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文字数 6,441文字

 アーレインは、ほう――と満ち足りた息をついた。城館の書庫は、彼女がどれほど求めても手に入らないと思われた貴重な書物を、惜しげもなくその眼前にさらしていた。歴史書、魔術書、金の箔で飾られた聖典。
 ライナスは、いつ燃え上がるとも知れない危険な熾火を胸の内に抱えてはいるものの、リンコレッタにとっては良い兄分であり、学もあり、振る舞いは洗練されている。世が世ならばアーレインがまみえることもかなわない貴公子に違いない若者であると、日々顔を合わせるうちにまもなく知れた。さらにそのライナスが、この書庫の利用を許可したことから、アーレインの中で評価は跳ね上がっていた。
 アーレインが辺境伯の城館に連れ去られてからというもの、じきにひと月がたとうとしている。
 復讐に協力すると明言したつもりはない。王侯貴族の権力争いには微塵も興味などないし、脅されてしかたなく協力せねばならぬほどの脅威もなかった。凶悪な例えを出していたライナスだが、まじない師を屈服させるのは、魔術師を連れてでも来ないかぎり笊で水を救うより難しいものだ。
 それでも、アーレインがずっと探してきた魔女の薬草園を、現皇王――かつての王弟バイスンが求めていたという符号が、彼女をヘーデン伯城館に引き止めていた。
 ――皇王に近づけば、薬草園の場所が……ハティの居場所が、わかるかもしれない。
 アーレインが書庫から戻ると、アイルとリンコレッタがテーブルをはさんでカード遊戯に興じていた。アーレインの部屋に二人が押しかけてくるのはいつものことで、見慣れた光景とも言えた。
 遊戯盤の場に出されているのは宝石で飾られた絵札で、赤がリンコレッタ、黒がアイル。戦況はふくれっ面を見るまでもなく、リンコレッタが劣勢だ。
「せっかく戦車のカードが場にあるのに、いらない札まで後生大事にとっておこうとするから、なかなか役が完成しないんだよ。ほら、何か捨てないと」
 見かねてアイルが助言すると、リンコレッタの機嫌はますます悪くなった。
「わかってるわよ。今からそうしようと思ってたところなの!」
 彼女は叫んで乱暴に札を捨てた。美しい星が刻まれた絵札の角がぶつかり、遊戯盤に白い傷を残した。
「いや、それじゃなくって。ほかにあるはずだろう?」
 アイルが手を伸ばして修正しようとしたのを止めて、リンコレッタは金の巻き毛をかきむしった。
「ああもう、降参よ降参! アイルが強すぎるのがいけないの。面白くない」
「リンコレッタは短気すぎるんだよ。それにめんどくさがって、弱い札を捨てるのを後回しにするし」
「わたくしはふつうよ。アイルが戦略に凝りすぎるだけ。ねえ、アーレインもそう思わない?」
 聞かれても、ゲーム初心者のアーレインには答えられなかった。
 遊戯盤にカード、ダイスなどは、アーレインにとって遊ぶというよりも、仕事で占いの道具として用いることが多いのだ。遊び方がわかる程度にはたしなんでいるものの、誰かと白熱して楽しむ機会はこれまでほとんどなかった。
「そうだ! ねえアーレイン、わたくしと勝負してちょうだい。ゲームをやっても勝つのはいっつもアイルばかりでつまらないの。ルールは知っていて?」
「たしなむ程度にはね。でも普段はゲームのために使うのではないし、まともな対戦経験はないに等しいから、弱いけれど」
「ゲーム以外に遊戯盤とカードで何をするというの」
 不思議そうに目を丸くしたリンコレッタがあまりにも子どもっぽかったのでアーレインはふきだした。
「占いよ。あとは失せ物探し。人を探したり、落とし物を見つけたり……遊戯盤を地図に見たてて、ダウジングのまねごとができるの。あとはざっくりと運勢を見るだとか」
「わたくしがゲームに勝ったら、わたくしの運命の相手を占ってちょうだい。国のどこに運命の人がいるか、探すことはできるのでしょう?」
「おおざっぱだけど、それでもいいの?」
 ハーティスの居場所を何度占ってもヘーデン領のどこか、としかわからなかったので、今回もその程度の精度でしか結果は出ないだろうが。
「それでかまわないわ。早く勝負しましょう」
 少女たちは向かいあって座り、アイルが審判をかって出た。
 持ち札の色はアーレインが黒、リンコレッタが赤。それぞれ絵札は女神と皇王が各一枚、魔女と戦車、魔術師が二枚ずつ、星が十枚、種子が十枚の計二十八枚ある。もっとも強い札は女神で、次が魔女。皇王、戦車、魔術師、星、種子の順に弱くなる。順番に新しい札を引き、あるいは捨て、あるいは機を待ち、より早く、より強い役を完成させたほうが勝ちとなる。女神は最強の札だが役の組み合わせが限られ、一方魔術師は一枚では弱い札だが、二枚そろった場合は皇王の入った役に勝る。
 リンコレッタは腕まくりをして白い細腕をさらしながら宣言した。
「わたくしが良い軍師だということを、アイルにわからせてみせるわ」
 アーレインは序盤で気がついた。戦略どころではなく、言葉を選ばずに言えば、リンコレッタは下手なのだ。
 そこでアーレインは気づかれない程度にわざと手をぬいて、負けてやった。リンコレッタは嬉々として飛び上がったが、目配せしてきたアイルは苦笑していた。手心を加えたことを見抜かれたのかも知れない。
 そのとき、敲き金が扉を打った。
「どうぞ」
 機嫌を直したリンコレッタが急かすので、遊戯盤とカードを占いの形式に並べながらアーレインは応えた。
「失礼します」
 白っぽい髪と鷲鼻が印象的な老執事――バートラムが入室し、丁寧に身体を折り曲げて礼をした。彼は額に刻まれた皺の深さからそれなりの年齢であろうと見てとれるのに、背筋は常にぴんと伸び、声は耳に心地よい低さで歯切れがよい。
 バートラムはリンコレッタとアイルの上にそれぞれ視線をとめて目を細めた。
「お嬢様と坊っちゃんもおいででしたか」
「別にかまわないでしょう? 何の用なの、バートラム」
「おそれながらわたくしは、お嬢様にではなく、アーレイン殿へ用をおおせつかってきたのでございます」
「私?」
 アーレインが顔を上げるとバートラムがうなずいた。
「ヒュルストー様がお呼びでございます。南塔のお部屋までお越しくださいませ」
「今すぐ?」
「今すぐにございます」
 リンコレッタは不満をあらわにした。
「だめよ。アーレインにはこれからわたくしとの約束を果たす義務があるんですもの。恋占いをするの。ヒュルストー様の用事は、あとでだっていいじゃない」
「しかし、こちらも急を要します」
「だったらヒュルストー様がこちらにおいでになればいいのではなくって?」
「さすがに、南の塔からお出になるわけには」
「じゃあ待ちなさいって伝えてちょうだい」
 さらに言いつのりそうなリンコレッタをなだめて、アーレインは老執事を見返した。
「何の用件なんです?」
「首都への出立のご準備と、アルソレイムで催される宴についてのお話でございます」
 リンコレッタは、ヒュルストーが――ライナスが、幼い時分に経験した壮絶な事件を知らない。バイスンによって誇りにしていた父を、家族を失い、都を追われ、命からがらここまでたどり着いた過去を知らない。
 だからリンコレッタは近く首都イリューシオンに向けて発つのを、単純に王太子ルバートの妃を選ぶという華やかな宴に参加するためだと思っている。都住まいの大貴族の令嬢が大勢着飾って居並ぶのだから、辺境伯の孫娘など第一妃に選ばれるはずなどないとわかりきっているけれども、年頃の若い娘であるリンコレッタは、贅をつくしたアルソレイム宮殿の宴に出られるというだけでうれしいのだ。アーレインの恋占いよりも確実に、きらびやかな宮殿のパーティは胸をときめかせてくれるだろう。
「それなら、仕方がないわね」
 リンコレッタがいつになくあっさりとあきらめたのも、宴が楽しみだからに違いない。
「いつも言ってるのに。僕は宮殿のパーティに出るだなんて反対だって」
 鼻歌まで歌い出したリンコレッタを、アイルはしかめ面で見やった。
「どうしてよ。とても素晴らしいことじゃなくて?」
「リンコレッタが万一見初められたりしたらどうするんだよ」
「見初め……って、そのときはそのときよ!」
 彼らのにぎやかな応酬はそのままに、アーレインはバートラムに続いて部屋を出た。
「仲がいいわね、あの子たち」
「ええ。微笑ましい限りでございます」
 アーレインは護身術をバートラムに習っていた。どんな歴史書を読んでも、宮殿の美しさと物騒さは同じ割合で描かれている。アルソレイムに同行するならば、たとえ付け焼刃であっても自分の身はある程度守れるようにならなくてはと考えたアーレインだった。
 バートラムは良い先生だった。教えかたは的確で、ていねいであり、大きな手のひらはゆるぎない。
 彼女を気絶せしめた手だが、アーレインはその無骨な手が嫌いではなかった。節々の目立つ筋張った手は、もともと相手を傷めつけるものではなく、守るためのものだ。
 バートラムが先導しないときもアーレインは勝手に開錠して訪ねるが、今は正式な鍵によって扉が開けられるのをおとなしく待った。
「アーレイン殿をお連れいたしました」
 そこは相変わらず、部屋の主が好むコーヒーの香りがただよっていた。
 ライナスは安楽椅子に腰かけて、スエードの長靴(ちょうか)に包まれた長い足を組んでいる。彼はテーブルの上を見つめ、視線を上げないまま片手をひらりと振った。
「ご苦労だった。戻っていいぞ」
 バートラムは「はっ」と小さく応じて去っていった。
「何を見ているの?」
 ライナスに手招きされたアーレインは、銀のカップが用意された席に腰を下ろした。漆黒の水面からくゆる香気を吸い込み、テーブルに広げられたものを見る。それは巨大な建物内部の図面で、ライナスの手によってそこかしこに書きこみがなされていた。
「アルソレイム宮殿の内部地図だ」
「宮殿の?」
「バートラムに手に入れてもらった。皇王暗殺計画には必要だろう?」
「…………」
 街ではないかと思われるほどに広大な宮殿は、ダンスホールにたどり着くだけでも骨が折れそうだ。いったいプローチにはいくつの門があるのだろう? 部屋数は? 扉も幾重にもめぐらされていて、図面を眺めているだけでアーレインは軽いめまいを覚えた。
「中央のホールで宴は行われる。宴の中心は舞踏会だ。ダンスホールの両脇のこの部屋には長テーブルがいくつも並べられて、自由に飲み食いをしていい。だが皇王や王太子は、フロアの一番奥の数段高くなった位置にいる。王族の食事は一般客とは別で、長テーブルではなく玉座の脇のボードに用意される。ボードにのる前に何回か毒見されているから、ここに給仕された料理は皇王が直接口にする。気づかれないようにその料理に毒を盛ることができれば、九割近く成功したと見ていいだろう」
「毒殺?」
「願わくばこの手で斬り伏せたいが――それでは近衛に邪魔されて何もできずに終わるのが落ちだ」
「本当に……やるの?」
 額を押さえてライナスをうかがうと、厳しく鋭い彼の視線に射ぬかれた。琥珀の瞳に火の粉が散って見える。
「俺は復讐するにふさわしいだけの苦しみと憎しみを知ったし、バイスンは復讐されるにふさわしいだけのことをした」
「だけど、父親を殺されたからってライナスも同じことをしかえしたら、今度ライナスと同じように苦しむのは王太子よ。彼は政変のときはまだあんたよりも小さい子供で、何の罪も咎もないでしょう?」
「殺されたのが、俺の父親だけではないとしたら?」
「……え」
「不運が重なったのではない。事故でなく、気がふれたのでもなく、母も兄も兄の夫人も家の使用人も……俺の近しいものすべてがバイスンによって殺されたのだとしたら?」
 アーレインは目を見開いたまま、息をのんだ。
「そうだった、の?」
「調べたんだ。資料は極秘裏にバートラムに集めてもらった。昔取った杵柄と言っていたな、用心棒ギルドの情報網は伊達ではないらしい」
 紐でつづった厚い文書を、彼は地図の上に置いた。
「六つのときまで俺が住んでいたイリューシオンの屋敷は、父の刑が執行される前に気のふれた使用人が火をつけて母も乳母も死んだことになっているが、それは城兵の証言だ。当時の屋敷の住人は俺をのぞいてみんな死んでしまったのだから、その証言は鵜呑みにされた。だが実際は――バイスンの命令で城の人間が火を放って家ごと焼いたんだ。濡れ衣があばかれることや復讐をおそれたんだろうな。兄夫妻だって、馬車の事故に見せかけて殺された。手引きをした一人が、教会で懺悔したのを確認したんだ。これはもう、復讐しろというヒーリア神のお告げだろう?」
 アーレインは自信を抱きしめるようにして、冷たくなった両腕をさすった。
 なぜそれほどまでのことをして、バイスンは皇王の冠と、薬草園を求めたのだろう? 薬草園の薬草と術で不老不死を得たかったから? 
「……それでも、私は」
 アーレインは両手でカップを包み、涸れた声でつぶやいた。
「ライナスに同情はできても、同調はできないわ」
 ライナスは動かなかった。聞こえなかったのかもしれない。
 脳裏に幼いハーティスの顔が思い浮かんだ。彼は今も、ニレの杖を持ち黒い長衣をまとった金髪の薬草園の魔女とともにいるのだろうか。


 首都イリューシオンに出立する日の明朝。使用人たちが起き出すよりも先に、一同は門の前へと集っていた。
 事情を知らない従者はいっさいつけずに、同行するのはバートラムが太鼓判を押した御者のみ。見送りは執事一人だけ。アイルは考えこむような面持ちをし、リンコレッタははしゃいでいた。これから十日ばかりの旅路となる。
 辺境伯はフォンティーナへと発っていた。城館はすでに彼の孫娘リンコレッタのもので、管理はすべてバートラムに任せることとなる。
 アーレインはバートラムとかたく握手をし、「いってきます」と挨拶した。
「ヒュルストー様を、よろしくお頼み申します」
 アーレインは、自分の願いもこめてうなずいた。そこですばやくバートラムはかがみこんで、彼女の耳にささやいた。
「ライナス様は無茶をしやすいお方です。復讐さえできればご自分のお命はどうなっても良いと思っていらっしゃる部分があるのかもしれません。どうか、少しでも守ってさしあげてください」
「わかっています。だから、でき得る限りは」
 アーレインは答えた。
 次にバートラムは、ライナスと向き合い深々と礼をした。
「いってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
「ああ。行ってくる」
 ライナスの返事は、とても長旅に出発するとは思えない淡白さだった。
 バートラムは口元をややゆがめて、眉間に皺を寄せた。そして再び深く頭を下げた。
「……お気をつけて。何卒おそろいでお戻りくださいませ。このお館は、貴い血の方々をあずかるためにあったようなものかもしれないと、ときどき実に思うのでございます」
「貴い血なんて、ありはしないさ」
 ライナスは馬車に乗るようアーレインをうながして、つぶやくように言った。
「血に貴いか卑しいかなんてない。生温かくて生臭い赤い液体にすぎないのだから。俺たちが振りまわされたのは血によってではない。ただそのとき、その場所に生まれて生きていたから――それだけだ。俺も、屋敷の者たちも、アイランリットも」
 最後にライナスが乗りこんで、馬車はイリューシオンに向けて走り出した。アーレインが窓から顔を出してふり返ると、ずいぶんと遠ざかったというのに、まだバートラムが美しい見本のような姿勢で深く頭を下げ続けていた。
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