終章、それから
文字数 2,846文字
「もう一度、考え直していただけないだろうか」
何度目になるかわからない申し出に、彼はまたしても迷いなくかぶりを振った。
「前にも言ったように、僕はヘーデンのアイルだから」
ルバートは唇を歪めて、いとこのアメジストの双眸を見つめた。この強情ないとこは何度言っても、自身の中に流れる血脈の貴さを認めようとはしないのだ。
「シェルパーダ公の政変のとき、僕はまだ赤ん坊だったんだ。両親の顔はちらとも思い出せないし、ヘーデン城館でリンコレッタと一緒に育ってきた。いまさら皇王になってくれだなんて、冗談にもならないよ」
「しかしアイランリット殿」
「いやだなあ。だからアイランリットじゃなくて、アイル」
ルバートは深々と嘆息した。即位式の控えの間でのことだ。
薬草園が焼失し、墓守の魔女が行方不明になり、両親――皇王夫妻が聖母の腕 に導かれて楽園へと旅立ってから、半月がたった。
「僕はヘーデンに戻るよ。王太子は君なんだもの、ルバート殿」
「だが、父は簒奪者だ。皇王家の正統な血脈はアイランリット殿のほうにこそ」
「血脈なんて、どうだっていいことだよ」
いとこは宮廷画家がこぞって肖像画を描きたがるに違いない美貌で、花がこぼれるように微笑んだ。
「血に貴いか卑しいかなんてない。生温かい赤の液体にすぎないんだもの。君が王太子で僕がヘーデンのアイルだという境遇は、ただ、君が王太子として生きてきて、僕が辺境伯家の居候として生きてきたから――それだけだよ」
言い置いて、振りかえらずに部屋を出ていってしまった。ルバートは頭をかかえて、壁に額を押しつけた。
廊下では、つまらなさそうな顔をしながらも、リンコレッタが待ってくれていた。
「……本当に、このまま帰るつもり?」
アイルは笑顔で返した。
「もっちろん。アーレインの具合もよくなったんだから、ぐずぐず留まる必要なんかないじゃないか。アーレインもヒュルストーも――いや、ライナスも、もう馬車乗り場にいるんだろう?」
「ルバート様の即位式、出席したかったのではなくて? ……いとこなのでしょう?」
「僕は辺境伯家の居候だよ。ルバート殿は王太子――そして今日、皇王になる。生きてきた世界がまるで違うよ。いとこだなんて実感がわかないんだ」
リンコレッタを手まねきして、アイルは歩き出した。
「その点、血はつながっていないけれど、君とは家族だからね。僕はあんな玉座で皇王をやるよりも、リンコレッタと一緒にいたほうがずっと楽しいと思うんだ。――約束したじゃないか、皇王なんかにならないって」
アプローチの一番奥まで見渡しても、まだ、アイルとリンコレッタの姿は見当たらない。
宮殿前の馬車乗り場で二人を待っていたアーレインは、しびれを切らして馬車の屋根に登ってしまった。自分も、帰ってくるのを見張りたいのだと言って。
「ずるいじゃない。ライナスは背が高いからいいけど、私は背伸びしたって見えないんだから」
焦げた部分を切って短くした彼女の髪が、ふわふわと風に揺れた。半分よりも短くなってしまったので、慣れなくてどうにも落ちつかない。
「病み上がりだろう。もう少しおとなしくしたらどうだ」
「それはライナスだって同じでしょう。あんまり口うるさくすると、傷が開いちゃうんじゃない?」
「おまえがそうさせているんだろう。それに、俺の傷は浅かった。とっくに痕もなくなっている」
「……肩の印章も?」
「ああ」
ライナスはうなずいた。
左肩のシェルパーダ公家の紋章は、バイスンに切りつけられた傷が癒えるのと時を同じくして、あとかたもなく消えていたのだ。家族の形見のようなものでもあり、さびしさもおぼえたが、解き放たれたようなすがすがしい気持ちのほうが大きかった。
一方で、アーレインには肩から胸にかけて大きな傷痕が残ってしまったのだという。もとの傷が深かったために、魔女の緑の血をもってしても消せなかったのだ。宮殿付きの医師も手を尽くしたが、あきらめるよりほかないと言われた。
ライナスは、それがいたたまれなかった。
「アーレインの傷は――やっぱり、消えていないのか?」
「ずいぶん勢いよくばっさりやってくれたものね。みごとに残ってる。でも、勲章みたいなものだから。私にしてみれば」
アーレインは笑った。
「ハティがさらわれたときは守れなかったけれど、あんたのことは守れたっていう、勲章」
「勲章も、死んでいたら自慢にならないだろう」
「ライナスが無茶しなければ、私だってしなかったのに」
アーレインは門の向こうを見遣り、顔をかがやかせた。今度は、並んで戻ってくるふたつの人影を見つけたのだ。
アーレインは彼らに大きく手を振って屋根から滑り降り、馬車に乗りこんだ。それにライナスも続いた。
行き道でも手綱をとった顔なじみの御者が、近づいた出発のために、つながれている馬に足踏みをさせた。
「アーレインはヘーデンに戻ったらどうするんだ? 弟のことは、もう探さないんだろう?」
「久しぶりに店を開けるわ」
アーレインは即答した。
「ハティはハティで魔女と仲よくやっていくでしょうし。どこかで元気にやっているならそれでいいかって、思えるようになったの。ライナスはどうするの?」
「おまえの店でも、手伝おうか」
「冗談でもおことわり」
ライナスは半分以上本気で答えたので、少なからず傷ついた。
「どうしてだめなんだ」
「だって、邪魔に違いないもの。ライナスみたいな横柄な態度では、お客だって寄りつかなくなってしまうし」
「店では男手が必要なこともあるだろう? おまえのようなじゃじゃ馬では、おそれて誰も近づかないかもしれんが」
「あんたがくれた勲章のおかげで、箔もついたことだしね」
それを言われてしまうと、何も言い返せないライナスだった。
ライナスが口をつぐむとアーレインは気まずげにこちらをうかがい、「ごめん」とささやいた。
「当てこすりが言いたかったわけではないの。売り言葉に、買い言葉になっただけで。この勲章だって、誰彼なく見せるようなものではないし」
「わかっている。……俺が責任を持って、一緒に働いてやる」
「責任感だけで押しかけられても迷惑よ。私も薬草園の魔女みたいに一生弟子はとらないで魔術業に精を出すから、ご心配なく」
「責任だけじゃない。魔女でさえ、ハティを家族に迎えただろう。だから」
「だから、どういう意味なの」
またしてもライナスは黙りこみ、アーレインがつめよった。
バートラムと旧知の仲である御者だけが、バートラムから気性をよく聞き知っているライナスの言わんとしていることを汲み取って、御者台でひとり笑いを噛み殺していた。
そこへ戻ってきたリンコレッタたちが乗りこんでいっそうにぎやかになり、鞭の音も軽やかに、馬車は走り出した。
― 幕 ―
何度目になるかわからない申し出に、彼はまたしても迷いなくかぶりを振った。
「前にも言ったように、僕はヘーデンのアイルだから」
ルバートは唇を歪めて、いとこのアメジストの双眸を見つめた。この強情ないとこは何度言っても、自身の中に流れる血脈の貴さを認めようとはしないのだ。
「シェルパーダ公の政変のとき、僕はまだ赤ん坊だったんだ。両親の顔はちらとも思い出せないし、ヘーデン城館でリンコレッタと一緒に育ってきた。いまさら皇王になってくれだなんて、冗談にもならないよ」
「しかしアイランリット殿」
「いやだなあ。だからアイランリットじゃなくて、アイル」
ルバートは深々と嘆息した。即位式の控えの間でのことだ。
薬草園が焼失し、墓守の魔女が行方不明になり、両親――皇王夫妻が聖母の
「僕はヘーデンに戻るよ。王太子は君なんだもの、ルバート殿」
「だが、父は簒奪者だ。皇王家の正統な血脈はアイランリット殿のほうにこそ」
「血脈なんて、どうだっていいことだよ」
いとこは宮廷画家がこぞって肖像画を描きたがるに違いない美貌で、花がこぼれるように微笑んだ。
「血に貴いか卑しいかなんてない。生温かい赤の液体にすぎないんだもの。君が王太子で僕がヘーデンのアイルだという境遇は、ただ、君が王太子として生きてきて、僕が辺境伯家の居候として生きてきたから――それだけだよ」
言い置いて、振りかえらずに部屋を出ていってしまった。ルバートは頭をかかえて、壁に額を押しつけた。
廊下では、つまらなさそうな顔をしながらも、リンコレッタが待ってくれていた。
「……本当に、このまま帰るつもり?」
アイルは笑顔で返した。
「もっちろん。アーレインの具合もよくなったんだから、ぐずぐず留まる必要なんかないじゃないか。アーレインもヒュルストーも――いや、ライナスも、もう馬車乗り場にいるんだろう?」
「ルバート様の即位式、出席したかったのではなくて? ……いとこなのでしょう?」
「僕は辺境伯家の居候だよ。ルバート殿は王太子――そして今日、皇王になる。生きてきた世界がまるで違うよ。いとこだなんて実感がわかないんだ」
リンコレッタを手まねきして、アイルは歩き出した。
「その点、血はつながっていないけれど、君とは家族だからね。僕はあんな玉座で皇王をやるよりも、リンコレッタと一緒にいたほうがずっと楽しいと思うんだ。――約束したじゃないか、皇王なんかにならないって」
アプローチの一番奥まで見渡しても、まだ、アイルとリンコレッタの姿は見当たらない。
宮殿前の馬車乗り場で二人を待っていたアーレインは、しびれを切らして馬車の屋根に登ってしまった。自分も、帰ってくるのを見張りたいのだと言って。
「ずるいじゃない。ライナスは背が高いからいいけど、私は背伸びしたって見えないんだから」
焦げた部分を切って短くした彼女の髪が、ふわふわと風に揺れた。半分よりも短くなってしまったので、慣れなくてどうにも落ちつかない。
「病み上がりだろう。もう少しおとなしくしたらどうだ」
「それはライナスだって同じでしょう。あんまり口うるさくすると、傷が開いちゃうんじゃない?」
「おまえがそうさせているんだろう。それに、俺の傷は浅かった。とっくに痕もなくなっている」
「……肩の印章も?」
「ああ」
ライナスはうなずいた。
左肩のシェルパーダ公家の紋章は、バイスンに切りつけられた傷が癒えるのと時を同じくして、あとかたもなく消えていたのだ。家族の形見のようなものでもあり、さびしさもおぼえたが、解き放たれたようなすがすがしい気持ちのほうが大きかった。
一方で、アーレインには肩から胸にかけて大きな傷痕が残ってしまったのだという。もとの傷が深かったために、魔女の緑の血をもってしても消せなかったのだ。宮殿付きの医師も手を尽くしたが、あきらめるよりほかないと言われた。
ライナスは、それがいたたまれなかった。
「アーレインの傷は――やっぱり、消えていないのか?」
「ずいぶん勢いよくばっさりやってくれたものね。みごとに残ってる。でも、勲章みたいなものだから。私にしてみれば」
アーレインは笑った。
「ハティがさらわれたときは守れなかったけれど、あんたのことは守れたっていう、勲章」
「勲章も、死んでいたら自慢にならないだろう」
「ライナスが無茶しなければ、私だってしなかったのに」
アーレインは門の向こうを見遣り、顔をかがやかせた。今度は、並んで戻ってくるふたつの人影を見つけたのだ。
アーレインは彼らに大きく手を振って屋根から滑り降り、馬車に乗りこんだ。それにライナスも続いた。
行き道でも手綱をとった顔なじみの御者が、近づいた出発のために、つながれている馬に足踏みをさせた。
「アーレインはヘーデンに戻ったらどうするんだ? 弟のことは、もう探さないんだろう?」
「久しぶりに店を開けるわ」
アーレインは即答した。
「ハティはハティで魔女と仲よくやっていくでしょうし。どこかで元気にやっているならそれでいいかって、思えるようになったの。ライナスはどうするの?」
「おまえの店でも、手伝おうか」
「冗談でもおことわり」
ライナスは半分以上本気で答えたので、少なからず傷ついた。
「どうしてだめなんだ」
「だって、邪魔に違いないもの。ライナスみたいな横柄な態度では、お客だって寄りつかなくなってしまうし」
「店では男手が必要なこともあるだろう? おまえのようなじゃじゃ馬では、おそれて誰も近づかないかもしれんが」
「あんたがくれた勲章のおかげで、箔もついたことだしね」
それを言われてしまうと、何も言い返せないライナスだった。
ライナスが口をつぐむとアーレインは気まずげにこちらをうかがい、「ごめん」とささやいた。
「当てこすりが言いたかったわけではないの。売り言葉に、買い言葉になっただけで。この勲章だって、誰彼なく見せるようなものではないし」
「わかっている。……俺が責任を持って、一緒に働いてやる」
「責任感だけで押しかけられても迷惑よ。私も薬草園の魔女みたいに一生弟子はとらないで魔術業に精を出すから、ご心配なく」
「責任だけじゃない。魔女でさえ、ハティを家族に迎えただろう。だから」
「だから、どういう意味なの」
またしてもライナスは黙りこみ、アーレインがつめよった。
バートラムと旧知の仲である御者だけが、バートラムから気性をよく聞き知っているライナスの言わんとしていることを汲み取って、御者台でひとり笑いを噛み殺していた。
そこへ戻ってきたリンコレッタたちが乗りこんでいっそうにぎやかになり、鞭の音も軽やかに、馬車は走り出した。
― 幕 ―