3、

文字数 2,655文字

 ハーティスは呆れて物も言えなかった。
 何なのだ、この部屋の汚さは。
 彼が食事を用意しにいっているあいだに、いったい何をどうしたら、ここまで汚すことができるのだろう? 部屋の主の散らかし癖は熟知しているつもりだったが、これは新記録だ。
 床に山と積み上がった本、鷲ペンで少し書いてはくしゃくしゃに丸められ、投げ捨てられた紙。丁寧に束ねて保管しなければならないはずの薬草は散らばり、食べかけのリンゴが干からびて硬くなっている(リンゴは以前からだが)。
 ニレの木の杖は無造作に転がっており、それをくちばしでつついているのは使い魔カラスのスルスミだ。スルスミとしては、つついて遊んでいるというよりも、止まり木変わりの杖が倒れているので立てなおそうと必死なのだが、その努力は報われそうにもない。
 散らかった本やら紙くずやらに埋もれるようにして、ハティと同じ年頃に見える少女があぐらをかいているのだった。黒ずくめの服をまとい、オレンジがかった金の髪は獅子のたてがみのようにふさふさと広がっている。美しい少女なのだが、長衣をだらしなく着て床に座りこんでいるその背中は、貧民街の子どもとたいして変わらないようにも思えてしまう。
「いい加減にしようよ、レオギン。片付けるのは僕なんだよ? もうちょっと考えて散らかそうよ」
「どうせ片付けるのはハティなんだから、私がどう散らかそうと、私には何の問題もないじゃないか」
 金髪を肩に払い、彼女は顔を上げた。スープ皿を載せた盆を両手で捧げ持ったまま、ハティは大きく嘆息した。
 ――への字口のくせにかわいいだなんて、どうかしてる。
 ハティはひとまず盆をストゥールに置き、机の上を片づけることにした。インク瓶に蓋をし、新旧混ぜられてしまっている鷲ペンを分けて芯がくたびれているものを捨てた。ニレの杖を壁際に立てかけると、スルスミが喜んで羽ばたいた。
 達筆で何やら記されている紙束をひとまとめにすると、ようやく一人が食事をできるだけの空間ができた。
「お昼にしよう、レオギン。スープが冷めてしまうよ」
 ハティはレオギンのために机の上に皿とスプーンを並べ、自分は盆ごと膝にかかえて床で食べることにした。芽キャベツとジャガイモのスープは少し塩辛かったが、誤差の範囲内だ。
 レオギンは読んでいた本のページにしおりをはさみ、のそのそと立ち上がった。黒い長衣の裾は、埃で白っぽく汚れてしまっている。彼女はそれを気にしないばかりか気づいてさえいない様子で裾を引きずり、さらに綿埃をくっつけながらストゥールに座った。
 ハティの知るかぎり、彼女は五年前からずっと同じ長衣を着続けている。レオギンの身長は、年々縮んでゆくばかりなのだから、そろそろ長衣の裾を折るなり切るなりしなければならないと思うのに、当人はてんで無頓着なのだ。
「何を調べていたの?」
 ハティがたずねると、レオギンがたずね返した。
「ハティはこの春、十二祝いだったよな?」
「え……ううん。去年のはずだったけど? 今はもう十三」
「なんだ、もう過ぎてしまったのか。昨年言えばよかったのに」
 そういえば、五年前にハティがはじめてここにやってきた頃も十二祝いの季節だった。
 姉が祭日のための新しい晴れ着に有頂天になって、得意げにくるくるとまわっていたのを思い出す。「金髪だったらよかったのに」とハティが言うと、姉は憤然と怒り出したのだ。真っ赤になって怒る姉の姿が思い浮かび、ふっと笑うと、レオギンは妙な顔をした。
「どうしたんだ?」
「何でもないよ。ただ、ちょっと昔のことを思い出していただけ」
 レオギンは首をかしげ、食べかけのスープに視線を戻した。
 塩気が多いわりにベーコンが少ない。ジャガイモに味がしみていない。文句を一言二言つぶやいて、再びスプーンを動かした。
「十二祝いの祭日に、祝い菓子を作ってやろうと思ったんだ」
 そして芽キャベツを含んだままだしぬけに言うものだから、ハティは聞きとれずにレオギンを見返した。
「なんだって?」
「ハティに、祝い菓子を作ってやろうと思ったと言ったんだ」
 レオギンは繰り返した。
 とたん、よく噛まずに飲みこんだ芽キャベツがつまったのか、眉をしかめて喉元をたたく。ハティが水差しを差し出すと、レオギンは水差しに口をつけてのみ干した。苦い丸薬を無理やり飲まされたときのように舌をつき出し、げっぷしたのを見て、スルスミが面白そうに声を立てて笑った。
「やかましい」
 レオギンは腹立たしげににらみつけ、たちまちカラスはトカゲに姿を変えられて、ぽとりと床に墜落した。真っ黒なトカゲは目をむいて、走り去っていった。
「えっと……祝い菓子って?」
 食べ終えたハティは食器を洗い場に運びながら、おずおずと訊いた。
「知らないのか? 十二祝いの祭日に、星のめぐりがひとまわりする十二年のあいだ生きていられたことを祝って食べるお菓子だ。薄い生地を揚げて、粉砂糖をたっぷりとかけるんだ。十二祝いの日ではなかったが、私も食べたことがある」
「その祝い菓子が何だって言うの?」
「祝い菓子をハティのために作ってやろうと思ったんだと言ったじゃないか。だから、分量や作り方の資料を探そうとして、こんなにも部屋が散らかってしまったんだ」
 彼女はあごで部屋の惨状を示した。
 お菓子の作り方ひとつ探すために、どうしてここまで散らかってしまうのだろう――ハティには理解しがたかったが、それでも、わざわざ祝い菓子を作ろうとしてくれた彼女の気持ちはとてもうれしかった。
「魔女でもそういうお祝いを気にするんだね。ちょっと意外だった」
「意外とは何だ。ヒーリア神じきじきのしもべたる薬草園の魔女が祭日を祝わなくて、いったい誰が祝うんだ」
 ハティが洗った皿を受け取ってぬぐいつつ、レオギンは彼を横目でにらんだ。
「だというのに、十二祝いが昨年だったとは! ハティがきちんと言いさえすれば、私の労力は無駄にならなかったのに」
 そのようなレオギンの物言いに、ハティはとっくに慣れっこになっていた。
「無駄じゃないよ。レオギンもそろそろ十二歳くらいでしょう? だったら、今年だっていいじゃない。僕と一緒にやろうよ、十二祝い」
 ハティの申し出は無邪気なものだったが、レオギンはかぶりを振った。彼女にしてみれば、それは残酷な申し出でもあったのだ。
 レオギンは答えずに、くちびるの端だけで笑ってみせた。
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