18 脳科学的アプローチ(2)

文字数 3,128文字

さてと、ここでは、マイケル・S・ガザニガ『<わたし>はどこにあるのか』(藤井留美訳、紀伊国屋書店、2014)を取り上げてみたい
神経科学者のガザニガはね、分離脳患者を対象に実験を繰り返し、興味深い結論を幾つも引き出した
分離脳って?
人間には右脳と左脳があるのは知ってるよね?
バカにしてますね?
ごめんごめん

難治性てんかん患者の治療方法として、いわば最後の切り札としてね、右脳と左脳をつなぐ脳梁を切断することがあったんだ。

これを、分離脳という

え? そんなことして大丈夫なんですか?

とくに何も起こらず、ぜんぜん大丈夫でね、しかもだ、てんかん発作は軽減された

うそだぁ?
分離脳といっても、右脳と左脳が完全に分断されているわけではなく、根っこのところ、脳幹という共通部分はあり、たとえば脳幹が覚醒状態をコントロールするおかげで、右脳も左脳も同時に眠り、同時に目覚める。右脳と左脳がめいめい勝手に動くわけじゃない

それでも、絶対何か影響があるはずだわ。

じゃなかったら、そもそも右脳と左脳、2つある意味がないじゃないですか

だね。

そういうわけで、ガザニガはいろいろと実験してみたんだよ

結果わかったことは、右脳と左脳は機能的に異なるところがあり、

右脳は視覚・空間把握に優れており、

左脳は言語や発話といった知的行動が得意であること

あ、なんかそういうの、聞いたことがあります
興味深いガザニガの実験を一つ、引用してみよう
「左半球は言葉を話し、理解できる切れ者。いっぽう右半球は言葉を話さず、言葉を理解する能力も限定されている。そこで私たちは、右脳に対しては小学一年生レベルの絵と単語を使った簡単な概念テストを行った。被験者の右半球に『なべ』という単語を見せると、左手はなべの絵を指す(デンケン注:右脳は左手をコントロールし、左脳は右手をコントロールする。脳と身体の関係は左右逆転する)。『水』という単語なら水の絵を示した。ここまでは問題ない。右半球は単語を読みとり、それと絵を関連づけて正しく答えた。ところがこの二つの単語を同時に表示したときは、被験者の左手は水の入ったなべではなく、空っぽのなべを指したのだ。同じ課題を左半球にさせると、難なく正解した。そこでわかったのは、右半球は推論が苦手だということだ」[上掲書、P82]
つまり右脳は、「なべ」と「水」を関連づけることができなかった、ってことですね?
そのとおり
もう一つ引用しよう
「分離脳患者の右視野と左視野に、異なる二枚の絵を見せる。右視野、すなわち左半球が見るのはニワトリの足の絵。左視野、すなわち右半球が見るのは雪景色だ(デンケン注:右視野=左脳=右手、左視野=右脳=左手と、脳と身体の関係性が左右逆転することに注意)。続いて患者の左右の視野に一連の絵を見せて、前に見た絵と関連するものを選んでもらう。すると左手は(雪景色に対応する)ショベルの絵を、右手はニワトリを指さした。続いてそれらの絵を選んだ理由を話してもらう。左半球にある発話中枢はこう答えた。『簡単なことですよ。ニワトリの足だからニワトリにしたんです』。左半球はニワトリの足を見ていた。自分の知っていることなら説明はたやすい。さらに、自分の左手がショベルの絵を指さしていることについては、『ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね』と即答した。つまり左脳は、なぜ左手がショベルの絵を選んだかわからないまま、無理やり理由をこしらえたのだ。左脳が見たのはニワトリの足だけ。雪景色のことは知らない。それでも説明しなくてはならないので、左手の選択を、自分がわかっている文脈に当てはめて解釈したのである。ニワトリはそこらじゅうに糞をするから、きれいにしなくちゃならない。それなら理屈が通る! 興味ぶかいのは、左半球が『わかりません』とは答えないことだ。ほんとうはそれが正しい答えなのに。持てる知識を総動員して、状況と矛盾しない後づけの答えをこしらえたのである。私たちは、左半球で行われるこのプロセスを『インタープリター(解釈装置)』と名づけた」[上掲書、P103-4]

う~ん、つまり、左視野=右脳は「雪景色」を見た、ので、左手は雪かき用の「ショベル」を指した。

左視野(雪景色)=右脳=左手(ショベル)、の接続関係だから。

ところが、お話しができるのは言語中枢のある左脳だけ。

右脳と左脳は分離してるから、情報の流れが切断してしまうから、「雪景色=ショベル」という選択を、その理由を、言語に翻訳することができない。

言葉にして説明することができなかった、ってことですね?

そう、しかもだ。

「言葉では語れませんねぇ」ではなしに、ウソをついたんだよ

とってつけたような合理的な理由をね、捏造するんだ、左脳は。

「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね」ってね

ここからね、何が言えるか

前回お話したように、脳は中心なき並列分散処理システムだからね、あらゆる情報がね、左脳の、それこそガザニガのいうインタープリターを通過するわけじゃない。

インタープリターに届くわけじゃない。

だからね、左脳のインタプリターは、いつだって不完全な情報下でテキトーにしゃべってる(可能性がある)んだよ

あ、なんか実体験としてわかるかも~。

ってのはね、男と別れるとき、よくあったケースとして、「なんで別れるって言うのさ? なんで? なんで? 理由は?」って超しつこいヤツがいました。

理由なんてしるかー! ただなんとなく、じゃダメなのかー! って思ったもんです

男は理由を欲しがる生き物さっ、なんてね

ホントの理由なんて、藪の中、わかんなーい。

ま、あんまり理由を欲しがるもんだから、いろいろ付けてやりました~

さてと、話を元に戻そうか

アートマンは意識じゃないし、意識を意識することでもない。

意識してることを意識してる、そんな意識がアートマンでもない。

そう言ったよね

はい
さらには、この左脳にあるインタープリターがアートマンってわけでもない
アートマンはしゃべらない
また、インタープリターが何をしゃべろうと、言語的に何を説明しようと、それがアートマンを正しくとらえることはできない
アートマンは言語的に翻訳できない
「これが私だ!」って語ってる私(インタープリター)はアートマンではない
おしゃべりでアートマンに到達することはできない

インタープリターという論理的な言語中枢がアートマンになるわけじゃない

つまり言語的な自己意識は、アートマンではない

じゃ、アートマンって結局、何のことになるんですか?

あ、言葉では説明できないんですよね・・・・・・

<はたらき>としか、言いようのないものだよ
<はたらき>、ですか・・・・・・
たとえば、それがなかったら、ここにいるこの私っていう感覚、意識や、意識してることを意識してる私っていう感覚がね、生まれてこないような、そんな<はたらき>
ぼくが超リスペクトしてる西田幾多郎(1870-1945)という哲学者がね、この<はたらき>と同じものをね、絶対無と名づけているが、まぁ、これは余談としておこう

アートマンは、それこそ魂(霊魂)のような実体ではないんだよ。

いわば西田のいうだ。

ちなみに、西田のいう無とは、「有」の反対概念ではない。

「有/無」という対で語られるような「無」とは違う。

「有/無」という二項対立のね、彼岸にある

平たく言うと、根源的な<はたらき>、絶対無、それがアートマンなのさ
う~ん、わかったような・・・・・・わからないような・・・・・・
それじゃもう少し、脳科学からのアプローチを続けるとしますか
・マイケル・S・ガザニガ『<わたし>はどこにあるのか』藤井留美訳、紀伊国屋書店、2014
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登場人物紹介

デンケンさん(49)・・・仙人のごとく在野に生きたいと思う遊牧民的自由思想家

釈愛理(45)・・・真宗大谷派のギャルな御院家さん


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