2、

文字数 4,027文字

 ディッセルベーンの人々が仕事の手を休め、蜂蜜とお茶で楽しく語らいをする頃合いのこと。
 アーレインは、いつものように裏山に登っていた。膝下まである厚織りの上衣に革のレギンス、頑丈なブーツを履き、背中には籐の籠といういでたちである。懐には小腹がすいたときのために干しブドウをしのばせ、ベルトには水でたっぷりとふくらませた革袋をさげていた。
 彼女がかたい靴底で地面を踏みしめるたび、さわやかな草の香りが立ちのぼる。風の凪いだ空はまさに天上の青、美しく晴れ渡っている。
 緑の大地と澄みきった蒼穹は、ヘーデンの宝だ。南へ行けばもっと暖かいだろうが、空はけぶって淡いに違いない。さらに北の湖水地方は、五つの湖と国内随一の厳格さを誇るハルマン修道院で有名だが、この時期でもまだ雪が解けきらずに空気は張りつめていることだろう。湖と、氷の荒野――修道院が建つほどなのだから、何もなくて退屈で質素な土地に決まっている。ヘーデン生まれで良かったと、アーレインはしみじみ思う。
 繁みをかきわけ、藪に潜って、薬草や香油用の花を摘んでは背負った籠に放りこんだ。解毒に使える草は同時に強力な毒草である場合も多いため、ほかの薬草と触れ合わないように厳重に油紙でくるむ。
 背負った籠が重くなり、日は西にかたむき、あたりを山吹色に染める頃。
 アーレインは籠を傍らに置き、太い木の根に腰を下ろして空を仰いだ。
 五年前に弟が消えた場所にまで来て、手がかりになるものはないかと丹念に調べたが、いつものごとく何も見つかりはしなかった。春の空気も少しずつ冷え、頼りなげになってゆく。干しブドウを噛みしめると、ふだんよりもすっぱく感じた。
 しばらくぼんやりとしていたが、ふと、こちらへやってくる人影に気がついた。
 距離はまだあるが、ふらふらとおぼつかない足どりであることは見てとれる。肩幅が広く、背が高い――男だ。
 昼間の旅人といい、今日は妙な人物と遭遇する日なのかもしれない。アーレインは立ち上がってオリーブ色の双眸を凝らした。と同時に、男は足がもつれたように芝生の中に倒れこんだ。目を凝らしたまま彼女は動かずにいたが、人影が起き上がる気配はない。
 アーレインはため息をつき、籠を片手にぶらさげて、倒れこんだ彼のもとへと歩み寄った。
「……どうしたの?」
 しかし、返事はない。
 うつぶせに倒れているのは、麦藁色の髪をした長身の男だった。赤紫の狩猟服に黒の乗馬ズボン。銀の拍車がついたスエードのブーツ。郷士か下流貴族だろうが、ディッセルベーンの者ではない。アーレインは仕事柄、相手がそれなりの身分であっても顔なじみだが、この男にはまったくもって見覚えがなかった。
 首筋に軽くふれると、脈がやや弱まっている。死んではいないが、楽観はできない。
 仰向けにさせようとして男の顔の下に手を差しこんだアーレインは、その頬の熱さと手のひらにべとついた汗に驚いた。できるだけ負担をかけないよう努めて仰向かせると、若く端整だが、苦痛にひどくゆがんだ顔を目の当たりにすることとなった。
 ただごとではない。もともと病気持ちでないならば、何かの毒にあたったに違いない。
 当然医者を呼ぶべき事態だろう。しかし町へ戻ったとしても、ディッセルベーンに医者はいない。証書持ちの医者を呼ぼうと思えば、一番近くてリンデルの街へ馬を飛ばさなくてはならない。リンデルまでは馬車なら三日、単騎で駆けても一日半はかかる。
 医者のいないディッセルベーンでは、まじない師であるアーレインと占い女の老婆が代わりを務めていた。軽い腹痛や頭痛であれば薬を調合できる。毒草から痛み止めの精製もする。
 アーレインは唇を引き結んで、ともすれば呼吸が弱くなる青年の上着を脱がせた。彼が手で左の脇腹をおさえていたために、袖を抜くのに苦労した。脇腹をいったいどうしたのだと見てみると、黒っぽい染みがある。いやな予感が頭をよぎった。シャツをめくり上げると、紫に腫れた肌に針を刺したような小さな穴が二つ。一瞬息が止まり、すぐにアーレインは飛び上がった。クロナガヘビの牙の痕だ。
 スカーフを取り去り、シャツのボタンをはずす。年頃の娘として若い男の胸をはだけさせることに抵抗があったのも事実だが、ためらっている場合ではなかった。さらけさせた左肩にこれまた黒く引きつった痕を見つけたが、これは噛み痕ではない。十字を斜めにして円で囲んだような、印章めいた奇妙な傷だ。アーレインはこちらを無視し、脇腹の傷に集中した。
 クロナガヘビはヘーデン一帯の草むらに生息する毒蛇で、噛まれると傷が腫れて変色し、高熱が出る。ガルテン地方など南部の森林に生息するマムシなどとは異なり、毒性が消化されることはなく、誤って毒をのみこんでしまうと死に至る。味も匂いもない毒なので、史書によれば暗殺に用いられたことさえあるという。
 しかし噛み傷だけならば、毒を中和させることができる。半年ほど前、マレイユの息子ディールもクロナガヘビに噛まれた。傷口が腫れあがり、汗がふき出し、高熱が続いた。見ている自分のほうがつらくなり、一刻も早く解毒薬を完成させようと薬草関係の書物を手あたりしだいにめくったものだ。幸い、眠らずに作った薬がよく効いて、ディールは一命をとりとめた。だが今は、その薬の持ちあわせがない。
 傷口を心臓より低い位置に保たせるため、青年の背と頭に丸めた上着をさし入れ、傷を洗った。そして、ディールの時の記憶を頼りに、籠の中から役立つ薬草を選りわけた。口をすすぎ、それらをふくんで一緒くたに噛み混ぜる。乱暴なやりかただが、乳鉢もガラス器もないのだからしかたがない。充分に混ざりあった薬草を懐紙に吐き出し、それを湿布にして青年の脇腹にあてがった。一晩もすれば、熱も汗も引くはずだ。
 汗をぬぐって顔を上げれば、夕日はまさにフォンティーナ山脈の向こうに沈もうとしていた。一番星が頭上で瞬いている。
 アーレインは横たわったままの青年を見下ろした。幸い湿布が効いたようで呼吸は落ち着き、胸はおだやかに上下している。
 ――さて……どうしたものだろう? 
 このまま意識を取り戻すまで、待っているべきだろうか。帰ってしまおうか。
 もうじき夕食の時間だ。閉店時刻をすぎても帰らなければ、父や母が心配するだろう。
 しかしここは弟が――ハーティスが消えた、まさにその場所だった。弟が魔女に連れ去られるのを許してしまったこの場所で、弱っている人間を置きざりにしてしまうのは気がひけた。
 ――自警団に知らせにいくあいだくらい、このままでも大丈夫よね? それとも、目を覚ますまでそばについているというの? 
「おい」
 突然のしわがれた声に、思わず悲鳴を上げた。本当ならば飛び退きたかったのだが、足首をつかまれていたために、それはかなわなかった。
「水が、ほしい」
 足元の声が言った。アーレインは革袋を差し出した。中にはほんの一口二口程度、水が残っていた。
 気がついた青年は緩慢な動作で上体を起こし、震える指先で革袋を受けとった。そしてわずかな水をまるで極上の蜜酒であるかのように、ゆっくりと味わい、飲みこみ、最後に大きく息をついた。アーレインは動くことができずに、ただその様子を見つめていた。
 青年が顔を上げると、見下ろしていたアーレインの視線と彼の目とがまっすぐにぶつかった。月明かりを受けてアーレインに見えたのは、琥珀を思わせる金茶の瞳だった。その瞳には、命を救ってくれた彼女への感謝ではなく、不信と猜疑が満ち満ちていた。
「……見たか?」
 アーレインはわけがわからなかった。
「見たのか?」
 彼は重ねて言った。
「なにを?」
 青年はあきらかにいらついていた。
「では、見ていないのか」
「だから、何を見たかと訊いているの?」
 青年は不信にまみれたまなざしのまま、わき腹にあてがっていた手で左肩に触れた。
 たちまち、アーレインの脳裏に、十字を斜めにして円で囲んだような、奇妙な傷痕が思い浮かんだ。
「……見たのだな」
 それは問いかけではなく、確認だった。彼は長く息を吐き出した。
「死にたくなかったら、ここにいろ。どこにも行くな」
「どういうことよ?」
 だんだん、アーレインは青年のまなざしに射すくめられた恐怖よりも、不条理さからくる怒りのほうが勝っていくのを感じた。助けたはずなのに、この敵意に満ちた態度は何なのだ? 
「そんな口がきけるくらいに元気なら、もう大丈夫でしょう? 手当ては終わったし、私が帰ろうがどうしようが、あんたにどうこう言う権利はないわ」
 薬草の入った籠を片肩に背負い、きびすを返した。だが、彼女の背中には、投げつけられた青年の言葉がヘビの毒のように苦く染みた。
「このまま貴様が逃げるなら、遠からず貴様の命はないぞ」
「そんな馬鹿馬鹿しい脅しってないでしょう」
 彼に背を向けたまま、アーレインは応えた。
「私、何かいけないことをした? 咎められるようなことをした? 脅されなくちゃならないことをした? ……あんたの手当てをしただけじゃない。なのに、どうしてこんなふうに言いがかりをつけられなくちゃいけないの」
「俺は、助けてくれなど一言も頼んでいない」
「そうよ! 私が勝手に助けただけよ! 悪い?」
 我慢ならなくなり、振り返ってアーレインは叫んだ。すっかり暗くなった裏山で、彼女の声は大きく響いた。
 途端、アーレインは膝をついていた。殴られたのだ。離れようとする意識をなんとかつかもうとし、上体は大きくゆれたが、地面に突っ伏することはなかった。彼女を殴ったその腕に支えられていた。
「ライナス様。申し訳ございませんでした」
「遅いぞ、バートラム」
 これが、このときアーレインの聞いた最後の言葉だった。
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