17、

文字数 6,850文字

 まだ明るいうちから篝火に照らされた黄大理石のアルソレイムは、黄金の宮殿と謳われるにふさわしい輝きを湛えていた。
 アーレインは馬から下りて、ライナスと図面上で確認した潜入口を城壁に沿って探した。従者として正面から入場することも検討されたが、全国から集う参加者の目と、一大行事相応に強化されるであろう警備を思うと、脱け出すのもままならないに違いない。移動しながら目くらましの術をまとい続けるのは消耗が激しい上、人ごみでぶつかろうものなら気づかれてしまう。目くらましは人の目に留まらないだけで、存在自体まで消せるものではないのだ。
 ――あった。これね。
 それは、使用人たちが早朝にのみ使う小さな木戸だった。(かんぬき)にたいした守りは施されておらず、指先をわずかに動かしただけで開いてしまった。
「賢いあんたなら、一人でも帰れるわね?」
 首筋をたたいてやると、馬は困ったような目でアーレインを見た。
「そんな顔しないで。さあ、おとなしく厩舎に帰りなさい」
 つかの間の相棒を見送ることもなく、アーレインは木戸に滑りこみ閂をかけなおした。
 舞踏会に人手が割かれている分、宮殿内政庁と王居の警備は手薄になると踏んでいたが、想像以上に城兵の数が少ない。皇王や王太子のプライヴェートスペースに平時どのような警備態勢が敷かれているものか、アーレインの知ったことではないが、人気(ひとけ)があまりに感じられない。
 ――これでは、泥棒が入り放題じゃないの。
 アーレインはライナスと合流する前に、皇王の私室に忍び入ることになっている。バートラムがライナスの命で事件に関する資料を集めたとき、シェルパーダ公のために裁判が行われなかった理由を記した書類と、前皇王を手にかけた下手人に関する調書が見つからなかったのだそうだ。
 バートラムがあらゆる伝手を駆使しても見つからなかったならば、バイスン自身が手もとに置いているに違いない。シェルパーダ公の無実を証明するために、残っているならば何としてでもそれらの記録を手に入れるようにと、アーレインは指示されていた。
 不幸にもこの晴れの日に皇王の私室の番を仰せつかった近衛は、聞こえてきた物音を怪しみ、音の正体を見きわめんと廊下の向こうへ駆けていった。もちろん、アーレインがわざと音を立てたのだ。その隙に侵入し、遠慮なくあらゆる扉、引出しを開け放った。
 ブドウの蔦が浮き彫りされた書棚、マホガニーのチェスト、書き物机などに術をかけて、紙製のものをすべて吐き出させた。国内に一冊しかない貴重な古書から、くしゃくしゃになったディナーのメニューに至るまで飛び出してきたものはさまざまで、ひとつひとつあらためていたのでは夜が明けてしまう。シェルパーダ公の名前が記された書類だけを釣り上げる。紙と本の山に埋もれながら、シェルパーダ公の名が記された十数枚を、丹念に、しかしすばやく読み通していった。
 ――……これは。
 見つけた。日付は二十年近く前、シェルパーダ公の監視のためにバイスンに雇われたという男の契約書だ。ひどい癖字の署名に重ねて血判が押され、その上にかぶせるように、赤黒い文字が細かく書き込まれている。
 男が裏切ったときにそうとわかるように――もしくは、男を害するようにという呪詛だ。アーレインは眉をしかめ、慎重に折りたたみ油紙でくるんだ。
 ――呪詛までかける手の込みよう……ひょっとすると監視だけじゃなく、バイスンのたくらみそのものに深くかかわっていた人なのかもしれない。
 残りの書類も一枚一枚目を通したが、めぼしいものはなかなか見つからなかった。裁判記録は素人目に見ても穴だらけで、適当にでっち上げられたのかもしれない。
 ――真実はもとより、書き残されていないのかも。
 最後の一葉を手にするころには、目と額が痛み出していた。
 それは書簡のようだった。こめかみをおさえながら巻紙の紙面を読み始めたアーレインは、ひゅっと息を吸い込んだ。

『おそらく、お探しの「秘密の庭」が見つかりました。
 ヘーデン辺境伯の城館内だと思われます。
 これから私は辺境伯の城館を調べてまいります。
 予想がみごと的中しておりましたら、また至急ご連絡いたします』

 ――秘密の、庭。
 別の名が記されているが、ひどい癖字は契約書の男の署名と同じだった。
 だがいまや、アーレインにしてみれば、男の筆跡などどうでもよかった。

 墳墓の上には墓石があって
 墓石の中にはお庭があって
 秘密の庭には薬草繁り、
 墓守の魔女が住んでいる

 ハーティスが囚われている魔女の薬草園――ヘーデンの、秘密の庭。
 神話の薬草園がなぜ、ヘーデン辺境伯の城館にあるのだろう? つい先日まで、アーレインはその場所に滞在していたというのに、まったく気がつかなかった。
「どういうことなの……?」
 伯爵家の人々は、薬草園の存在を知っていたのだろうか。知っていたとすれば、リンコレッタやアイル、ライナスは、なぜ教えてくれなかったのだ? 
 唇は震え、指先も足先も氷のように冷え切った。それなのに、心臓は破れんばかりに胸郭を乱打している。熔岩と氷河を縒り合せたような衝動が血管内を駆けめぐり、握りしめた巻紙をそのまま懐にねじ込んで、アーレインは廊下に飛び出した。
 私室の番に戻っていた近衛兵が飛び上がったが、アーレインは頓着しなかった。もっとも、扉はけたたましく音を立てたものの、近衛兵は彼女の姿を見はしなかった。
 豪奢な絨毯を蹴り、走りながら、自分の手足が見えないことに彼女は気づいた。目くらましの術をつむぐ余裕などなかったから、無意識の産物だ。都合が良い程度にしか思わなかった。ただ、ライナスのもとへとがむしゃらに走った。ヘーデン領館と、薬草園について問いただすために。

 階段を二段飛ばしに駆け下りて、長い回廊を突っ切った。お仕着せの少女がすれ違った際に目を丸くして宙を見た。豪華な食事に最高級のワインが準備なされた長テーブルがしつらえてあるサロンはすぐそこで、その向こうには磨きぬかれた舞踏会のフロアが広がっているはずだ。
 ローストチキン、海の幸の香草炒め、ヒメリンゴをくわえた仔豚の丸焼きに、ナスとトマトと舶来の香辛料をじっくり煮こんだシチュー。干しブドウとナッツが散らされたミートパイ、マッシュルームのバターリゾット。国中から集められた熟れた果実が籠に山と積まれ、透き通ったグラスに注がれた洋梨酒が芳しい。サロンには色とりどりの料理があふれていたが、アーレインはそれらを楽しむことなく、純白のテーブルクロスの波を駆け抜けた。
 開闢神話を描いたフレスコ画で飾られたアーチをくぐると、何組もの男女が楽団の奏でる軽やかなワルツにあわせてくるくると舞っていた。宝石箱を思わせるフロアを見わたすと、見慣れた麦藁色の髪がひるがえった。
 ――ライナス。
 彼が手をとっているのは、淡紅のドレスをまとった少女。端整な面立ちの青年と花の精のように可憐な令嬢が踊るさまは、まるでおとぎ話だ。弟を救い出すという第一の志がありながら、美しい別世界をうらやましいと一瞬でも思ってしまった自分が嫌だった。みじめさとやるせなさと怒りをむりやりに飲み下し、拳を握り締めた。
 熔岩と氷河の潮流が、またしてもアーレインを圧倒した。眼の裏が白く明滅し、倒れてしまわぬように床を踏みしめる。
 ワルツの演奏が終わった。ライナスが視線に気づいたのか、こちらを見た。
 彼はやわらかくリンコレッタの頭に触れ、二言三言ささやいた。本当の兄が、仲のよい妹をいつくしむように。途端リンコレッタははじかれたように顔を上げた。しかしライナスはいつにない微笑みを彼女に残して、こちらへと近づいてきた。
 ――私が見えているということは……いつの間にか姿を消してくれていた術が、いつの間にか切れたのね。
 新たな曲が始まり、紳士淑女はまた優雅に踊り出す。はなやかな場で黒づくめのなりは目立つと思わないでもなかったが、もう、どうでもよい気がした。
 ライナスに腕をつかまれ人気(ひとけ)のない隅まで移動する。彼は眉をひそめ、苦々しげに言った。
「何なんだ、その格好は」
「開口一番がそれ? ただ、術が切れたのよ」
「どこがだ」
 アーレインは自分自身を見下ろした。そして、息を飲んだ。着た覚えのない若葉緑の繻子のドレスをまとっていたのだから。
 幾重にも重ねられた、とろけるような絹の手ざわりは本物だ。握りしめると皺がついた。断じて、単なる見せかけの術などではなかった。皇王の私室を飛び出したときに姿が消えていたのと同じで、いつの間にかドレス姿になっていたのだった。
「決めた時間には早すぎる。場所は二階の廊下だったはずだろう。それに、俺はおまえにそんななりをしろと言った覚えはない」
「私だって着替えた覚えはないの。これは魔術よ、たぶん」
「覚えがないのに、どうしてそうなっている?」
「知ったことじゃないわ。今は、そんなことよりも」
 彼女は懐から巻紙を引き出して、ライナスの眼前に突きつけた。
「これはどういうことなの?」
 バイスンの部屋で見つけた書簡だ。
『おそらく、お探しの「秘密の庭」が見つかりました』
『ヘーデン辺境伯の城館内だと思われます』
 ライナスはたちまち青ざめ、見開かれた双眸に冷たい炎が燃え上がった。
「どういうことかって、訊いているの。私の弟は――ハティは、薬草園の魔女にさらわれたわ。薬草園の場所が辺境伯の城館だったのなら、どうして教えてくれなかったの」
「弟が誘拐されたとは聞いたが、おまえは、それが薬草園の魔女によるものだとは一言も言っていなかったぞ」
 アーレインの手からむしり取った巻紙を、ライナスは握りつぶした。
「どこでこれを見つけた?」
「皇王の私室。言われたとおりに家探ししていたときに」
 再び音楽が終わり、リンコレッタが駆け寄ってきた。アイルをともなっているだけでなく、見慣れない黒髪の貴公子も一緒だった。
「ヒュルストー様」
「俺には二度と近づくなと言っただろう!」
 その剣幕にリンコレッタは立ちすくんだ。彼女をかばうようにして、貴公子が進み出た。
「今日は、父は出席しない」
 突然何を言い出すのかとライナスが目を見張ると、貴公子は気まずげに微笑んだ。その表情に、アーレインは見覚えがあった。何年も昔に思われるが――ほんの二、三ヶ月前のことだ――ディッセルベーンで出会っていた。
「私は王太子のルバートだ。貴殿は先のシェルパーダ公のご子息だとお見受けするが、いかがだろうか」
 ライナスの頬から血の気が失われ、表情が抜け落ちた。しかし王太子の態度は、あくまでも穏やかだった。
「やはり……そうか。父の罪を調べていて見かけた肖像画のシェルパーダ公と、目もとがよく似ている」
 ライナスは顔色を失ったまま、わずかに頭を振った。
「どなたかと勘違いしていらっしゃるようです。私は――リンコレッタの兄の、ヒュルストーと申します。それに、私は母似ですから」
「怖れられるな」
 王太子は諭すように言った。
「私は貴殿に何をするつもりもない。むしろ、責を負って罰を受けなければならないのは私たちのほうだ。それなのに、情けないことに私に父を止める力はない。だから貴殿らに止めていただきたいのだ。父は先ほど、“獅子の間”へ向かうと言っていた」
 ライナスは、クロナガヘビの毒が入った小瓶を力任せに投げ捨てた。瓶は粉々に砕け散り、毒とガラス片は床の上でダイヤモンドのようにきらめいた。
「左翼の棟の客間の並び、端から七番目の部屋の暖炉に“獅子の間”への隠された入り口がある」
 聞き終わるやいなや、ライナスは身をひるがえしていた。
「待って!」
 アーレインが叫んでも、振り向きもしなかった。再び管弦の調べが紳士淑女を誘い、踊り行き交う人の波に、ライナスはあっという間にまぎれてしまった。
「どうして、」
 アーレインは王太子に向き直った。
「何のためにディッセルベーンに来ていたの?」
「いとこを探しているのだと、あのときも言ったと思うが」
「そうよね。それで私は男の子に間違えられたのだったわ。でも、本当はシェルパーダ公の遺児を探しに来ていたんでしょう? ライナスが、皇王家にとって邪魔だったから!」
 アーレインがつめよると、王太子はかぶりを振った。
「あなたは勘違いしている」
「何を勘違いすることがあるというの!」
「父にとって公爵の遺児は邪魔者かもしれないが、私にとってはそうではない。それに、私は本当に、シェルパーダ公の件でディッセルベーンを訪れたわけではないんだ。いとこのアイランリットを探すためだった」
「王太子がお忍びで危険を冒してまでいとこを探して、どうするつもりだったの。馬鹿らしいじゃないの」
「馬鹿げてなどいない。私は、先王の第三王子が――私などではなく、本当に王太子の位に就くにふさわしいアイランリットが、実は生きていて、かくまわれていると知った。だから王太子の地位を譲るべく、探していたんだ。そして、とうとう見つけ出した」
 彼は、リンコレッタに寄り添うアイルを見た。アイルは無言のままで、肯定も否定もしなかった。
「わたくしは……何もわからないの」
 リンコレッタが、両手でアーレインの手を握った。小さな白い手は震えていた。
「ルバート様のおっしゃることも、アイルのことも、わたくしは何もわからないし、知らないの。わたくしが馬鹿なだけかもしれないけれど、おいてけぼりにされているようで悔しいし、やりきれないわ。夢を見ているのかもしれない。わたくしたち、目が覚めたらヘーデン城館のベッドにいるのかもしれないわ。それでも……今、忘れてはならないことがぬけ落ちていると思うの。ヒュルストー様よ」
 リンコレッタがまばたくと、長いまつげが羽ばたくようだ。
「さっき、ヒュルストー様がわたくしになんと言ったと思って? 幸せになれ、俺には二度と近づくな――ですって。ヒュルストー様は何をしようとしていらしたの? あなたなら知っていたのではなくて、アーレイン。なのにどうして、あのままおひとりで行かせてしまったの!」
 ――そうだ。彼がダンスの終わりにリンコレッタに触れたとき、今生の別れを告げるように優しかった。
「ヒュルストー様の本当の名前を、ヒュルストー様から知らされていたのは、あなただけじゃないの!」
 頬に鋭い痛みが走った。リンコレッタにぶたれたと知ると同時に、バートラムの言葉がよみがえった。
『ヒュルストー様を、よろしくお頼み申します』
『ライナス様は無茶をしやすいお方です。復讐さえできればご自分のお命はどうなっても良いと思っていらっしゃる部分があるのかもしれません。どうか、少しでも守ってさしあげてください』
 木の葉が散るようにして若葉色のドレスがはがれ落ちた。
 アーレインは黒衣の姿にもどって駆け出した。“獅子の間”へと向かった、ライナスを追いかけて。

「教えていただけて、本当にうれしかった。心から感謝申し上げる――アイランリット殿」
 ルバートは王太子位を示す金糸の剣帯を手渡そうとしたが、アイルは受けとらなかった。
「僕は僕だから」
 心細げなリンコレッタに、彼は晴れやかに笑ってみせた。
「僕は、ヘーデンのアイルに違いないから」


 まるで風に溶けたように、体が軽かった。走るどころでなく、風燕が飛ぶ速さで左翼棟を突き進み、教えられたとおりの暖炉に飛びこんだ。
 術の明かりをともし、中の石段を半ば転げ落ちるように下り、平らかな地面に着地すると、目の前は巨大な石板でふさがれていた。
 表面には、二頭の獅子が車を引いている図柄――王家の紋章の浮き彫りがある。
 ――これが、“獅子の間”の入り口。
 どのようにしたら開くだろうか。調べていると、取っ手を見つけた。力任せに引くと、金属のぶつかり合う声と人声が聞こえてきた。
 ――まぶしい! 
 目をさす西日にひるんだアーレインだったが、喉がつぶれたような悲鳴に顔を上げた。
「ガ――――ァッ!」
 とてつもない風が起こった。黄金色の巨大な獣が、空の下に踊り出るところだった。
 獣のそばから落下する小さな人影を、アーレインは見とめた。カラスがひしゃげた声でけたたましく鳴いている。つい先日、城兵にからまれていたところを助けた少年とカラスの記憶が脳裏をよぎった。
『姉さん?』
 空耳では、なかっとしたら? 
 少年が、頭を下にして落ちてくる。あの高さからたたきつけられたのでは、とても助からない。
「ハーティス!」
 それでもアーレインは弟の名を呼び、両腕を差し伸べた。
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