21、

文字数 4,125文字

 ヘーデン城館の真四角にめぐった回廊には片側にしか部屋がなく、内側はすべて壁で絵画や花瓶が飾ってあったわけを、アーレインはようやく理解した。回廊の内側には“秘密の庭”――薬草園が隠されていたからなのだ。
 薬草園は四方を石壁に囲まれた遺跡で、その遺跡を守るため外周に城館が建てられていた。薬草園の部分は巨大な吹き抜けで、たしかに空が飛べたならば、出入りは容易だろう。
 空飛ぶ獅子と車は黄金の彫像のように動かずに、草むらで控えていた。アーレインが傍らを走りぬけても、視線すら動かさなかった。
「ライナス!」
 祈りながら走りまわり、ようやく、生い茂った草の中でうずくまっているライナスを見つけた。
「バイスンにやられたの?」
 左肩から血を流している。手当てのために彼の衣服を裂くと、シェルパーダ家の紋章の上から胸にかけて切りつけられているのだった。紋がぱっくりと割れている。胸の部分は少し浅いが、重い怪我だ。侮っては命だって危うくなる。
 上着を傷口にあてがい、袖を結びつけて応急処置をした。不老不死をかなえると言われる薬草園にいながら、傷をふさぐ薬草がわからないのが歯がゆくてたまらない。
 何か自分でもわかる薬草が見つからないものかとあたりを見わたした。すると、モルタル小屋の前に金髪の少女が立ち、若い女性を抱えた男――おそらくバイスンだろう――と対峙しているのが見てとれた。
 少女はハティと同じくらいの年頃だろう。獅子のたてがみのように豊かな金の髪といい黒の長衣といい、五年前にディッセルベーンの裏山で見た魔女と似通っている。記憶の中の魔女も若かったものの、大人に近い年齢だったような気がするのだが。
 不意に、ライナスのまぶたが揺れた。
「アーレイン……?」
「痛むでしょう。どうしてこうも無茶するの」
 起き上がろうとするのを押しとどめて、傷に巻いた上着を縛りなおした。ライナスが歯を食いしばり、顔をしかめた。
「俺の邪魔をしにきたのか」
「ライナスを助けに来たのよ」
 予想通り、彼は表情を歪めた。
「助けてくれなどと、一言も頼んでいない」
「知ってる。私が勝手に助けたいだけ。悪い?」
 悪いとも良いとも言わずに、ただ彼は歯噛みした。
「……バイスンは?」
 いつの間にかハティが魔女の少女に寄りそい、バイスンは膝をつき、動かないままの女性を抱えて慟哭していた。
「まだ、復讐を果たしたいと思う?」
「当然だ」
「私はしてほしくない」
「おまえの意見など聞いていない」
「今、ライナスがあそこにいるバイスンに切りかかろうとするなら、私は体を張ってでも止めるからね」
「どうして」
 ライナスはうらみがましくアーレインを見た。
「俺を止める権利なんて、おまえにはないだろう」
「傷に響くじゃないの」
「たとえ相討ちになったとしても、復讐が果たされれば父も俺も浮かばれる。傷に響くなぞ言っていられない」
「……あんた、馬鹿でしょう」
 飛び起きようとしたライナスを押さえつけて、アーレインはたたみかけた。
「公爵様のことを理由にしないで。亡くなった公爵様は、あんたが自身を粗末にして復讐を果たすことなんて望んでいない」
「おまえが父上を知ったように言うな!」
「ええ知らないわよ。私は田舎娘だから公爵様にお会いしたことなんてないもの。でも、ライナス。例えばあんたが殺されたとして、その復讐をリンコレッタが果たそうとしたら、リンコレッタに命をかけてまでしてやりとげてほしいと思う?」
 薬草の繁みに、赤い炎の舌がちらついた。ついに、魔女が火を放ったのだろう。つんとした臭いが鼻を突き、目にしみた。
 アーレインは口をつぐんだままのライナスを残し、泣き崩れるバイスンに近づいた。彼が抱えている女性は、絹の夜着を着て、力なく四肢を投げ出している。死んでいるのだ。
 市場で出会った娘が話してくれた「シェルパーダ公の呪い」が思い出された。しかしそのうら若い容貌から見て、シェルパーダ公の事件以前に、すでに亡き人となっていたのだろう――魔術師や導師の力によって、その姿を生前のままにとどめていただけで。

 バイスンに声をかけようとして、アーレインは鞘走りの音を聞いた。
 振り返ると、銀の刃が頭上で閃いていた。
 ハーティスを助けようとして城兵に斬りかかられたときの記憶が重なって見えた。
 あのときは、ライナスがその剣を弾いてくれたのだ。
 だが今は、剣を振りかぶっているその人こそが、ライナスだった。

 
 両腕を広げてバイスン夫妻をかばったアーレインの左肩に、焼けつく痛みが走った。炎が線を描くように、凶悪な熱は胸まで下りた。
 振り抜かれた切っ先と、飛び散る赤いしぶきを、アーレインはぼうとながめた。自分の血であるはずなのに、一等の色石よりもきれいに見えた。
 その赤い色石を吐き出す傷口を、ライナスが信じられないものを見る目で見つめていた。
「――この人のために不幸になったのに、これ以上不幸になってどうするの」
 傷はごうごうと熱いのに、口から出た声は、自分でも驚くほどに静かだった。
「ここでこの人を殺めたら、ライナスはもっと不幸になる。不幸になって、不幸なまま死ぬの? どうして殺された大切な人たちの分まで生きようと思わないの」


 懐かしい母の声が遠く響いた。
 ――いきなさい。生きなさい。
 生きなさいと言って、ライナスを一人残して死んでしまった。
 だからライナスは無念を背負い、復讐を果たすために生きてきた。
 それなのに、アーレインは違う生きかたをしろなどと言う。ライナスが負わせた傷から血を流しながらもなお、恨むどころか、憎しみを吐くどころか、アーレインは彼に手を差し伸べている。
「生きよう」
 微笑みとともに、腕が伸ばされる。
「一緒に、生きよう」
 その手に、その瞳に、今までに見たことのないまぶしさを見て。
 ライナスは光を求めるように、みずからの手を伸ばそうとした――伸ばそうと、した。
 彼女の身体が傾いだ。ひときわ強く血が噴き出した。赤いしぶきがほとばしり、激しい雨のように二人に降り注いだ。
 倒れ込んだアーレインを受け止めて、ライナスは怒鳴った。
「馬鹿はおまえだろう!」
 周囲の空気が熱を帯びてかげろうとなり、揺らぎはじめる。魔術の炎は次々と草木を飲みこみ、いぶし、黒く焦がし、白い灰を舞い上がらせている。
「ここでおまえが死にそうになってどうする!」
 腕からこぼれた彼女の黒髪が、熱せられてちりちりと縮れた。
 母に生きなさいと言われたことはあった。バートラムには、生きるには武術も必要ですと言われた。だが、「一緒に生きよう」と言われたのははじめてだった。
「おまえが生きようと言ったんだろう! 俺におまえを殺させるな、アーレイン!」
 みるみる血を失うアーレインにライナスは青ざめた。バイスンを斬るつもりでいたから、手加減などしていなかった。
 傷は深い。このままでは助からない。
 遠慮のなかった緑褐色の瞳は閉ざされて、よくまわる口も何も言わなかった。あらゆる布地で傷口をおさえたが、ただ赤く染まるばかりで、出血は止まりそうもない。
「目を開けるんだ。開けてくれ」
 彼の指も手のひらも赤く濡れた。仮面のように白くなった顔が、あまりに彼女らしくなくて嫌だった。流れ出る血は熱いのに、アーレインの身体はますます冷たくなるばかりだ。首筋にふれると、脈は弱々しかった。いつ止まってしまうとも知れないほどに。
「アーレイン!」
 だらりと垂れた手足はまるで人形だ。バイスンが抱きかかえていた妃の影が彼女に重なった気がして、ライナスはあわてて振りはらった。
 死なせたくない、死なせたくない。けれども血は、確実に大地に吸いとられてゆく。裂けた肩から胸からあふれてこぼれた赤は、炎とともに草々を染めた。 
「アーレイン!」
 もう一度、その名前を呼んだとき。
 大きな獣のひづめが、間近の大地を打った。黒馬だ。馬だが、馬にしてはいやに大きかった。
 馬上の少年は腕に魔女をかかえて、ライナスの腕の中のアーレインを見つめていた。
「姉さん!」
 ――これが、アーレインが探していると言った弟か。
 髪の色も瞳の色も違っていたが、唯一、強い目もとだけはそっくりだ。
 少年はアーレインのひどいありさまに目を見張り、馬から飛び降りようとした。しかし、それを魔女が止めた。
「大丈夫だ」
「大丈夫なわけないじゃないか!」
 少年がライナスの気持ちそのままに叫んだ。
 赤く目を腫らした魔女は長い袖をまくり、不格好な腕に巻かれた包帯をほどいた。包帯の中身は肌ではなく、どろりと緑色の液体がまとわりついた木の枝で、その木の枝を魔女はためらいなくひきぬいた。緑の液体がぼたぼたとしたたり落ちた。
「その娘の傷を、こちらに見せろ」
 アーレインの弟が、従うようにとライナスをうながした。
 ライナスは悪魔を信じるような気持ちで、アーレインの身体を魔女のもとに近づけた。魔女は半ばちぎれている右腕を振って、アーレインの傷の上に緑の雨をそそいだ。それはライナスの肩にもかかった。彼はたちまち傷が癒えてゆくのを感じた。
「薬草園の魔女の血だ。ありがたく思え」
 魔女は微笑んで、黒馬は地を蹴った。少年は姉の具合を見ようと振り返ったようだったが、たちまちその影も遠ざかっていった。
「薬草園の、魔女……」
 ライナスは早くも肩が動くようになったことに驚いた。アーレインの傷もふさがっていた。
 それでも顔はまだ蝋のように白く、目を覚ます気配のないアーレインを抱きかかえて、彼は黄金の獅子の車に乗った。
 十五年前、バイスンが“薬草園の魔女”を求めたために父は断頭台にのぼり、母は屋敷ごと焼かれ、兄は事故に見せかけて殺された。
 だが、アーレインの命を救ったのもまた、薬草園の魔女だった。
 黄金の獅子は二頭そろって走り出した。紅に燃える薬草園を後に、ライナスとアーレインを乗せた車は青い空へと翔けのぼっていった。
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