1、
文字数 4,227文字
「そんなことも、あったかしらねえ」
首をかしげるマレイユに、アーレインは笑ってみせた。
「だって、五年も前の話だもの。あなたにやきもちだなんて、私も子どもだったのよ」
「私から見れば、今でもまだまだよ。十六歳なんて」
「十七よ」
あら、そうだった? 言いながら、マレイユは先日三歳の誕生日をむかえたばかりの息子を抱きなおした。そして空いたもう一方の手で、まるくふくらんだ腹にいとおしそうに触れた。
産み月が近づくにつれて、マレイユはますますやわらかに微笑むようになった。彼女の長男ディールが生まれるときもそうだった。
マレイユはアーレインの初恋相手に嫁いだ、言うなれば恋敵であったが、マレイユがあまりにも幸せに、きれいに微笑むものだから、アーレインも子どもじみた嫉妬を抱き続けることが馬鹿らしくなってしまった。
それからは、ご近所さんとして仲良くやっている。今ではマレイユの焼くミルクケーキが絶品だということも知って、ときどき報酬代わりにご馳走になるほどだ。
「……あ、あったあった。はい、これ。ディールの占星図」
アーレインは散らかったのチェストから一枚の巻紙をひっぱり出し、机の上に広げた。
マレイユから今年の占星図作成の依頼を受けたのは半月前。占星図はすぐに完成させたものの、完成当日から今日までのあいだに一度店の中をひっくり返しての大掃除をしたので、おそらくその際にしまいこんでしまったのだ。
ふと見ると、ディールが身を乗り出して手をのばしていた。くくりあげたアーレインの黒髪を引っぱりたくて仕方がないらしい。母親はやんわりその手を制して、机に広げられた図面に見入った。
赤と白の月、八つの輝星。色とりどりの星々をちりばめ、星と星の間に銀色の線を引き、墨ペンで幾重にも丸を描いた占星図。アーレインはそれぞれの星の意味とその位置が示すことがらをマレイユに説明した。
「最後に、第九輝星は黒滞期。つまりね、ディールの今年の運勢は全体運としては良好だけど、少しだけ健康に気をつけたほうがいいわ。ちょっとした風邪だと思って油断していると“妖精憑き”になるかもしれない。細かいことは全部こっちの紙に書いてあるから、あとでもう一度確認しておいてね」
「ありがとう。この町にはアーレンがいてくれるから、本当に助かるわ。だって、“ディッセルベーンの魔女”だものね」
「アーレイン」
アーレインは訂正した。
「学院の証書だって持っていないんだから。私はただのまじない師よ」
「まじない師だってディッセルベーンにしてみればものすごい財産よ! 普通、まじない師や魔術師はみんな首都か中心領に行ってしまうじゃない。こういう辺境に残るのは、結局占い女か自称神懸りだけだもの。アーレンは首都へ行きたいとは思わないの?」
「アーレインだってば」
巻紙をていねいに巻きなおして、マレイユに手わたした。
「そりゃあ、首都で本格的に勉強したいとは思う。このままでは、私はいつまでたっても一介のまじない師にすぎないだろうし。書物だけが相手の独学では限度があるもの。私なんかではとても手に入れられない金貨何千枚の魔術書だって世界にはごまんとあるはずよ。……だけど」
言葉を切って、アーレインはなかなか閉まらないチェストと格闘した。物を中につめこみすぎる自分の性格はわかりきっているが、ほかにしまうところがないのだからしかたがない。彼女の店はもともと両親が倉庫として使っていたものなので、建物自体が小さいのだ。父のおさがりの本棚ふたつと、もともと倉庫に据えられていた物置棚がひとつ。リンデルの街まで引っ越すので必要ないものは極力置いていくと町の郷士がゆずってくれたマホガニーの机(アーレインにしてみれば上等すぎて、店の中でどうしようもなく浮いて見える)、色石を収納する小ぶりなガラスケースとこのチェストだけでいっぱいいっぱいなのである。
本棚にはこつこつと集めた書物がすきまなく並べられ、物置棚には薬草、香草のたぐいと薬瓶がずらり。請け負った仕事の書類を収める場所は小さなチェストだけしかなく、それはいつもはちきれんばかりに紙類をためこんでいた。
ようやくもとどおりに押しこんで、アーレインは大きく息をついた。
「……だけど、ね。私は、ディッセルベーンを離れてはいけない気がするの」
彼女は言った。マレイユがつぶらな瞳をしばたいた。
「それは――ハティのことがあるから?」
アーレインは目を伏せ、うなずいた。
「だって、マレイユも知っているでしょう? ヘーデンの古いわらべ歌。
墳墓の上には墓石があって
墓石の中にはお庭があって
秘密の庭には薬草繁り、
墓守の魔女が住んでいる
子どものころ、ばあさまには『魔女に気に入られるとさらわれてしまうよ』っておどされたものだけど、ハティは本当にそうなってしまった。ハティを見つけるまで、私はヘーデンを離れるわけにはいかない。魔女とハティは、きっとヘーデンのどこかにいるんだから」
五年前。弟のハーティスは、アーレインが裏山に連れ出したばかりに、神隠しのように消えてしまった。十二祝いに浮かれて裏山などに遊びに行かなければ、弟の十二祝いも、ともに楽しむことができたはずなのに。アーレインは唇をかたく噛み締めた。
何も、町の子どもがふっと姿を消してしまうのはめずらしいことではない。妖精にさらわれたり、人買いの荷馬車に押しこめられたりという話はあちらこちらで聞かれる。ハティもきっと妖精の貴婦人に楽園へ連れて行かれたのだよ、君が悪いわけじゃないと町人たちはアーレインをなぐさめたが、彼女はあきらめられなかった。
ハーティスをさらったのは妖精でも人買いでもない、“薬草園の魔女”なのだ。世界の開闢神話に登場する魔女なのだ。
『いつかきっと、“薬草園の魔女”に対抗できるだけの力を身につけて、ハティを助け出そう』
アーレインは心に決めていた。
雑貨屋を営む両親に頼みこみ、魔術に関する書物を取り寄せてもらい、勉強に励んだ。占星術、薬の調合、幻影をつむぐ術、物を自在に動かす魔術。
むさぼるように本を読み、裏山に登って自分の足で薬草や香草を探した。その甲斐あって、今ではこうしてまじない師として店を持つことができている。“ディッセルベーンの魔女”とあだ名されていることも知っている。だが、これだけでは足りない。自分は一介のまじない師でしかなく、魔女と対決するに見合う実力を持ち合わせてはいないのだから。
それでもいつかは、ハーティスをむかえに行くのだ。それに足るだけの力を身につけて。
「……アーレン」
マレイユがあいているほうの腕を伸ばし、アーレインを抱きしめた。今度は、アーレインも自分の名前を訂正しなかった。
マレイユはアーレインに占星図の代金として銀片二枚を支払い、ふくらんだ腹に手を当てて帰っていった。帰りぎわに手を振ってくれたディールの笑顔が、記憶の中の小さいハティに重なって切なかった。
アーレインは昼食をとろうと店を出た。昼食時には、商店通りの自宅に戻ることにしている。彼女の狭い店ではとても料理ができないので、温かい食事をしようと思えば、自宅か商店通りに連なる長屋酒場に行くしかない。
上衣の裾をひるがえし広場を横切っていると、不意に、背後で驚きの声が上がった。
「アイランリット?」
聞き覚えのない声だ。
振り返ると、アーレインと同じ年頃の男が、ぽかんと口をあけて突っ立っていた。誰かの名を呼んでいたようだが、あいにく彼女の名ではないし、知り合いの名前でもない。
男の視線はいぶかしげに細められたアーレインの双眸とぶつかり、やがて、彼は気まずそうに肩をすくめた。
「……申し訳ない。人違いだったみたいだ」
「誰かを探しているの?」
アーレインはぶしつけにならない程度に、相手を観察した。旅人の身なりをしているのに、色白で線が細い。旅というものからは縁遠い人間であるように思われた。
「ああ、探している。アイランリットという名の、私のいとこを」
彼は答えた。
「いとこ?」
「そうだ。どうしても、探し出さなくてはならないんだ」
彼は力をこめて言った。
「十五年も前に行方不明になったんだ。ヘーデンの北東にいるはずなんだが、フィリーにもシュトロムにもいなかった。残るはディッセルベーンだけで、やっと見つけたと舞い上がって、つい……」
口調は尻すぼみになり、恥じ入る気持ちと落胆とが混ざり合って地に落ちた。
申し訳ない――彼はもう一度謝罪した。なめらかな都の発音だった。
「人違いなんて誰でもやってしまうことよ」
アーレインはつとめて朗らかに言ったが、やはり疑問が残っていた。
「でもアイランリットって、男の子の名前じゃない?」
「だから申し訳ないと、こんなにも言っているんだ」
色白の旅人は、困り果てたように両手を挙げた。
「アイランリットは黒い髪だと聞いていたんだ。北部で黒髪はめずらしいだろう? だから、」
「私の父さんだって黒髪よ」
アーレインは憤然としたが、たしかにヘイリアス北部では黒髪の人口は少ない。母は淡い茶の髪、弟だって母に似た髪色だ。目の前の旅人も短い黒の髪をしているが、都か中部中心領の出身なのだろう。
「ディッセルベーンにアイランリットという人はいないわ。見たことも聞いたこともないもの。もう一度フィリーやシュトロムを探してみたほうが早く見つかるかもしれないわ」
「ああ。そうかもしれない」
彼は悲しそうに頬笑んだ。だが、ひとたび考えこむようにうつむいたあと、首をそらして空を仰いだ。
「ここにいると思ったんだがな……」
「“薬草園の魔女”にさらわれてしまったのかもしれないわ」
ほんの少し意地悪をこめたアーレインの言葉に、彼はきょとんとした。
「薬草園の魔女?」
墳墓の上には墓石があって
墓石の中にはお庭があって
秘密の庭には薬草繁り、
墓守の魔女が住んでいる
「ヘーデン地方に伝わるわらべ歌よ。私の弟は、本当にこの魔女にさらわれたの」
自嘲ぎみに微笑んで、アーレインは商店通りへと歩き出した。日中の短いはずの影が、重たく感じられる。
取り残された旅人は立ちつくしたまま、彼女の後ろ姿を見送っていた。
首をかしげるマレイユに、アーレインは笑ってみせた。
「だって、五年も前の話だもの。あなたにやきもちだなんて、私も子どもだったのよ」
「私から見れば、今でもまだまだよ。十六歳なんて」
「十七よ」
あら、そうだった? 言いながら、マレイユは先日三歳の誕生日をむかえたばかりの息子を抱きなおした。そして空いたもう一方の手で、まるくふくらんだ腹にいとおしそうに触れた。
産み月が近づくにつれて、マレイユはますますやわらかに微笑むようになった。彼女の長男ディールが生まれるときもそうだった。
マレイユはアーレインの初恋相手に嫁いだ、言うなれば恋敵であったが、マレイユがあまりにも幸せに、きれいに微笑むものだから、アーレインも子どもじみた嫉妬を抱き続けることが馬鹿らしくなってしまった。
それからは、ご近所さんとして仲良くやっている。今ではマレイユの焼くミルクケーキが絶品だということも知って、ときどき報酬代わりにご馳走になるほどだ。
「……あ、あったあった。はい、これ。ディールの占星図」
アーレインは散らかったのチェストから一枚の巻紙をひっぱり出し、机の上に広げた。
マレイユから今年の占星図作成の依頼を受けたのは半月前。占星図はすぐに完成させたものの、完成当日から今日までのあいだに一度店の中をひっくり返しての大掃除をしたので、おそらくその際にしまいこんでしまったのだ。
ふと見ると、ディールが身を乗り出して手をのばしていた。くくりあげたアーレインの黒髪を引っぱりたくて仕方がないらしい。母親はやんわりその手を制して、机に広げられた図面に見入った。
赤と白の月、八つの輝星。色とりどりの星々をちりばめ、星と星の間に銀色の線を引き、墨ペンで幾重にも丸を描いた占星図。アーレインはそれぞれの星の意味とその位置が示すことがらをマレイユに説明した。
「最後に、第九輝星は黒滞期。つまりね、ディールの今年の運勢は全体運としては良好だけど、少しだけ健康に気をつけたほうがいいわ。ちょっとした風邪だと思って油断していると“妖精憑き”になるかもしれない。細かいことは全部こっちの紙に書いてあるから、あとでもう一度確認しておいてね」
「ありがとう。この町にはアーレンがいてくれるから、本当に助かるわ。だって、“ディッセルベーンの魔女”だものね」
「アーレイン」
アーレインは訂正した。
「学院の証書だって持っていないんだから。私はただのまじない師よ」
「まじない師だってディッセルベーンにしてみればものすごい財産よ! 普通、まじない師や魔術師はみんな首都か中心領に行ってしまうじゃない。こういう辺境に残るのは、結局占い女か自称神懸りだけだもの。アーレンは首都へ行きたいとは思わないの?」
「アーレインだってば」
巻紙をていねいに巻きなおして、マレイユに手わたした。
「そりゃあ、首都で本格的に勉強したいとは思う。このままでは、私はいつまでたっても一介のまじない師にすぎないだろうし。書物だけが相手の独学では限度があるもの。私なんかではとても手に入れられない金貨何千枚の魔術書だって世界にはごまんとあるはずよ。……だけど」
言葉を切って、アーレインはなかなか閉まらないチェストと格闘した。物を中につめこみすぎる自分の性格はわかりきっているが、ほかにしまうところがないのだからしかたがない。彼女の店はもともと両親が倉庫として使っていたものなので、建物自体が小さいのだ。父のおさがりの本棚ふたつと、もともと倉庫に据えられていた物置棚がひとつ。リンデルの街まで引っ越すので必要ないものは極力置いていくと町の郷士がゆずってくれたマホガニーの机(アーレインにしてみれば上等すぎて、店の中でどうしようもなく浮いて見える)、色石を収納する小ぶりなガラスケースとこのチェストだけでいっぱいいっぱいなのである。
本棚にはこつこつと集めた書物がすきまなく並べられ、物置棚には薬草、香草のたぐいと薬瓶がずらり。請け負った仕事の書類を収める場所は小さなチェストだけしかなく、それはいつもはちきれんばかりに紙類をためこんでいた。
ようやくもとどおりに押しこんで、アーレインは大きく息をついた。
「……だけど、ね。私は、ディッセルベーンを離れてはいけない気がするの」
彼女は言った。マレイユがつぶらな瞳をしばたいた。
「それは――ハティのことがあるから?」
アーレインは目を伏せ、うなずいた。
「だって、マレイユも知っているでしょう? ヘーデンの古いわらべ歌。
墳墓の上には墓石があって
墓石の中にはお庭があって
秘密の庭には薬草繁り、
墓守の魔女が住んでいる
子どものころ、ばあさまには『魔女に気に入られるとさらわれてしまうよ』っておどされたものだけど、ハティは本当にそうなってしまった。ハティを見つけるまで、私はヘーデンを離れるわけにはいかない。魔女とハティは、きっとヘーデンのどこかにいるんだから」
五年前。弟のハーティスは、アーレインが裏山に連れ出したばかりに、神隠しのように消えてしまった。十二祝いに浮かれて裏山などに遊びに行かなければ、弟の十二祝いも、ともに楽しむことができたはずなのに。アーレインは唇をかたく噛み締めた。
何も、町の子どもがふっと姿を消してしまうのはめずらしいことではない。妖精にさらわれたり、人買いの荷馬車に押しこめられたりという話はあちらこちらで聞かれる。ハティもきっと妖精の貴婦人に楽園へ連れて行かれたのだよ、君が悪いわけじゃないと町人たちはアーレインをなぐさめたが、彼女はあきらめられなかった。
ハーティスをさらったのは妖精でも人買いでもない、“薬草園の魔女”なのだ。世界の開闢神話に登場する魔女なのだ。
『いつかきっと、“薬草園の魔女”に対抗できるだけの力を身につけて、ハティを助け出そう』
アーレインは心に決めていた。
雑貨屋を営む両親に頼みこみ、魔術に関する書物を取り寄せてもらい、勉強に励んだ。占星術、薬の調合、幻影をつむぐ術、物を自在に動かす魔術。
むさぼるように本を読み、裏山に登って自分の足で薬草や香草を探した。その甲斐あって、今ではこうしてまじない師として店を持つことができている。“ディッセルベーンの魔女”とあだ名されていることも知っている。だが、これだけでは足りない。自分は一介のまじない師でしかなく、魔女と対決するに見合う実力を持ち合わせてはいないのだから。
それでもいつかは、ハーティスをむかえに行くのだ。それに足るだけの力を身につけて。
「……アーレン」
マレイユがあいているほうの腕を伸ばし、アーレインを抱きしめた。今度は、アーレインも自分の名前を訂正しなかった。
マレイユはアーレインに占星図の代金として銀片二枚を支払い、ふくらんだ腹に手を当てて帰っていった。帰りぎわに手を振ってくれたディールの笑顔が、記憶の中の小さいハティに重なって切なかった。
アーレインは昼食をとろうと店を出た。昼食時には、商店通りの自宅に戻ることにしている。彼女の狭い店ではとても料理ができないので、温かい食事をしようと思えば、自宅か商店通りに連なる長屋酒場に行くしかない。
上衣の裾をひるがえし広場を横切っていると、不意に、背後で驚きの声が上がった。
「アイランリット?」
聞き覚えのない声だ。
振り返ると、アーレインと同じ年頃の男が、ぽかんと口をあけて突っ立っていた。誰かの名を呼んでいたようだが、あいにく彼女の名ではないし、知り合いの名前でもない。
男の視線はいぶかしげに細められたアーレインの双眸とぶつかり、やがて、彼は気まずそうに肩をすくめた。
「……申し訳ない。人違いだったみたいだ」
「誰かを探しているの?」
アーレインはぶしつけにならない程度に、相手を観察した。旅人の身なりをしているのに、色白で線が細い。旅というものからは縁遠い人間であるように思われた。
「ああ、探している。アイランリットという名の、私のいとこを」
彼は答えた。
「いとこ?」
「そうだ。どうしても、探し出さなくてはならないんだ」
彼は力をこめて言った。
「十五年も前に行方不明になったんだ。ヘーデンの北東にいるはずなんだが、フィリーにもシュトロムにもいなかった。残るはディッセルベーンだけで、やっと見つけたと舞い上がって、つい……」
口調は尻すぼみになり、恥じ入る気持ちと落胆とが混ざり合って地に落ちた。
申し訳ない――彼はもう一度謝罪した。なめらかな都の発音だった。
「人違いなんて誰でもやってしまうことよ」
アーレインはつとめて朗らかに言ったが、やはり疑問が残っていた。
「でもアイランリットって、男の子の名前じゃない?」
「だから申し訳ないと、こんなにも言っているんだ」
色白の旅人は、困り果てたように両手を挙げた。
「アイランリットは黒い髪だと聞いていたんだ。北部で黒髪はめずらしいだろう? だから、」
「私の父さんだって黒髪よ」
アーレインは憤然としたが、たしかにヘイリアス北部では黒髪の人口は少ない。母は淡い茶の髪、弟だって母に似た髪色だ。目の前の旅人も短い黒の髪をしているが、都か中部中心領の出身なのだろう。
「ディッセルベーンにアイランリットという人はいないわ。見たことも聞いたこともないもの。もう一度フィリーやシュトロムを探してみたほうが早く見つかるかもしれないわ」
「ああ。そうかもしれない」
彼は悲しそうに頬笑んだ。だが、ひとたび考えこむようにうつむいたあと、首をそらして空を仰いだ。
「ここにいると思ったんだがな……」
「“薬草園の魔女”にさらわれてしまったのかもしれないわ」
ほんの少し意地悪をこめたアーレインの言葉に、彼はきょとんとした。
「薬草園の魔女?」
墳墓の上には墓石があって
墓石の中にはお庭があって
秘密の庭には薬草繁り、
墓守の魔女が住んでいる
「ヘーデン地方に伝わるわらべ歌よ。私の弟は、本当にこの魔女にさらわれたの」
自嘲ぎみに微笑んで、アーレインは商店通りへと歩き出した。日中の短いはずの影が、重たく感じられる。
取り残された旅人は立ちつくしたまま、彼女の後ろ姿を見送っていた。