8、

文字数 9,998文字

 明かりのない地下通路を手探りで進んだ。小さな子どもには大変な道のりも、ようやく終わりが見えた。風が感じられる。ついに外へ出られるのだ。
 出口は低木と蔦によって隠されていた。這い出たライナスは夜気を吸いこみ、はきだした。鼻と喉の奥がひりひりと痛んだ。
 星明りの下で見た手のひらはすり傷だらけで、袖もズボンの膝も、ひどく汚れてしまっていた。それでも母に言われたとおりに馬車を待とうと、ライナスは視線を巡らせた。
 シェルパーダ家の騒ぎを聞きつけて、群衆が門の前に集まり館を見上げていた。あることないことがそこかしこで囁かれている。その中に、聞き捨てならないものがあった。
「ここの主人が主人なら、使用人も使用人ですよ。公爵があんなことをしでかしたものだから、使用人も頭がおかしくなったらしくて。その狂った使用人が大暴れしてるって通報があったんで、俺たちが駆けつけたわけですよ。取りおさえようとしたら、奴らひどく抵抗しましてね。暖炉の薪まで振りまわす始末でして……」
 城の兵士の身なりをした男だった。つめかけた人々に大げさな身振りで嘘ばかりを吹きまわっている。
 ――ぼくの家に乗りこんできてひどいことをしているのは、おまえたちじゃないか!
 飛び出して大声で言ってやりたかった。それでも、ライナスはこらえた。
『いきなさい』
 ライナスの一番深いところで、母の言葉が熱く響いた。
 しかし待てども、母が頼んだはずの馬車は来なかった。代わりに続々と宮殿騎馬隊の馬と騎手が押し寄せてくる。
 やがて、館から火の手が上がった。
「狂った主人の使用人は、やっぱり狂ってやがる。売ればどれほど俺たちの暮らしが楽になるのかわからねえほどのお屋敷に、付け火だなんてな」
 どよめき、燃え上がる火から少しでも遠ざかろうと逃げる群衆、城兵から上がる歓声。
 夜空をなめる舌のように伸び上がる赤い炎を、ライナスは愕然として眺めた。
「うそでしょう……」
 涙がこぼれ落ちる。
『行きなさい』
「母上は? ディシーは?」
『生きなさい!』
 ライナスは駆け出した。頭の中で鐘のように反復し鳴り響く母の声に、頭よりも先に足が従った。がむしゃらに駆けた。
 転がるようにして坂を下り、馬車道を駆けた。並木のシルエットが化け物のように不気味に浮かび上がる。
 夜の貴族街を走りぬけ、平民街までたどり着いた頃にはもはや足は使いものにならないほどくたくたになっていた。
 痛む足を懸命に動かして、人けのない通りを歩いた。とうとう疲れきって立ち止まったとき、彼は空を見上げた。星がまるで降るように輝いている。
「どうしたんだい、坊や?」
 覚えのない声が降ってきたとき、ライナスは星に話しかけられていると本気で思った。明るく親切そうな、朗らかな声音だった。
「そんなに空ばっかり見てると、星に連れていかれちまうぞ」
 ――え……? 
 振り返ると、笑いかける若い男の顔があった。聖母のおわします楽園からのお迎えにしては、司祭が語る天使のように美しくもなく、翼も生えていない。高貴な楽園の使徒よりも、屋敷の下男がはるかに近い。
「坊や、何かあったのか?」
「……馬車が、来なかったんだ」
 ライナスは短く答えた。
「だから、ぼくだけじゃどうにもならないんだ」
「ふーん……」
 男は顎をなでながら、しばし遠くのほうを見遣っていた。――貴族街のほうを。
「都貴族の華やかさは噂で聞いてちゃあいたが、夜でも、あんなに騒がしいのかね? あんなにも明かりが焚かれているじゃないか。無駄遣いだとは思わないのかねえ」
 男はひょいと視線をライナスに戻し、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なあ坊や。馬車でどこかへ行くつもりだったってなら、俺がついでに連れていってやろうか。こっちは荷馬車だから乗り心地はいまいちだが、馬が頑丈なのは保証するぜ」
 ライナスは、もうこれ以上自分の足で歩き続けられる自信がなかった。
 ――もしも荷馬車がエレイズを通るなら、乗せてもらおう。
 エレイズ領まで無事に到着できればヒーリア神が微笑んでくれたのであろうし、実は男が敵でアルソレイムの牢獄に連れていかれたならば、それが運命とあきらめられる気がした。
「どこまで行くの?」
「ヘーデン領だよ。十日ばかりかかるがね、上等の小麦がとれるすばらしいところさ。都の貴族様方が食べるパンはたいていヘーデンの北方で作った小麦でできているんだ。俺の故郷もそのあたりでね。ま、俺の家は畑じゃなくて店をやっているんで、年に何回かこうして首都まで買いつけに来るのさ」
 首都イリューシオンを出てガルテン地方を東に進むと大河シュラノー川の岸に出る。シュラノーの大橋を渡れば、そこはもうエレイズ領だ。領内から海に注ぐウアルタ川では貿易船が盛んに行き交い、両岸には豪商たちの住まいが並び壮麗さを競う。エレイズを北方に抜けて大河シュラノーの支流、シュランヴァティー川を越えるとリンデルの街があり、ヘーデン地方に入る。
 ヘーデン領の北方が荷馬車の主の故郷であれば、間違いなくエレイズ領を通ることだろう。大河を迂回しフォンティーナ領を回りこむ道もあるが、フォンティーナ北東には山脈が連なっているため、わざわざ好き好んで通る者は少ない。
「じゃあ乗ってもいい? ぼくはエレイズに行きたかったんだ」
「おうよ、もちろんさ」
 男は小路に停めてあった小さな荷馬車を示し、片目をつむってみせた。
 粗末な御者台にともされた灯かりを頼りに、ライナスは荷馬車に乗りこんだ。背丈の足りないライナスを支えてくれた男からは、夕食を摂ったところだったのか、こうばしい鶏肉の匂いがした。
 荷馬車につながれているのは、背の低いずんぐりとした馬だった。二台には、荷物が傷まないようにたっぷりと藁がかぶせられている。男の提案で、ライナスは藁の下にもぐりこんだ。
「藁をかぶっていれば、夜風も寒くないだろう?」
 窮屈ではあったが、風から守られ、素朴な香りに包まれた荷台は居心地がよかった。ライナスは手足を縮め、しっかりと藁に埋まった。
 馬に鞭をあてる音が聞こえ、荷馬車はのろのろと動き出した。車輪がきしみながら回り、道の凹凸によって揺れた。
 藁の匂いは太陽の匂いと似ていて心地よい。たっぷりとした藁布団にくるまれて、ライナスはうとうとと舟をこぎはじめた。その浅い眠りは、すぐに人声によって破られた。
「なにゆえこのような時間に出て行く?」
「今度の棚変えの日までに、ヘーデンに帰らなくちゃならないんでね。朝まで待つのだって惜しいのさ。昨日の夜にこっちへ着いたときには、こんなにうるさく止められはしなかったぜ?」
 荷馬車の主がため息まじりに言うのを聞いて、ライナスは目を開けた。
「今晩は公爵様のお屋敷が焼ける騒ぎがあったのだ。上からの通達により、大街門は厳戒態勢に入っている」
 門兵が、シェルパーダ家の人間が逃げていないか調べているのだ。本能のようなもので感じとり、ライナスは身震いした。
 ――見つかったらどうしよう。
「荷台を調べさせてもらおう。怪しいものを持ち出そうとしている輩はアルソレイムまで連行しろとのお達しだ」
「はいはい、どうぞお好きなだけ調べるがいいさ。そしてとっとと解放してくれよな」
 御者台から降りる気配と、荷馬車の主の声が荷台に近づいてくる。門兵の鎧がこすれ合う音がすぐそばで聞こえる。
 ライナスは心臓が握りつぶされる思いだった。手足を縮め、できるかぎり小さくなり丸まって、祈るように指を組んだ。
 ――どうか、ぼくを見つけないで! 
 がさがさと藁がかき分けられる。明かりがかざされる。やめて……やめて! 
「ほうら、ニシンの瓶詰めに魚油。ヘーデンは海から遠いからなぁ。そしてこっちが舶来の香草の束で、ちょっくら値の張った色石。そこの箱は上等のエールさ。なぁんにも、変なものなんて見当たりはしないだろ?」
 門兵は藁が退けられてあらわになった荷台をのぞきこみ、渋い顔でうなっている。
 ライナスは兵士に見られている恐怖よりも“見られていない驚き”で動けなかった。ライナスの真上に、たしかにいかつい門兵の顔があるにもかかわらず、門兵にはライナスの姿が見えていないらしい。ニシンの瓶詰めとライナスが同じものでしかないように、視線は何気なく通過してゆく。
「妙なものは積んでいないようだな」
「当然でさあ」
 荷馬車の主はそり返って言った。
「では、俺はおいとまするよ。時間が惜しいんでね」
 藁をかぶせなおして、軽々と御者台に飛び乗り馬に一鞭当てた。荷馬車の車輪がのろのろと動き始める。
 ひライナスは何が起きたのか理解ができずに、呆然と目を瞬いていた。
 パドゥルー湾の紺碧を右手にシュラノー川を目指し北上する。そっと藁から外をうかがい、首都の城壁が見えなくなった頃になってようやくライナスは口を開いた。
「どうして、あいつらにはぼくが見えなかったの?」
 荷馬車の主は荷台を振り向いた。
「なぁに、坊やの心がけがよかったのさ。ヒーリア神のご加護があったんだろうよ」
「きみはぼくが見えなくても驚かなかった。どうして?」
 なかなか鋭い坊やだなぁとつぶやいて、宙を手でつかむそぶりをし、すぐに手のひらを開いた。するとそこから淡い光の球が生まれて、ふんわり漂い、夜空にのぼる前に霞んで消えた。
 手を開いたり閉じたりするたびに、光は次々と生まれる。ライナスは信じられない思いで見つめていた。大教会の導師が触れるだけで病を癒やす奇跡の話は有名だが、ライナスはじかに奇跡を目にしたことはなかったし、城のお抱え楽師が美しい幻影をつむぎ出すと聞いてはいても、宮殿の夜会に出席できる年齢ではなかったから、それがどんなものであるのかもわからなかった。
 今、目の前で次々と生まれては消える光は、導師や楽師以上にすばらしい奇跡だとライナスには思えた。
「俺は子どものころ、魔術師にあこがれていてね」
 彼は言った。
「俺が坊やくらいの年のときにな――高い熱にやられて、目から耳から膿が出てもう少しで死んじまうってところまできたんだ。おやじもおふくろも手をつくしてくれたが、辺境領のヘーデンじゃあ、まともな医者が少ないから診に来てもらえない。占い女の祈祷も効かなくて、こりゃあだめだと思いかけたときに、旅の途中の魔術師が薬をくれてね。それを飲んだら、不思議なことにみるみる良くなったんだよ。俺もそんな魔術師になりたくてさ、できるかぎりは勉強してみたんだが……だめだね。学院に通うだけの金はないからせめてまじない師にと思っても、まともな薬なんざひとつもできなかった。才能がなかったんだなあ。できるようになったのはせいぜい、姿を見えないようにしたり、頼りない光を作る術程度でね。結婚してからはきれいさっぱりあきらめて、かみさんと仲良く店をきりもりしてるよ」
「せいぜい、じゃないよ。すごいよ!」
 ライナスは藁から身を乗り出して、
「きみがぼくを見えないようにしてくれたんじゃないか。それって、そうしてもらえなかったら、きっとぼく、大変なことになってたよ」
「坊やはエレイズに行きたいんだろう? それに、こんな遅い時間に俺みたいな風体の男が子どもを連れていたんじゃあ、俺のほうが人さらいか人買いかって疑われてしょっぴかれちまう」
 関所では荷台を見せるように兵士に言われたが、そのたびに彼がライナスの姿が見えないように術をかけ、ひょうひょうと荷物を見せた。兵士たちの目が真上にあるのをじっと見つめながら、ライナスは芋虫のように丸まっていた。たいていすぐに藁がかぶせられ、再出発する繰り返しだ。
 都を出て三日目には大河シュラノーを渡りきり、領境の関所を無事通過してエレイズ領に入った。
 エレイズ中心部のウアルタ川沿いの街には、まだ丸一日かかる。それでもライナスは、祖父母のもとへ確実に近づいているという思いで、安堵に満たされていた。
 ――お祖父様に会ったら、父上を助けていただくようにお願いしよう。母上とディシーを探してもらおう。それから兄上にもお会いして……。
 エレイズ南部の町で馬を止めて、荷馬車の主が多少の仕入れをしてくると出かけていったとき。ライナスは荷馬車のへりに座り、帰りを待ちながらリンゴをかじっていた。
 つながれた馬は軽く足踏みをしたり、鼻を鳴らしたりしている。近くの井戸には水甕や買い物籠を手にした女たちが集まって、めんどりのようににぎやかにおしゃべりをしていた。聞くとはなしに、ライナスの耳にも彼女らのおしゃべりは届いた。
「都から来た早馬がふれまわっているのを聞いたかい?」
「もちろんさ。この国もどうなっちまうのかねえ。皇王様がお亡くなりに……殺されただなんて。よその国に聞こえたら、ヒーリア神おわすヘイリアスだって、攻められちまうんじゃないかねえ」
「手を汚したのは公爵様だって言うじゃないか。まったく、ヘイリアス国の名折れだよ。皇王様をやっつけて、自分が皇王様になりたかったって。そんな大それたまねをするものだから、斬首刑なんかになるんだよ」
「一昨日が刑の執行だったろう? 執行の前に、奥方は火事で亡くなったんだってさ。旦那の行いを恥じて、火をつけて自害なさったのかねえ」
 ぽとりと、ライナスはリンゴを落とした。
 ――なんだって? 
「公爵の若様も、急いで帰る途中に事故にあったって話さ。若奥様と一緒に楽園に旅立たれたそうだよ。まだまだ若い貴公子だろう? かわいそうに……父親がとんでもないことをしでかすと、女神の罰が子どもにも下るのかねえ……」
 ――なん、だって? 
 ライナスは凍りついたまま、虚空を見ていた。耳に入った言葉が猛毒のようで、痺れすら感じた。
 ――父上が? 母上が? 兄上までもが? ……うそだ。うそだうそだうそだうそ――
「どうしたんだい?」
 木箱を抱えて戻ってきた荷馬車の主は、目を見開いたまま動かないライナスに首をかしげた。足元には食べかけのリンゴが転がっている。
「坊や?」
 木箱を下ろし、ライナスの肩を揺さぶってみる。頭は人形のように力なく揺れ、目はガラス玉かと見まごうほど虚ろだった。
「ほら、坊や。出発するぞ」
 頬を軽くたたかれて、ライナスはゆっくりと顔を上げた。その琥珀色の瞳には、何も映ってはいなかったのだが。
「……皇王様が、殺されたっていう話」
 やっと口を利いたライナスに、荷馬車の主はほっとしたようだった。
「ああ、公爵様が犯人だって噂のな。女たちが話していたのを俺も聞いたよ」
 木箱を麻のロープで荷台に固定し、いつものように御者台に飛び乗ると、彼は馬に鞭を当てた。
「だけどなあ――俺は、公爵様が犯人じゃないように思えるんだよ。誰も信じないだろうけどよ」
「え……?」
「今回の事件で一番得したのは誰だ? 皇王位に就くことになった王弟のバイスンじゃないか。公爵様は臣籍だから、皇王になろうと思ったら、それこそ王弟やその子どもまで手にかけなくちゃならないだろう? そんな面倒で時間がかかって危険がつきまとう仕事を、充分に良い暮らしができている高級貴族様がなさるとは思えないね」
「王弟が……一番得をした?」
 彼はうなずいた。そして、新しいリンゴを投げてよこした。
「だってそうじゃないか。皇王になれば、“薬草園の魔女”から弟子の洗礼を受けることができるんだぜ? “薬草園の魔女の弟子”は、女神に仕えて墓守をする魔女の補佐として、国守をする役目を負う。国守ってつまり、皇王の仕事をするわけなんだが――薬草園の在処を知ることができるだろう? 薬草園の場所がわかれば、不老不死の薬を作り出すのだって夢じゃあない。だが、王弟じゃあ洗礼は受けられない。バイスンが兄貴の先王をうらやんだって、おかしくないさ」」
 “薬草園の魔女”――ヘイリアス皇王国に暮らすものなら知っている。教会の礼拝で、節目の折に聞く司祭の説教で、誰もが耳にしているだろう。
 “薬草園の魔女”は、主神ヒーリアが弟神フォルールの墓守として選んだ存在だ。フォルール神の亡骸が埋められた場所にはさまざまな薬草が繁ったという言い伝えから、そう呼ばれている。薬草園の薬草で魔女が作った薬は不死さえもたらし、あらゆる病、あらゆる怪我を癒やすという。国境に近く隣国との小競り合いが絶えないグノー地方では、薬草園の魔女が不死と癒しを司る者として、戦士の守護者と崇められている。
 絵画の主題としても好まれ、神獣の獅子を従えニレの杖にカラスを止まらせた美女の姿で頻繁に描かれており、たいていの貴族邸に飾られている。
「どうしてそんなこと、知ってるの……?」
「魔術師の勉強をかじった人間なら、誰だって知ってるもんだ」
 荷馬車の主は、手のひらにまた淡い光をともしてみせた。
「その薬草園には、あらゆる薬になる薬草や、この世のすべての魔術があふれている。“薬草園の魔女の弟子”ってのは、魔術師まじない師のあこがれの的なんだよ。王弟バイスンがその薬草園をほしがったって、無理もないだろう? 薬草園の魔女は、皇王の代変わりごとに、新しい皇王に弟子の洗礼を授ける。どうやってその洗礼が行われるのかはわからんが、洗礼は薬草園――フォルール神の墓所で行われるらしい」
 ――じゃあ、父上は、そんなことのために殺されたの? 王弟の罪をかぶって?
「もともと病弱だった奥方の病気が悪くなってから、王弟殿下は閉じこもりがちになってたって噂だったからなあ。暗い部屋で、よからぬことを企んでたのかもしれないぜ。……ま、俺には関係のないことだが」
 からからと笑って、リンゴをかじった。
「うっわ、渋! 坊やそのリンゴ、やめといたほうがいいぜ」
 けれどもライナスには聞こえていなかった。
 
 エレイズ中心部に到達し、祖父母の屋敷はもう目と鼻の先だというのに、ライナスの気は晴れなかった。王弟バイスンへの憎しみが、彼の小さな胸にふつふつと沸き立っていた。
 ウアルタ川中流の街ストレイで、荷馬車は貴族街に入ろうとして兵士に呼びとめられた。
「貴様のような者が、何の用だ」
「都から仕入れてきた品物を、貴族の旦那がたに見ていただきたいだけですって。何か罰あたりなことですかねえ?」
 兵士は顔をしかめて槍の柄で地面をたたいた。
「ならぬ! 平時ならば許されても、『あのようなこと』があった今ではな」
「皇王が亡くなった、例の事件かい?」
「それもあるが」
 兵士は眉間の皺を深くして、うなるように言った。
「ストレイ伯のお屋敷が、イリューシオンの勅使によって出入りを禁じられておるのだ。なんでも、皇王殺しのシェルパーダ公にゆかり深い伯爵に、共犯の疑いがかかっているらしい。公爵の奥方の実家だそうだ……徹底調査と通達されておる。貴様のような小汚い行商の相手をする暇などあるまい」
 荷馬車の主は肩をすくめ、鞭を鳴らして貴族街から離れた。
 ライナスは藁に埋まって震えていた。震えるかすかな声で、ライナスは御者台に向かって、言った。
「ぼくを、きみが行くところまで連れていって」
「坊やはエレイズで降りるんじゃなかったのかい?」
「きみと行かせて」
 問いただされることなく、快諾された。そして、馬の脚を急がせるための鞭の音がした。
 居心地の悪いストレイの街を早々に後にした。ずんぐりとした馬は頑丈だった。少しも音を上げずに、主に忠実に街道をたどった。
 フォンティーナ山脈をはるか北西に見ながら荷馬車は走り、シュランヴァティー川を渡ってリンデルの街に至った。首都の警戒が届ききっていないのだろう――リンデルまで来ると、兵士に呼び止められることもなかった。
 ライナスはとうとう、辺境領ヘーデンまでやってきたのだ。ヘーデンにあてがあるわけではなかったが、今となっては、荷馬車の藁の中だけが、今の彼の安息の場所だった。離れたくなかったのだ。
 リンデルの街から三日。荷馬車の主の故郷は小さな町だった。小麦畑が見え、その広さに比べれば人々の住む家の並びはちっぽけなものだ。町人は素朴で、ライナスと同じ年頃の子どもたちが走り回っているのを、大人が温かいまなざしで見守っているのだった。
「坊やはこれからどうするんだい?」
 馬の脚が止まった。我が家の前で御者台から下り、一通り荷物を運びこんだ荷馬車の主は、ライナスにたずねた。
「夕飯をご馳走するくらいはうちでもできるが……知り合いでもいるのかい?」
 ライナスは素直にかぶりを振った。彼は弱ったというように頭をかき、夕暮れの西日をながめた。その足元に、彼の娘なのか、小さな少女がまつわりついた。彼は破顔して少女を抱き上げると「ただいま」――言いながら頬をすりよせた。少女は無精ひげがくすぐったいらしく、笑い声を上げた。
 ライナスは少女がうらやましかった。自分ももう一度、父の腕に抱き上げてもらいたかった。
「……あてがないのなら、ヘーデンの伯爵様のところに行ってみるって手もある。辺境伯は代々懐の深いおかたでね、ちっぽけな孤児院にも出資してくださってるんだ。つい最近も、身寄りのない赤ん坊を引きとったんだってさ。さっきかみさんから聞いたんだよ。辺境伯なら、坊やのこともいいようにはからってくれるだろうさ」
 ライナスは、荷馬車の主とまだ一緒にいたかった。天蓋付きのベッドや、繻子の羽根布団で寝られなくともいい。藁の寝床で充分だ。彼と一緒にこの町で暮らしてしまえば、悪夢のようであった父の濡れ衣も火事の館に残った母も事故にあった兄のことも忘れて、心安らかに過ごせるような気がした。
 ――でも、そんなことはできない。
 王弟バイスンへの怒りと憎しみが、彼の心に巣食っている。親切な荷馬車の主や幸せそうなその娘に、迷惑をかけたくなかった。
「ぼくは、辺境伯のところへ行く」
 夕食の誘いを断ったライナスは、辺境伯の館までつれていってくれるように頼んだ。温かいこの家族と食卓を囲んでしまえば、決意が鈍ってしまうような気がしたのだ。
 荷馬車の主は長旅で疲れてはいたが、「それは坊やも同じだよな」とすぐに支度をととのえた。彼の妻はライナスにハムとチーズをはさんだパンを持たせてくれた。ライナスはうれしくて、泣きたくなってしまった。
 ヘーデンの城館へは、荷馬車ではなく簡素な鞍をつけた馬で走った。丘のゆるやかな坂道を軽快にのぼり、二時間ほどで鉄門のシルエットが見えてきた。
 ライナスはひとりで馬をおりた。あたり一帯はすっかり暗くなっていたが、星明りでお互いの顔を見てとることはできた。
「ありがとう」
 ライナスは涙をのみこんだ。
「きみがいなかったら、ぼくはもうとっくにだめだった」
「俺も道中、坊やがいてくれて楽しかったさ。辺境伯に、うまくやってもらえるといいな」
 頑張れよ! それだけを言い、彼は来た道を帰るべく馬首を返した。
「あのっ!」
 去りかけた背中に、ライナスは呼びかけた。
「名前、教えてもらってもいい?」
「ヒュルストーだ」
 ゆうゆうと手を振りながら、後ろ姿は夜の道の向こうに消えていった。それをずっと見つめていたせいで、ライナスは自分が名乗るのをすっかり失念していた。
 ライナスは門衛の顔を見上げた。門衛は不思議そうに彼を見た。
「辺境伯に、会いにきました」
 うずいた左肩を押さえながら、ライナスは門衛に告げた。
「辺境伯に会わせてください」
 門衛はライナスと同じ視線になるようにかがみ、細い肩をやさしくたたいた。
「君がわけありでここに来たってのは察するが……今、お館様は喪に服していらっしゃってなあ。とびきりかわいがっていらしたお嬢さんを亡くされたんだよ。お嬢さん、ご夫君と一緒に馬車の事故に遭ったんだ。お館様はふさぎこんでおしまいになって……だから、君と会ってくれるかどうかはわからんよ。それでもいいのかね?」
 ライナスはうなずいた。
「いつまででも待ちます。だから、とりついでください」
「ううむ、礼儀のよくできている子だな」
 門衛はやさしげに言って、彼を詰め所に案内すべく、門を開けた。
「君の名前は何というのかね?」
 ライナスです――口を開けたものの、言えなかった。その代わり、彼は恩人の名を口にした。
「ヒュルストーです」
 空を渡る風のように、気持ちのよい響きだと思った。
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