14 『ウパデーシャ・サーハスリー』韻文篇(1)

文字数 1,313文字

シャンカラはね、アートマンについては、「・・・でもなく、・・・でもなく、・・・でもないもの」としてしか語り得ないものだとする。

さぁ、ウッダーラカ・アールニと同じところへ至ったよ

はぁ・・・・・・

たとえば、社会的な属性でもなく、個性でもなく、パーソナリティでもなく、キャラクターでもなく、意識でもなく、意識について意識している意識でもない。

・・・でもなく、・・・でもなく、・・・でもないんだ

どういう意味ですか?

おおよそ、それが<わたし>だと思って語られ得るもの、それはすべてアートマンじゃないんだよ。

というのも、アートマンは認識の対象とはならないからね

それが<わたし>だって思うときの<わたし>はね、いわば<わたし>を対象化して見ているわけでしょ。

アートマンはね、そのように対象化して眺められるようなものじゃない、ってわけだ

う~ん、今イチよくわかりませんね

『ウパデーシャ・サーハスリー』の散文篇は、解脱を求める弟子に対し、自己の本性がアートマンであることに気づけば、つまり自己=アートマンという知識を持てば解脱できる、と説いて終わる。

しかしなかなか散文篇だけだと、ぼくらには理解しがたいところがあるので、わりと理論的に議論が進められていく韻文篇をのぞいてみることにしよう

韻文篇ではまず、さっき言ったように、「人は『私はこれではない。私はこれではない』というような仕方で(アートマンに)到達する」(下記参考文献P24)とある。

また、「認識主体(=アートマン)は一切の限定から自由である」(同P30)ともある。

「私って●●な人なの~」とかいう発言は、<わたし>に対して、「●●な人」という限定をかけているに等しい。

けれどアートマンには限定をかけることができない。

もっというと、あるものに限定をかけることで、それを認識対象とすることができるようになる。

<わたし>というものは漠然としていて、どう認識してよいのか雲をつかむような気すらするが、「●●な人」という限定をかけてやるなら、どう? 「●●な人」については議論の対象にできるでしょ。

「●●な人」は認識の対象となる

アートマンは「・・・でもなく、・・・でもなく、・・・でもない」ものだ、というのはね、つまり、どこまでも延々と限定から逃れているからなんだよ。

アートマンは●●である、と言うことはできない。

それは、アートマンを●●だと、限定をかけることになるからね

「・・・でもなく、・・・でもなく、・・・でもない」ものがアートマンだとするなら、そうやって何でもかんでも「・・・でもない」って否定してくわけでしょ、だったらね、最後に何が残るんですか?
最後の最後に残ったものがアートマンだと思うんだ?
違うんですか?

いま言ったじゃん。

アートマンに限定をかけることはできないって。

最後に残ったものをね、それをね、アートマンとするならさ、つまり「アートマンは(最後まで残った)●●である」って限定をかけることになるわけでしょ。

それは違うんだよ

じゃ、なんなんですか、アートマンって。

何度も同じこと訊きますが・・・・・・

[参考文献]

・シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』前田専学訳、岩波文庫、1988

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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


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