序章、五年前 

文字数 2,353文字

「どう? 似合っているでしょう?」
 アーレインは気分がよかった。十二年生きてきた中で、最高の日だと思った。あこがれの晴れ着を着ているうえに、彼女のためのとっておきのように、気持ちのよい快晴だったのだから。
 濃い青空の、暖かい日だった。ヘーデン地方の春の訪れは、首都や中心領に比べると遅れがちだが、今年もようやくヘーデンの大地に腰を下ろしたようだ。
 なだらかな山の斜面に陽光があたり、芝生が上等の絨毯のようにふかふかになっている。どこまでもヒバリが飛んで行けそうに澄んだ空気は明るく、風もおだやかで、ミツバチが威勢よく羽音をたてレンゲ畑と巣とを行き来していた。
 十二祝いの祭日のために買ってもらった花模様織りのスカートをはいて、アーレインは満面の笑顔だった。ブラウスは真っ白。腰の後ろで蝶結びした帯は、薄紅の草木染め。
 どこぞのお姫様にでもなった気分で、アーレインはオリーブ色の瞳を輝かせ、気どってくるりとまわってみせた。
「靴だって新品なんだから。ビスティンさんが今日のために作ってくれたの」
 アーレインに無理やり連れ出された弟のハティは、姉の機嫌をそこねないようにうなずいた。しかし、一言多かった。
「でも、姉さんの髪が金色だったら、もっとよかったのに」
「ハティ!」
 アーレインは憤慨して腰の両側にこぶしをあてた。お姫様の気分は、一瞬にしてすとんと抜け落ちてしまっていた。
「馬鹿言わないで。だいたいね、夢に出てきた女の人が女神みたいだったなんて、ヒーリア様に失礼よ」
 冬になったばかりのころからだったろうか。ハティはヒーリア神のような、美しい金髪の女性を夢に見るようになったらしく、金の髪が美人の絶対条件であるかのような信仰を抱いてしまったのだ。
 当然、自分のつやつやとした黒髪を気に入っているアーレインは面白くない。晴れ着に合わせて編み下げた髪が子馬のように背中で軽やかに跳ねているのを大人たちはほめてくれたのに、この弟だけは何も言わなかった。なんて生意気なんだろう! まだ八つになったばかりのくせに。自分はろくに櫛も入れない、くしゃくしゃ頭のくせに。
「ヒーリア様は、太陽よりもまぶしくて月よりもおきれいなお方なの。あんたが夢に見た人は、ただちょっと美人なだけの――そう、マレイユなんじゃないの?」
 マレイユとは、アーレインの淡い初恋の相手であった青年と最近結婚をした、蜂蜜色の髪が印象的な器量よしの娘である。小さな教会で執り行われた結婚式につめかけた町人たちは、白い花で飾られた金髪とマレイユをこぞってほめたたえていた。
 けれども、幼いころからずっと慕っていた青年を取り上げられたアーレインは、いまだマレイユを許せないでいる。もうすぐ十二祝いの祭日を迎えようというのに、そんなところがいやに子どもっぽくて、自分でも腹立たしいのだが。
「マレイユなんかじゃないよ」
 アーレインから視線をそらし、ハティは草をいじりながら言った。
「それに、女神様みたいにきれいだったけど、女神様でもないと思うんだ。真っ黒な服を着ていてね、ニレの木の杖を持っているんだもの」
「なんだか、“薬草園の魔女”みたいじゃないの」
「うん、そうかもしれない」
 アーレインはびっくりした。十二祝いのお気に入りの衣装も、「金髪のほうがよかったのに」という話も、彼女の頭の中からすっ飛んでいってしまった。
 コマドリが陽気に歌いながら、軽業師のように枝々を飛び歩いている。蝶が凛と背筋をのばした花のまわりを踊り、ときどき高く舞い上がっては、驚いてハティを見つめたままでいるアーレインの頬をかすめた。
 ――そのとき。
 どうと風が吹いて、アーレインの視界をめちゃくちゃに乱した。砂と木の葉がいっせいに舞い上がり、鮮やかな赤い胸のコマドリも繻子の羽根の蝶も、飛ばされていってしまった。
 思わず顔を覆ったが、アーレインは、傍らのハティが一歩踏み出したのを感じた。
 そのたった一歩のために、弟がとても遠くに行ってしまったような気がした。
「姉さん……やっぱり、“薬草園の魔女”だったんだ」
 彼は言った。
「ほら。真っ黒な服にニレの杖。“薬草園の魔女”だ」
「ハティ?」
「僕を呼んでる」
 ハティはさらに、もう一歩踏み出した。さらにずっと、ずっと遠くへ行ってしまう。
 追いかけようとしたアーレインの足はなぜか鉛よりも重く、地面に縫いつけられたかのように、動くことができなかった。
 黒い人影が現れた。小柄で、オレンジがかった金と黒の色彩。その手に握られているのは、おそらくけずり出されたままの、無骨な太い杖。
「ハティ、行っちゃだめ!」
 お気に入りのスカートやブラウスが砂ぼこりで汚れるのにもかまわずに、アーレインは全身で叫んだ。
「ハーティス! 戻るの! 戻りなさい!」
 けれどもちらと振り返っただけで、ハティはきびすを返しはしなかった。

 やがて、さらに強い風が吹き、木々が巨大なおばけのように枝や葉を盛大にゆすった。砂と塵が顔にぱちぱちとあたり、とっさにアーレインは目を閉じた。
 そして次に目を開けたときには、小生意気な弟の姿は魔女とともに何も残さずに、きれいさっぱり消え去ってしまっていた。

 墳墓の上には墓石があって
 墓石の中にはお庭があって
 秘密の庭には薬草繁り、
 墓守の魔女が住んでいる

 アーレインの耳にふとよみがえったのは、祖母が生きていた頃に歌ってくれたわらべ歌だった。
 アーレインはそのまま、ハティが掻き消えた木陰を呆然と見つめていた。戻ってきたコマドリがおそるおそるさえずりはじめても、羽を傷めた蝶が肩にとまって休んでも、彼女は微動だにせずに見つめていた。
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