14 『ウパデーシャ・サーハスリー』韻文篇(1)
文字数 1,313文字
『ウパデーシャ・サーハスリー』の散文篇は、解脱を求める弟子に対し、自己の本性がアートマンであることに気づけば、つまり自己=アートマンという知識を持てば解脱できる、と説いて終わる。
しかしなかなか散文篇だけだと、ぼくらには理解しがたいところがあるので、わりと理論的に議論が進められていく韻文篇をのぞいてみることにしよう
また、「認識主体(=アートマン)は一切の限定から自由である」(同P30)ともある。
「私って●●な人なの~」とかいう発言は、<わたし>に対して、「●●な人」という限定をかけているに等しい。
けれどアートマンには限定をかけることができない。
もっというと、あるものに限定をかけることで、それを認識対象とすることができるようになる。
<わたし>というものは漠然としていて、どう認識してよいのか雲をつかむような気すらするが、「●●な人」という限定をかけてやるなら、どう? 「●●な人」については議論の対象にできるでしょ。
「●●な人」は認識の対象となる
アートマンは「・・・でもなく、・・・でもなく、・・・でもない」ものだ、というのはね、つまり、どこまでも延々と限定から逃れているからなんだよ。
アートマンは●●である、と言うことはできない。
それは、アートマンを●●だと、限定をかけることになるからね
いま言ったじゃん。
アートマンに限定をかけることはできないって。
最後に残ったものをね、それをね、アートマンとするならさ、つまり「アートマンは(最後まで残った)●●である」って限定をかけることになるわけでしょ。
それは違うんだよ
[参考文献]
・シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』前田専学訳、岩波文庫、1988