19 梵我一如(1)

文字数 3,767文字

さてと、アートマンは意識でもなければ、意識を意識してる意識(反省的自己意識)でもないこと、アートマンに言葉では到達することはできないこと、について語ってきたね

はい
アートマンは、むしろ、そういった意識を生みだす源泉、<はたらき>としか言いようのなものだ、とも語ってきた
えぇ

べつの表現をするなら、アートマンは(一般的な意味での)心ではないんだよ。

よく陥りがちな誤解としては、

①アートマン=自己意識

②アートマン=心

といったものだろう

ただし、心とはそもそも何なのか、ということについては議論の余地がある
でね、ぼくがさ、もっとも説得力があるなと感じているのは、「拡張した心」の理論
拡張した心?
簡単に言うと、心は脳の中には入っていない、って考え方だよ
え、心は脳の中にあるんじゃない?
昔は心臓の中にあると考えていた人が多かったらしいけど、それはさておき、心のはたらきは脳ー身体ー環境の相互作用、循環的なネットワーク上において立ち上がってくる、と見るのが「拡張した心」の理論だ
日本では、哲学・倫理学者の河野哲也さんが紹介しつつ、積極的な立論を展開している

ちょっと引用してみよう。

【拡張した心の考えに立てば、人間の心は、その人の身体の内部に閉じ込められているのではない。ましてや、人間の心は脳のはたらきに還元することはできない。心イコール脳ではない。(中略)心理は、人間の身体を含んだもっと広がりのあるものによって実現している。人間の心の活動の多くは、道具、自然環境、社会制度といったものを構成要素として含む広域システムにおいて成立し、個体の内部だけで成り立つものではない。脳はそのトータルなシステムの、不可欠だとは言え、一部分をなしているにすぎない】[河野:P14-15]

たとえば、心が脳の中に入っているものだとしたら、どこかのSFで見かけそうなネタだが、脳だけを単独で取り出しても、そこには「私の心」が未だ残存し、生き残っているのかもしれないね。

しかし、それは違うだろう

環境から切断された脳というのは、じつに頼りないくらい、何もできないと思う

たとえば、ぼくらはアルバムを眺めながら、幾つもの想い出を振り返ったりする。

そういった想い出の一つ一つは、確実にぼくらの心の一部分だと思うんだけど、それらは脳の中に入ってたのだろうか?

もし入ってたとするなら、アルバムなど不要だろう。

写真といういわば外部記憶装置と脳が相互作用することにより、想い出が蘇ったんだね

SFにでてきそうな脳だけになっちゃった私には、そういった(写真を媒介とする)想い出、心の一部分ともいえる想い出へアクセスする方法がないってこと?

脳へ、直接画像データ? を送ればいいんじゃない?

てことはさ、やはり脳は「外部」を必要としてるってことじゃない。

想い出が心の一部分だとするなら、想い出=心は脳単体の中には入っていない

つまり思いだしたり、想い出に浸ったりすること、そういった心のはたらきはね、写真-身体(目)-脳の相互作用抜きにはありえないことであり、もっと言うとね、それら想い出の一つ一つは他でもない自分自身の心の一部を形成している、と感じるならさ、それこそ心は(脳の)外へはみ出してることになるんだよ
ついでにもう一箇所引用してみよう
【アンディ・クラークは、有名な物理学者のファインマンが語った印象深い例をとりあげている。ある日、同僚の歴史学者がファインマンの研究室を訪れた。その同僚は、部屋にあふれんばかりのファインマンが書きつけたアイデア・ノートやメモの山を見るなり、「これは、あなたの日々の研究の記録ですね」と感嘆した。それに対して、ファインマンは、即座に「それは仕事の記録などではありません。それが仕事をしているのです」と反論したという。ファインマンでなくとも、彼の言わんとしていることは理解できよう。これらのノートやメモは、最初に自分の頭のなかにあったものを記録したのではなく、自分の思考を一部であり、それなくしては仕事にならない。そのノートやメモはファインマンの思考の欠くべからざる構成要素であり、それらは一体となって仕事をしている。私たちの日常生活は、これらの人工物や道具に大きく依存している。私たちの心のはたらきは、それらとのインタラクションの上に創発するのであり、脳のはたらきは不可欠とはいえ、その一部をなしているにすぎない】[河野:P35-36]
冒頭にでてくるアンディ・クラークはね、「拡張した心」の理論を提示してみせた人物の一人なんだけど、それはさておき、

頭の中だけで考えるのではなく、誰かにしゃべったり、あるいは書いたりしてみることで、思考はよりクリアになっていく。間違いに気づいたりすることもある。

誰かに話す、つまりは言語化してみる。それを自ら聴いてみる。

書く、そして読んでみる。

そういった、言語(文字)、他者(内なる他者を含む)、ペンやノート、そういったものは思考の一部を形成しているんだ。

それは、間違いないよね。

そういった脳-身体-道具の相互作用があってはじめて、思考はより豊かになっていく

他にも、たとえば計算するときには、ペンと紙、あるいは電卓がいる。やっぱり道具がいるんだ。

心のはたらきは、道具と連結する。道具を求める。

さらに、もっと言うとね、映画を観る、なんてときにはさ、単純に画面を眺めてるだけじゃないよね。

ストーリーを追う、役者の演技を観察する、など、見方は様々だろう。

たいていの人はさ、ストーリーを追っている。それは、そのようにストーリーを追うのが映画の見方だ、と、ある種の「作法」が社会的に共有されてるからじゃない。

たとえば映画の色調だけを見てる人がいたなら、変人か、あるいは何か専門的な職業の人だと思われてしまうだろう。

何が言いたいのかというと、単純に「映画を観る」ということだけでもね、ディスプレイなどの道具はもちろんとして、そこには社会的な「作法」のようなものまでが混入しており、それ抜きではね、そもそも「観る」ってことが成立しない

だから河野さんはいう。

心のはたらきは、脳単体のレベルで生じる閉鎖的な作用ではなく、身体、道具、環境、さらには、ぼくは「作法」という言葉を使ったけれども、要するに社会的なもの、それらが密接にからまった開放的な相互作用なんだ、と

ふ~ん。それが「拡張してる」ってことの意味ね?

心のはたらきは、ネットワーク上にあると? 

うん
でね、そういう意味では、アートマンは心だと言えなくもないんだ
はい?

アートマンは、意識でもなければ、自己意識でもない。

また、アートマンは、通俗的な意味での心ではない。

むしろそれらを生みだす土壌、<はたらき>としか言いようのないものなんだが、そうであるがゆえに、アートマンはね、脳の中には入っていないんだよ

アートマンは脳の中にはない?
そう、ここがポイントになる

『ウパニシャッド』の話に戻るけど、その核心は、梵我一如の思想だとされる。

梵我一如の「梵」とはブラフマンのことで、これは宇宙的真理、宇宙の実相とでもいうべきもの。

「我」の方はアートマン

で、<ブラフマン>はすなわち<アートマン>と同じものだ(梵我一如)、と知ることが諭される

解説書の類を読むと、単純に、<ブラフマン>とはマクロコスモスであり、<アートマン>はミクロコスモスだとされる。

でさ、それらは同一なんだ、なんて書かれてあったりするが、マクロコスモスはすなわちミクロコスモスと言ってみたところで、なんの説明にもなっていないだろう

あ~、読んだことある。そーいう説明。

さーっぱり、わかんなかった

アートマンは根源的な<はたらき>であり、それは脳の中には入っていない。

とするなら、梵我一如の思想へ一歩接近できるんだ。

神秘主義に陥らずにね

結論だけ先取りしちゃおう

世界の実相であるブラフマンとは、世界を世界たらしてめている根源的<はたらき>のことだとするなら、

そして、アートマンとは、脳の中には入っていない根源的<はたらき>のことだとするなら、

ブラフマンもアートマンも結局は同じもの、同じ<はたらき>、

つまりは、ブラフマン=アートマンと観ずるに、なんの矛盾も生じないだろう

続きは次回とするが、

アートマンは意識でもなければ自己意識でもなく、

通俗的な意味での心ではなく、

それは、「拡張した心」の理論が描いてみせるように、脳の中には入っていない、と観ずるなら、

いよいよね、『ウパニシャッド』の真髄である梵我一如へ至る道まで、ほんの一歩のところまで来てることになるんだよ

たいていの人は、このへんで躓いてしまい、インド哲学を神秘主義に陥らせてしまう。

インド哲学は神秘主義じゃないよ。

深い瞑想などによって得られた、実践的な智慧にちゃーんと根差しているものだ。

実際、最先端の認知科学、心の哲学、「拡張した心」の理論が描いてみせたようなことをね、すでに、紀元前の時代においてね、『ウパニシャッド』の哲人たちは体感的に知っていた、ぼくはそう思う

心が脳の中には入っていないように、

アートマンもまた脳の中には入っていない、

この点をキチンと踏まえてしまえば、さぁ、ゴールはさほど遠くない

[引用文献・参考文献]

・河野哲也『意識は実在しない 心・知覚・自由』講談社、2011

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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


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