19 梵我一如(1)
文字数 3,767文字
ちょっと引用してみよう。
【拡張した心の考えに立てば、人間の心は、その人の身体の内部に閉じ込められているのではない。ましてや、人間の心は脳のはたらきに還元することはできない。心イコール脳ではない。(中略)心理は、人間の身体を含んだもっと広がりのあるものによって実現している。人間の心の活動の多くは、道具、自然環境、社会制度といったものを構成要素として含む広域システムにおいて成立し、個体の内部だけで成り立つものではない。脳はそのトータルなシステムの、不可欠だとは言え、一部分をなしているにすぎない】[河野:P14-15]
たとえば、心が脳の中に入っているものだとしたら、どこかのSFで見かけそうなネタだが、脳だけを単独で取り出しても、そこには「私の心」が未だ残存し、生き残っているのかもしれないね。
しかし、それは違うだろう
たとえば、ぼくらはアルバムを眺めながら、幾つもの想い出を振り返ったりする。
そういった想い出の一つ一つは、確実にぼくらの心の一部分だと思うんだけど、それらは脳の中に入ってたのだろうか?
もし入ってたとするなら、アルバムなど不要だろう。
写真といういわば外部記憶装置と脳が相互作用することにより、想い出が蘇ったんだね
頭の中だけで考えるのではなく、誰かにしゃべったり、あるいは書いたりしてみることで、思考はよりクリアになっていく。間違いに気づいたりすることもある。
誰かに話す、つまりは言語化してみる。それを自ら聴いてみる。
書く、そして読んでみる。
そういった、言語(文字)、他者(内なる他者を含む)、ペンやノート、そういったものは思考の一部を形成しているんだ。
それは、間違いないよね。
そういった脳-身体-道具の相互作用があってはじめて、思考はより豊かになっていく
他にも、たとえば計算するときには、ペンと紙、あるいは電卓がいる。やっぱり道具がいるんだ。
心のはたらきは、道具と連結する。道具を求める。
さらに、もっと言うとね、映画を観る、なんてときにはさ、単純に画面を眺めてるだけじゃないよね。
ストーリーを追う、役者の演技を観察する、など、見方は様々だろう。
たいていの人はさ、ストーリーを追っている。それは、そのようにストーリーを追うのが映画の見方だ、と、ある種の「作法」が社会的に共有されてるからじゃない。
たとえば映画の色調だけを見てる人がいたなら、変人か、あるいは何か専門的な職業の人だと思われてしまうだろう。
何が言いたいのかというと、単純に「映画を観る」ということだけでもね、ディスプレイなどの道具はもちろんとして、そこには社会的な「作法」のようなものまでが混入しており、それ抜きではね、そもそも「観る」ってことが成立しない
だから河野さんはいう。
心のはたらきは、脳単体のレベルで生じる閉鎖的な作用ではなく、身体、道具、環境、さらには、ぼくは「作法」という言葉を使ったけれども、要するに社会的なもの、それらが密接にからまった開放的な相互作用なんだ、と
アートマンは、意識でもなければ、自己意識でもない。
また、アートマンは、通俗的な意味での心ではない。
むしろそれらを生みだす土壌、<はたらき>としか言いようのないものなんだが、そうであるがゆえに、アートマンはね、脳の中には入っていないんだよ
『ウパニシャッド』の話に戻るけど、その核心は、梵我一如の思想だとされる。
梵我一如の「梵」とはブラフマンのことで、これは宇宙的真理、宇宙の実相とでもいうべきもの。
「我」の方はアートマン。
で、<ブラフマン>はすなわち<アートマン>と同じものだ(梵我一如)、と知ることが諭される
解説書の類を読むと、単純に、<ブラフマン>とはマクロコスモスであり、<アートマン>はミクロコスモスだとされる。
でさ、それらは同一なんだ、なんて書かれてあったりするが、マクロコスモスはすなわちミクロコスモスと言ってみたところで、なんの説明にもなっていないだろう
世界の実相であるブラフマンとは、世界を世界たらしてめている根源的<はたらき>のことだとするなら、
そして、アートマンとは、脳の中には入っていない根源的<はたらき>のことだとするなら、
ブラフマンもアートマンも結局は同じもの、同じ<はたらき>、
つまりは、ブラフマン=アートマンと観ずるに、なんの矛盾も生じないだろう
続きは次回とするが、
アートマンは意識でもなければ自己意識でもなく、
通俗的な意味での心ではなく、
それは、「拡張した心」の理論が描いてみせるように、脳の中には入っていない、と観ずるなら、
いよいよね、『ウパニシャッド』の真髄である梵我一如へ至る道まで、ほんの一歩のところまで来てることになるんだよ
たいていの人は、このへんで躓いてしまい、インド哲学を神秘主義に陥らせてしまう。
インド哲学は神秘主義じゃないよ。
深い瞑想などによって得られた、実践的な智慧にちゃーんと根差しているものだ。
実際、最先端の認知科学、心の哲学、「拡張した心」の理論が描いてみせたようなことをね、すでに、紀元前の時代においてね、『ウパニシャッド』の哲人たちは体感的に知っていた、ぼくはそう思う
[引用文献・参考文献]
・河野哲也『意識は実在しない 心・知覚・自由』講談社、2011