20、

文字数 3,657文字

 排水路の格子をはずし、ハティは薄い肩をねじこんだ。
 昨年まではもっと簡単だった。いまや横の幅はハティの肩幅ぎりぎりで、食料調達用の籠を腹の前にひとつかかえて通るのが限界だった。
 ――レオギン、レオギン、レオギン……! 
 時間が惜しくて、ハティは肩が壁をこすらないように横歩きに進んだ。気が急いて頭や膝をぶつけながら、彼は通路から這い出した。
 大きく息をついたとき、
「何度も言っているように、無理はどうしたって無理だ」
 聞こえた声に、跳ねるように立ち上がった。怒りに震えた、レオギンの声だった。
「死者をよみがえらせる薬草など存在しない。あったならば、ヒーリア神が弟神をよみがえらせているさ。神にだってできなかったことが、魔女ふぜいにできるはずなかろう?」
「妃は死んでなどいない!」
「死んでいる。まったく腐敗せずにいるから、美しいままで眠っているように見えるのも無理はないが」
 レオギンの声音はどこまでも冷静で、冷たく澄んでいた。ハティはそろそろと近づいて、物陰から様子をうかがった。
 薬草園に――若緑に濃緑、萌黄に深緑、そして花の色が美しい庭園には、レオギンのほかに二人の男がいた。ひとりは麦藁色の髪の若い男。傷を負ったのか、うずくまっている。
 もうひとりは、片腕に若くたおやかな女性を抱え、疲れた顔をした黒鋼(くろがね)色の男。もとは美男子だったのかもしれない。だが、今は両頬がこけ、目はくぼみ、全身から危うげな、ただならぬ気配を立ちのぼらせている。
 再びレオギンの声が響いた。
「バイスン。おそらくおまえは、国中から魔術師や導師を集めて皇王妃をよみがえらせようと躍起になったのだろう。だが、どんなにすばらしい腕を持ち合わせた者だって、死者をよみがえらせるのは不可能だ。眠るように死んだその時のままに姿を留めおくだけでせいいっぱいだったんだろう」
「だから妃はまだ死んでなどいない! 病に冒されているだけだ!」
「鼓動も体温もないのにか?」
「魔女よ! 貴様こそ薬草園の薬草によって、いつわりの血と肉で不老不死を得ているではないか。それなのになぜ、どうして妃の病を治せないのだ」
「おまえたちが考えている不老不死と、私に降りかかった不老不死では、まったく違う。現実を見るがいい」
「不老不死に種類も何もあるものか!」
 ハティは井戸の石囲いをまたいで、モルタルの壁に身をひそめた。レオギンの髪が太陽に照らされて、オレンジ色に燃えて見えた。
「……たしかに、私は老いることがない」
 彼女はぽつりと、独り言のようにつぶやいた。
「そして、病気になることもなく、胸を貫かれたって死ぬことはない。私の血肉は草木でできているから、薬草をあてがったり、挿し木したりすれば、元通りに癒える。そのような点では不死と言えるんだろう」
 彼女の右腕に巻かれた布には、まだ緑色の血液が染みていて痛々しかった。薬草園の木の枝を挿したのだろうが、傷口はふさがっていないようだ。
「――だが私は、老いも死にもしない代わりに“消滅”する」
 レオギンはこともなげに言ってのけた。
 その言葉にもっとも戦慄したのは、妃を抱いた皇王ではなく、ハティのほうだった。
「私は先代の魔女によって、老婆の姿で作り出された。墓守の魔女として魔術の力と知恵とを持ち合わせるには、老婆が一番適していたんだ。思うに、先代も先々代によって同じようにして作られたのだろう。――とはいえ、老婆として生を受けては、そのままでは先が短いことはわかりきっている。だから千年以上も前に、不老不死の身体を作る技法が完成されていた。特殊な草の毒を混ぜることで、老いて死ぬ代わりに年ごとに若返り、このような小娘になり、しまいには赤ん坊になり、胎児になり、消滅させる身体にするという技法がな」
 悲鳴を上げたがる口を、ハティは自分の手のひらで押さえこんだ。信じたくない、信じたくない――だが、レオギンがその場逃れの嘘ではなく真実を告げているということもまた、ハティにはわかっていた。
「文字にすれば、たしかに不老不死だ。しかしこのわざは、人が手にして良いものではない」
 彼女は言った。
「幸せではないだろう? あと何年であとかたもなく消滅するとわかっている人生など」
 ハティはわなないた。恐ろしさや悲しみからではなく、レオギンの十二祝いをしようと言ってしまった自分に対する怒りのためだ。あの日の自分が許せなかった。
 ――彼女にとっては、あと十二年しか生きられないという宣告にひとしいのに。
「魔女よ、今の話を虚言と評しはしない。だが、自分の後代の魔女を作り出せるほどの力があらば、私の妃の病を治すことなど造作もないはず。私は、薬草園の魔女ならば妃の病を治せると信じて、弟子となり薬草園に妃を連れてくるそのためだけに、皇王だった兄やその息子たちまでを手かけて、皇王位についたのだ!」
「もう一度だけ言おう」
 レオギンは温度のない緑の双眸でバイスンを見つめた。
「皇王妃が瀕死であったなら、私でもどうにかできただろう。しかし、死んでいるんだ。皇王妃のその若さから見て、おまえが兄を弑した十五年前にはすでに、この世の者ではなくなっていたに違いない」
「妃は生きている! 病であるだけだ!」
「それはおまえの望みだろう。現実ではない」
 途端、獣じみた咆哮がバイスンの喉からほとばしった。
 妃の身体がくたりと崩れ落ち、バイスンの鞘から銀の閃光が走る。剣がすべり出るのと、レオギンの左手から炎が躍り上がるのと、モルタル壁からハティが飛び出すのと、すべてが同時だった。
「レオギン!」
 レオギンは振り返って目を見張り、自分をかばおうとするハティを突き飛ばした。もんどりうって転がりながらも跳ね起きたハーティスは、レオギンが鋼の切っ先を胸に受けたのを目の当たりにした。
 ぶちぶちと、草と枝々がちぎれて折れる嫌な音がした。炎が美しい薬草たちを撫でていき、においと煙が上がり始めた。
「……どうせ、あと十二年もすれば死ぬんだ」
 皇王は妃を胸にかき抱いて泣いていた。けれどもハティは、彼らにかまってなどいられなかった。
 レオギンが傷口の剣を引き抜いた。何かがせりあがってくる鈍い音がして、彼女は濁った緑の液体を吐き出さなければならなかった。
「レオギン、レオギン!」
「どうして戻ってきた? 都から、こんな早く戻ってこられるはずないだろうに」
「そういう問題じゃないよ!」
 ハティは、ふらつくレオギンを後ろから全身で受けとめて支えた。甘苦いにおいが鼻を突く。胸に開いた穴を、両手のひらで包みこみ、力いっぱい押さえた。
「家族が心配で飛んで帰ってきて、悪いことなんてないじゃないか」
「はは……そうか。家族だものな」
 彼女は力なく笑った。レオギンらしくなかった。
「だったら、私も家族のおまえを心配して助言しよう。逃げろ、ハティ。早く火がまわるように術をかけたから、急がないと、危ない」
「レオギンだって一緒に逃げるんだよ」
「私はもとより、私の代で薬草園を終わらせるつもりで、後代の魔女を作っていなかったんだ。奥地に行って、伝わる技法に手をつけようと試みたことも何度かあった……が、結局、作るには至らなかった。私は、最後の墓守だ。ここで逃げ出したら、ヒーリア神に顔向けできない」
「女神は、レオギンがこのまま死ぬことを望むようなひどい方じゃなでしょう!」
「ハティは会ったこともないくせに、よく言うなあ。……そうだとしても、私はどうせ、あと十二年もすれば死ぬんだよ」
「あと十二年も生きられるじゃないか!」
 たまらなくなってハティは叫んだ。
「そのあいだに、僕と同じように年をとっていける身体になる方法が見つかるかもしれない。それなのに、今あきらめてどうするんだよ。燃えちゃったら、いくらレオギンでも死んじゃうじゃないか!」
 レオギンが、どんな顔をして自分を見ているのか、ハティにはわからなかった。ぼろぼろと涙が湧いては流れ、視界は霞んでいた。喉がひりついて熱く、途中で声は裏返った。
 それでもハティはレオギンの手を握り、涙が流れるままの目で彼女を見つめ続けた。
「ここから出て、生きよう。そうすればきっと方法は見つけられるから。僕はレオギンがこのまま死ぬなんて、ぜったいに嫌だ」
 そこに、黒く大きな影が踊り入った。彼らの前で大きくいなないた――馬だ。
「スルスミ!」
 きっと、アーレインが“秘密の庭の鍵”で鉄門を開けたのだ。この優秀な使い魔は、門が開いたのを嗅ぎつけて、主の危機に駆けつけたのだ。
 ハティは濡れた顔を袖でふき、レオギンを馬の背にかつぎあげた。
「レオギン。一緒に、生きよう」
 レオギンを抱えるようにしてハティがたてがみにしがみつくと、スルスミは胴震いし、歓喜のいななきを上げた。
 ハティは腕の中で、小さな嗚咽を聞いた。
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