10 『ウパデーシャ・サーハスリー』散文篇(1)
文字数 1,929文字
さて、『ウパデーシャ・サーハスリー』は①韻文篇と、②散文篇とに分かれている。
②散文篇は、師が弟子を導くというスタイルで、それこそ学習指導要領みたいな感じになっている。
そこで、まずはこの②散文篇を取り上げよう。
それこそシャンカラの弟子になったつもりで、聞いてみてくださ~い
簡単に言うと、今日一日、嫌なことがいっぱいあったりしてね、「あぁ、ヤな一日だったなぁ。やっと解放されたなぁ」とか思って眠る。
しかしまた朝になれば目覚める。「うわ、また嫌な一日の始まりだ。仕事いきたくね~」とか思う。
それが、日々輪廻、毎日が輪廻、平たく言えば、嫌なことの連続・・・・・・
ブラフマンには、真実の言葉なんていう意味が込められている。
また、ブラフマンというのは、動詞語根「ブリフ」から派生した名詞で、「拡大する力を持つもの」「膨張する力を持つもの」というのが原義らしい。
つまり、ブラフマン=世界を生成する真実の言葉ってことになるんだが、ややこしくなるから、さしあたり聞き流してもらってよいよ。一通り説明し終わってから、もう一度戻ってくることにする
つまり、行為じゃないってことだよ。
出家するとか、山ごもりして修行するとか、肉食をやめるとか、セックスしないとか、そういうことじゃなくて、つまり行為によって解脱するのではなく(悟りを開くのではなく)、シャンカラはね、正しい知識が解脱(悟り)へ導いてくれる、とするんだ。
主知主義的だといってよい
ま、それはさておき、じつはシャンカラの批判の矛先はね、祭式至上主義だった当時のバラモンたちなんだよ。
つまり、神々を祀りゃ解脱できるってもんじゃねーよ、と言ってるわけだ。
じつはコレ、言ってることがね、かのゴータマ・ブッダと同じなんだ。ブッダもまた「祭式で解脱」なんていう短絡的な祭式主義を否定した。そこから、仏教がスタートするんだよ
ちなみにブッダは、祭式至上主義に批判的であるばかりか、バラモンという階級自体にも批判的だ。というのも、生まれによって人はバラモン(聖者)になるのではない、とするからだ。
たとえば『ブッダのことば』(岩波文庫、P95)に、それこそブッダの言葉としてね、「生まれを問うことなかれ。行いを問え」なんてでてくる。
もっと言うと、バラモンの出自であるシャンカラはね、教える相手を選別したが(師資相承)、ブッダは広く<法>を説いた。しかも対機説法といって、相手の素質に応じて柔軟に説いている。そのへん、(シャンカラよりも心が広くて)ブッダすげぇな、とは思うよ