の住民が亡霊に悩まされているというのなら祓ってしまおうかと考えたのだが、女中の言葉でその思惑は無用となった。
「お館様のお怒りに触れます。どんなことがあっても、南の塔に近づこうとなさいますな。長いことお館に勤めさせていただいておりますわたくしでも近づけませんので、シャルロッテ様の亡霊をこの目で見たことはございません。けれども、南の塔の方から聞こえる不気味な物音は何度も耳にしております。一級の鍵師に作らせた鍵で三重にも閉めきった塔に誰も入れるはずなどにいというのに……。それでも、近づいてはならないのです」
 廊下を進みながら、アーレインは思った。このような貴族邸宅や豪邸は、廊下の両側に百や二百の部屋の扉がずらりと並んでいるものだと勝手に想像していたのだが、今歩いている廊下は右側にしか部屋はない。左手側はすべて壁で、大きな花瓶や彫像、古い絵画などが飾られている。
「三つ目は、お館の森にある貯蔵庫についてです」
「貯蔵庫が森に? 不便じゃないですか」
「不便だろうとどうだろうと、お気づかいは不要にございます。決して貯蔵庫に近づいてはなりません。そも、森に入ることからおやめになったほうがよろしいかと。鹿と間違われて森番に撃たれても責任は負えませんので」
「……気をつけます」
 真四角にめぐる回廊を歩ききり、女中に続いてアーレインは階段を下りた。並んだ金の燭台が火灯かりを揺らめかせている。段々に敷かれた絨毯は、与えられた鹿革の柔らかい靴底に快適だった。
「そして、四つ目。これが最後でございます。決して、決して勝手にお館を出ようなどとはお思いになられませんように。わたくしは、あなた様がどこのどなた様なのか存じあげませんし、あえて知ろうともいたしません。ただ、アイル坊っちゃんに命じられましたとおりにお世話しただけにございます。どんな事情があったのかも知れません。しかし、お館様や坊っちゃんへの断りなしにお館を出ようとはお考えなされませんよう。脱け出そうとなさって、ならず者に勘違いされて門衛に斬り殺されましても、責任はおとりできませんので」
「一番知りたいことがあるんですけれど、訊いてもいいですか」
 ゆるやかな螺旋状の階段を一番下まで下りたアーレインは、扉に手をかけようとしている女中を呼びとめた。円柱の四分の一が建物の直角をのみこんで内側に突き出ている格好で、花喰鳥をあしらった青銅製の柵門が石レンガで組み立てられた曲線を描く壁に映えている。これが、「坊っちゃん」のお部屋がある東塔の入り口なのだろう。
 女中は手を引っこめ、アーレインのほうを振り向いた。
「何でございましょう?」
「ここは、どこなんですか?」
 女中は睫毛の短い目を数度しばたいてから、フクロウのように少し首を傾けた。なんだ、わからないのかという表情で。
「ヘーデンの伯爵様のお館にございます」
 明快な答えだった。
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