22 解脱のススメ?(2)

文字数 2,358文字

さて、すでに言ったことだけど、インド思想における解脱はね、輪廻を絶つことであり、2度と生まれてこないことだ

もう一回、人間として生きなおしたい。

生まれ変わりたい~、ってことじゃないんだよね

うん。

生まれ直さないことなんだよ

でね、この輪廻というやつも、ガチな意味での転生ではなく、日々輪廻といった見方で解釈したほーが、少なくとも現代人にとっては有益だ、ってことも言った
また、解脱とは、この腐敗した世の中を見限り・・・・・・とかいう絶望的かつ厭世的、つまりネガティブなものではなく、

「解脱とは、この世界を劣悪なものとして否定することじゃない。

言ってしまえば、見方を変えることによって、この世界との関わり方を変えることだろう」

とも言った

はい、覚えてますよー

解脱というのは、現実逃避のようなものじゃない。

否定的なものではなく、むしろ世界との関わり方(あるいは人生の受け止め方)を変えるという肯定的なものなんだ。

それを、たとえば親鸞聖人は「往相」&「還相」という概念でもって示してる。

そのことについても、すでに見てきたね

はい

それじゃ、どのようにして世界の見方を変えるのか、どういう態度・姿勢で世界に臨むのか、ってことが問題になってくるんだけど、覚えてるかな? シャンカラは知識によって、とした。

仏教的な概念に切り替えるなら、智慧だね

シャンカラは、無明であることが邪魔をして、人はなかなか解脱に至らないと考えた。

その無明の闇を振り払うのが、知識であり、智慧だ

で、どういう知識であり、智慧なのかというと、これまで見てきた

ブラフマン=アートマン

について直観することだ、ということになる

思うに、ここから、仏教思想でいう無我の思想やいわゆるの思想までは、ほんの一歩の違いしかないだろう。

大雑把に眺めるならね

人びとは、ここにいる、こいつ、私(我)という存在に囚われているから、なにかと迷い、苦しむことになる。

これは私のモノだと思っているから、奪われることに怯える。あるいは、それを手に入れたいと思い、手に入らないことに苦しむ。

私という存在に固執しているから、死を畏怖する

瀬戸内寂聴さんは「愛すれば執す、執すれば着す」と言った。

的確な、名言だろうと思う

知ってます。

まさにわたしのことだ! って思える(苦笑)

好きになって、その人の役に立ちたくて・・・・・・

純粋な愛情だったはずなのに、

いつの間にやら、それが執着心に変わってしまい・・・・・・

自分のものにしたいと思うようになり、

結果、嫉妬したり、喧嘩したり・・・・・・

そんなふうにしてダメにしてきた恋ばかり・・・・・・・

「愛すれば執す、執すれば着す」

それはなにも恋愛のことだけじゃないよ。

すべてのことについて言える。

求めることが、執着心に変わり、その結果、求めているものを自ら汚してしまう

たとえば、書くことが純粋に好きで始めたことなのに、プロの作家になりたくなり、なれなくて、自分の隣でプロになってしまった作家さんを妬む、とか。

で、その妬んでいる自分を顧みて、傷ついてしまう、とか。

これは同時に、自分自身で、書く、という行為を汚していることにもなる

万事がそうで、みんな、自分で自分を汚してしまうんじゃないかな。

もちろんぼくだってそうだ、例外じゃないよ

ここにいる、こいつ、この私の存在は、極論するなら幻影のようなもので、根源的な<はたらき>はアートマンであること。

私はアートマンに生かされている、と知ること。

アートマンへ思いを致すことで、私への囚われ、我執を薄くすること。

それが、解脱というものの一側面だと思う

でも、私を幻影のようなものだと考えてしまうのは、うーん、ニヒリズムじゃ?

うん、そうだね。

あくまで極論の話

だから親鸞聖人も還相と言っている。

還ってこなくちゃダメなんだよ。

往きっぱなしじゃダメ。

アートマンへ思いを致し、自分自身への囚われを解放しつつ、かつ同時に、現実へ向かう。

この、現実への向かい方、我執に囚われずに現実と関わること、それが大切なんだと思う

そして、アートマンはブラフマンである、と知ること。

私は、世界の中で生かされている、と知ること。

世界には、この私を生みだした(同じ)<はたらき>が満ち満ちていると感じること。

それが、大事なんだろうね。

仏教だと、草木国土悉皆成仏、なんて言葉があるけど、言ってることのニュアンスは、非常に近いだろうと思うなぁ

私は、この私を生かし活かしている<はたらき>を通じて、自分自身と、あなたと、生きとし生けるものすべてと、世界と、ギュッと、つながってるって感じることかな?
うん、そうだね

そういったとき、あなたの痛みは私の痛みとなり、他者たちの痛みは私の痛みとなり、生きとし生けるものたちの痛みもまた私の痛みとなり、世界の痛みもまた私の痛みとなる。

それが、慈しみ、であり、仏教用語で語るなら、慈悲、ってことなんだろう。

つまり慈悲とは施しのことではなく、この<つながり>を感じることなんだろうと思う。

もちろん、厳密に学問的にね、慈悲について知りたいなら、中村元さんに『慈悲』(講談社学術文庫、2010)、なんて本があるので、そちらを参照したほーがいいだろう。

ただぼくは、ぼくなりの考え方をしてるんだよ

ブラフマン=アートマンの思想から、慈悲の話にまでつなげるかぁ
我執を砕き、世界との<つながり>をもったとき、自ずから、人は解脱している、そう思うんだ

つーことで、ここらへんで一休み、小休止とさせてください。

ただ、ここまで述べてくると、ゴータマ・ブッダへの繋がりが理解しやすくなるような気が・・・・・・

はい、『ウパニシャッド』と仏教はぜんぜん別物だと思ってたんだけど、なんか、繋がりが見えてきますね
ではまた、しばらく後に!
《 おそらく1年ほど小休止します。 》
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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


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