16 解脱のススメ?(1)
文字数 2,527文字
西洋哲学は、この世界が在るってことはどんなことなのだろう、世界はどのようにして在るのだろう、あるいは、そもそも在るってことはどんなことなのだろう、とかいう存在を問う存在論としてスタートした。
のち、認識論へ深化する。認識論をわかりやすくたとえるなら、たとえば、メガネをして世界を眺めている場合、世界そのものを見ようとしてもメガネをはめてるわけだから、このメガネは透明だろうか、色が入ってるんだろうか、とか、メガネそのものを吟味することなしには世界について語れない。つまり、認識論はね、人間の認識の在り方そのものを問うんだね
西洋哲学は大変知的なんだね。
で、ときどきね、人生の意味、なんてのを求める若者たちがさ、「哲学を勉強したら何かわかるかもしれない」なんて思ってね、西洋哲学の世界に入ってきたりするんだけど、ほぼほぼ何も得られない
人生について考えてる西洋哲学者はとても少ないからね。
例外的に、いわゆる実存主義としてくくられるグループとその周辺、キルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、ニーチェ、ニーチェが影響を受けたショーペンハウアー、サルトル、なんかがね、人生論的なものとしても読むことができる。
とりわけニーチェの哲学が平易で、哲学史の知識がなくとも読めてしまう。
そういうこともあり、日本だと、ニーチェは圧倒的に人気があるね
たとえば、ゴータマ・ブッダなんてね、弟子から「死んでも魂は残り、死後の世界へ行けるんですか?」的なことを訊かれてね、何も答えなかった。つまり、それが解脱することとは何の関係もないからだよ。
そんなことを探求しても、知的満足しか得られないだろう、とね。
ブッダにとっては、あの世のことよりも、今、目の前にある苦しみの棘を抜きにかかるほうが先決であり、もっと言うと、「あの世があってほしい」「あの世でも生きていたい」って願望はね、それこそ生存に執着してることの現れでしょ、解脱の境地に達しているなら、正直、あの世なんてどーでもよくない? となる
昨日も嫌なことがあり、今日も嫌なことがあった、とかいう日々輪廻観でいたほうがよいと思う。
その上で、この嫌なこと、あるいは嫌だと思うことは、根本的には、どこからやってくるのか、と問う。
あとで詳しくふれるが、たとえばシャンカラの答えは明白で、無明から、となる
ちなみにニーチェの場合、その思想の根幹はね、生存の絶対的レベルでの肯定だから、「人生の苦しみよ! どんと私にかかってきなさい。すべて受け止めてやる!」的な感じ。
でね、そういった苦痛に哄笑しながら耐えてみせる人間だけが凡夫ならぬ超人だ、とする。
超人というのは究極のマゾだと思うが、ニーチェの場合、最終的には精神論的なところへ行ってしまうからね、う~ん。
人生に悩んだらニーチェ、よりもインド哲学のほうが実り豊かだと思うんだけどね・・・・・・
ただ、いかんせんインド哲学はとっつきにくいんだよ、現代人にはね、そこが不人気のポイントかもしれないね
たとえば、それこそ愛理さんが属する浄土真宗の宗祖である親鸞聖人はね、往相と還相ということを言っている。
往相を向こう側へ行ってしまう解脱だとするなら、こちら側へ帰ってくる還相はね、この世界と向き合い直すことだね。新しい態度でさ
もちろん。
ただ、解脱というのは、それこそ現実逃避のようなものじゃないってこと。
否定的なものではなく、むしろ世界との関わり方(あるいは人生の受け止め方)を変えるという肯定的なものであること、については押さえておきたいなぁ
さっき、ぼくはバラモン教が示す人生行路の4ステップ、学生期、家住期、森棲期、遊行期、について話をしたよね。
これはね、緩やかに現代的に解釈するなら、功成り名を遂げたらならば、少し早めに引退してね、自分の人生について見つめ直すと同時に、これから迎えるであろう死と向き合う、ことが大事、みたいなもんだよ
それがね、ダメな人の典型として、いわゆる老害のことなんだけどさ、いつまでも会長とか理事長とか、なんていうの権力に固執してさ、今わの際まで手放そうとしない。
それは、端的に言って醜いんだよ。
そういうヤツに限って、「死にたくねぇ~(ずっと権力者のままでいたい)」でしょ、きっとね