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文字数 3,206文字

 ライナスは一人、北の塔にある伯爵の私室を訪れていた。
 辺境伯に呼び出されたのは、たいそう久しぶりだった。ヘーデンにやってきたばかりの頃は女中頭とたびたび顔を出したものだが、やがて疎遠になっていた。
 それはおしゃべりな使用人たちの口に「都からやってきた少年」の話がのぼらないようにするためであり、ライナスと辺境伯の両方の命を守るためでもあった。
 甲斐あって数年もすると、ライナスの存在を知る者は伯爵に近しいごく一握りだけとなった。寄りつくのは弟妹のようなアイルとリンコレッタ、あとは、城館の執事でありながら剣のたしなみのあるバートラムが武術の稽古をつけるために訪れるのみだった。
 そのうえ辺境伯は体調を崩し、病がちになっていた。リンコレッタが庭園で花を摘んで見舞いに行くこともあるが、やつれていくさまを孫娘には見せたくないらしくやんわり断るので、彼女も頻繁には通えなかった。
 日差しは日に日に強くなり、夏の足音がすぐそばにまでせまっている。汗ばむ暑さは、伯爵の体力をじりじりと蝕みつつあった。
 夏来(きた)る――城館にアーレイン・メリッシがやってきてからというもの、じきにひと月が経過する。
 彼女の家族には、「城館がまじない師としての腕を見込んで任せている仕事があり、しばらく滞在させる」旨を書き送ってある。ディッセルベーンや近隣のフィリー、シュトロムの村から小間使いとして礼儀作法を習いに来る少女は少なくない――年若い娘を突然城館が雇うのは、何も不自然なことではなかった。それがまじない師という貴重な人材であれば、なおさらだ。
 このひと月近くというもの、リンコレッタとアイルは、ひっきりなしにアーレインにまとわりついていた。彼女に魔術を見せてくれるようせがんだり、遊戯盤と絵札を持ちこんで勝負を仕掛けたり。
 稽古事や勉強の時間に逃げ出してはアーレインの部屋に入り浸るので、見つけるたびに年かさの女中メリルが雷を落とさんばかりのいきおいで説教をはじめるのだった。もちろん、アーレインも説教のとばっちりを受けるのだ。
 ともに時間を過ごし一緒に説教を浴び、メリルの目を逃れるために扉に術を施したり、惑わしを巡らすなどしているうちに、どうやら打ち解けたらしい。ライナスが拍子抜けするほどに、このごろではくだけている三人なのだった。

 物思いから醒め、ライナスは敲き金を打った。
「ヒュルストー」
 しわがれた声が、彼のもうひとつの名を呼んだ。
「……いや、ライナス。よくきてくれた」
 ヘーデン辺境伯は紫のビロードが張られた安楽椅子にもたれていた。その姿はライナスのもっとも新しい記憶よりもはるかに痩せて、高い鼻と白いひげ、白い眉毛ばかりが目立つ。肌は木の皮色だった。鹿の角飾りがついた杖を握っているが、頼りなく小刻みに震えている。
 幼かったライナスがヒュルストーと名乗り、城館の門をくぐった時。くたびれた身なりの、埃っぽい灰色の髪をした少年の肩に愛娘シャルロッテの嫁ぎ先の家紋を見つけ、彼が娘婿の弟だと知れた際に、ライナスを抱きしめてくれた辺境伯の力強い腕の名残はどこにも見当たらなくなっていた。伯爵がリンコレッタを遠ざけるようになった気持ちが、少しだけわかるような気がした。
「お具合はいかがですか」
 辺境伯が力なく笑った。
「見てのとおりだ。悪くはないが、あまりよろしくない」
「医者には見せたのですか?」
「リンデルからわざわざ呼び寄せるほどのことでもあるまい」
「まじない師であれば、俺が一人抱えています。お貸しいたしましょうか?」
「まじない師、か」
 辺境伯は遠くを見るようにして目を細めた。
「また面白いものを。わざわざ危険を冒して拾いに行ったのか?」
「いいえ。あちらから関わってきたんです。クロナガヘビに噛まれて毒気にやられていた俺を介抱したのが、彼女でした。バートラムから報告は上がっていませんでしたか」
「いや……言われてみれば、聞いたような気がしないでもない。はは、年はとりたくないものだ」
 笑う声に、力はなかった。
「客人を迎えたとかいう話はあったな。それがまじない師か?」
「はい。まじない師といっても少女です、十七の。怖いもの知らずで、若いがなかなか良い腕前をしています」
「若い娘のまじない師とはめずらしい。会うのも一興かもしれないが、彼女のまじないや薬を頼みにすることはなさそうだ。――ライナス。私は、療養のためにここを離れることに決めたのだよ」
 今日呼んだのはこれを告げるためだったのだと、辺境伯は言った。
「ヘーデンの冬は厳しく、春もやや遅足だ。かといって夏がすごしやすいわけでもなし。穏やかなフォンティーナ南部に小さな城を先代が遺してくれていたのでな、そこでゆっくり過ごそうと思うのだ。この屋敷の管理はバートラムにまかせるとして、名義はリンコレッタに譲る。私は気候の良いところで暮らせるし、リンコレッタやおまえたちが生活に困ることもない。だから、おまえは私の身体を気遣うよりも自分を大切にしなさい。おまえはどこか、自分の命をどうでもいいように考えるところがあるからな」
「今はまだ死にませんよ」
 皇王に借りを返すまでは。つぶやくようにそう言ったライナスの言葉を、伯爵は聞き逃さなかった。
「……やはり、イリューシオンへ行くのか」
「ええ。王太子の妃を選ぶための宴です。全国からありとあらゆる貴族が訪れるために門戸は広く開かれます。これほどの機会は、めったにありません」
 伯爵は、ライナスが暗い憎しみの炎をくすぶらせていることを知っている。首都へ行くということが何を意味するか、伯爵が察していることを、ライナスも察していた。
「リンコレッタを、イリューシオンにつれていくのか」
 一瞬、ライナスは黙った。
「あの子を、危ない目にはあわせんでくれ」
「……承知しております」
 唇を噛み、ライナスはうつむいた。
「リンコレッタは、俺にとっても妹のようなものです。危険な目になど、あわせるつもりは毛頭ありません。むしろ彼女が、よき出会いをして幸せになってくれればと思っています」
「よき出会いとは……首都でか? 都貴族と一緒になって、幸せになれるとは限るまい」
 ライナスの兄と結婚した愛娘のことを言っているに違いなかった。ライナスは拳を握り締めた。
「出席するのは、都貴族だけではないでしょう。たとえばフォンティーナ侯のご子息なら、あなたも安心できるのでは? 男爵位を授かってフォンティーナ領内にいらっしゃるそうですから」
「あの子はおまえを慕っている。そして、アイルを好いておる」
 ライナスは目をそらす代わりに、閉じた。閉じていても、伯爵のまなざしが刺さるようだ。
「リンコレッタは、今までどおりに暮らすのが一番良い。それもわかってやってくれ」
「――大丈夫です。まじない師の力がありますから、危険な目には合わせません」
「まじない師もつれていくのか」
「手札は多いに越したことはありません」
「……命は、大切にすることだ」
 まぶたを開けると、辺境伯の長い眉に隠れかけた瞳は悲しげだった。
「この城に置いていただいた恩は忘れません」
 ライナスは貴族の作法にならった礼をとったあと、深々と頭を下げた。
「あなたも、お身体を大切に」
 きびすを返し、部屋を出ようとドアの部に手をかけたところで、伯爵が呼びかけた。
「“秘密の庭”の鍵は、今も持っているか?」
「塔の部屋にあります」
「庭のことは、アイルには?」
「何も言っていません。……アイルは、知らないほうがいいでしょう。知ればきっとつらい思いをします。俺と同じように」
 もう一度礼をし、ライナスは伯爵の部屋をあとにした。ドア越しに、伯爵の重たいため息が聞こえたような気がした。
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